百七十三話「予想外の名乗り」
あんた馬鹿なの? 暗い牢獄の中、言われた言葉がぐるぐると頭を巡る。ど、どうしよう。私は目を回した。この場合彼の警戒心を解くために、どんな反応を返せば良いのかがわからない。
えーっと……そうだよって言ってみる、とか? いやそれは駄目だろう。怪しさが倍増してしまう。かといって馬鹿じゃないよ! って怒るのもどうなのか。頭の出来が良くないことに関してはれっきとした自覚があるわけだし。本当にどうしよう。この少年に対する正解がまるでわからない。
「……そ、そうかもしれない……」
「……は?」
「ご、ごめんなさい……?」
混乱極まった私は、結局第一案を取ることにした。いや取ることにしたと言うよりは、勝手にその言葉が口から零れていってしまったというべきか。沈黙に耐えかねて落ちていった言葉が、さらなる沈黙を連れてくるさま。それに失敗してしまっただろうか、と後悔を浮かべれば今度は謝罪の言葉が出ていって。そうして牢獄は再び沈黙で満たされた。先程とは少し違う、どこかちぐはぐめいた静けさで。
「……なんで、謝るんだよ」
「いや、私のせいで投獄されてしまったので……」
「……なにそれ」
少し経ったところで、少年がまた口を開く。しかしその声音からはどこか、先程までの棘が払拭されているような気がした。気が抜けた、とでも言うのだろうか。いや、かといって信頼されたわけでもないのだろうけれど。
まずい、この年頃の男の子にどう対応していいかがわからない。背格好と声から判断するにシロ様とそう変わらない年だとは思うが、シロ様と一般的な少年を同じように扱ってはいけないだろう。ゴリラと人間は違う。またしても脳に渦を作り出しつつ、私は取り敢えず疑問に答えることにした。すると返ってきたのは、心底意外そうな声音で。その声に引かれるように目を向ければ、宵闇の瞳はどこか痛みを湛えながらこちらを見つめていた。
「巻き込んだのは、俺の方でしょ」
ぽつりと、暗闇に溶けていく柔らかな声。けれどその柔らかさにはどこか寂寥感が潜んでいた。申し訳無さと、苦しさ。その声を聞いただけで、この子は一人なのだなとわかってしまうようなそんな声。誰かに助けを求めることを酷く恐れるような、そんな声。初対面で、大した会話もしてなくて、それでもわかったことが一つ。それはこの子が口の悪さとは裏腹に、とても優しい子なのだということ。
「ち、違うよ!」
「……え?」
「私はその、自ら巻き込まれにいったわけで! それで騒動を起こしたのは私の方なわけで! むしろ私が大きくしてしまった騒動に、貴方を巻き込んでしまったと言うか……」
そんな優しい子にそんな声を紡いでほしくなくて、私は慌てるがままに両手を振った。貴方は何も悪くありません、というジェスチャーである。そう、別にこの子は何も悪くない。強いて何が悪かったと言うなら、運というべきか。この子はたまたまぶつかってしまった男が、最悪に性根が悪い男だっただけなのだ。
悪いというのならばそれは寧ろ私の方である。私が交渉の天才とかでもう少し上手く立ち回れていたら、せめてこの子だけでも牢から逃がすことができたかもしれないのに。平々凡々な私があの場で出来たことと言えば、交渉の場を作ることと延命の時間を作ることだけ。延命とは言え、この子を死なせる気は一切ないのだけど。まぁでも今考えれば、もうちょい上手く出来たのでは?と思わなくもないわけで。
「……そういうわけで、貴方は別に悪くないんだよ」
物語の主人公みたいに、輝かしいヒーローみたいに、ささっとスマートに誰かを助けること。それが自分に出来ないのは百も承知で、それでもと願ってしまうのは向上心が高いのか欲深いのか。ふと頭に過ぎったことをぽいと放り投げて思考の彼方へ。安心させるように微笑みかければ、少年は目を僅かに見開いた。しかしそれは一瞬のことで、すぐにその瞳には傷心めいた色が浮かんでしまったけれど。
「悪くないけど、死ぬってわけか。人生って理不尽だな」
「し、死なせない!」
「あんたは死なないだろうけど、一生奴隷だぞ。それでも俺は悪くないって言えるの?」
「だから死なせない……って、奴隷?」
だ、駄目だ。完全にやさぐれモードである。確かに理不尽に殺されそうって状況ならそう思う気持ちもわからなくはないけれど、私としてはこの子を死なせないためにここに来たのだからもう少し希望を持って欲しい。そりゃあ頼りないとは思うけれど。そう思って慌てて少年を宥めれば、返ってきたのは想像だにしていなかった返答で。
「奉仕させる、って言ってただろ。あの男のことだ。奴隷扱いと変わんないと思うよ」
「そ、そうなんだ……」
成程、どうやらこの少年は言葉の裏の意味を察することに随分達者であるらしい。多分私とは違い頭の出来が良いのだろう。先程は「シロ様とこれくらいの年頃の子を比べるなんて」と思ったが、案外シロ様と同じ人種なのかもしれない。あれはそういう意味だったのだな、私の奴隷なんて一体どこに需要があるんだ、なんてことを考えつつ。
いやほんと、どうしよう。どうやらこの子は私がこの子の罪を冤罪と証明できるなんて露も思っていないらしい。そんなに私は馬鹿に見えるのだろうか……いや、見えるからこうなっているのだろうな。落ち込みながらも、私は必死に考えた。この少年をどうにか元気づける方法を。冤罪の証明方法をこの場で言うことは出来ない。だってここは相手のテリトリーで、誰が何を聞いているのかなんてわからないから。もしかしたら言葉一つが落とし穴になるかもしれない。
「……何考えてるか知んないけど、あいつがあんたに言ったのは悪魔の証明なんだよ」
「……え? 悪魔?」
ならばどうやって少しは心を落ち着けてもらおうかと、そこまで考えたところで聞こえてきたのは物騒な言葉。その言葉に知らずのうちに下げてしまっていた視線を上げれば、そこには深淵のような深さでこちらを見つめる黒の瞳があった。妙な威圧感に、思わずと背筋を正す。すると少年は続きを紡ぎ始めて。
「”やった”ことは証明出来ても、”やってない”ことを証明するのはひどく難しい」
暗い牢獄に、静謐を煮詰めたようなその声だけが響いていった。声が震えているのは、寒さからなのだろうか。言葉と同時に零れていった息が白く可視化されていくのを、ぼんやりと見つめる。やっぱり声はどこか、寂しそうだった。
悪魔の証明。確かに彼が言うことは、その通りなのかもしれない。だって例えばこの世界に幽霊が居ることは、幽霊を見つければ証明できる。けれど居ないということは、世界中を回ってその命題だけに人生を費やしても証明できないかもしれない。それと同じように盗もうと”した”ことは容易く証明出来ても、”してない”ことをそう容易くは証明できないのだろう。正邪の天秤があれば可能かもしれないが、あのコダなんちゃら様が公平を期してくれるとは思えない。だって彼は自分よりも弱いものを虐げたいだけで、そこに真実なんてものは求めていないのだから。
だから私は自分の言葉だけで、この子の無実を証明しなければいけない。
「だから多分俺は、きっと……っ!?」
でもだからと、そう諦めてほしくない。私は何も勝利の確信なしに、こんな新たな情報を探れないような牢獄に来たわけではないのだから。そう思った私はぐいとその子との距離を詰めると同時、そっと肩を抱き寄せた。外套の下がどうなっているのかはわからないが、寒さを感じていることはその息だけで窺える。反して私はぽかぽか状態である。近づけば少しはこの熱を分け与えることが出来るはず。その思いのまま私は、ぎゅっとその子の手を握った。動揺に跳ねる、白いその指を。
「貴方は死なせないし、私は奴隷になりたくない」
「……!」
「だから証明するよ。約束する」
抵抗はなかった。それをいいことに、冷たい指先を擦る。多分きっと、なんて起こさせない。私はあの人に勝って、この子を解放するのだ。あの何でも好き勝手出来ると思っているコダなんちゃら様を、痛い目に遭わせるのだ。悪逆の限りを尽くしている暇があるのならば、少しは次期領主としてお勉強してきなさいと高笑いをしながら。
そのための鍵を、私はもう握っている。牢獄に投獄、こんな状況ではもう何も新たな情報を得られない。でもそれが、怖くはない。だって大逆転のそれはもう私の手の中にあるのだから。にっと笑いかけて、私は彼に約束を渡した。私が今できるたった一つ。何の毒にも薬にもならないであろう言葉。最低限で最大限のそれを、惜しみなく。
「……でも貴方、だとちょっと寂しいからさ」
「…………」
「私はミコ、っていうんだ。貴方の端名はなんていうの?」
けれどその時が来た時、彼に課せられたのが冤罪だったと証明する時。その時にこの子や彼、だとやっぱり少し格好がつかないから。覗き込むように頭を下げて笑えば、動揺の吐息が僅かに零れた。それに距離を詰めすぎただろうかと指を離そうとすれば、今度はあちらから握り返され。
「……コクヨウ」
「コクヨウ、くん? へぇ、かっこいいけど長めの端名だね」
その仕草にやっぱり寒かったのだな、と生暖かい気持ちになりつつ。私は教えられたそれをしっかりと頭に刻み込むことにした。コクヨウ、コクヨウ、コクヨウ。四文字の端名を聞いたのは、初めてな気がする。大体は二文字か三文字だったはず、だから。
コクヨウって、やっぱり黒曜石から来ているのだろうか。シロ様の名前も銀から来ていることだし、この世界では石の名前から男の子の名前を付けることが多いのかもしれない。だとしたらレゴさんは……某有名メーカーさんの玩具から来てるのだろうか。いや、そんなわけがない。そもそもこの世界には玩具メーカーという概念がないはずである。
「まぁ、端名じゃないから」
「……え?」
そんなどうでもいいことを考えていた私。しかしそんな思考は、続いた爆弾宣言によって見事に粉々に打ち砕かれていった。今この子は、何かとんでもないことを言わなかっただろうか。「端名じゃない」って、言わなかっただろうか。
「コクヨウ・ユェアン。それが俺の『名前』だよ」
それはどうやら、聞き間違いではなかったらしく。すっと距離を取られると同時、ひらりと舞った外套。それが降ろされているのだ、と気づくのに時間がかかったのはこの世界に落ちて二回目の名乗りを、まだ脳が処理できていなかったから。
彼の顔全体を覆っていた外套が、降ろされる。名前を教えられたパニックも他所に、ひらりと。ふわりとうねりのある私と同じ色の柔らかな髪が、ハーフアップと纏められたその姿。漸く全貌を現した宵闇の瞳は、三白眼の体を取っていた。首元を完全に覆う黒のスカーフからはどこか威圧感を感じて。とはいえ雰囲気に威圧感があれど、少年の容貌が整っていることに変わりはない。動物で例えるのならば狼のような雰囲気を纏った少年が、真っ直ぐに私を見つめる。
「俺の冤罪、証明してみせてよ」
出来るなら。そんな言葉が語末に滲みそうな、どこか高慢な衣を纏った言葉。けれど私の頭は、未だパニック状態だった。思い返すのはいつかのシロ様の言葉。知らぬうちに名前と魂を分け合った、彼との言葉。そこからわかることはたった一つだけで。
『だがこちらが名乗るということは、相手に信を置き魂を差し出すのと同意義だ』
……どうやら私は初対面に毛が生えた程度の関係であるこの少年に突如として、魂を差し出されたしまったらしい。