百七十二話「牢獄の中」
……で、投獄されてしまったってわけ、である。
「…………」
「…………」
ひやりとした空気が満たす、四畳程の暗い空間に見知らぬ少年と二人きり。そんな中何故か頭に浮かぶのは、いつか橋本くんがスマホで見せてくれた赤ちゃんが得意げに笑う画像。彼の話すことがよくわからないと首を傾げる度、なんだかんだと律儀な彼はそうやって教えてくれたのだ。生憎とあの画像と違って全くとおめでたい要素はないが、どことない既視感は間違いなくあの思い出とも呼べない体験から来ていた。
いや、今はそんな思い出未満の記憶を思い出している場合ではない。まずどうしてこうなったのか、それを説明する義務が私にはあるはずだ。いや誰にって、そんなことはわからないけれど。ともかく現状を整理するために、私は先程までの記憶を思い返してみることにした。がちゃんとこの牢の鍵が閉められるまでの、それまでの記憶を。
◇◇
「その子は、貴方の朝夜石の腕輪を盗んでません!」
意気揚々とは決して言えぬ、すくみ足で悪意の満ちた現場へと向かった私。声の語末は震えていなかっただろうか、そもそもちゃんと言葉を言葉として発せていただろうか。不安と疑問が胸を巡る中、私はじっと中心でこちらを見つめる少年の瞳を見返していた。どこか淀んで見える、覗くような宵闇の瞳を。
「……ほう? それをそなたが証明すると?」
「……はい」
しかしそんな時間も、長くは続かなかった。永遠とも呼べる沈黙は、にやりと意地悪く笑ったコダなんちゃら様の言葉で解かれる。こちらを舐め回すような、欲の混ざった視線。それに怯みそうになる心を抑えながらも、私は静かに頷いた。ここで怯んでは負けだ、後ろにはシロ様が居てくれる。だから何も怖いことはないのだと、そう自分を奮い立たせて。
けれど正直に言えば、不思議ではあった。少年がぶつかっただけで難癖を付け、部下に拘束までさせた男のことだ。私がこうして正面から歯向かえば、何かしらの害を加えてくると思ったのに。今の所そんな様子は見えず、にたにたとこちらを見つめてくるだけである。その視線は不気味であれど、直接害があるものではない。
「……黒髪。しかも瞳までもが黒……ふむ……」
「……?」
……なんか、必要以上に観察されている気はするが。視線が刺さった場所から寒気のようなものが立ち上るのをなんとか堪えながら、私は内心で首を傾げていた。正直気分が良いとは言えない。見られているだけでこんなことを言うのもなんだが、気持ち悪いとも思う。しかし何故かあちらはこちらの弁明を聞く気があるようだ。それならばあちらの許しが出るまでは沈黙に徹した方が良いだろう。王の許しが出るまで口を開かない、みたいな設定が昔読んだファンタジー小説にあったはずだ。礼儀だとか作法だとかが何もわからない以上は、少しでもこちらの世界に近かったのであろう世界での常識をトレースした方がいいはず。
「……いいだろう、そなたの弁解を聞いてやっても良い」
「! それは、本当ですか……?」
「私は嘘は言わん。ただし、条件がある」
かくしてその辛抱が実ったのか、彼は予想外にも話を聞く姿勢になってくれた。暴力沙汰を避けられそうな事態に私が喜色を滲ませた声を上げれば、機嫌よく彼は口元を引き上げる。条件。無罪とする条件ならばともかく、弁論を聞く条件とは一体なんなのか。疑問は残ったが、ここはとにかく相手の話に従順になったほうが良い。私はじっとこちらを見つめるコダなんちゃら様を見て、粛々と頷いた。
「私は忙しい。この子供についての弁論を聞くのは、三日後とさせてもらう」
「三日後……」
「そう。三日後、今日と同じこの大通りでお前にはこの子供の弁論をしてもらおうではないか! そうしてその間に逃げられては敵わんからな。お前とこの子供には、その間牢に入ってもらう」
するとその対応がお気に召したのかなんなのか、更に相好を崩したコダなんちゃら様は言葉を続ける。その言葉か対応にか周りがざわめきだした気がしたが、舞台上の演者となった私にそのさざめきまでもを拾い上げる時間はない。ただ私は次々と落とされる理不尽にも聞こえる言葉を、淡々と拾い上げた。
正直に言えば今さっさと話して終わりにしてしまいたい気持ちはあるが、下手に逆らえば面倒なことになるだろう。それにシロ様ならば何人兵士さんが出てきても全員をボコボコに出来ると思うが、今は従者らしき男にあの子の身柄を拘束されている。人質にでも取られてしまえば不利だ。シロ様やヒナちゃんに余計な心配を掛けてしまうとは思うが、ここは素直に頷いておいた方が良いはず。そう思った私は頷こう、として。
「とはいえお前は私に逆らったとは言え、罪人ではない。客人の対応にしてもいいが……?」
……そこで食らった赤い瞳による流し目に心底ぞっとした。流し目というのは美形の特権なのだな、と実感した瞬間である。コダなんちゃら様は顔立ち自体は悪くないのだが、如何せん服装の趣味と小太り気味な体格と、それと性格の悪そうな表情が生まれ持った容姿を台無しにしていた。人の容姿のことを悪く言うのは最低なことだが、どうかこれだけは言わせて欲しい。人にはその人に合った仕草というものがあるのだと。
「……いいえ、牢で構いません」
「……ふん、まぁいい。三日後の弁論でその子供が腕輪を盗んでいないと証明できなかった場合、子供は斬首刑に処す。お前は盗人ではないからな。暫くの間、使用人として無償で奉仕をしてもらおうか」
あまりにも気持ち悪かったので、その申し出には首を振っておいた。若干不機嫌にさせてしまったようだが、まさかそこで何かしらの目論見を実行する気だったのだろうか。とはいえ私にそういった興味関心を持った可能性は薄い。なんせ私は平凡という言葉が人間の形を取って歩いているような人間なので。 ……まさか、この人も眼帯フェチか何かなのか。私の身体的特徴なんてそれくらいである。
いや、そんなことはどうでもいい。大事なのはそこからだ。三日後の弁論で、この子が腕輪を盗んでいないことを証明する。そうしなければこの子は彼の予定通り斬首刑で、私は無償奉仕の刑。自分と子供とで刑の重さに差があるのに胸が痛んだが、彼を刺激しないためにはこれをそのまま受け入れるしか無い。そうして受け入れた以上、私にはその未来を無罪にするための義務が発生するのだ。
「……わかりました。ですが一つだけ質問をしてもよろしいでしょうか」
「なんだ?」
けれどその未来を確かなものにするために大切なことを一つだけ、確認しておかなければいけない。私が粛々と受け入れたことがお気に召したのか、どこか機嫌が良さそうに見えるコダなんちゃら様。私はそんな彼から一度視線を逸し、彼が付けている腕輪の方に目を向けた。ひそやかなざわめきが支配する大通りに降り注ぐ、快晴が生んだ日差し。その腕輪の色は、やはり青。
「証明するのはその子が”貴方の朝夜石の腕輪を盗んでいない”という事実でよろしいのですね?」
証明の意味を問う。これこそが私にとっての何よりも大切な勝ち筋だから。この群衆の中、多くの証人が居るこの場所で。それがどれほどの意味を成すかなんてことは、本番になってみなければわからない。けれどこう伝えれば、少なくとも彼にだけは私のしたいことは伝わったはずだ。
群衆へ僅かに視線を傾ければ、多くの瞳がこちら突き刺す中で目が合ったのは二色。彼自身の白銀と、かつては私のものだった黒色。「ごめんね、結構長くなりそう」「構わない。ヒナのことは任せろ」視線が合っただけでそれだけを伝え合うことが出来るのは、やっぱり瞳の譲渡が原因なのだろうか。未だ解明できていない謎に内心で苦笑を浮かべつつ、私はもう一度正面を向いた。コダなんちゃら様と、再び相対する。
「……? そうだと言っている」
「……ありがとうございます。寛大な心に感謝を」
きっと何も気づかなかったのであろう彼に、従順に見えるように頭を下げた。そうすると鼻息荒く笑う声が聞こえて、その反応に下げた頭で隠すようにしながら今度こそ現実で苦笑を浮かべる。悪い人とは言え、人を罠にかけてしまった。誰かを陥れるための罠を、こうやって。しかしそれでも私は、あの子のことを守りたかった。例えそれが自分でもわからない、「そうしなきゃ」という衝動に腕を引かれるがままに歩いている感情だとしても、どうしても。
そうしなければと、思った。
◇◇
……回想終了、である。今思えばなんかやばいアドレナリンみたいなのが出ていたな、と今更になって一人ごちつつ。私はさてどうしたもんかと、沈黙が続く牢屋の中で考え込んでいた。より正確に言うのであれば、どうやってこの少年とコミュニケーションを取ろうかということである。
ぶっちゃけこの子にしてみれば、私も不審者の一人だろう。いきなり話に首を突っ込んできた怪しいやつ、である。とはいえ私に大した目論見はなく、ただ彼を助けたかっただけなのだ。とはいえ冤罪を着せられた今の彼では、素直に人を信じろと言われても難しいはず。そんな彼の心をどうやって解すべきか。完全には信用されずとも、少なくとも三日一緒に居ることを許されるくらいには親しくなっておきたいのだが。
「……あんたさ」
「えっ?」
そんな風に考えていると、突如として聞こえてきたのは私ではない声。森の中の風のような爽やかさと低さが内包されたどこか幼く聞こえる声に、私は目を見開いた。まさかの第一声があちらの方が先とは、だいぶ予想外だ。しかしそんな予想外は、天井知らずでぶっちぎっていく。
「馬鹿なの?」
まさかの第一声があちらからで、その上罵倒が込み。正直否定はできないが、自分よりも幼いであろう子にそういう風に言われるのはだいぶ堪えるというか。私はぴしりと表情を凍らせて、その子の方へと視線を向けた。変わらずに深く被った外套から宵闇の瞳だけを覗かせる、名前も知らないその子の方へと。