百七十一話「踏み出す勇気をくれるのは」
「それにしても……これからどうしよっか」
ベンチに二人並び、お昼ごはんという名の差し入れを食べ終えた後。私はぼんやりとあいも変わらず快晴な空を眺めながら、少し痛む足をぶらぶらと動かしていた。午前中で回ったのは討伐者ギルドに、雑貨屋が三店。そのどれもが期待とは裏腹に大外れ。どの店でも、ここ最近のムツドリ族の目撃証言はゼロである。
どこかの店で聞いたこと。それは、そもそもにしてムツドリ族がレイブ族の管理する土地に来るのは珍しいということだった。ムツドリ族はその多くが南の大地で育ち、種族的にも寒いのが苦手らしい。故に他の幻獣族に比べれば世界各地に点在しているムツドリ族であろうと、寒冷地が多いレイブの土地ではめったに見かけないのだとか。
「宿とか回ってみる? 何軒あるかわかんないけど……」
「宛がないからな」
だからヒナちゃんも風邪を引いてしまったのかな、なんてことを考えながらも。しかし問題は深刻である。シロ様が見つけた僅かな手がかりが、ここに来て途切れてしまいそうなのだ。今更急ぎ本来の目的地であるリーレイに向かうにしても、リーレイのどこの街に対象が向かったのかわからない以上、こんな浅い考えは壮大な無駄骨になってしまう気がする。
ならば旅人が多いであろう宿を回る方がまだマシかもしれないが、エーナの街は広いだけあって宿だって何軒もある。それら全てを回ってそこに泊まっている旅人や、店員さんに話を聞いて……なんて考えるだけで滅入ってしまいそうになる作業だ。シンプルにしんどい。とはいえそんな我儘を言ってる余裕もないだろう。タイムイズマネー、時は金なり。こうしてうかうかしている内に、探し求めている情報がどこかへと消え去ってしまう可能性もある。
「……よし、やるかぁ」
ぱんと頬を叩いて思考をしゃきりと。うだうだ言っても始まらない。やり尽くした結果何も得られない、なんて空虚な未来が待っているかもしれないが、そんな結果だってやってみなければ得られないのだ。その時はヒナちゃんに慰めてもらうことにして、まずはやるだけやってみなければ。
「……待て、ミコ」
「ん?」
「あちらの空気が妙だ」
きっと今頃は予めティアさんに頼んでおいたお粥を食べているのであろう愛し子の表情を思い出しつつ、やる気を入れ直した私。しかしそこで待ったがかかる。ベンチから立ち上がりかけた私の腕を引いて、警戒するように瞳を細めたシロ様。その視線が向けられたのは、通ってきた裏通りではなく大通りの方。そう言われれば、先程まで穏やかな喧騒に満ちていた大通りが不自然なほどに静かなような。
肌を掠めるのは嫌なざわめき。そう例えるなら、一昨日この街に入る時に体験したような……あの領主の息子だという人が現れた時と同じような、そんな空気だ。まさかと思いながらも、しかしそれ以外に心当たりはない。胸を掠めたのは、嫌な予感。間違いなくあそこに行けば、何かしらの面倒事に巻き込まれてしまうだろうということ。けれどそんな警戒心とは裏腹に、私のどこかがこう叫んでいた。
あそこに行かなければ、と。
「……行かなきゃ」
「っ、ミコ……?」
するりと腕を掴んでいた手のひらが、いっそのこと不自然な程にすり抜けていく感覚。しかしそれを意識することもないままに、私は嫌な静けさで満ちている大通りの方へと駆け出した。石畳を叩くブーツの音。それが耳の中で響いては、現実の音と乱反射を繰り返して。自分は何をしているのだろう、なんて心を疑って。……どうしてシロ様は私に追いつけないのだろうと、当たり前な疑問が胸に浮かんで。
「薄汚いコソ泥が! 速攻に斬首刑に処してやる!」
「っ、俺はやってない!」
けれどそんな疑問は、大通りへと走っていった先に広がっていた光景によって溶けていった。
「嘘をつくな! お前は確かに私の宝物である、この朝夜石の腕輪に触れただろう! それこそがお前がこの腕輪を盗もうとした確固たる証拠だ!」
「ただぶつかっただけだ……! そんなものが証拠になるわけねぇだろ」
「領主の息子たる私にその口の効き方……! 不敬罪に値する!」
これはなんだ、と一瞬思考が追いつかなくて。けれど聞きたくなくても耳に入り込んでくる声だけで、十分に状況は理解できた。ひしめくような人混みの中、中心だけぽっかりと空いた状況。その中心では男に拘束された少年と、少年に向かって唾を飛ばしながら顔を真っ赤にして怒鳴る男が居る。
少年一人に男が二人がかりで、そんな嫌悪感が胸に過ぎった。それも怒鳴っている方の男は全身を悪趣味に貴金属で飾り立ていている成金スタイルだというのだから、嫌悪感はひとしおだ。それに比べて少年の方は黒いマントに黒いフードと、年頃らしくない隠者のような出で立ち。声を聞いていなければ幼い子供というよりは、年頃にしては高いその背丈も相まって老人と勘違いしていたかもしれない。けれどその姿には、どこか見覚えがある気がした。私はどこかで、彼を見かけたことがある気がする。
「……可哀想に。ぶつかっただけで目を付けられて」
「親の七光のくせにプライドだけはいっちょまえだからな。どうしてあの領主様からこんな息子が生まれたのやら」
「亡くなった奥方様が悪かったのよ。領主様の姉上様も追い出して……」
しかし今はどこで見かけたのだろう、だとかそんな悠長なことを考えている暇はない。私は観衆の一人になって、必死に情報を探った。成程。あの高価なだけで悪趣味な格好には心当たりがあったが、やはりあの怒鳴り散らしている男はあの日に一方的な邂逅を果たした領主様の息子様だったのか。確か名前は……コダ・エーナ。ひそひそと聞こえてくる囁き声から判断するに、やっぱり評判はよろしくない人物らしい。
「俺も見てたけど、ぶつかっただけに見えたぞ。あんなん言いがかりだろ」
「そんなこと言っても無駄だよ。息子様は八つ当たりしてぇだけだからな」
「到底『知ある者』の行いではないな……」
……元々殆どは察せていたが、話はおおよそ見えた。あのコダなんちゃら様にあの子がぶつかってしまい、その時にたまたま彼が付けていた腕輪に触れてしまった。そのことで難癖を付けられてしまい、今あの状態だと。理不尽な話だ。無関係な私ですらも苛立ちを感じるのだから、当本人であるあの子の怒りは相当なものだろう。
私は密やかながらも嫌悪感がひしめく喧騒に耳を傾けつつ、渦中の少年に目を向けた。恐らくはお付きの者なのだろう。無言で拘束してくるもう一人の男から必死に逃げようとする少年の姿を見ていると、胸が酷く苦しくなった。なんとか助けることが出来ないだろうか。例えば牢に入れられたとしても、嘆願や保釈金を払うとかそういう形で彼を助けることが出来るかもしれない。
「ねぇ、あの子どうなるの?」
「牢に入れられるだけならいいだろうが……あの身なりからして浮浪者だろ? 今は領主様も外に出ていることだし、止めれる人は居ない。息子様の言う通り斬首刑かもな」
「そ、そんな……」
「おいおい、関わるなよ。巻き込まれたらたまったもんじゃない」
そんなまだ出会っても居ない少年に必要以上に心を傾ける自分に違和感を覚えないまま、私は続けて聞こえてきた言葉に愕然とした。ぶつかっただけ、いやあのコダなんちゃら様の中でだけは一応窃盗罪ではあるのだろうけれど。それだけで斬首刑にするなんて。
人の命を何だと思ってるのだろう。それも未来ある子供の命を、なんだと。きっと私と同じような考えを持ってる人はこの群衆の中に何人も居て、けれど誰もが足を踏み出せない。それはそうだ。巻き込まれれば恐らくは理不尽な罪を着せられてしまうとわかっているこの状況。しかもその理不尽は自分だけではなく、自分の親しい人までもを巻き込んでしまう可能性がある。そんな中で容易く一歩足を踏み出せる人なんて、居ないだろう。見ず知らずのために共に罪を背負おうとする人なんて。
「ミコ」
「っ、!」
けれどそんな中でも、迷わない人は居る。とんと背中に触れた手のひら。振り返ればそこには、二色の瞳でこちらを見つめるシロ様の姿があった。瞳に怒りはない。当然だ。シロ様はこういった光景に不快感を覚えることはあれど、見ず知らずの他人に必要以上に心を割くことはない。ただ不快な光景と、自分が歩いてきた背景の一つにするだけ。その揺るがなさがシロ様の強さの根源でもあるのだ。そこばかりはどうしても、私と相容れない。
「……我ならば、この街の兵士全員くらい片手で捻れる」
けれどそれでも、歩み寄ろうとしてくれる。「子供は誰かに守られるべきだ」なんて私の力ない思想に、力を貸そうとしてくれる。私を私の理想ごと、守ろうとしてくれる。私の心が何一つとして欠けないように。いつからそうだったかなんて、そんなことはもう覚えてはいないけれど。それでもあの奴隷事件の時もそうだった。
不器用な言葉が意味するのは、好きにしろという合図だ。本当ならこんなこと、している余裕なんてないのに。赤い羽のことが、お姉さんとの約束のことが気にかかって仕方ないだろうに。それでもいつか彼は言った。「失った物の真相を突き止めるより、今ある物を守るほうが重要だ」と。今こうしてビャクの真意を辿るための旅をしていても、その考えは変わらないのだろう。シロ様はいつだって眩しいくらいに真っ直ぐだから。
「……ううん、まず自分でなんとかしてみるよ」
でもその好意に甘えきるわけにはいかない。力がなくても、心が弱くても、私だって一人の人間だから。全てをシロ様に寄りかかって、ずっと守られているわけにはいかないのだ。ふっと一度だけ笑みを持って静かにこちらを見返す少年を見つめて、私はぽかりと空いた中心の方へと目を向けた。悪趣味な格好の男が付けている”青”の腕輪。きっと言葉だけの突破口は、ある。
「じゃ、行ってきます」
「……ああ、行ってこい」
軽い挨拶。それは到底この状況に似つかわしいものではなかったけれど、私達の間で結ばれている糸には相応しい言葉だった。人々を押しのけるように進んでいく。例えあちこちから待ったが聞こえようと、知ったものか。私は私のしたいことをする。最大限にやりきってみせる。私のしたいことを一緒に守ってくれる、そんな相棒が居てくれるから出来るのだ。それならば何一つだって迷わない。
「っ、待ってください!」
すっと一度大きく息を吸って、叫んだ。輪の中心。先程までは舞台下の観客だった私が、舞台上に居る。それが少し怖くて、足が震えそうになって。それでも覚悟を決めて待ったを掛けた以上、逃げることは許されない。誰が許したとしても、私は許さない。やり遂げると、そう決めたのだ。
向けられたのは三つの視線。観衆を入れると到底カウントできなくなるので、ひとまずは舞台上のそれだけを数として認識することとする。敵意が一つ、怪訝が一つ……そうして、信じられないと言わんばかりのものが一つ。怯みそうになる心を懸命に押しのけて、私は言葉を続けた。静まり返った街に大きく響くように。
「その子は、貴方様の朝夜石の腕輪を盗んでません!」
その瞬間フードの中の黒が大きく見開かれて、そこで私は気づいた。ああこの子は、あの朝に一人ぼっちだった子供なのだと。ただそれを、悟ったのだ。