百六十八話「聞きたいのは本音」
「はい、あーん」
「ピュッ!」
「あ、あーん……」
柔らかな色合いの木の匙にミルク色に煮込まれたお粥を一口分。少し時間が経ったことで人肌くらいにまで冷めたそれを、雛鳥かのように待っているヒナちゃんの口元まで運ぶ。すると小さな口は開かれて、ぱくりと匙の中の粥は消えていった。もぐもぐと咀嚼しているのか動く頬。暫く経った後、ほんのりと赤い頬は緩やかに綻んで。
「あまい……」
「ミルク粥だからね。食べれそう?」
「うん、美味しい、よ……?」
お米を牛乳で煮込むこと、またはお粥という食べ物が甘いこと。それらになんとなく忌避感を覚える人が居ると聞いたことがあったが、どうやらヒナちゃんはそうじゃないらしい。にこにこと幸せそうに頬を抑える大変可愛らしいその姿に思わず相好を崩しながらも、私はベッド横で跳ねるフルフを押さえつけた。ピュイ!? という鳴き声が聞こえてきた気がするが気にしてはいけない。病人の近くではしゃいではいけないのだ。
「ところで、具合はどうかな?」
「……もう大丈夫、だよ」
手のひらの下でしたばたと暴れているフルフを、心を鬼にして抑えつつ。私はそこで一度ヒナちゃんに今の体調を尋ねてみることにした。呼吸も穏やかになってきたし、ということで起こしたはいいが一番大事なのは本人の申告だ。これで悪化しているというのならば病院に連れて行く必要もある。
しかし私の問いかけに、ヒナちゃんはふるふると首を振った。若干バツが悪そうな表情で、である。それにまだ何かを隠していると悟った私は、思わず苦い笑みを浮かべてしまった。そりゃあいくらヒナちゃんにとって私が特別な存在とは言え、言葉一つでヒナちゃんの今までが変えられるとは思っていない。誰かに頼れない人生を歩んできたこの子が、さらっと甘えられるようになんて。
「そっか……私が頼りないから、ヒナちゃんは私を頼ってくれないんだね……」
「えっ……!?」
けれどでも、悔しいのは本当なわけで。私は悲壮感たっぷりに、一度お粥の入った器をベッドサイドのテーブルに置いた。そうして両手で顔を覆った後、わざとらしく鼻を啜ってみせる。正直小学校のお遊戯会でもダメ出しをされるレベルの演技だとは思うが、それでも心優しく素直なヒナちゃんには効いたらしい。慌てたような声が聞こえてくる。
「私がレーネさんみたいに頼り甲斐のあるお姉ちゃんだったら良かったのかな……」
「そ、そんなことない! お姉ちゃんはお姉ちゃんがよくて、お姉ちゃんじゃなきゃだめで……!」
あからさまに動揺に揺れる声に罪悪感を覚えながらも、さりとてここで引いては同じことの繰り返しだと私は強行突破した。ゴリ押し、とも言う。今シロ様が下に追加の毛布を取りに行っていてよかった。こんな現場を見られたら、まず間違いなくゴミを見るような目で見られてしまう。氷柱よりも恐ろしい視線を思い浮かべれば、自然と声は震えた。こればっかりは女優と褒めてもらえるかもしれない演技だったと思う。だってこれは演技じゃなかったので。
当然、ヒナちゃんは大慌てにてんてこまいだった。熱で頭が回ってないのか、お姉ちゃんお姉ちゃんと繰り返しながらもどうしていいのかわからないと言わんばかりにぱたぱたと手を動かしている。正直に言えば覆った両手の隙間から見るその光景はちょっと可愛かったが、如何せん熱がある子にいつまでも負担をかけるわけにはいかない。私はそこで両手を覆っていた手を外すと同時に、ぱたぱたと暴れるヒナちゃんの両手を包むように握った。すると正面からは、息を呑むような音が聞こえて。
「じゃあ教えてくれる? 本当のこと」
「あ……」
目と目を合わせて、真っ直ぐに。まるで気圧されるかのように一度開いた口は、しかし何かを紡ぎかけては閉じられた。まだ足りなかっただろうか。その様子に私は眉を下げる。結構駄々を捏ねたつもりだったのだが、これだけではヒナちゃんに届かなかったらしい。より正確に言えば、彼女の本音を引き出すには至らなかったというべきか。
けれどこれは、早めにどうにかしなければいけない問題だ。熱どうこうという話ではなく、これから一緒に旅をする仲間で生活を共にする家族という意味で。楽しいという本音を言うことが出来るのはいい。素晴らしいことだろう。しかしその代わりに辛いという本音を信頼できる人にすら言えずにひた隠しにしてしまうのは、なんというか不健全だ。今のような状態を放置していたら、きっといつかヒナちゃんは潰れてしまう。だからここでせめて本音の一つでも、と言葉をまた重ねようとしたところで。
「ピュ」
「……フルフちゃん?」
それを遮るかのように、静かな鳴き声が一つ。思わず視線を向ければ、フルフがじっとヒナちゃんを見上げるのが視界に映った。そのらしくない静かな鳴き声に、ヒナちゃんが戸惑うような声を上げる。けれどそれには答えずに、フルフは一度ぴょんと跳ねてヒナちゃんのお腹の上に乗り上げた。
「ピュ……ピューピュ」
「え……」
「ピュピュ、ピュピュピュ!」
飛び込んだのはかけられた毛布の上。不安定な足場ということで着地に僅かに失敗して、その小さな体を支えきれずに転びかけても。それでも諦めずにフルフは、ヒナちゃんをそのつぶらなひとみで見つめながら鳴き続けた。
当然、何を言ってるのかなんて言語の違う私達には理解できるはずもなくて。それでもその毛玉から、何故か今だけは目を離せなかった。言葉はわからなくても、何を伝えたいのかは理解できる気がする。この小さな生き物が、何を思っているかは理解できる気がする。すとんと落ちた納得が、心全体に広がって優しく降り積もるさま。その温度に背中を押されるがまま、私は口を開いた。
「ちゃんとお話してほしいって」
「……!」
「楽しかったことも、悲しかったことも、辛いことも。全部平等に、おんなじくらい」
肯定するかのような鳴き声が元気よく部屋に広がる。それに思わず笑みを零しつつも、私はヒナちゃんの目を再び見つめた。ゆらゆらと揺れる朝焼けの色。私をいつかその翼で救ってくれた、一等星で黎明の象徴。その瞳を見つめながらも、心の全てが伝わるようにと言葉を尽くした。だって私とヒナちゃんは、心を共有なんて出来ないのだから。
「私もこの子も、ヒナちゃんが大好きだから。とっても大切にしたいから。だから大切にできるように、ヒナちゃんが幸せになれるように、嫌なことは嫌って言ってほしいって」
わかってる。言葉一つじゃ何も救えないなんてことくらい。そんな万能薬みたいな言葉なんて、どこの世界にも無いことくらい。でも言葉をいくつだって重ねて、その言葉を本当にする行動を重ねて、それらを糸で束ねて思い出にして。そうやって出来た思い出を心に積ませれば、いつか届くかもしれない。まだ空虚なところがあるこの子の心を、いつか満開の思い出で埋めることが出来るかもしれない。
だって今、言葉は少しだけ届いたから。躊躇っていた赤が、朝を迎えていく光景。開かれた瞼からまた一つ透明な雫が伝っていって、それがぎゅっと繋がっている手のひらに落ちた。その涙は、一度決壊したらとめどなく溢れていくコップの水の如く止まらない。ぼたぼたと落ちていったそれに、手の甲に感じる冷たい感覚に、また一つ苦い笑みが零れた。
「……あたま、いたい」
「うん」
「なんか、ぐるぐるしてるの」
「うん」
「あついのに、さむい」
「うん」
きっとその涙が、最後の壁だったのだろう。小さな毛玉が壊したそこから覗いた言葉たちが、ぽろぽろと降っていく。それを一つずつ受け止めながら、私はぎゅっとヒナちゃんを抱きしめた。家族で仲間。あの時の言葉が今、届いた気がしたのだ。
「……くるしいよ、お姉ちゃん」
「……うん」
助けて、って言ってほしい。大切だから、ちゃんと大切にしたい。辛いときは、一番に力になってあげたい。それら全部の気持ちが、一つの言葉で報われていく感覚。胸元に感じる濡れたような感覚が気にもならないまま、私はひたすらにその子の頭を撫で続けた。ずっと、ずっと、ずっと。シロ様が帰ってきても、食べかけのお粥が冷めて切っても、それでも。胸の中のこの子が再び穏やかな眠りに落ちるまでの間、ずっと。