百六十三話「好き嫌い」
石窯で焼いたであろう丸パン、ベリーとナッツのサラダと何かのピクルス、ポーチドエッグに豆の入ったミルクのスープ。朝食用と部屋のテーブルに運ばれた人数分のそれらを、私は感心したように見下ろした。桃花の宿の純和食とも、海嘯亭の海鮮料理とも違う、いわゆるカフェの朝ご飯である。いや、モーニングと言うべきか。
モデルさんの朝ご飯みたいだな……ああでも、モデルさんはあまり炭水化物を取らないのだったか。そんなことを考えながらも、私は対面側のソファーに二人仲良く座るシロ様とヒナちゃんの様子を伺った。あんまり子供ウケはしないメニューだが、大丈夫だろうか。二人が食事を残しているところを見たところはないが。
「……なんだ?」
「あ、ううんなんでも。食べよっか」
「ピュッ!」
どうやら問題はなさそうである。訝しげなシロ様の視線に首を軽く横に振りつつ、私はいただきますと両手を合わせた。この世界でもこれは共通の挨拶らしく、特に突っ込まれることなく二人もそれに続く。フルフが合わせるかのように再びピュッ!と鳴くのを微笑ましく見守りつつ、私は最初に二つあるピクルスの片方を毛玉の口へと運んだ。すると嬉しそうに鳴いた毛玉は、その直後にしおしおとした顔に早変わりし。
「ふふ、すっぱかった?」
「ピュン……」
「どれどれ……ほんとだ、すっぱい。二人は食べれそう?」
「問題ない」
「ん……美味しい、よ?」
初めて見た表情に思わず吹き出しつつも、私はもう一つのピクルスを口へと運んだ。食感的にズッキーニかそれに近い何かだろうか。丸っこいのは品種のせいなのか、それとも似ているだけの別の野菜なのか。あとで店長さんに聞くのは……やめておこう。べ、別に昨日のことがトラウマになっているわけではない。お仕事の邪魔をしたくないだけである。
浮かんできた蠱惑的な赤い瞳を思い出しては背筋を震わせつつ、その震えを誤魔化すように私は正面の二人を見た。どうやら二人共問題なく食べれているようである。淡々と食事を口に運ぶシロ様と、こてんと首を傾げながらもフルフを優しく見下ろすヒナちゃん。この年頃ならば好き嫌いがあってもいいとは思うのだが、二人は育ってきた環境的にそういう我儘を言えなかったのかもしれない。片やサバイバル慣れした野生児、片や満足な食事も与えられなかった天使。扱いの差がある? いや、そんなことはない。これは客観的な事実だ。
「……二人は好き嫌いってある?」
「……? すききらい?」
「えっと、好きな食べ物とか、嫌いな食べ物とか。そういうのあるかな、って」
空いたピクルスの小さな皿にフルフ用のサラダを盛りつつ、私は問いかけた。育ち盛りの二人がフルフにおすそ分けするより、もうあらかた育ちきった私から与えた方がいいという考えから今日は私とフルフが隣り合う配置となっている。するとヒナちゃんにはまたしても首を傾げられ。まさか好き嫌いの概念すら存在していないとは。いやまぁ、それはそうか。ヒナちゃんは基本的に何も知らない真っ白な存在なのだ。私やシロ様が教えていない概念は知らない。図書館かなにかがあれば通わせてあげたいものである。生憎とそんな余裕があるかと言えば、ないのだが。
「……わたし、パンが好き」
「え、そうなの?」
「うん。お姉ちゃんと、ミーアお姉さんがくれたから。初めて、お腹いっぱいになったから」
やはり絵本を買い占めるべきか。などと完全に親馬鹿思考に移っていた私は、しかし間が空いた後のヒナちゃんの言葉に目を見開いた。まさかのパン。あそこで散々と食べさせられた上に、空腹の象徴とも呼べたあれが好きだというのか。
しかしふんわりとした微笑みを以て続けられた言葉に、私は目頭が熱くなるのを感じた。泣きそうである。嫌いなものはないよ、と自信なさそうに言っているヒナちゃんの可愛さが珍しく目に入らないレベルだ。あまりにも健気。こんな天使がこの世に存在していいのだろうか。ヒナちゃんにとっては長く続いた最悪な日々よりも、私達の小さなお節介の方が色濃く残る大切な思い出なのだ。涙腺がぶっ壊れそうである。この世のすべてのパンをヒナちゃんに献上したい。そのうちありったけのパンを焼こう。昔おばあちゃんから教えてもらったから出来るはずだ。
「うっ……シ、シロ様は」
「……具合が悪いのか?」
「ううん、寧ろ最高」
流石にここで泣き出したら心配されると、根性で涙を堪えつつ。私は今度はシロ様に話を振った。即答の言葉にまたしても訝しげな視線が向けられた気がするが、気にしてはいけない。シロ様がこんな風に私を見るのはいつものことである。いや、言ってて悲しくなるが。
「……ジャムと、スープ」
「……えっ」
「あんまり、材料が使われないやつなら尚更いい」
さてシロ様の好きな食べ物はなんだろう、となんとかヒナちゃんによって齎された爆弾を誤魔化していた私。しかしそんな私に無情にも爆弾は落とされる。あんまり材料が使われてないジャムと、スープ。それはもしかしなくても、微睡みの森に居た時に私がシロ様に作ったメニューではないだろうか。
思わずぽかんと口を開けてシロ様を見ると、ふいっと視線が逸らされる。その反応はもう、なんというか、間違いないというやつでは。シロ様はそれ以上語らないが、真っ白な頬が僅かに赤く色づいている気がする。会話を突如止めた私とシロ様にヒナちゃんが不思議そうに首を傾げているが、今はそれを気にしている余裕はない。更に言えばスープを勝手に飲み始めたフルフに突っ込む余裕なんてもっとない。
「……お姉ちゃん?」
「……ナンデモ、ナイヨ……」
「う、うん」
あの時はこの程度しか作れなくて申し訳ないと思ってたのに、ブローサの宿で言っていた「お前のスープも悪くない」という言葉は半分お世辞か何かだと思っていたのに。……いや、よく考えればシロ様はお世辞なんて言わないか。でもまさか、まさか好物判定されているレベルだとは思っていなかった。
くすぐったいような、けれど居なくなってほしくない、そんな感情が心を包む。心配そうなヒナちゃんの声には、片言の言葉を返すので精一杯で。だってこの二人の好物は、実質私との思い出みたいなものなのだ。大して美味しかったわけでもなく、それから美味しいものを食べれていないわけでもない。それでも二人は、硬かったあのパンと味気の無いジャムとスープが好きなのだと言っている。そんなの、嬉しくないわけがないだろう。
「……フルフ、全部食べていいよ」
「ピュイ!?」
「いやもう、胸がいっぱいというか……」
もう私の好物もパンとジャムとスープでいいかもしれない、そんなことを考えながらも私は「食べないの?」と言わんばかりにこっちに視線を向けるフルフに告げた。いやほんと、胸がいっぱいでお腹もいっぱいである。例え世界中の美食を好き放題食べ漁っても、ここまでの満足感に浸ることは出来ないだろう。或いは、この二人と一匹と一緒ならば同じくらい満たされるかもしれないが。
「っ、んぐ!?」
「……食え」
「食べなきゃ、だめ」
「……はい」
しかし私はすぐさまその言葉を撤回することとなった。対面側から伸びてきた手、そこに握られていたパンが口の中に押しやられる。その衝撃を受け止めながらも視線を持ち上げれば、そこには呆れたようにこちらを見つめるシロ様と心配そうにこちらを見つめるヒナちゃんが居て。そんな風に見られては、食べないわけにも行かない。というか年下二人にちゃんと食べなさい、ってされる私ってなんなんだろう。もしかしてこの中で一番世話がかかるのは私なのではないか。
「ピュ!」
「あ、うん。ありがとう……」
ほら、フルフにだってこうして気を遣わせてしまっているわけだし。「これ食べな!」と言わんばかりに半分にちぎっていたパンの前で跳ねるフルフに。礼を返しつつ。結局私はその後、一人分の朝食をフルフときっちり半分こした。高級ホテルの朝ご飯は見た目だけではなく、味もしっかりと美味しかったと言っておこう。