百六十二話「残った疑問」
「……あ」
目を開けると、最初に目に入ったのは茶色い壁紙。シミや傷一つないその壁を見て、一風変わった宿に泊まったことを思い出す。張り付いたような瞼を数度瞬きを繰り返すことでなんとか引き剥がしながらも、私は起き上がった。体の重みに従って心地よく沈むマットレスに、質の良いベッドだったと改めて感心しながらも。
寝起き特有のぼんやりと朧げな思考で、昨日のことを思い出す。確かあの店長さんに質問攻めにされたあとに食事を取り、部屋に付いてたお風呂に入り、その後日課になった法陣の模写をヒナちゃんとやって……それから、どうしたのだったか。暫く考えずとも答えは出た。疲れが残っていた昨日のことだ。途中で寝落ちして、恐らくはシロ様にベッドに運んでもらったのだろう。なんせ、自分でベッドに入った記憶がない。
後でお叱りを食らうかもしれないと、苦い笑みを浮かべつつ。私はそこで軽く部屋を見回した。うむ、相変わらず高級感に溢れているお部屋である。ベッドはサイドテーブル付きのが三つ、それは海嘯亭の時と変わらない。しかしこの宿はその他の様々な設備が、他の宿と一線を画していた。
まず部屋に個人の浴槽がついてるだけでも驚きなのに、ドレッサーや衣装棚などが普通に置いてある。しかも海嘯亭と違って食堂がないからか、食事をとることができるスペースとして部屋にソファーとテーブルのセットがあるのだ。部屋の広さは恐らく桃花の宿と同じくらいあるだろう。とはいえ桃花の宿の高級旅館めいた佇まいとは違い、こちらは高級ホテルのような顔をしているのだが。
「起きたか」
「……おはよう、シロ様」
「おはよう」
改めて部屋を確認しては、あの値段で本当に良かったのかと首を傾げて。しかしそこで聞こえてきた声に、私は視線をそちらの方へと向けた。声が聞こえてきたのは、お風呂がある浴室の前。そこには頬を赤く染めて若干髪をぺしょりとさせたシロ様が居る。タオルを首にかけるその姿は正しくお風呂上がりの佇まいだ。いつもより幼く見えてちょっと可愛い。
「鍛錬のあと?」
「ああ。折角個人浴槽があるのだから、身を清めた方がいいと思ってな」
「成程。でも髪はちゃんと乾かさなきゃ、だよ」
けれどいくら濡れ鼠な姿が可愛くても、それをそのままにしておくわけにはいかない。問いかけながらもベッドから降りた私は、シロ様の方へと近づいた。そのまま彼の首にかけられたタオルを取り、まだ濡れているところの多い髪を丁寧に拭いていく。シロ様はそんな私の手に抵抗することなく、されるがままになっていた。
ふわふわだったタオルが水分を吸うと同時に徐々に湿っていく。そんなタオルとは裏腹、濡れていたシロ様の髪は徐々にいつものサラサラ具合と艶を取り戻していった。美しい銀髪が決して傷まぬようにと自分のものを扱う時よりも細心の注意を払ってタオルを動かせば、心地よさそうに瞳を細めたシロ様と目が合って。うん、可愛い。こういう時は猫みたいだな、と思ったりする。本性がゴリラ……ではなく虎なのは、身を以て体感しているのに。
「お前も、寝る時は寝台で寝ろ。体を痛める」
「う……やっぱり寝落ちしてた?」
「してた」
すると変なことを考えているのが悟られたのか、今度は別の意味で細められた瞳が輝くと同時にお叱りを受けた。やはり想像通りである。私は昨夜しっかりと寝落ちしてしまっていたらしい。そしてそれを、シロ様が運んでくれたと。頼むからその光景を、まだすやすやとフルフと仲良く夢の中であるヒナちゃんが見ていないといいなと思った。なぜかって、年下に世話を掛けているお姉ちゃんの姿は理想とは程遠いからである。今更であるとかは、決して言ってはいけない。
「……そういえば、シロ様」
「なんだ」
「時空断裂のこと、なんだけど」
ヒナちゃんが先に寝落ちしていますようにと、その記憶がない時点で怪しいとことがある願いをかけつつ。私はそこでいい機会だからとずっと気になっていたことをシロ様に尋ねることにした。時空断裂、それを口にすれば全てわかっているという風に少年は頷く。その手に引かれるまま、私は自分のベッドに戻っていった。ベッドに腰掛けた状態。先程と違うのは、シロ様が隣に同じように腰掛けていることだろうか。ちらりと視線を向ければ、二色の瞳と目が合って。
「……なんで私が、アレが発生することを予期できたのか。それって、わかる?」
「……断定は出来ないが、いくつかの可能性を上げることは出来る」
促されている、そう思った瞬間に疑問はもう口から出ていた。そうしてその質問が来ることが、恐らくはわかっていたのだろう。きゅっと眉を寄せたシロ様は、淀みなく言葉を口にした。最初に間があったのは、シロ様でもまだ正しい答えを見つけられていないからか。考え込むような表情を見下ろしながら、私はずっと浮かんでいた疑問をもう一度考えてみることにした。
時空断裂のことで、ずっと残っていた疑問が一つ。それは「何故私はあの時、時空断裂が起きることを予期できたのか」という疑問である。あの時の空気が冷たかった感覚、嫌なことが起こりそうなざわめき。それを感じ取れたのは、私一人だった。私よりも余程感覚が優れているであろう幻獣人が二人も居て、である。冷静に考えれば、それはおかしいのだ。人間かつ平和な現代育ちの私よりも、幻獣人の二人の方が感覚が優れているはずなのに。
それなのにあの時世界が僅かに変わった瞬間を見抜けたのは、私一人だった。
「まず第一に、お前の法力があの時枯渇していたからという可能性。異常に法力が低かったからこそ、法力が膨張するのを感じ取れたのかもしれない」
「……うん」
「だがこれは、恐らく可能性が低い説だ。法力が低いという条件ならば多くの獣人が該当する。しかしこれまで、そんな話を聞いたことがない。いくら時空断裂に関する情報が少なくとも、獣人が感じ取れるという話ならば多少は広まっていてもおかしくないはずだ」
そのことにざわめきを覚える胸を抑えながら、私はシロ様の話に耳を傾けた。考えたところで答えが出ない問いなのはわかっている。それでも、自分の中で何か結論を付けておきたかった。出来れば、この世界で誰よりも信頼できるシロ様と一緒に。
その心を読み取ったかのように、シロ様は私が想像していたよりも遥かに真面目に話に向き合ってくれた。私が考えていたことを更に、自分の知っている常識に当てはめて丁寧に説明してくれる。真剣な態度に安堵しながらも、私は頭の中で考えていた一説に赤線を引いた。完全には言い切れないが、あの時のわたしの法力が低かったからという説は可能性が低い。それなら、次は……。
「次に、お前の法力が我らの中で飛び抜けて優れているという可能性」
「えっ」
「……だがまぁ、これもないと考えていいだろう。お前は人間にしては異常な法力を有しているが、恐らくはレイブ族に匹敵するくらいだ。それならば我はともかく、ヒナとはそう大きな差はない」
しかし次にシロ様の口から出たのは、私が一切予想していなかった考えで。ぽかんと口を開けている内に、いつのまにかその説はご丁寧に畳まれていった。というか今、とんでもないことを言わなかっただろうか。私の法力が、幻獣人の中でも最も法力面において優れてるレイブ族と同じくらい? そんな重要そうな話をさらっと終わらせないでほしいのだが。
「最後に。これが有力な説になるが……お前が、異界から訪れた稀人であるからという説」
「…………」
「これに関しては神の前を通ってきたお前がどの程度の能力を与えられているのかわからない以上、未知数でしか無い。だが未知数故に、一番可能性が高いとも言える」
だが一瞬惑った思考は、続いた言葉で霧散していった。私がずっと考えていたことで、シロ様にとっても有力だと思える説。それは糸くんが与えられたのと同じように、何か異常な力の放出を感知する能力が私に与えられているのではないかという説だ。
シロ様が言うように、これに関しては未知数な上に検証することも難しい。しかしだからこそ、一番に高い可能性があるのだ。全てが神様の仕業、なんて現代で言ったら笑われるどころか頭の心配をされるかもしれない言葉が、この世界では現実として起こりうる。
「……少しは整理できたか」
「……うん。付き合ってくれてありがとう」
「いい。ならヒナと毛玉を起こして朝食を摂るぞ」
「そうだね」
結局、話してみても答えはわからずじまいで。でも、それでも。私はこちらを静かに見据えるシロ様に、穏やかな笑みを返した。私が思っていたことを、シロ様が共有してくれていたこと。それを知った途端、胸に落ちたのは安堵だった。私は一人で悩んだり考え続けたりしなくていいのだと、そう思える気がして。
重かった空気が払拭され、穏やかな朝に戻っていく感覚。もう話はないと悟ったのか、ベッドから立ち上がったシロ様がヒナちゃんとフルフの方に近づいていくのを見送りつつ。私はそこでふと、窓の方へと視線を向けた。雪が降ってるからか、結露を起こしている窓。久しぶりに見た気がするようなその光景に懐かしさを覚えながらも、私の視線はその窓の先の何かを捉えた。まるで吸い付けられたかのように、引き寄せられたかのように。
「……?」
今や一つしか無い私の瞳が捉えたのは、朝の空気に溶けて消えていきそうな一人の人影。真っ暗な服に身を包んだ、シロ様と同じくらいの背格好の子供の姿。けれどその影は、瞬きの間に消えてしまって。その不思議な体験に、私はシロ様に再び声をかけられるまでそこから視線を反らせなかったのだった。