百五十二話「揺れる世界」
蹄が地を踏みしめる音が静かな世界に響いた。がらがらと土の道を車輪が走っていく。月は今、クリスマスツリーの一番上を飾る星のように夜空のてっぺんへ。霞んだ輝きを放つ星々をぼんやりと眺めながら、私は小さく息を吐いた。なんだかぷつりと糸が切れた気分だ。人の世から離れる気分と言えば伝わるだろうか。日本で集団生活に属し続けていた時には決して味わえなかったはずの気分を、今私は味わっている。
「眠いのか?」
「ううん、私は大丈夫。ヒナちゃんは?」
「わたしも……」
それが高揚感から来るものなのか、不安から来るものなのかはわからないけれど。手綱を握りながらちらりとこちらを見たシロ様の言葉に私は首を振った。昨夜までの眠気は何だったのか、今は全然眠くない。そしてそれはヒナちゃんも同じらしい。ヒナちゃんも、同じ気持ちなのだろうか。
これから北へ向かうとはわかっていても、どう進むのかなんてことは全く話しておらず。まるでこの夜みたいに展望が見えない先を不安がるからこそ、眠気はどこか彼方へと飛んでいってしまっているのかもしれない。ずっと続いていた縁がぷつりと切れたことを自覚しているからこそ、余計に。変な話だ。あの森に居た時はシロ様と糸くんとフルフ、それだけで私の世界は十分に回っていたはずなのに。
「……ならこれからの予定を話すか」
「!……うん」
急に宙に放り投げ出されたかのような、私がそんな感傷に浸っていることに気づいたのだろうか。いつのまにかこちらから視線を逸していたシロ様は、沈んだ空気を放つ私達をなだめるようにそんなことを呟いた。願ってもない申し出である。息を呑むと同時、一も二もなく頷いた私を再び二色の瞳が捉える。瞬間、夜でもどこか生暖かい空気を切り裂くような冷たい風が駆け抜けた気がした。
「これから北へ……レイブ族の領地に向かうとは言え、話はそう簡単ではない。なんせここからレイブ族の領地に向かうのであれば、再び海を超える必要があるからだ」
「……え? じゃあ馬車とかこの子たちはどうするの?」
その風に何か嫌な気配を感じながらも、しかしたかだか風よりも気にかかることが一つ。そう、レイブ族の領地に渡るため海を超えるというのであれば馬車やら馬やらはどうするというのか。まさか貰ってすぐさま売り払うとか、そういうことをするつもりなのか。目的地に向かうため致し方ないとは言え、大事にしろと言われた手前心が痛む。馬?二頭のことだって、飼っておいてすぐ捨てるのは流石に命に対して責任がないと言うか。
「……何を考えてるか知らんが、馬車はお前の鞄にしまえばいいだろう。鉄とくーちゃんは召喚従魔だから何の問題もない」
「鞄……ってリュック!? っていうか召喚従魔って……」
「手の甲に法陣が描かれたのを見ただろう。こいつらは普段は実体を持たず、我らの法力と交わる形で存在している。必要な時だけ呼び出すことが可能な従魔だ」
私が非難の視線を向けているのに気づいたのだろう。そんな視線を向けられる謂れはないと言わんばかりに瞳を眇めたシロ様は、淡々と言い返してきた。とはいえ言っていることは、傍から聞いている身としてははちゃめちゃであったのだが。
馬車をリュックに仕舞う。……いやまぁ、言っていることは一見とんでもないが出来ないこともないの、だろうか。恐らくは無限容量を誇る私のリュックなら、確かに馬車くらいなら仕舞える気はする。多分、きっと。そして馬たちのことも。仕組みはよくわからないが、要は出し入れ自由ということは伝わってきた。つまり私達が海を渡る上での障害は無いということである。なんせ移動道具もそれに携わる仲間たちも全部仕舞えてしまえるのだから。なんともめちゃくちゃな話だ。
「……話を続けるぞ。宿の主人曰く、ウィラの隣町のマツリカという街では、レイブの領地行きの船が出ているらしい。それでまずはレイブの領地の……キョウクという街に行く予定だ」
「……成程」
私が納得したのを悟ったのだろう。視線を逸らすと同時、手綱を一度揺らしたシロ様はそのまま話を締めくくった。成程、船が出ている隣町に移動してそこからレイブの管理する土地へと渡る。私が不安がる間にも、しっかりとシロ様は今後の旅の予定を組んでいたらしい。年上として情けないような、シロ様の頼り甲斐がますますと増してきたことに感動を覚えるような、複雑な気分である。ヒナちゃんは「流石シロお兄ちゃん!」と言わんばかりにうんうんと私の膝の上で頷いているが。
このままでは私が頼りになるお姉ちゃんの称号を取るよりも早く、シロ様に頼りになるお兄ちゃんの称号を掻っ攫われる気がする。いやもう手遅れか? そんな焦りを抱えながらも、私は眉を顰めていた。決してめちゃくちゃな話を聞かされたことに頭痛を覚えているわけではない。先程から、なんだか空気が嫌に冷たい気がするのだ。あと、頭が痛いような。なんだろう、この感覚。確かにこういった乗り物に乗るのは昔から苦手だが、それだけではない気がする。なんだか、世界がおかしいような。
「……お姉ちゃん?」
「……あ、ごめんね」
ぎゅっと、無意識の内に腕の中のヒナちゃんを抱きしめる。すると強く抱きしめすぎてしまったのか、怪訝そうな声が腕の中から聞こえてきて。その声に慌てて腕の力を緩めながらも、けれど抱きしめる手を解放することはしない。やっぱり、何か空気が変な気がした。シロ様もヒナちゃんも普通なのだから、おかしいのは多分私だけなのに。
「……ミコ、どうした?」
「……シロ様」
「顔色が悪い。馬車も苦手だったか?」
先程までの漠然とした不安とは違う、何か得体のしれないものが近づいている感覚。けれどそれをどう形容していいかわからずに俯けば、突然馬車が止まった。低い嘶きと共に、揺れ動いていた体が完全に止まる。
そうしてそのまま、横からおとがいを掬われた。間近に迫るは白皙の美貌。二色の瞳を見てしまえば、馬車が止まったことへの疑問は飛んでいって。ああ、私の様子が気にかかって止めてくれたのか。不安の中で揺らめいていた疑問が居場所を見つけて座るのとは裏腹、どくんと心臓が大きく喚く音。とはいえその音は決してときめきから来たものだとかそんな甘酸っぱいものではなく。
今動かなければ死ぬという、ナイフを突き立てられたかのような不安感だった。
「っ、『籠繭』!」
「!?」
嫌な予感と脳内に走った危険信号。それをそのままに私は籠繭を発動した。対象はくーちゃんと鉄から馬車の後ろ側まで。いつもとは違い、地面すらも糸で覆う。そうしなければいけないと思った。そうしなければ「攫われる」と、そう思った。誰かがそう教えてくれた気がしたのだ。その誰かなんて影も形も見えないのに。
当然、私が突然法術を発動したことに目の前のシロ様は驚いたように目を見開いて。しかし私の顔色に、何やら尋常でないことが起きているとは察したのだろう。おとがいに掛けていた手を私の右腕へ。ぎゅっと手の甲を握られる感触がしたと思えば、白銀の方の瞳が閉じられる。風で何かを探っているのだ。そうして一拍の後、その瞳は黒い方も合わせて大きく見開かれた。
「……時空断裂」
ぽつり、静かな声が繭の中の世界に落ちる。じくうだんれつ。なんとなくその言葉こそが、私が悟っていた嫌な予感を言葉にしたようなものな気がした。ぎゅっと、再びヒナちゃんの体を抱え込むように強く抱きしめる。今度は怪訝な声は上がらなかった。きっとこの子も、何かこの繭の外でよくないことが起きていることを察しているのだ。それほどまでに、シロ様の声音は聞いたことがないほどの警戒心に満ちていたから。
「シロ様、これ……」
「わかっている。だが、説明してる時間はない。ヒナ、くーちゃんを仕舞え」
「う、うん……」
やっぱりおかしいのは私じゃなくて、世界だった。すとんと落ちていった確信を胸にシロ様の方を見れば、彼は苦々しい顔のまま頷いた。だがその言葉の通り、今起こっている事象を説明する余裕はないのだろう。
シロ様の手の甲が光ると同時、鉄の姿が消える。それを真似するかのようにヒナちゃんの手の甲が輝いたと思えば、今度はくーちゃんが姿を消して。そうして残ったのは馬車と私達。誰もが表情を強張らせる中、シロ様の膝の上のフルフだけが呑気に眠っている。けれど今はその姿に癒やされることも出来なくて。
「ミコ、繭の中に我らを囲う繭をもう一つ作れるか? 法力に余裕がないなら無理しなくていいが」
「……ううん、出来る。御者台にぴったりくっつく感じで作ればいい?」
「ああ、頼む」
外から、嫌な音がしている。形容するのであれば、突如として台風の中に叩き込まれたかのような音とでもいうのだろうか。風が荒れ狂うような、全てを壊そうと叩きつけるような、そんな音に背筋に冷たいものが落ちていった。
じくうだんれつ、時空断裂。それが何なのかはわからなくても、とんでもなくよろしくない事象だということはわかる。シロ様の言葉に若干無茶をしながらも、籠繭の中にもう一つ籠繭を。しゅるしゅると今度は私達三人と一匹を包むように生まれた糸。ぴったりと御者台に張り付いて離れないように、そうやってその籠繭を作り上げた瞬間。
「っ、……!?」
世界は、ひっくり返った。
「っ、くそ、始まったか……!」
「……お姉ちゃん、シロお兄ちゃん、フルフちゃん……!」
「ピュイーー!?」
まるで虫籠の中に入れられてがしゃがしゃと乱暴に振り回されるように。動いている時の馬車の揺れも、いっそ地震すらも目じゃないくらいの揺れが私達を襲う。幸いなことに狭い籠繭の中だったから良かったものの、シロ様に言われてもう一つ籠繭を作らなかったら馬車のどこかに頭をぶつけていたかもしれない。それほどの揺れだった。中にいる私達を一切省みないような、暴虐を形にしたかのような、そんな。
世界がひっくり返って、ひっくり返った矢先からまたひっくり返って。そんな時間が無限に続く。全身をぐちゃぐちゃにされるような揺れに、苦しげな声と悲鳴が一つずつ。ついでに流石にここまでされては眠っていられなかったのか、小動物の悲鳴だって聞こえてきて。でもそれをどうすることも出来なくて。
そうしてそんな揺れが続き続けたどこかで、私は意識を失った。
城崎尊、元女子高生。ウィラの街で新たに旅の仲間になった少女の成長を大きな祭りの前座と共に見届けた私達は、その後謎の惨劇に見舞われることに。結果として失ったものはあれど、大切なものだけは手のひらから零さずに済んだ私達はブローサの街から地続きに続いていた縁にさようならを告げた。
しかしそうして新たな仲間を足に目的地へと向かい始めたものの、何故かそこでまたしても謎の現象に襲われることとなり? 果たして私達の明日はどっちにあるのか。けれど抱きしめた柔らかな感触と、繋いだ右手の先が繋がっている限り、何が起きても大丈夫だと思わなくもないわけで。つまるところ、これから先も私達の旅は続いていくというわけである。
これにて第四章は終幕となります。この後一週間ほどのお休みを頂き、次回更新は5/22の月曜日です。
相変わらず物語の進行が鈍足で、まだメインキャラも出揃っていない状態ではありますが少しずつ改善していけたらなと考えております。読者の皆様、評価やブックマーク、いいねなどいつも応援して頂きありがとうございます。これからも「四幻獣の巫女様」をどうぞよろしくお願いします。