百四十九話「海嘯亭との別れ」
それからのお風呂タイムに関しては黙秘させていただく。言えることと言えば、眼帯だけは死守したということくらいだろうか。つまりそれ以外の部分は守れなかったということだ。ご察しください。
ミーアさんとレーネさんとおまけにヒナちゃんに散々と世話を焼かれ、疲労困憊の身で部屋へと戻ってきた私。その時の私を見るシロ様の目が同情に満ち溢れていたと言えば、私の疲れっぷりは伝わるだろうか。またしても丁寧にレーネさんに横抱きにされ、ベッドへと降ろされ。そうして寝っ転がった私が誓ったのは、次のお風呂までには動けるようになるということ。そのためならばお腹が破裂しようが構わない。命よりも尊厳を守りたいのだ。
「……あ、シロ様……話の、続き……」
とはいえ今日はもう休みたい。散々寝ていた身でどうかと思うが、色々な話を叩き込まれた挙げ句にお風呂に入れられるという精神的苦痛を受けたせいか、私の体はもう限界だった。法力がごっそりと持っていかれたせいか、活動限界の上限が著しく下がっている気がする。
それでも話だけは聞いておかねばと、最後の理性が糸を張った。よろよろと仰向けの状態からシロ様の方へと寝返って、閉じそうになる瞼をこじ開けながら少年を見上げる。やばい、本当に眠い。しかし自分から質問した以上、話は最後まで聞かなければ。責任感にも似た感情。けれどそんな意地は、そっと瞼に蓋をされた瞬間に溶けていって。
「機会はいつでもある。今は寝ろ」
眠りに誘うような低い声。儚げな見た目にそぐわず、シロ様の声には少年らしい高さが残らない。つまりそれは、入眠に最適なボイスというわけで。囁くようなその声に、私の意識には一気に帳が掛けられていった。自分よりも年下に寝かしつけられるなんて、あまりにも情けなくないだろうか。そんなことすらも考えられないほどの強い眠気が私を襲う。そうして今度意識が落ちる前に聞こえてきたのは。
「おやすみ、ミコ」
「おやすみなさい、お姉ちゃん」
「ピュピュイ」
焦ったような声ではなく、温かさと穏やかさに満ちた優しい声たちだった。
翌日、深夜。昨夜の後悔を胸に朝食、昼食と胃袋の限界量を有に超えまくった食事を取った私。その他の時間は睡眠に当て、ひたすら法力の回復のために一日を費やした。食べて寝るを繰り返すと牛になるなんて迷信があるが、それを気にするだけの余裕は私にはない。何故ならば、とにかく夜にやってくるイベントを回避したかったのだ。
そうしてその甲斐があってか、私の体は夕食の時間になる頃には普通に動けるようになっていた。とはいっても走ったりや咄嗟に避けたりなどそういった素早い行動は出来ないし、法力を使うこともなるべく避けたほうがいい状況なのに変わりはなかったが。
「もう行くの?」
「はい! 歩けるようにはなったので!」
しかしそれでも「これならば十分だろう」とシロ様ドクターのOKが出たということは、つまりそういうことで。あまり長く海嘯亭に居すぎては、宿の人達やこの街でお世話になった人に迷惑がかかるかもしれない。そんなわけで、私達は早速ウィラの街を出ようとしていた。つまるところ、お風呂再来の悪夢からも逃げられたということである。本当に良かった。
現在、海嘯亭の前。そこには宿の主人であるガッドさんを始めとして、彼の娘であるミーアさんとレーネさん、そうして現在海嘯亭で匿われているユーリさんが居る。心配そうに私を見つめて尋ねるミーアさんに、笑顔を一つ。実際普通に動く分にはもう問題ないのだ。お昼にガッドさんが追加で焼いてくれたクッキーもあることだし、あとはそれをおやつとして馬車の中で食べていけば回復するだろう。シロ様の見立てに外れはない。
「あ、これ……お世話になったお礼です」
「……? これ、何?」
「シュシュって言って……ほら、こうやって髪に付ける髪飾りなんです」
シロ様とヒナちゃんが集めてくれた食材を殆ど食べ尽くした、自分の体重が若干不安なところはあるが。しっかり運動しなければな、などと考えながらも私はリュックからそっとシュシュを取り出した。青いチェック柄の隅を白地で上品に纏めた小さいものを二つと、同じデザインで緑の大きめのサイズのものを一つ。青い方をきょとんと目を開いたミーアさんの三編みに付けていく。二つの栗色の三編みの先端を、鮮やかな青が飾った。
「……え!? 可愛いわね!?」
「えへへ、それなら良かったです! こっちはレーネさんに」
「わぁ……! 使わせていただきますね」
別れの餞別といえば聞こえはいいが、実はたまたま二人に似合いそうなのが残っていただけだったりする。とはいえ喜んでくれたことが嬉しいことに代わりはない。ぱぁっと輝くような笑顔を浮かべるミーアさんと、ふわりと花開くような微笑みを湛えるレーネさん。対象的な笑顔ではあったが、二人の喜びは十分に伝わってきた。何故ならばシュシュをレーネさんに渡すと同時、まるで挟むかのように二人に両側から抱きつかれたから。
「……ずっとここに居てもいいのよ?」
「……ミーアさん」
左側から、どこか泣きそうな声が聞こえた。右側からは何も聞こえないけれど、それでもぎゅうっと強く抱き込む力からは痛いほどに声が伝わってくる。抱きしめる力の優しさに、私はふと「恵まれているな」とそんなことを思った。偶然出会った人たちと仲良くなって、こうして仲良くなって、そうして別れを惜しまれる。
この世界に私の家族は居ないけれど、何なら元の世界に帰れたところで両親は居ないけれど。それでも家族かのように自分の身を心配してくれる友人がいる。仲間も居る。これはこれで結構悪くない人生なんじゃないだろうか。あの日マンホールを落ちた時の自分に言ったら正気を疑われるであろうことを、今心から思える。今が幸せならいいという言葉に、あながち間違いはないかもしれない。
「……せめてフルフちゃんだけでも」
「……ミーアさん?」
「ミーア……」
「じょ、冗談よ!」
……やっぱり、撤回してもいいだろうか。先程とは真逆の感情で名前を呼びつつ離れれば、お調子者の彼女はけらけらと笑った。その顔を見れば、自然と力は抜けていって。きっとそれは、レーネさんもそうだったのだろう。きっとお姉さんである彼女は、妹の笑顔に僅かに涙が残っていたことを見抜いた。だから仕方なさそうに妹を見て笑いながらも、叱ることはしない。そんな彼女を真似するように、私も一瞬だけ見えたミーアさんの涙には触れないようにした。そうした方がレーネさんのような「理想的なお姉ちゃん」に近づけるような気がして。
「ほら、弁当だ。持っていくといい」
「感謝する」
「うちの娘たちを助けて貰った礼だ。宿代はしっかり受け取っちまったしな」
そうこうしている間にまさかのお弁当アゲインである。シロ様はなんだろうか。壮年の男性にモテるのだろうか。気持ちはちょっとわかる気もする。
いつか見たような重箱をガッドさんに渡され、小さく頭を下げるシロ様。そんな彼の深夜でも輝いて見える銀髪を撫でながらも、ガッドさんは困ったように微笑んだ。私が眠っている間、レーネさんを助けたことによって再び起こったらしい宿代無料論争は、しかしシロ様の勝利で終わったらしい。夕食の時間に「あのガキの頑固さはどうにかならねぇのか」と愚痴られたことは記憶に新しかった。そんな彼に「そこがシロ様の魅力ですよ」と言ったところ、呆れたように笑われてしまったことも含めてである。
「……本当に助けてくれてありがとうね、ヒナちゃん」
「……はい」
「良かったら今度は家に遊びに来て。ミコさんとシロ君と一緒に、ね」
「……はい!」
まぁなんだかんだとガッドさんもシロ様を気に入っているのだろう。彼のおかげで生魚を普通に食せるようになったシロ様だって、ガッドさんを嫌いではないはず。若干父と息子にも見えるようなやり取りを横目に、私は今度はヒナちゃんの方へと目をやった。屈んで視線を合わせるユーリさんの言葉にどこか困ったような返事を返しながらも、最後には笑顔で返事をしたヒナちゃん。夜でもその可愛さが褪せることはない。その可愛さに絆されたのか、ユーリさんも柔らかな笑みを返す。大変微笑ましい光景であった。
「行くぞ、二人共」
「あ、うん……えっと、お世話になりました!」
「なりました……!」
そんなほのぼのとした光景をいつまでも見ている時間の余裕があればよかったのだが、残念なことにタイムリミットは訪れてしまったらしい。これでも私達はこっそり街を出ようとしているので、あまり悠長にしている場合ではないのである。重箱を片手に食材が詰まったエコバッグを腕に掛けたシロ様に先導され、いよいよ別れの時間は来た。
深夜ということで寝てしまったフルフを両手で抱えたヒナちゃんの肩を抱き寄せつつも、私は最後に皆に頭を下げる。すると方々から気をつけてね、やらまた来てくださいね、と声が掛けられて。次の宿代はタダにするからな、と脅しのような言葉には少し戸惑ってしまったけれど、それでも嬉しいことに変わりはない。ユーリさんの深々としたお辞儀に同じような礼を返しつつ、私は四人に笑って手を振った。お別れと、次の約束を告げるために。
「また会いに来ます! 皆で、必ず!」
その言葉にヘーゼルの瞳が涙を流したのには、やっぱり見なかったことにして。だってきっと触れられたくないであろうことを、同じお姉ちゃん枠としてはなんとなくわかってしまうのだ。妹の前でだけは泣きたくないという、そんな彼女の意地めいた気持ちだって。