百四十六話「新たな目的地」
「とはいえ、気球でまた……ってわけにはいかない」
「えっ?」
色々と厄介な人達に目を付けられている中、どうやって外に出るのか。その話がレゴさんに振られた以上、答えは気球だとばかり思っていた私。しかしその予想は即座に裏切られた。思わず間抜けた声を上げた私を見てか、レゴさんは困ったように笑う。
「気球を使って逃げるのが一番早いとは思うんだが、ここ最近のごたごたでフェンの整備が終わってないんだよ。物資とかも供給が終わってないし」
「ああ……」
「あいつの事情も考慮して一応その辺は祭りが終わった後ってことになってたんだが……まぁ、あの事件が起きちまったしな」
だが理由は思ったよりも切実なものだった。気球の整備やフライトのために必要な物資の蓄えが十分ではない。それは確かにそうだろう。奥さんとお子さんが攫われた時のフェンさんがその作業に着手できるわけもないし、その後二人が帰ってきた後だって被害者とその家族として彼らは色々忙しかったと聞く。ヒナちゃんの歓迎会にあの家族を呼んだのだって、彼らの忙しい日々の癒やしを作ってやりたいというレゴさんからの頼みがあってのことだったし。
しかもようやっと忙しい日々が終わっていざお祭りだ、というところでまたしても不幸に呪われる結果となってしまったのである。瓦礫の上に倒れていたユーリさん。その血の気の失った姿を思い出す度、心臓は鈍く痛んだ。私ですらこんな有様なのだ。あれから五日が経ったとは言え、母親のあんな姿を見てしまったダン君の傷は深いはず。息子から、そんな話を聞いたフェンさんだって。……と、そこまで考えたところで私は目を見開いた。もしかして今、ユーリさんが家族と離れて海嘯亭に居るのは。
「……もしかして、ユーリさんも巻き込んでしまってるんですか?」
「……まぁな。でもその辺は嬢ちゃんたちが気にすることじゃねぇよ。俺もあいつも……ダンだって、ユーリを助けてくれた嬢ちゃんたちにはすっげぇ感謝してる」
悪い予想はここで的中である。そうか、ヒナちゃんがユーリさんを治すのを見られていたということは、当然ユーリさんにだって被害がいくことになるのだ。例えば術者の少女の居場所を知ってるだろう、と詰められたり。だからユーリさんはまだ不安であろう家族と共に居られず、ここ海嘯亭で匿われるように暮らしている。仕方ないこととは言え、少し心が痛んだ。レゴさんの言う通り、私が気にすることではないとわかってはいるけれど。
「……話を戻すぞ。気球が無理とのことで、それならば他に方法はないかと我はこいつと話し合った」
「……こいつって、お前な」
「その結果、こいつの相棒の伝で馬車をもらうことになった。ついでに兵団側の協力も取り付けておいた。深夜、誰の目も気にしなくてよくなった頃合いで街を出る」
……よし、気にしない。少なくとも今考えることではない。だって考えたところでどうにかなることではないのだから。シロ様の声に思考を切り替えつつも、私はつらつらと並べ立てられていく言葉を脳に叩き込んだ。成程、フェンさんの伝で貰った馬車で街を出る。その上、脱出の際には兵団の人達も協力してくれるらしい。その辺にはレゴさんが言っていた、ディーデさんと喧嘩したという話も関わってくるのだろうか。「誰の目も気にしなくて良くなった頃合い」というのがいまいちわからないが。……ん? いや、待てよ?
「もら、った?」
「ああ」
「な、何を?」
「馬車を」
今スルーしてはいけない言葉が含まれていた気がする。恐る恐るとシロ様の方に視線を向けて聞き返せば、何一つと後ろめたさのない二色の瞳は真っ直ぐにこちらを見返した。逆にこちらの息が詰まりそうである。
いやいや、いやいやいや! 馬車ってそんな「伝でもらえました~」ってするものだろうか? この世界の馬車なんて、現代日本で言う車レベルのものなはずだ。そんなさらっと貰ったよ、ってするものではない。何より馬車って言うくらいだ。捕まっていた時に私達が乗らされた馬車もどきとは違い、馬だって必要になるはず。馬の世話は一体どうするというのか。
「……なんで?」
「移動手段が合ったほうがいいと思った。馬も捕らえておいたぞ」
「捕らえた???」
しかしどうやらここでも私の常識は通じないらしい。どこか自慢気に馬を捕らえたというシロ様。馬って捕らえるものだっただろうか。いいやそんな馬鹿な話はないはず。だって私が呆然とオウム返しをするのを、レゴさんはどこか同情の籠もった目で見ているのだ。私にはわかる。あの目に「わかるわかる。びびるよな」みたいな色が含まれているのが。そういう視線を向けるくらいなら一から百まで説明してほしい。
「わたしも、がんばったの……」
「えっ」
「シロお兄ちゃんと一緒に、馬さんつかまえたよ?」
ところがどっこい爆弾はまだあった。後ろから聞こえてきた、小さくもどこか期待の籠もった声。それにぎぎぎ、と振り返ればそこにはこちらを見てそわそわとしているヒナちゃんの姿がある。明らかに褒めてほしそうな顔だ。
まさかヒナちゃんまで馬を捕まえるという縄文時代の人々のようなことをしていたとは。私が寝ていた間、二人は市場とかを回って食材集めをしていたのではなかったのか。いや、よく考えたら街を歩き回るのは今のヒナちゃんにとって危険な行為のはず。いくら私のためとは言え、シロ様がそんなリスクを冒すはずがない。ならば二人は私が寝ていた五日間、一体どこでどうやって何をしていたのか。また聞くべきことが増えてしまった。
「……ふ、二人共、頑張ったんだね」
「うん!」
「まぁ、そこまで重労働ではなかったが」
けれど今はとりあえず、二人を褒めておくべきだろう。シロ様はともかくヒナちゃんにこんな目をされては、何してたの!? と突っ込む気にはなれない。だって瞳が褒めて褒めてと輝いているのだ。私はヒナちゃんのこういう顔にとても弱い。
ぎこちなく褒めれば、正面からは満面の笑顔での肯定が。背後からは、どこか満更でもなさそうな言葉が。そうしてそんな私を見ていたレゴさんからは、同情の視線が。同情するくらいなら何が起きたのか、知ってることを洗いざらい話してほしい。間違いなく先程の事情説明では諸々の説明が省かれていたはずだ。多分話すのが面倒だから、という理由で。
「あいつらは後でお前に紹介するとして……次の目的地についてだが」
「……!」
ずるい大人に内心で憤りつつ、しかしそんな怒りは再び背後から聞こえてきた声で溶けていった。次の、目的地。ああそういえば赤い羽根の手がかりを探すために私達はここに来て、さりとて結局手がかりは何一つとして得ることが出来ないままこの街を去らなくてはいけなくて。そう、何一つの手がかりを得ることも出来ないまま……。
『貴方は巫女』
「っ、……!」
「……ミコ?」
そこまで考えたところで、ずきりと頭が鈍く痛んだ。脳内を支配するかのような、誰かの声。湖に投げられた一石が水面に無限の波紋を描くように、声は徐々に頭の中に広がっていく。その波紋に、先程までの思考は掻き消えた。頭に浮かぶのは一つの疑問。
これは、誰の声だ。この、誰でもあって誰でもないこの女性の声は、誰だった?
『かつて、世界は亡びました。八つの時は五つに。二つだった針は一つに。そうしてやがて私を残して一つに』
『四つと一つだったものが今、全てを統べて一つになろうとしている。一欠片と掬いあげても、まだ一は止まりません』
『世界の巫女、貴方が拾い上げるのです』
他の音が聞こえない。脳に広がっていく音が全てを掻き消していく。そうして掻き消していくのに、何一つとて記憶に留めておけない。溢れかえった記憶が手を伸ばす余裕もなく、再び手のひらから溢れていくさま。忘れてはいけないはずなのに、思い出した矢先から言葉はどんどんと滑り落ちていって。
駄目だ。何か一つは、何か一つくらいは、この手の中に留めておかなくては。無意識の私がそう叫ぶ。そうして滑り落ちていった記憶の中から、私はこれだけは失ってはいけないと思った記憶の端を掴んだ。自分が何者かなんてどうでもいい。この世界の過去なんてなんでもいい。今私に必要なのは、私達に必要なのは。
『ええ。巫女、北に行きなさい』
先へ行くための、指針だ。
「っ、ミコ!」
「お姉ちゃん!」
ふっと、音が巻き戻っていく感覚。真っ暗だった世界は、色彩という名の筆で描かれていって。そうして意識を、平常を取り戻せば、目の前には二つの顔が。こちらを必死な顔で見つめる、私にとって大切な子が二人。ああそうだ、ここが私の世界だ。そう思えば、尾を引くような頭痛は綺麗さっぱり消えていった。
「……ごめん、ちょっと頭が痛くなって」
「……今は?」
「もう大丈夫。ヒナちゃんも、心配掛けてごめんね」
「……ううん」
へらりと、強張った表情と泣きそうな表情に呑気な笑顔を。そうすれば肩を掴んでいた手は離れていって、私よりも少しだけ背丈が低い少年はそのまま私の左隣に座った。眉間に皺が寄っているところを見るに、相当心配してくれたのだろう。
若干申し訳なくなりつつも、私は今度は赤い瞳を見つめた。泣きそうに膜を張った、大きな赤い瞳。そこに映り込んだ私は、自分で言うのもなんだが頼りない表情をしている。こんなんだから不安そうな声を返されるのだろうな。緩く首を振った少女は、私の手を握ると同時に私の右隣に座った。ぴったりと体をくっつけるのは、不安の現れだろうか。
「ええと、それで……ああ、目的地の話だったよね」
「……ああ」
意図せずしてまた犯罪臭のする光景に戻ってしまったと思いつつも、私は話を戻した。ちらりと視線を向けたところ、レゴさんが二人と同じように心配そうにこちらを見ているのが見えてしまったから。ついでにシロ様によって毛布に沈められたフルフが、心細そうな声を零すのだって。
なんでもない風を装った方が皆も少し安心できるだろう。そう思ってシロ様に問いかければ、まだ若干納得が行ってなさそうな表情ながらもシロ様は頷いた。そんな顔をしなくても後で全部話すし、全部話してもらうというのに。自然に顔に浮かんだ苦笑。そのままに、私は言葉を続けた。忘却の中で確かに掴んだ一欠片を、決して離さないために。
「……それって、北の方でもいい?」
「……!」
奇しくもその言葉がシロ様の意見と一致していたのは、なんの偶然だったのだろう。或いは女神様の悪戯であったのかもしれない。こうして私達は北……つまりはレイブ族のお膝元である北の領域に行くことになったのだった。