十五話「後始末と隠れた優しさ」
勢い良く降り注ぐ水に合わせるように、自分の髪をかき混ぜる。それと同時に頬に付着していると思われる血を拭えば、下へと伝っていく水は赤色を帯びて地へと零れ落ちていった。さて服はと着慣れたセーラー服を見やれば、肩の辺りが少し赤く染まってしまっていて。しかしそれもまた、察したシャワー係さんの手によって落とされた水で流されていった。
「……やっぱ、あっさり流れ過ぎじゃない?」
「体に害はない。気にするな」
「うーん、まぁそうだけどさ」
洗剤を使ったわけでもないのに、真っ白な布地に付着した血は落とされた水だけであっさりと消えていく。流石に不自然に感じて顔を引き攣らせても、シャワー係に甘んじているシロ様からはそんな返事が返ってきて。まぁ確かに体に害はないのだが、それでもやはり不思議なものは不思議なのだ。どうせ深く考えたところで、その原理がわからないと知っていても尚。
内心疑問を抱えながらも、私は手を休めないままに髪や頬を手探りに擦っていく。正直に言ってしまえば、少し温かいくらいの気温の中水浴びをするのは少し寒い。ただお風呂なんて、こんな森の中でそんな贅沢は言ってられないだろう。シャンプーやリンスなんて以ての外である。手を伸ばして駄々をこねても、無いものに手は届かないのだ。
熊もどきとの戦闘の後、私達はその後処理をしていた。とは言っても、主には思い切り血を被ってしまった私の後始末というのが大きいが。今私は、座り込んだ状態で上からシロ様に水を流してもらっている。シロ様曰く、血の匂いに魔物とやらは引き寄せられてしまうようで。道具があるのならさっさと身を清めたほうが良いという彼の意見に、私は迷うことなく頷いた。これ以上の危険はお腹いっぱいである。後単純に血塗れで歩くのは、年頃の女の子としても嫌だった。
「……よし、良いかな?」
「ああ、こちらから見ても落ちたように感じる」
シロ様に水筒を任せ、数分程。降り掛かった血液をあらかた流し終えたように感じた私は、そっと上を見上げた。確認するかのように問いかければ、水筒の傾きを元に戻しながらシロ様は頷いて。それならばと、私は立ち上がった。ぐっしょりと水を吸った服は張り付く上に少し重いが、血塗れの不快感よりは余程マシである。少しでも軽くなるようにと服の裾を絞れば、水滴は小さな流れとなって零れ落ちていった。体感、少しだけマシになったような気もする。
「うーん、流石に寒いね。そういえば、シロ様は大丈夫?」
「……寒い?」
「えっ」
水を絞りながらも、私は小さく吹き抜ける風に見を震わせた。立ち上がったことで強く感じるようになった風。それに僅かに身震いをしつつも同じ立場の彼を見やれば、しかし何のことかと言わんばかりに首を傾げられて。この森の気温は恐らく二十度前後。そんな中でびしょ濡れのまま風を受けたのなら、少しは寒いと思うはずなのだが。思わず困惑の声を零し首を傾げ返した私を、シロ様は不思議そうに見つめる。
「……寒く、ないの?」
「ああ、特には」
首を傾げあった状態で見つめあう。困惑を隠せないまま問いかければ、その疑問にはあっさりと首を振られてしまって。もしかしてシロ様は私よりも寒さに強いのだろうか。いやしかし体に動物的な特徴があったとしても、特に毛皮などに覆われているわけでもないのに。
というかここまで深く考えていなかったが、シロ様ってそもそもどういう生き物なのだろう。人間に近いと思っていたけど、先程のありえないパワーや今も不思議そうに揺れる猫耳を見るに、どちらかと言えば動物寄りの生態なんだろうか。寒さにも耐性があるわけだし、少なくとも私と同じ構造ではないような。けれど知能レベルや精神力は確かに私よりも上のようだし。……自分よりも小柄な彼を前に、それを認めるのは情けない話ではあるけれど。
「……お前が、寒いと言うのなら」
そうして突如として降って湧いた疑問にうんうん唸っていた私を、しかしシロ様は寒さに唸っていると勘違いしたのだろう。不思議な物を見るかのような瞳で私を見ていた少年は、未だに首を傾げながらも指を鳴らした。瞬間吹き出した温かい風に、私は考えていたことも忘れて目を見開く。
「っ、……!?」
それは、例えるならばドライヤーに近い温かな風であった。つまりはこんな森の中では、自然的には絶対に発生しない風で。それは吹きすさんでは私の髪や服の裾を悪戯に攫っていく。けれどその風は、私を傷つけることはしなかった。ふわりと触れては寒さに震えていた私の体を、まるで包み込むように温めていく。
半ば呆然としながらシロ様を見つめる私の髪が、またその風で揺れる。風の発生源は、彼の指先のように思えた。指先を辿って何故と問いかけるようにシロ様の瞳を見ても、その瞳は透明な色を宿したまま驚く私をただ真っ直ぐに見つめていて。そうして呆然とする私を置いて、突如として発生した風はまた突然に止む。残されたのは、もう濡れていない私とシロ様だけだった。
「そういえば、お前は寒さに弱かったな」
「……え?」
「朝も、寒いと言っていた」
何が起こったのか、あの風はどういうことなのか。未だ現実に付いていけず間抜けに口を開く私を他所に、シロ様は一人どこか納得したように頷いていた。人間は寒さに弱いのか、なんてどこか人外じみた台詞を呟きながらも。
「……もしかしてそれで、狩りに行ってたの?」
「? ああ」
正直、突っ込みたいことは多々あった。今の風は何なのかとか、そういえば戦闘中にいつの間にか握っていたあの刀はどこにいったのか、とか。現代日本で生きてきた身としては、この別世界で起こる数々の超常現象に疑問を浮かべるので精一杯で。けれどそれ以上に浮かんだ疑問を、私は口にする。
今日の朝、起きた時にはもうシロ様は小屋に居なかった。私は一瞬それを、私という厄介事を抱えたくなかったシロ様が去ってしまったものだと考えて。けれど彼は、小屋に帰ってきたのだ。血塗れの状態で、お肉と毛皮を抱えたまま。私はその時彼が食料を目的に狩りに行ったものだと考えたが、彼の発言を鑑みるにどうやらお肉はついでだったらしい。彼は頷く。何を今更と、そう言わんばかりの顔で。
「……ふふ」
「……何がおかしい」
「ううん、ただ」
その表情に、驚き戸惑っていた心は落ち着きを取り戻していく。気が抜けると同時に思わず笑みを零せば、不思議そうな顔は一瞬で不機嫌そうな表情に変わっていって。けれど私は今更それを、怖いだなんて思わなかった。口元に手を添えながらも、隠しきれなくなった笑みを零す。突如として笑いだした私をシロ様は不満そうに見つめたが、別におかしくて笑ってるわけではない。ただ、嬉しかったのだ。
「シロ様ってさ、優しいよね」
「……!」
浮かんだ笑みはそのまま、小さな言葉を零す。それに瞳を見開いた少年を、穏やかな気持ちで見下ろしながら。超常的な力を使うし、熊よりも凶暴そうな生物を圧倒するし、到底子供らしくもない。だがそれでも、彼は驚くほどに優しい。出会ったばかりの私を気遣い、無知な私への説明を厭うこともなく、弱い私を責めることもしない。私は助けられっぱなしなのに、それでも彼は私を対等と扱ってくれる。
シロ様は優しい。すごく、とても、なんてそんな小さな冠では足りないほどに。今だって自分は別に寒くないのに、寒いと言う私の言葉一つで何かの力を使ってくれた。ぶっきらぼうに見えるが、酷く優しい人。別世界に落ちたとは言え、そこで彼に出会えたのは幸運だった。そう考え微笑んだ私に、何を思ったのかシロ様は居心地悪そうに眉を寄せて。
「……初対面の相手に瞳を譲るお人好しには負けると思うがな」
「ふふ、そうかなぁ」
ふいと視線を逸らす少年。どうやら正面から優しいと褒められるのは少しバツが悪いらしい。そういうところは年相応だななんて考えながらも、私は白銀になった彼の後頭部をぼんやりと眺めていた。先程まであちこちへと揺れていた猫耳は、横へと寝ている。
猫が自然に耳を横に寝かすのは、リラックスしている証拠。小学生の頃に読んだ本の内容が頭に思い浮かぶ。視線を逸らしてはいるが、恐らく褒められたことに悪い気はしていないのだろう。そんなことを考えて、また一つ小さな笑みを浮かべながらも。