百四十一話「暗闇の中で」
沈んでいく感覚がある。揺蕩い、惑い、揺らめいて。深い深い海の底に沈んでいくかのような、そんな閉塞感と孤独の自由。放り出された体が命綱無しに沈んでいく。どこまでも深く、際限なく。
藻掻かなきゃ。頭の中ではそれがわかっていて、けれど体が動かない。瞼が開かない。なのに焦りがない。これでいいのだと、どこかで誰かが告げた。ここがどこなのかもわからなくて、自分がどんな状態なのかもわからないのに。なのにこれでいいのだと、脳がそう判断する。
私は、誰だっけ。真っ暗で際限のない世界で一つ、一緒に沈んでいく疑問。自問自答。それに対する返答がないことに心が震えた。私は誰で、何をしていて、どうしてここに来たのだっけ。何も分からない。わからないのに、それすらもそれでいいのだと脳は処理していく。よくない、よくないよ。よくない、のに。
『貴方は巫女』
……そこで、声が聞こえた。ぶわりと一気に体の細胞が活性化していく感覚。重かった瞼が勝手に開いていく感覚。瞼を開いた先は相変わらず真っ暗な世界で、けれど遠くに光が見えた。声は、光のあるところから聞こえてくる。
『貴方は、城崎尊』
その言葉で、ばらばらになった記憶の欠片はまるでパズルが完成するかのようにかちりと嵌っていった。そうだ、私は城崎尊。ごく普通の両親から生まれて、そうして失って、それからあの人を後見人に祖父母に育てられることになって……それで?
変だ。まだ思い出せていないことがある。瞳を細めても、ぽっかりと抜けた記憶の穴は埋まらない。喪失の記憶、楽しいとは言えなかった小学校時代と、漸く普通らしくなれた中学時代。それらを経て私は高校生になって……なってから、どうなったのか。わからない。どうなったの、だったっけ。
『今はわからなくていいの。私達の巫女』
─巫女?
『ええ、貴方は巫女。貴方は救世のために呼ばれた存在であり、貴方自身のためにも呼ばれた』
巫女、みこ、ミコ。どこか聞き覚えのある、二つの音。揺れる声がゆっくりと脳に浸透していく。私の名前を呼んだその声は、形容するのが難しい声だった。透き通った少女のように無邪気であり、老成しきった賢女のような聡明さを湛えながら、けれど私とそう変わらない歳頃の女性かのように振る舞う。ただ一つわかることは、その声が女の人のものだと言うことくらいで。
『巫女、聞いて』
声が脳に直接刷り込まれるが如く、音の一つ一つが響き合って全身に染み込んでいく。巫女……ミコ。その音を、どこで聞いたのだっけ。薄らとした明かりを前に目を細めても、大切な事のように感じたその二音の根源は辿れないまま。相変わらずどこかがぽっかりと、抜け落ちたまま。だから私はとりあえず、女性のその声に耳をすませることとした。瞼を伏せて、聞こえてくる音だけに意識を委ねる。
『かつて、世界は亡びました。八つの時は五つに。二つだった針は一つに。そうしてやがて私を残して一つに』
けれど、そこから始まったのは気配の欠片すらも覚えがない昔話で。一つ一つの言葉の、その意味が分からなかった。わかったのは世界が滅びたという、その事実だけ。時とはなんなのか、針とはなんなのか。ぼやけた頭ではそれすらも考えられなかった。情報がぽろぽろと心に空いた空洞から零れていく。
それでも、彼女の声音がとても悲しそうなことはわかった。オレンジの片割れを失ったかのように、ぽつぽつと落ちていく言葉は雫の形をしている。抑揚の無いその声は、それでも慟哭のようだった。それが見ていられなくて、私はそっと手を伸ばす。悲しそうなその人の、人かどうかも分からない誰かの、その涙を拭いたくて。
『……優しい子。とても、よく似ています』
─似てる?
『ええ、とても』
さりとて結局手は届かずに、その代わり落ちてきたのは笑い声にも似た優しい声だった。誰に?なんて。どうしてその問いが口から出てこないのだろう。喉の奥に何かが詰まったかのように、まるでその言葉が聞いてはならない禁忌であるかのように。そうして言葉は結局掬いあげられないまま、話は続いていった。
『かつて八つと二つだったものが、五つと一つになった時。世界は緩やかな滅びへと向かいました。そうして今、同じ時が訪れる』
─同じ時?
『四つと一つだったものが今、全てを統べて一つになろうとしている。一欠片と掬いあげても、まだ一は止まりません』
抽象的な言葉の、その全ての意味がわからない。もっと詳しく説明をして欲しいと思っても、その願いを口にすることすらできなくて。私の口は何かに操られたかのように、会話を滑らかにするための潤滑油となることしかできなかった。
『世界の巫女、貴方が拾い上げるのです』
言葉が、通り過ぎていく。
『ひとつ、ふたつ。そうしてあと……いいえ、ここから先は話してはいけませんね。ともかく、貴方は拾い上げるのです。その豊かで臆病な心で、ばらばらになってしまった彼らを繋げて』
理解できないまま、ただ怒涛のように積み重なっていく。
『貴方という糸で、二度目の滅びから世界を守って』
……なのに瞬間、糸と言う言葉が聞こえた瞬間、全ては繋がった。
巫女……いいや、ミコ。私の端名。あの子が、シロガネという名前の少年が、シロ様が付けてくれた、私のこの世界での名前。そうして糸は私の武器であり、もう一人の私のような存在。
そうだ。高校二年生、梅雨が過ぎて少し経った頃。私はマンホールからこの世界へと落ちてきた。落ちてきて、そうしてこの世界に出会ったのだ。あの白銀の少年に、片目を失っては腹から血を零し、死にかけているあの子に出会った。
過ごした日々が怒涛のように頭を巡っていく。聞いた過去、小動物との出会い、極悪蝉との戦い、桃色の花に愛された宿での出会いと一人の女性の折り合いの顛末。美しい桃色の花びらが散る瞬間と、少年の心が揺らいだきっかけとなる優しい人の笑顔。
そこから私達は、自由と愛の国へと旅立った。そこでもう一人、私の愛し子と出会ったのだ。私が名前を付けた、慈しみたい可愛い子。ヒナタ、ヒナちゃん。知り合った人を助けたくて傷ついたあの子と出会って、そうして一緒に居ることになって、紆余曲折を経てお祭りに参加することになって……そうして。そうして、どうなった? 私はどうして、ここに居る?
『……どうやら思い出したのね。それならば、一つだけ手がかりを』
─手がかり?
『ええ。巫女、北に行きなさい。夜しか訪れない虚偽の腕輪を見つけて、彼に出会うのです』
知りたいこと、聞きたいこと。それらはたくさんあった。だって瞼を開いた先の光で待っている彼女は、全てを知っているような素振りを見せるから。なのに相変わらず、私の口からは問いかけが零れてこない。ただ怒涛のように何のためかもわからないヒントを与えられるだけ。ただ優しい声に、行きなさいと背中を押されるだけ。
『……もう、時間切れのようですね』
結局何も聞けないまま、光はどんどん遠ざかっていった。その光に待って、だなんて叫ぶことも出来なくて。ただ遠ざかっていく光に、徐々に浮上していく意識に、私は為す術なく身を任せることしか出来ない。
聞きたいことがあった。貴方は誰なのか、ここはどこなのか。並べられた数字の意味はなんなのか、どうして世界は滅びたのか。そうして、私が拾い上げなければいけないものはなんなのか。
『……私と彼女たちと、そうして彼が守った世界を。今度は貴方達が守って』
私は、どうしてこの世界に居るのか。
けれどマンホールの謎も、私に託された力のことも、それにつけ加えた持ち物の説明も。それらなんて一切無しに世界は白へと近づいて、暗闇は解けていって、そうして混ざり合うように消えていった光は見えなくなる。声も、聞こえなくなる。
何も分からなかった。失意の溜息が、一欠片だけ零れていく。そうして次第に、わからなくなっていった。私は誰と会話をしていたのか、何を話していたのか、そもそも何をしていたのか。夢と現の境界を超えていく度、ただでさえ不明瞭だった記憶はますますと薄れていって。
そして、僅かな記憶だけを握りしめた夜明けが訪れる。