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四幻獣の巫女様  作者: 楪 逢月
第四章 飛べる小鳥は星火の夢を見る
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百三十八話「ただいまはまだ遠く」

「ミコ」


 端的に、ただ名前を呼ぶだけの単音。けれどその声には他の誰にだって込められないような色が秘められていた。慈しむかのように、縋るかのように。相反する二つを抱えながらも、確かな信頼を根ざした声。きっと同じ声を真似されたとしても、私はその違いがわかるだろう。だってこの音は、彼にしか紡げない。

 そっと指輪に願いを寄せて、籠繭を解く。しゅるりしゅるりと解けていく何本にも折り重なった糸たち。一瞬これでヒナちゃんたちの方の籠繭まで解けていないかと心配になって、しかしこの状況ならばもう気にしなくてもいいのかもしれない。彼が、シロ様がここに戻ってきたなら。それならばきっと、もうこの街に怪物は居ない。


「……おかえり、シロ様」

「ああ、ただいま」


 白い糸が解けると同時、疲れ果てて眠っていたダン君が目を覚ました。私の肩から身を起こして状況が理解できないと言わんばかりに大きな丸目をぱちぱちとさせる少年を横目に、すっと立ち上がる。一歩と踏み出せば、いつもの距離感に彼はもう居た。こちらを見上げる二色の瞳。傷一つ無く見える、儚げながらも強大な力を秘めた肢体。その頬に僅かに散っている赤に、私はそっと指を伸ばした。拭うかのように動かせば、その赤は消えるどころかますますと伸びていって。


「……付いてたか」

「怪我じゃない、よね?」

「ああ。返り血だな」


 即座に振られた首に、わかってはいたけれど安堵を重ねる。とはいえ私が目元を緩めるその前で、少年は失態だと言わんばかりに眉を顰めているのだけれど。確かクドラ族は、返り血すらも避けて戦うことを信念にしているのだったか。直接戦う姿を目にしてはいないが、かなりの混戦状況だったことは理解できる。それなのにそこを気にする当たり、今回はシロ様にとっては余程余裕の戦場だったらしい。

 ……いいや、というよりはその余裕を憂いているのか。余裕は慢心とも呼ぶし、油断とも呼ぶ。戦いの場でそれを抱き、僅かとは言えど血を浴びた自分を許せないのかもしれない。私としては、無事で帰ってきてくれただけでいいのに。いつか、まだ出会ったばかりの頃。真っ赤になって帰ってきたシロ様に大慌てで駆け寄った時のことを思い出す。お気に入りのハンカチが赤く汚れていくのが、一切気にならなかったあの時のことを。慌てないだけ、私も成長したと言うかシロ様のことを知ったと言うか。


「……おかえり、なさい」

「……ああ」


 そうしてこの人も、きっと今シロ様のことを知ったはず。どこか呆然と、勝手に溢れていってしまったかのような声音。けれどそれに小さな頷きが返っていったからか、一度見開かれたヘーゼルの瞳は安堵したように綻んで。良かった、その唇が音にならない言葉を紡いだのを見た。動揺をかき消すかのように一度のゆっくりとした瞬き。再び瞼を開いた時、そこにいるのはもういつものレーネさんだった。


「キメラは倒し終わった?」

「終わった。風で確認したから確かなはずだ。とはいえ、我が倒したのは半数くらいだが。兵団も兵団で仕事をしたようだな」

「十分すごいですよ……」


 聞くまでもないことだが、一応確認を。どこか呆れたようにも聞こえるレーネさんの声に、気持ちはわかると苦笑を浮かべつつ。でもそうか。今回は、シロ様が一人で戦ったわけではないのか。脳裏に過ぎったのは、ディーデさんとオレンさんの姿。彼らにとって仕事なのは重々承知の上で、それでもお礼を。シロ様が一人で戦うのを見送るのはなんだかんだといって、やっぱり心臓に悪いので。


「それより、行くぞ。ヒナたちが待ってる……お前は、抱えたほうが早いか」

「え? わ、わわっ……!? ち、力持ちすぎない……!?」

「うるさい。騒ぐな」


 やっぱり私も戦えるようになった方がという気持ちと、平和な日本育ちの元女子高生があんなにも躊躇なく生き物を切り裂けるようになるだろうかという気持ち。二律背反する情けない自分の内心に溜息を吐いている間に、話はトントン拍子に進んでいた。ひょいっと未だ寝ぼけてぼんやりとしていたダン君を俵担ぎにするシロ様。慌てたような声変わり前の高い少年の声とは相対的に、ふんと鼻を鳴らす少年の声は低い。多分年は五個くらいしか変わらないのに、大人と子供のようなやり取りである。

 この歳の少年はそれくらいで大きな差が付くものなのか、それともシロ様が規格外なのか。前者三割後者七割かなと当たりをつけつつ、私はレーネさんの手を引いて二人の後ろに続くように歩き出した。くいと手を引けば、一度驚いたように目を丸くしたその人はしかし次の瞬間には優しく微笑んでくれる。そっと握り返された手は、温かい。


「おかえりって、言えましたね」

「……ええ」


 瓦礫やら、赤やらが散った道はけっして平和なものとは言えなくて。けれどあの小さな背中を見ていれば安堵が込み上げるのだからなんとも不思議なものだ。導くかのように一歩と私が前を歩く距離感は、永遠に詰められることはない。大人しく手を引かれるレーネさんの姿に、頭を過ぎったのは彼女の妹の姿。もしかしてこんな風に、ミーアさんはレーネさんの手を引いて歩いたのだろうか。レーネさんは、前を歩く妹の姿をこんな風に優しく見つめていたのだろうか。

 同じ栗色の髪と、ヘーゼルの瞳。二人の幼い少女が手を取って歩いていく姿。そんな幻影を瞬きの中に閉じ込めつつ、私は静かに告げた。すると返ってきたのは、噛み締めるかのような二音。文字に起こしてしまえば二文字になってしまうだけの短いそれには、しかし言葉で語れないだけの思いが込められている。ヘーゼルが映すのは、二人の少年が前を歩く姿だ。


「……今度は、ただいま、を言いに行きましょう?」

「……ええ。一緒に、言いましょう」


 前方から僅かに聞こえてくる高揚を帯びた高温と、それに仕方なく返していると言わんばかりの低音。この状況に似つかわしくない平和なそれに笑みを湛えつつ言葉を重ねれば、レーネさんは今度は幸せそうに微笑んだ。同じ気持ちを、妹にも。その思いは、表情を見るだけで過不足なく伝わってくる。


「ミコ、遅い」

「……もー! はーい、今行きます!」

「ふふ」


 生憎とその表情に見惚れるだけの時間は、前を歩く少年の声によって取り上げられてしまったのだけれど。それでもまぁ、彼が言ってることはごもっともなわけで。私は足を止めてダン君を抱えたまま文句を告げるシロ様に唇を尖らせつつ、たんっと地面を蹴った。そのまま駆け出せば、同じく手を繋いでいたレーネさんも駆け出すことになる。まるではやく遊びに行こうと走り出した子供たちのように。

 その瞬間零れ落ちたかのような笑い声に、私は一瞬だけ背後を振り返った。すると淑女のごとく普段はお淑やかに微笑むレーネさんが、その時だけは無邪気に笑っていて。邪気のない表情に重なるは、ミーアさんの笑顔。どうやら、正反対に見えても似ているところはばっちりあるらしい。姉妹の神秘というやつだろうかと、一人っ子の私はその絆を羨ましく思いつつ。そうしてそれと同時に、なぜか嬉しく思ったのだ。


 姉妹二人が笑い合うハッピーエンドが、すぐそこにある気がして。


「ま、ま……?」


 なのに。


「……ママ? ダンだよ。ぼく、帰って、きたよ……?」


 なのに。


「ママ……? どうしてお返事、してくれないの?」


 中央に戻ってきた私達が見たのは、ハッピーエンドとは程遠い一つの姿。後少しでヒナちゃんたちの居る籠繭にたどり着くというところで、視界に入ったのは一人の女性が血を流して倒れ込んでいる姿だった。見覚えのある長い銀髪。それが、真っ赤に染まっている。

 瞬間、がつんと頭が殴られる気がした。ひゅっと一気に血の気が引いて、酸素がまともに吸えなくなって。だから、シロ様の腕から逃げるように降りて彼女に近づいていったダン君を止めることも出来ず。嫌に静まり返った空気の中で、子供の声だけが虚しく響く。懸命に母を呼ぶ、その声だけが。


「……ユーリ、さん?」


 そうして、止められなかったのはダン君だけではなく。呆然と立ち尽くす中、するりと繋いだ手から冷たくなった何かがすり抜けていく感覚。ゆらりと覚束ない足取りで近づいていったその背に、手を伸ばそうとするももう届かない。はらめいた栗色が、ゆっくりと崩れ落ちる。真っ赤になった、女性の前で。

 

 瞬間慟哭した二つの悲鳴は、絶望の色を湛えていた。

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