百三十六話「中央区の籠繭の中で」
「ミーア、深く息を吐け」
「っ、ふ、……はぁ、はぁ……!」
「落ち着けってミーアちゃん。大丈夫だ。レーネちゃんは大丈夫だから」
ミコが街の西地区でダンとレーネと共に籠繭の中に隠れ、シロがキメラを順になぎ倒す一方、街の広場にて。ミコが作り出した籠繭の中で、ヒナは眉を下げたまま冷たくなっていく手のひらを握っていた。二人の男の声が籠繭の中で響く中、しかし声を掛けられている女性の顔色は一向に良くならない。いや、良くならないどころか徐々にその顔色は青から白へと変わっていく。浅く荒い呼吸は、女性の苦しみの全てを語っていた。
一般的に過呼吸、と呼ばれるそれの名前をヒナは知らない。けれどその症状には覚えがあった。自分もあの地獄の日々で指の数では足りないほど、その状態を味わったことがあるからである。呪陣に法力を食われる時、黒髪の男に殴られた時、ヒナは決まってその症状に襲われた。上手く息が吸えなくて、吸った先からぼろぼろと空気が零れていって。ただ苦しい、が体を支配する。心を空にして全てを諦めた頃には、その症状が起きることもなくなっていたのだけれど。
「……ミーア、おねえさん」
「……っ、は、」
とはいえ、同じことをミーアにやらせるわけにはいかない。当時の自分は楽になったことから、それが正解なのだと思っていた。けれど今ならばわかる。心を空にして自分が傷ついてもなお全てを無視することは、成長ではなく悪化だったのだと。短く名前を呼ぶと同時、ヒナは虚ろをヘーゼルに映す女性を見上げる。息はこんなにも苦しそうなのに、表情は空っぽのまま。偶像の姉の姿をぼんやりと夢の中で追いかけ、現実で自分を苛む。
……駄目だ。ヒナは直感的にそう思った。「それはよくない」と、ただ。
「……ミーアおねえさん」
「はぁ……っ、はぁ……!」
「聞いて、ミーアおねえさん」
ごめんなさい、そう謝る。宛先は勿論、今この場に居ないミコとシロ宛。二人は決して言葉にすることはなかったが、ヒナがこの力を使うことを良くは思っていないようだった。より正確に言うのであれば人前でこの力を無防備に使うことを、ではあったが。どうしてか、なんてそんなのは二人の表情を見ていればわかる。ヒナが心配だからだ。どうして心配しているのかまではわからないけれど、その心配が自分のためのものであることは理解できて。
でも、ヒナはそれを裏切る。後から怒られてしまうかもしれない。もしかしたら、叩かれてしまうかもしれない。そう思えばつきりと刺すような痛みが胸を襲った。怖くて怖くて仕方ない。それでも二人がヒナを捨てることはないと、根拠のない信頼を根に。
「……わたしの手、見てて」
「……っ、?」
すっとガッドとレゴを見上げ、少しばかり離れてもらうように願って。すると困ったような顔をした大人たちは、しかしヒナの言葉に従ってくれた。それに小さく安堵しつつも、ヒナはそのまま握っていたミーアの手をそっと引く。するとぼやけていたヘーゼルが、一瞬だけ疑問の色を浮かべた。それをいいことに、ヒナはミーアの眼前まで自分の左手を持っていく。彼女の手を握った右手はそのままに、自分の中で眠っている誰かに願いをかける。
「……『お星さま、集まって』」
「……!?」
どうか、この人が落ち着きますように。どうか、この人が希望を抱けますように。どうかこの人が、ヒナと同じようにミコとシロを信じられますように。そんなことを願って生み出した星は、いつかミコたちに見せた星とは全く違う小さな星で。それでも確かに、星は星だった。小さな左手の中できゅっと空気を圧縮するかのように生まれた輝き。鮮烈に瞬く、小さくても確かな一等星。それは生まれた瞬間に、ミーアの傍へと飛んでいった。
荒かった呼吸が止まり、息を呑んだかのような気配。見開かれたヘーゼルの前で輝いた星は、ゆっくりと吸い込まれるかのようにミーアへと溶けていった。ヒナの視界の端では、ミーアと同じようにガッドとレゴも呆然とした表情を浮かべている。けれど今大事なのはたった一つ、ミーアの様子だ。温度を取り戻したその手を握り直しつつ、ヒナは呆然とこちらを見下ろす女性にふんわりと微笑みかけた。脳裏の奥でいつも自分に微笑みかける彼女を投影するかのように。
「大丈夫。ぜったい、大丈夫」
「ひな、ちゃん……」
「お姉ちゃんとシロお兄ちゃんなら、レーネおねえさんを見つけてくれる。だからレーネおねえさんも、ミーアおねえさんも、大丈夫」
拙い言葉。それは自覚している。でも慌てたような言葉でも、不器用な言葉でも、大丈夫だと。大切なのはそこに込められた心だと、日向へと歩み始めた少女は知っていたから。言葉を心へと降り積もらせるように、ゆったりと穏やかに。懸命とも呼べるヒナのそれに、呆然としていたミーアの瞳にはやがて光が宿っていった。くしゃりと泣きそうに微笑んだその人が、屈んでヒナを抱きしめる。
「わ、」
「……ごめんね。あの時私、ヒナちゃんの手を掴んでいられなかったのに。ミコちゃんが来る前までは、自分が殴られるのが怖くて見ないふりをしてたのに」
それなのに、とその声は次第に嗚咽へと変わっていく。声音を翳らせるは後悔。あの時、それがいつだったかなんてことは説明されずともわかった。間違いなく、ヒナたちがあの男たちに捕まっていた時の話だろう。もう一つは、ヒナが崖に落ちたときのことだろうか。
ただそれはそこまで後悔することなのだろうか、とヒナは思った。別にミーアは何も悪くないだろう。あの時ミーアたちを助けようと自ら乗り込んできたミコとは違い、ミーアは純然たる被害者であったのだ。覚悟を決めていたわけでも、殴られるのが日常な世界で生きてきたわけでもない。崖の件に関しては、ミーアは順番が来るまではずっとミコの代わりを努めようとヒナに話しかけてくれていた。手を先に離したのはヒナであり、その結果ヒナがどうなろうとミーアが責任を感じることはないのに。
「……でもミーアおねえさん、パンくれたよ?」
「……っ!」
「自分もお腹空いてたのに、くれたよ?」
それに、ミーアだってヒナに優しさをくれた。それはミコのような、ヒナの世界の全てを塗り替えるような深いものではなかったかもしれない。もしかしたら、殴られているヒナを見てみないふりをした贖罪だったのかもしれない。けれど理由がどこにあろうと、あのパンは本物だった。ヒナの命を繋いでくれた、確かなひとかけらだったのだ。
それに、その後もミーアはヒナに優しくしてくれた。海嘯亭で過ごす日々。買い出しの度に街のお菓子を買ってきては、ミコに渡すミーアの姿。ヒナちゃんと一緒に食べて、だなんて笑うその笑顔の優しさをヒナは知っている。また無駄遣いをして! なんてレーネに怒られても、ガッドに怒られても、ミーアはそれをやめることはなかった。それは確かにヒナへの優しさであったのだろう。お菓子の類をろくに知らないヒナへの。
「わたし、知ってる。ミーアおねえさんが優しいこと」
「……ヒナちゃん」
「だから、レーネおねえさんも大丈夫。優しい人にはいいことが起こるって、絵本にもかいてたよ」
「っ……! うう、ほんっともう……!」
「わっ、……!」
そのまま泣き出してしまったその人が、どうして泣いているかまではわからなかったけれど。でも困った表情で見上げたヒナを、見守っていてくれた二人の男の人たちは優しく見下ろしてくれたから。だからきっと、悲しくて泣いているのではないのだろうと思った。二人が悲しくて泣いている人をそんな表情で見下ろすような人たちじゃないことを、ヒナは知っていたから。人が必ずしも悲しい時だけに涙を零すわけじゃないことも。
「ピュッ!」
「……ふふ、くすぐったいよフルフちゃん」
ぎゅうっと強く抱きついてくるミーアの背中を、ミコを真似るかのようにぽんぽんと宥めつつ。すると今度はミーアの様子におろおろと震えていた小動物が肩へと飛んできて。偉い、そう褒めるかのような鳴き声。それに小さく笑みを零しつつ、ヒナは瞳を閉じた。ごめんなさい、お姉ちゃん。心の中でその言葉を紡ぐ。きっとヒナは、ミコが望んでいたことを破ってしまった。ミーアのことは確かに守れたけれど、人前で星を使ってしまったから。
でもなんとなく怒られないような、そんな気がして。ごめんなさいと謝った先、ヒナの頭の中に浮かんだミコは微笑んでいた。ミーアさんを守ってくれたんだね、そう告げるように。もしかしたら都合のいい妄想かもしれないけれど、その光景は現実になるような気もした。
しかし、その幻影は劈くかのような悲鳴で消えていく。
「っ!?」
「! 今のは……!」
突然聞こえてきたのは、二つの声が重なったかのような絶望に汚染されきった悲鳴。ばっと瞼を開けば、籠繭の中ではレゴやガッド、ミーアも同じような表情を浮かべていた。衝撃が走ったような、何かに慄くような表情。その表情は確かに、今しがたヒナが聞いていた悲鳴が現実に起きたものであることを物語っていたのだった。