十四話「恐れと恐怖と信頼」
「……っ、!」
「……下がってろ」
先に行動をしたのは、熊もどきの方だった。長爪を振りあげ、そうしてその生き物は勢いを以てそれをシロ様の頭へと振り下ろす。その動きに最悪の未来が目を掠めて息を呑むも、シロ様はあっさりとその爪を躱した。まるで跳ねるかのように左に避けながらも、シロ様は一瞬だけこちらを振り返り短く告げる。私はその言葉に、ただ黙って頷いた。
私は正面を見据えながら、足を引きずるかのように後退していく。シロ様が居た地面……つまりは先程私の目の前にあった地面は、熊もどきの爪によって深く抉られている。耐久力も避ける力もない私では、恐らく即死となったはずだ。戦闘経験なんて当然ない私にも、わかること。それはシロ様と熊もどきの戦いにおいて、私は足手まといの役立たずということ。故にシロ様の指示通り、ここは下がっているのが一番なのだろう。
「……なんだ? 随分と愚鈍だな」
「ググ……!」
「大層なご登場をしたことだ。落胆させてくれるなよ」
不遜な物言いと嘲笑うかのような声。長い刀を握った少年は未だ自分からは攻撃を仕掛けず、私の知らない顔で熊もどきを煽る。それが獣の形をしたあの生き物に通じるかはわからなかったけれど、不快そうに唸る姿を見るに言葉の意図くらいは通じているのかもしれない。私が知る熊とは違い、あの生き物には高い知能があるのだろうか。
「そちらから行かぬのであれば、こちらから参るが」
「グッ!?」
しかしそんな思考をする暇もないまま、今度仕掛けたのはシロ様の方だった。構えた刀を上段に、その細腕のどこに力があるのか勢いよく振り下ろす。それは熊もどきが先程爪を振り下ろした時よりも、断然と素早い動きで。まるで自分の爪であるかのように振り下ろした刀を、熊もどきはなんとか爪で弾く。しかしその動きに余裕がないのは、私にだって見て取れた。
正直、思考は追いつかなかった。だって熊である。しかも私の知るツキノワグマやヒグマなんかではない、それよりも余程凶暴そうな。けれどそんな相手を前に、私よりも華奢で美しい白皙の少年は怯むこと無く立ち向かって。そうして自分よりも大きい生き物を前に、まるで圧倒してるかのように立ち振る舞う。
「……は、その程度か?」
「ッ、グガアアア!?」」
いや、事実圧倒しているのだろう。弾かれた衝撃と共に僅かに後ろに飛び、しかし今度は右肩の前に刀を構えた少年はそのまま切り込んだ。爪への衝撃も吸収できないまま、素早い勢いと共に飛びかかられた熊もどきは呆気なく胸から腹にかけてを切り裂かれて。それと同時に吹き出た鮮血と悲鳴に、私の肩は思わず跳ねる。
現実味がなかった。小柄な少年が呆気なく大きな相手を斬り伏せる。その光景は言ってしまえば、戦国ドラマの中に広がっているかのような光景で。けれど血の匂いは確かに広がり、悲鳴は未だ鼓膜の中で轟いている。後ろへと退いていたことも忘れて、ただ私は呆然とその戦いに目を向けていた。最もそれはもう戦いではなく、狩りに近いものだったのかもしれないけれど。
「それなら、終わりだ」
追撃をするかのようにその刀は反りと同時、バツの印を刻むように反対側を切り裂いて。そうしてもう力なく後ろへと倒れていった熊もどきに、しかしシロ様が容赦をすることはなかった。刀をまた振り上げながらも一歩下がり、その瞳は熊の首に狙いをつける。そして最後の追撃によって、吹き出した鮮血と共に熊もどきの首は呆気なく落ちた。もうその瞳が、赤く光ることもないまま。
「…………」
それは時間にするならば、数分にも満たなくて。私は未だ現実感を感じることができないまま、刀に付着した血を乱暴に振り払う少年の背中を見ていた。先程まで隣にいた彼の背中が、酷く遠く感じる。私にとってはあんなに恐ろしかった熊もどきは、彼の刀によって呆気なくその生命を散らした。それはつまり、彼ならば私の命を散らすこともまた容易いということで。
無意識の内に一歩退いた足は、恐れからくるものだったのだろう。自分の隣で何気なく話をしていた少年が、自分を呆気なく殺せる存在だということに気づいてしまったから。彼がそんなことをするわけがないとは理性でわかっていても、絶対的な強者を前に本能が恐れた。そうして刀へと目を向けていたその強者が、こちらを振り返る。瞬間、その瞳は見開かれた。
「っ、伏せろ!」
「……!?」
向けられた視線、しかしそれに怯える間もないままに私は彼の命令通り伏せる。従わなければと、先ほど感じた恐れが瞬間的な行動を可能にしたのだろう。突然のことに混乱しながらも、伏せた私。けれどその瞬間頭上で聞こえた空を切ったかのような音に、私は思わず上を見上げてしまった。
「ひっ……!」
目が合う。血のように赤く滾らせた、真っ赤な瞳と。それは怒りを以てこちらを獲物と認識していた。その視線に怯えから、短く引き攣った悲鳴が零れる。空を切った爪。それは私が彼の命令通り頭を下げていなければ、何を切り裂いていたのだろう。その想像をすることを思考が拒んだ。だってそんなことを考える暇もないまま、追撃のようにもう片方の爪が振り下ろされたから。
スローモーションのようなコマ送りで、私はその映像を見ていた。映像と呼ぶのはあんまりにも、目の前に広がる光景に現実感がなかったから。さっきまで元気に生きていたのに、こんなにも呆気なく死にかける。それが現実として受け入れられなくて、けれど確かにそれは現実だった。そうしてその爪が頭に触れそうになる瞬間、私が考えたことと言えば。
彼を、一人にしてしまうな。なんて、そんなことだった。
「グ、ガァ……!」
「……え?」
しかしその爪が当たるよりも早く、何故か倒れたのは熊もどきの方で。熊もどきが倒れると同時に、上から降り注いだ鮮血が私の顔を汚していく。呆然と声を零して何が起こっているのか、それを探るため更に上を見上げれば。空を渡るように生い茂る木々を見るよりも早く、そこに白銀を見つけた。
「……誰の許可を得て、こいつに手を出している」
唸るかのような低い声を零して、今までにないくらいに瞳を怒りで滾らせて。そうして大きな刀を手に、彼はその熊もどきの首を撥ねていた。先程掛かったのは熊もどきの鮮血かと、頭の中の冷静な部分がどこかで納得をする。けれどそれよりも目が行ったのは、焦燥が滲む少年の顔で。
全速力で駆けたのか、僅かに息切れを漏らす唇。眉はこれ以上無いくらいに寄っていて、怒り狂ったかのような瞳はいつも冷静な表情を浮かべる彼とは似てもつかない。けれど不思議とその表情を、今度の私は怖いとは思わなかった。
「……無事か?」
「……うん」
だって先程も今も、彼が刀を振るったのは私を守るためだと心からわかったから。刀を置き、へたり込んだ私に屈んで視線を合わせるシロ様。そこには怒りも殺意も滲まない、ただ案じるだけの色がこちらを見つめている。熊もどきに向けていた視線とは何もかもが違う、確かな温度がある瞳が。
短く問いかけて、そうして彼は私の頬へと手を伸ばす。ひやりとしたその手は僅かに汗が滲んでいて、そこからあの瞬間に彼がどれだけ焦ったのかが伝わってきた。その言葉に頷きながらも、私はシロ様を見つめる。手のひらに伝わった生きている人間の温度に、心底安堵したような表情を浮かべた少年を。
「……あのね、さっき。ちょっと怖いと思ったんだ」
「……ああ」
そんな顔を見てしまえば、先程浮かんだ恐れを話さないのは罪な気がして。ぽつり、声を零せば僅かに眉を顰めながらもシロ様は頷いてくれる。その表情からわかるのは、私が何を怖いと思ったのかが彼に正確に伝わったということ。私の頬に触れていない右の手のひらが、その言葉にか強く握られる。それに一瞬罪悪感が溢れ出しそうになって、しかし私は言葉を続けた。伝えたいことを、ただ懸命に伝えるために。
「でもシロ様は、やっぱり私を助けてくれる人だった」
「……!」
そう、確かに怖かった。いつもとは違う顔をして、戦いを当たり前のように熟すシロ様が。私とは違う世界を生きてきた人間なのだと、それは嫌でも突きつけられて。自分もあの刀を振るわれれば、呆気なく首を落とすのだろうと想像して。
けれどシロ様はあの熊もどきのように、私を獲物とする存在ではない。出会った時から今の今まで、ずっと私を助けてくれる人だった。それならば何を恐れる必要があるだろう、何を怯える必要があるだろう。彼が理不尽な暴力を行うわけがないなんて、そんなことは知っている。焦燥感に満ちながらも私を助けてくれることだって、そんなことも今知った。だから。
「助けてくれて、ありがとう」
「……ああ」
頬に触れている彼の左手に、自分の左手を重ねて。そうして力なく微笑んで告げた私の言葉に、シロ様は僅かに唇を噛み締めた。それが恐れられた怒りからくるものなのか、それとも悲しみからくるものなのか、それは私にはわからなかったのだけれど。けれど零された言葉には、確かな温かさがあったから。安堵と共に私は瞳を瞑る。突然の戦闘に、恐怖心に、跳ね続けていた心を宥めるかのように。ただ生きていることを噛み締めながら。