百三十一話「寄り添うことと約束と」
「う、うわああああ!」
「っ、くそ!」
空から飛来した化け物。馬の体の先に付いた鋭いその鉤爪が、先程愚かにも風の刃を飛ばした男へと伸びて。しかしそれは青褪めて断末魔を上げかけた男を切り裂くよりも早く、白く煌めいた刃によって受け止められた。短く切り揃えられた髪が僅かに揺れる。ディーデさんが咄嗟に、化け物からの攻撃から男を庇ったのだ。
「オレン! 戦えねぇ女子供を優先させて兵舎へ! 招集かけろ!」
「わかっています! 一班、二班! 団長の援護に! その他の班は街各地に散らばった非戦闘員を庇って兵舎まで誘導を!」
鉤爪との鍔迫り合い。焦った表情で振り返ったディーデさんが指示すると同時、拡声器を使ったオレンさんが叫ぶ姿。風の法術……恐らくは風運を使っているのだろう。彼の手の中で収縮を繰り返す、白と凝縮された風の固まりが蠢く。するとやってきたのは二つに分けられた鎧の集団で。
逃げ惑う人々の間を駆け抜けながらも、次々と空から落ちてくるキメラに対応する兵士たち。数は二十名と言ったところか。広場に降りてきたのは、視界に入る限りで五匹。それの一体をディーデさんが相手をして、兵士の人達は五名ずつで一体の相手に当たっている。だがそれでも利はあちらにあるのか、兵士の人達は苦戦している様子だ。
「……キメラは幻獣人を狩るために作られた化け物だ。人間では荷が重いだろうな」
私達四人とガッドさんにミーアさんは、そんな広場の様子を見ながらゆっくりと固まって後退していて。少なくとも背後を取られないようにと、人混みに四方から囲まれないようにと、背に建物をつける形で固まっている。もっともミーアさんはレーネさんと逸れたショックからか、呆然とガッドさんに手を引かれている状況なのだが。
悲鳴と混乱。鍔迫り合いの音と化け物の耳障りな鳴き声。楽しいお祭りから一転、地獄絵図となってしまったその光景を前にシロ様は小さく呟く。それは冷静な声だった。人々の狂乱の様子を見て紡がれたものだとは、到底思えないほど。でも私は知っている。その声の底に小さな動揺が、巧妙に隠された震えが……彼のトラウマから生まれる怯えがあるということを。
だってシロ様はこんな地獄絵図に近い光景の中で、家族を失ったのだから。
「……なら、」
「だが我がここで助太刀をするわけにはいかない」
腰に回された腕に力が籠もる気配。けれどあえてそれに言及しないで「なら、助けに行こう?」なんてそんなことを言おうとした。しかしそれは言葉にするよりも早く、私の意図を汲み取ったシロ様によって否定されてしまって。
「……優先順位が、違う」
「…………」
そんなシロ様にどうして、なんてそんな言葉を問いかけられるほど私は鈍感じゃない。優先順位。そう告げたシロ様の瞳は、ミーアさんの方へと向けられていた。呆然と瞳を曇らせたまま、ガッドさんに肩を抱かれる少女。そこにはいつもの覇気はなく、失うかもしれないという恐怖だけがその顔に張り付いている。
優先順位。もう一度その言葉を心の中だけで繰り返す。今街の中で戦っているディーデさんと兵士さんたち、はたまた名前も知らないような街の人達。彼らと人混みに攫われていったレーネさん。私達の天秤はどうしても、思い入れがあるレーネさんの方へと傾く。ヒナちゃんを取り戻す時に相談に乗ってくれたり、練習を頑張る私達に差し入れをしてくれたりと、色々と面倒を見てくれた優しいお姉さんの方へ。
「……レーネちゃんは西の方に流れてった」
「! レゴさん……!?」
「わりぃなガッドの旦那。上手いこと助けだせねぇかと思ったけど、流石にあの人数の中に割り込むのは無理だった」
「いい。お前が一番に飛んでいってくれたのは見た」
そこでタイミングを窺っていたのかなんなのか、翼を生やしたレゴさんが私達の前へと現れた。姿が見えないと思っていたが、どうやら彼はレーネさんが人混みに攫われたタイミングでその翼を使い、彼女を助け出そうとしていたらしい。眉を下げたその表情を見るに、生憎とその作戦は上手く行かなかったようだが。
化け物さえ居なければな、そう短くごちたレゴさんの言葉にガッドさんは短く首を振る。そうか、キメラ。キメラが空に居たからこそ下手に刺激するわけにも行かず、レゴさんは上手く飛んでレーネさんを助けることが出来なかったのだろう。頬を掻くいつもの仕草に滲むのは、自分の不甲斐なさへの怒りだ。きっとそれをわかってるからこそ、ガッドさんも彼を強く責めることはしない。むしろそのヘーゼルに滲むのは、レゴさんと同じような色。自分の不甲斐なさを悔いるかのような、そんな色。
「西か。キメラは何匹飛んでいった?」
「あー……三、か? 北側よりは少なかった」
「そうか」
けれど今は過去を悔いている場合ではないのだ。後悔するのならば、全て終わってから。悔恨の空気が広がり始めたその場を切り裂くかのように、シロ様は端的にレゴさんへと問いかける。そうかと頷いた少年が何を思っているのか、というかそもそも何故シロ様がそんな問いかけをするのか。黙って聞いていたガッドさんがそこで怪訝そうな表情を浮かべた。それは問いかけに答えたレゴさんの方へと向けられて。
「その程度ならば障害にもならないな」
「……!?」
しかし細められたヘーゼルは、それを視界に入れた瞬間に驚愕へと変わる。いつのまにかシロ様の手に握られているのは、透明を重ね合わせて白くした刃。事情を知らない人が見れば、突然彼の手にその背丈に似合わない大太刀が現れたように見えただろう。でも私は知っている。その言葉がそのまま事実であることを。
「案ずるな。我が彼女を連れ帰る」
「坊主……お前、」
「あんな塵芥。我の障害にもならない」
塵芥。ディーデさんたちを苦戦させているキメラをゴミかのように言い放った少年が手にするは、風為の白爪牙。久しぶりにお目に掛かった刃は今日も鋭く洗練されている。その刃を見てか、ひゅっと目を見開いたガッドさんをシロ様は真っ直ぐに見上げて。左右非対称の瞳。そこに宿るは信念と覚悟だ。到底子供には浮かべられるはずがない、けれど浮かべられるからこそに深い信頼を抱くことが出来る。その意思は声にだって宿っていた。刃を体現するかのような、凛と低いその声にだって。
相変わらず儚げな相貌に似合わず男前でいらっしゃる。突然現れた刃物に驚いてかのけぞったヒナちゃんの肩をぽんぽんと叩きつつ、私は苦笑を浮かべた。わかっていたことだけど、シロ様はレーネさんを助けに行くらしい。それなら、私は。すっと視線を下ろせば、視界に入るは指輪。今日も私の力の一部である彼は、光を吸ってはきらりと輝く。
「シロ様、私も行く」
「…………」
「そんな顔しないで。シロ様のおかげで、ちょっとは自衛手段も学んだんだよ」
その輝きを見れば、覚悟は決まった。指輪が行けと、そう言っているような気がしたのだ。指輪の輝きに背中を押されるまま、私はそっとヒナちゃんを離すと同時にシロ様に笑いかける。すると当然、私を置いていく気満々だったシロ様は渋い顔をして。
きっと恐らくは、シロ様はここに私を置いて一人でレーネさんを助けに行く気だった。籠繭、シロ様の刃を持ってしても切り裂けない私が使える絶対の守り。それを覚えた以上、シロ様に付いていくよりも籠繭を使わせて置いていく方が私にとって安全だから。そうすれば今シロ様が守りたいものは全て守れる。私とフルフとヒナちゃん。レゴさんとミーアさんとガッドさん。小さく広がった彼の世界は、過不足なく守られる。
「……何故」
「……うーん、そう言われると難しいけど」
でも、何故だろうか。付いていく方が足手まといだと知っている。ここに残った方がシロ様が安心できると知っている。頭に過るは理性的な考えばかりで。けれどそれを心が凌駕した。いわゆる勘、というやつだろうか。それが私に訴えるのだ。ここでシロ様を一人にしてはいけないと、ただなんとなく。
「強いて言うなら、シロ様が本気で戦えるようにかな」
「……!」
言葉で例えるのであれば、揺れないように。シロ様が戦っている時、私への心配で彼の心が揺れないように。この状況は、きっといつかの惨劇を彼に思い起こさせる。ただ生きていただけの人達が、祭りを楽しんでいた人達が、無慈悲に理不尽に圧倒的な力で嬲られる。今回はそこに裏切りなんてものは付随していないけれど、それでもきっと深くてまだ血塗れの彼の傷を抉るには十分な条件だ。
そこに一人ぼっち、なんてものを加算させてはいけない。数々の理性的な思考を、その勘だけが突き破る。シロ様が自棄になるなんて思わない。きっと一人でもこの子はレーネさんと一緒に帰ってくる。私の存在はそこに要らなくて、多分、いや絶対に邪魔で。でも傷は深くなる。それがわかっているからこそ、今ここでシロ様を一人にすることを私がしたくない。
「……連れてってくれる?」
「……わか、った」
見開かれた二色の瞳を見下ろせば。そうすれば私が考えていたことは、全部彼に伝わって。へらりとした間抜けな自分の笑顔が、彼の瞳に焼き付くように映ったのが見えた。
「ヒナちゃん、ごめんね。シロお兄ちゃんとお姉ちゃん、ちょっと行ってくるね」
「っ、わたしも! わたしも、つれてって……!」
さて、シロ様を説得したなら次は。くるりと振り返ると同時、私は今度はヒナちゃんの肩に両手を当てた。良い子に頷いてくれないかな、そんな期待はあっさりとはねのけられてしまったが。でもこれはヒナちゃんが悪い子なわけではない。真っ赤な瞳に映るのは不安と恐怖。この状況で信頼している人に置いていかれるのは、とても怖いことだろう。しかもヒナちゃんの不安は、私達に置いていかれた自分が損なわれることではない。私達が自分の見えないところで失われること、そこにこの子は恐怖を抱いている。
「……フルフと、ミーアさん」
「……?」
「もし何か怖いことが起きそうになったら、ヒナちゃんには二人を連れて飛んで逃げてほしいんだ。二人を、ヒナちゃんが守って欲しい」
「……!」
けれど流石に乱戦地帯にヒナちゃんを連れて行くわけには行かない。シロ様タクシーも私一人が限界だろうし、何よりも私がヒナちゃんにこれ以上この惨劇を見せたくはないのだ。きっとこの先には誰かの悲鳴や涙、そして凄惨な光景が広がっている。せっかく日向を歩きだしたヒナちゃんに、そんな光景を見せたくはない。
だから、ちょっとずるい願い事をした。いつのまにかシロ様の肩に乗っていたフルフをひょいと摘んでヒナちゃんの手の中へ。そうしてそっと肩を押すと同時、ミーアさんの方へとヒナちゃんを近づける。そうすれば目を見開いた少女は二つの存在に囲まれた。怯えたように自分の手の中で震える毛玉と、未だ呆然と世界を見つめるミーアさん。自分だけの力では化け物から逃れる事ができなさそうな、そんな二人に。
「……ごめんね、ずるいよね」
「…………」
籠繭は置いていく。私が死にさえしなければ、籠繭が解かれることはない。だから皆の安全は私が死なない限り、ほぼ確実に保たれることだろう。けれどそれでも尚、危ないことがあったら。そうしたらヒナちゃんには一人と一匹を守ってもらいたい。そんなずるい懇願に、少女はきゅっと唇を噛み締めた。ヒナちゃんは望まれることを何よりも良しとする。他でもない私の求めならきっと、頷いてくれる。それをわかってていう自分は、はっきり言って最低だ。
「……やくそく」
「……?」
「わたし、ぜったいに二人を守るから……だから! だから、お姉ちゃんとお兄ちゃんも、帰ってくるって……」
けれど涙を大きな瞳に湛えた少女が、恐怖を覚悟で塗り替えながらも頷いてくれるから。調子に乗るなよ、なんて内心で自分を戒めつつも。私はぎゅっと縋り付いてきた少女の頭を優しく撫でた。置いてかないで欲しい、連れて行って欲しい。それを抑え込んで約束と健気に紡ぐ姿に、いつかの自分が重なる。あの時は、自分が一番辛いと思っていた。しかしまぁなんだかんだで、置いていく側も結構しんどいらしい。
「……うん、約束」
「……うん」
「絶対に、絶対に守るよ」
こんな形で知りたくなかったな、なんて胸がつきりと傷んだ感覚。それを抑え込んで微笑んだ私は、そっとヒナちゃんの頭から手を離した。すると僅かにホッとした顔が私を見上げて、そうして離れていく。両手に大事にフルフを抱え、ミーアさんを庇うように前に立つ少女はとても頼もしい表情を浮かべていた。
ならば、それに私も応えなくては。シロ様に手を引かれるままに一歩、二歩と足を引く。そうして籠繭と紡げば、四人と一匹は白い糸の籠の中に覆われていった。中から聞こえた男性陣二人の驚いたような声に苦笑を浮かべつつも、くるりと振り返ればそこには私の目を真っ直ぐに見つめる少年の姿があって。
「行くぞ」
「うん」
今の私達に、それ以上の言葉は必要なかった。