百三十話「空から現れし怪物」
誰もが誰も、星を握りしめながら大会の開始を今か今かと待っている。話し声、笑い声、喧嘩している声は……転じてやっぱり笑い声に。私もそんな心地良く温かな喧騒の中の一人で。けれどそんな時間は、どうしてか長くは続かなかった。
「っ、ミコ! ヒナ!」
「っ!?」
焦ったようなシロ様の声が聞こえると同時、背後から思い切り腕を引かれる。その瞬間視界に映ったのは、突然の大声にか驚き見開かれたヒナちゃんの瞳で。咄嗟に脳内に叩きつけられたのは危険信号のアラート。はぐれてはいけない、その本能に従うままに必死に伸ばした手でヒナちゃんの腕を掴んだ。そのまま抱き込むように少女の体を抱える。耳元で、驚いたようなピュイという鳴き声が聞こえた。
「っ、ひっ……!?」
「なんだあの化け物は……!?」
どうして、だとか。急に何なのだろう、とか。そんなことを考えるよりもはやく、賑やかな喧騒から移り変わった恐怖の声がそこら中から聞こえてくる。悲鳴と、慄くような声。背後へと視線を向ければ、厳しい顔をしたシロ様が空を見上げていて。
成程、やっぱり先程私の腕を引っ張ったのはシロ様らしい。守るように腰の辺りに回された、細くも頼りになる腕。その辺りでは先程私が咄嗟に抱き寄せた少女が目を白黒とさせている。明らかに混乱を訴えるヒナちゃんのその瞳に若干申し訳なくなりつつも、私は空を見上げた。空気が冷たくなっていく気配。それに気圧されながらも、真っ直ぐに。
「っ……!」
そうして見上げて、息を呑んだ。先程までヒナちゃんが飛び回っていた自由な空、そこには今異形の存在が居る。鳥のような頭にコウモリのような大きな翼、そして馬のような体を持つ怪物が。十数匹と纏まったその群れが、ウィラの街の空を占拠している。その事実を脳が認識すれば、一気に体温は冷え込んでいって。
「……キメラ」
ガンガンと危険信号が鳴り響く脳内。けれどそんな中でも耳はシロ様の声を拾い上げる。キメラ、少年は確かにそう言った。警戒と殺意が混ざり合うような声音で、確かに。
「いや、いやあああ!!!!」
「逃げろ! 家の中に入るんだ!」
「っ、ぱぱ、まま、どこ……?」
「ちくしょう! どけ! 俺が死んだらどうしてくれるんだ!!」
「っ、押さ、押さないで……!」
「っ、ダン! ダン! どこなの……!」
その声が合図だったのか、それともそこで未知への恐怖から体が解放されたのか。広場は一気に恐慌状態へと陥った。悲鳴を上げて走り去る女性を皮切りに、誰もが誰も自分が生き延びるために逃げようとする。それは生存本能にに従う正しい行いではあった。空の上のそれは到底只人では敵わないような、そんな威圧感を放っていたのだ。
けれど人がひしめき合っていた広場では、それが正しい行いになるわけもなく。咄嗟に安全地帯である自宅へと帰ろうとしていた人達の行き場所が、一つになるわけもない。ぶつかりあう音の合間に響くは怒声と泣き声。自分が生き残りたいとそれを主張する声に、力負けして懇願する声。全ての音が混ざり合うと同時、混乱は徐々に広がっていく。
「ヒナちゃん、掴まって……!」
「っ、うん……!」
とりあえず今は、はぐれないほうが先決だ。そう判断した私は、四方から押し寄せる人達から守るかのように腕の力を掴めてヒナちゃんを強く抱きしめた。掴まるように促せば、ヒナちゃんの小さな手はセーラー服の腰辺りの布をきゅっと掴む。成程、シロ様はこれを予見して私を抱き寄せていたらしい。見れば、私の腰に回った手とは反対の手のひらではフルフが握りしめられている。つくづく頼りになる少年だと、内心で息を巻いて。
「っ、お姉ちゃん!」
「!?」
しかしそこで聞こえてきた声を拾い上げた瞬間、私はそれまでのように上辺だけの冷静を取り繕っていられなくなった。ちょうどミーアさんたちは大丈夫だろうか、そう顔を上げたタイミングで悲鳴のような声が聞こえてきたのだ。
慌てて視線を声のした方へと向ければ、ガッドさんに抱きしめられたミーアさんが必死にどこかへと手を伸ばそうとする姿が見えた。その手の先には、人に揉まれて遠のいていく一人の影がある。レーネさんだった。彼女は顔を青褪めて必死にこちらに手を伸ばそうとするも、その華奢な体では人の波に逆らえるわけもない。あっという間に見えなくなった影に、ヘーゼルの瞳が呆然と眩む。
「っ、落ち着いて! 落ち着いてください! その場を動かないで!」
「下手に動くと的にされんぞ! 纏まって一緒に居たほうが安全だ!」
恐らくはきっと、騒動が起こったその瞬間から呼びかけていたのだろう。そこで耳に入ったディーデさんとオレンさんの声に振り向くだけの余裕もない。未だ人の動乱の中にあるこの状況で、私は呆然とミーアさんの顔を見上げていた。一緒に攫われていた時にも見ることがなかった、絶望の二文字が透けて見えるような表情。
視線を僅かに動かせば、ガッドさんも同じような表情を浮かべている。私が彼のそんな表情を見たのは二回目。ミーアさんが攫われたと、そう聞いた時ぶりだった。そんな表情を見ていると、浮かんでくる言葉が一つ。どうして。その四文字がぐるぐると頭を巡る。どうしてこんなに優しくて温かな一家が、何度も悲劇に見舞われなければいけないのか。お互いを思い合って、大切にしている家族が、何度も引き裂かれそうにならなければいけないのか。理不尽、そんな言葉が浮かんだ。ああ、正しくこれは理不尽だ。
「足を止めてください! まだ相手はこちらを見つけていません! 動かないでください!」
「っ、家に帰ろうとするな! 帰られると目が届かなくなる! その場で大人しくしてくれ!」
ディーデさんたちの必死な声は届かない。恐慌は伝染して、逃げ惑う人々の脳には正しい言葉も入らなくなってしまっている。これがパニックというやつなのだろうか。ふと、そんな事を思った。突然祭りを襲った悲劇、そこら中から聞こえてくる罵倒や悲鳴。そして、そんな人達によってはぐれてしまったレーネさん。情報の量が多すぎてパンクしそうになる頭の中。けれどいつだって冷静な思考は端っこに残っている。どうすれば、と私の脳は考え始めている。
「……ミコ、今は落ち着け」
それはきっと、彼という存在を知ってから芽生え始めた思考だった。
「……大丈夫、落ち着いてる。ヒナちゃん、今はぎゅっとしててね」
「う、うん……でも、でも、レーネさん、は……?」
「姉の方は確か地の法術を使えたはずだ。あれは守に特化した法術。多少なりとも使えるのであれば、少なくとも人混みに揉まれて死ぬことはない」
我にとっては最も相性が悪い術だが。ぶっきらぼうな声音でそう零したのは、私達を安心させようとしたシロ様なりのジョークだったのかもしれない。相変わらず不器用な少年である。けれどまぁその不器用さに癒やされてしまう辺り、私も大分毒されていると言うかなんというか。
……大丈夫。レーネさんは冷静な人だ。去っていった影を思い出す。あんなにも人に揉まれながらも、抗って手を伸ばそうとする。それがあんな華奢な人に出来るわけがない。つまるところ、あの段階で既にレーネさんは地の法術を使っていた可能性が高いのだ。ならばシロ様の言う通り、人混みに揉まれて死ぬことはないはず。ならば現状、彼女が危険な目に遭いそうな他の要因は。
「……シロ様、あれって何? きめら、って言ってたけど」
そう、あれだ。今も空の上で沈黙状態を保つ、十数匹の化け物の群れ。街をパニック状態へと陥れた原因。ヒナちゃんをぎゅっと抱きしめつつも視線だけ振り返れば、シロ様は二色の瞳をすっと細めた。警戒を示すかのように細まった瞳孔には、捕食者側の色が浮かんでいる。
「様々な生き物の特徴が混ざりあった合成獣。人の手によって作られた理性のない化け物だ。……かつて人間が、幻獣人を殺そうとするために作った」
「……幻獣、人を?」
「…………」
けれどそれに安堵するよりもはやく、胸を掠めたのは冷ややかな何か。人が作った。人が、幻獣人を殺すために。一瞬受け入れられなかったそれは、しかしシロ様の静観するかのような静かな瞳によってゆっくりと胸の中に根付いていって。
「……ううん、その話は後。なんで今襲ってこないのとか、わかる?」
「……ああ。恐らくは街中に我らが作ったお守り、があるからだろう。恐らくは奴らは我らに気づいていない。正確には目が行っていないというべきか」
だが今はそんな話を悠長に聞いている場合ではない。なんで。そんな疑問を振り払って問いかければ、白と黒の瞳には再び闘争心が宿る。この間にも周囲の状況は混沌としているのだ。未だに罵声と悲鳴と動乱で地面は揺れ動く。それなのに理性がないと称される空の上のアレが襲ってこないのは、何故なのか。現在の人々は彼らにとって格好の獲物だろうに。
しかし話を聞けば、納得が胸を支配していった。そうか、お守り。あれには確かに、隠すという効果の法陣が描かれている。本来は星火を隠すのが目的のものではあったが、小さなものでも降り積もればそれらは大きな効果になる。すなわち、僅かに漏れ出した隠すという効果が重なり合ったことによって、キメラの目から私達は今逃れられているらしい。
「だが気配は感じ取っている。何かが居る気がするが、見えないという状況なのだろうな」
「……ってことはこのまま静かにしてたら、居なくなる?」
「そうではある。……だが、恐らくは無理だ」
ならばこのまま状況が落ち着けば、何も居ないと判断して勝手に飛び去っていくのではないか。僅かに見えた希望。しかしそれは、小さく首を振った少年の言葉によって砕かれた。なんで、再びと喉までせり上がった疑問。さりとてその疑問は声になる前に、形となってしまった。
「あんな化け物! 翼さえ落とせばタダの木偶だろうが!」
突然、どこかから聞こえた鋭い風切り音。優越が滲んだ声が聞こえると同時、視界を走っていったのは白く研がれた持ち手のない刃。それは見事に空に浮かぶ化け物の翼を切り落とした。そう、切り落としてしまった。
瞬間、沈黙は破られる。攻撃を受けたことで化け物たちが抱いていた予感、それらが確信になってしまったから。ここに自分たちが狩るべき獲物が居るのだと、気づかれてしまったから。耳障りに重なり合う咆哮。先程までの穏やかな姿はどこへやら、蝙蝠のような翼をはためかせて化け物たちは地上へと舞い降りようとする。
「……ああいう馬鹿が居るからだ」
咄嗟に恐怖からヒナちゃんを抱きしめれば、耳元で聞こえてきたのはそんな声で。そうしてシロ様のいう「馬鹿」のせいで、私達は化け物と戦うことを余儀なくさせられてしまったのだった。