百二十七話「ひとりじゃない」
ミコたちが広場で祭りの開催に胸を高鳴らせる中。一方、時を同じくして夕陽ケ丘の上。そこには二人の人物が居た。高い影を作る長身の男と、小さな影を覗かせる幼い少女。特徴を相反させたかのような凸凹な二人の間に流れるのは、鋭い沈黙であった。いや正確には、少女の方がその空気感を作っているというべきか。緊張の滲む赤いまなこが、下に広がる街を見下ろす。
山と言ってもいいほどに高く聳え立った丘からは、街の様子がよく見えた。ミコたちが見上げたはずの紙花火薬も、屋台も、民家を飾る赤い花々だって。祭りの雰囲気に浮かれる街。けれどそれらを見た赤髪の少女……ヒナに走るのは酩酊したかのような心地よさではなく、針で刺されるかのような緊張感だった。震える唇が、小さく息を吐く。細い指先が握りしめたのは、大事な人がくれたケープを留めるお守り。しゃか玉と呼ばれる、悪いものを祓ってヒナにいいものを運んでくれるもの。
けれど、空を飛ぶのならば自分はこのケープを手放さなくてはいけなくて。
「……ヒナちゃん」
「っ!」
「あー、緊張してんなぁ。まぁ仕方ねぇと思うけどよ」
徐々に浅くなる呼吸。恐怖という感情が胸を突く中、しかしそこで聞こえてきた声にヒナは反射的に顔を上げた。気づかぬ内に俯いていた視線を上げれば、そこには困ったような表情を浮かべた男が居る。レゴさん、すっかりと口に馴染んだ響きが思わず零れた。
「ほら、とりあえず顔を上げてみ? で、深呼吸する」
「……しん、こきゅう?」
「息を思いっきり吐いて、んで吸うんだ。自分の中に今、もやもやがあるんだろ? それをぺって吐き出して、変わりのものを飲み込むってことだよ」
深呼吸、聞き馴染みのない言葉。けれどレゴという人物は、ヒナにとって何よりも大切なミコが信頼を置いている相手だ。この場でヒナの保護者役を任せるほどに、である。人を信じるのが苦手なヒナだが、ミコが信頼を置いている相手ならば無条件で信用できる。
ヒナは言われた通り、深く息を吐いた。緊張から生じた色々な形の恐怖、それらを全て吐き出すように。そうして限界まで吐いて、吐いて、吐いて。その後に息を思い切り吸う。山頂、人が来ない自然の世界。そこにある新鮮な空気が少女の肺の中を満たしていく。形のない空気の塊が、喉の奥を落ちていった。
「……どうだ? ちょっとは落ち着いたか?」
「……おちつき、ました」
そうすれば、成程確かに。ヒナはぱちぱちと瞳を瞬かせる。先程まで渦巻いていた不安やらなんやらが、少しだけマシになっているような。けれど未だに胸の前にあるしゃか玉からは手が離せそうになかった。上向いた視線を少し動かせば、眼下には街が広がる。ヒナがこれから星を降らせる街が。きゅっと、喉の奥が閉まる感覚。ぐるぐると腹の奥でうごめく何かに、細い眉は垂れ下がった。
「……でも、やっぱり」
「うん、怖いよな」
「……はい」
拙い敬語でぽつぽつと。ミコがこの人と話す時は、いつもよりも丁寧な言葉を使う。ならばそれを真似するべきなのだろう、ヒナはそう思っていた。ヒナにはよくわからないが、年上の人やあまり親しくない人と話す時は丁寧な言葉を使う必要があるらしい。だからミコから聞いた言葉を、少なくも確かに。
ヒナの中にあるものは、全部ミコがくれたものだ。言葉も感情も……ヒナという端名と、ヒナタという名前だって。人の形をしただけの空っぽのヒナの中に、ミコは多くのものを降り注いでくれた。だからその恩に報いたい。ミコと、シロと、フルフ。それ以外にも自分に優しくしてくれた人、全てに。それはミコがくれたものによって、ヒナの中に芽生えたもの。その優しさに報いることが出来るならと、ヒナが今回飛ぶことを決意した理由の根本はそれだった。勿論そこには飛ぶのが楽しかったという感情もあったけれど、一番は結局それで。
「……上手に出来なかったら、失敗したら、って」
「…………」
「お姉ちゃんは楽しんでおいで、ってそう言ってて。なのに、わたし、楽しくない」
それでも、本番というのはこんなにも恐ろしいものらしい。ヒナは言葉を吐き出した後に、奥歯をきつく噛み締めた。どうして、楽しいと思えないのだろう。今からすることは飛ぶこと。それはヒナが好きなことだ。空を飛んで、籠の中にあるたくさんの星を撒くこと。それは、ヒナがしたかったことだ。なのになんで、何故だろう。楽しくて、したかったことのはずなのに。それなのにどうして。
「楽しくできないのが、いや」
どうして自分は楽しめないのだろう。たった一人、ヒナの世界を作ってくれた人の言葉に報いることすらも出来ないのだろう。自分が出来損ないだからなのだろうか。そう思えば、どうしようもないほどに胸が苦しくなった。自分の存在価値が無になっていく感覚に、恐怖は顔を覗かせる。
「そりゃそうだろ。まだ始まってねぇんだから」
「……え?」
なのに一つの言葉によって、ヒナの感情は一気に消え去っていった。
「いいか、ヒナちゃん。まだヒナちゃんがやりたいこと、やりたかったこと。それはまだ始まってねぇんだ」
「……はじまって、ない?」
「おう。だってまだ飛んでねぇだろ?」
ぽかんと開いた口。そこから吸い込まれるように言葉はどんどんヒナの中に流れ込んでいく。始まっていない。確かにそうだ。今はまだ飛んでないし、皆で頑張って作った星を配り始めても居ない。それならまだ楽しい、にならなくていいのだろうか。だって始まってもいないものを、楽しめるわけがないのだから。
ヒナはわからなくなった。確かに、と思う気持ちとでも、と思う二つの気持ちが混在する。よくわからないけれど、全てが楽しくなかったら駄目なのではないだろうか。ぐるぐると巡る二つの気持ちに、赤い瞳は目を回したかのように揺らぐ。けれどそれを見てか、目の前のその人は笑って。
「ぶっちゃけ祭りなんて、めんどくさいときもあんだよ。準備のために祭りが近づくと店を閉めなきゃいけないところもある。色んな奴と話だってつけなきゃいけない。これで上手くいくのかって、不安になるときもある」
「……不安」
「そう、今のヒナちゃんみたいにな。でもな、どんだけ不安でも……それでも、やってる時は楽しいもんだ」
その人は、ヒナの知らないことを教えてくれた。皆楽しくて嬉しいだけだと思っていたお祭りの裏には、面倒やら嫌なことがあるということ。ヒナみたいに緊張する人が居るということも。黄金の瞳を細めて、ぽんぽんとヒナの頭を宥めるように撫でながら。その温かさは、少しだけミコと似ていた。こちらを優しく見下ろしてくれる、その瞳だって。
「ミコちゃんが楽しんでほしいって言ったのは、今じゃない。この後の話だよ」
「……!」
だから今緊張するのは、悪いことじゃないのだと。その言葉が、瞳が、全てを語ってくれていた。きゅっと、喉元を今度滑り落ちていったのはどんな感情だろう。少なくとも嫌な感触がしなかったそれに、ヒナは瞳を伏せた。
出来損ない、役立たず。いつか言われた言葉はまだ罅になったまま。もう声も顔も覚えていないその人達の、その言葉だけが忘れられない。きっと、暫くは忘れることが出来ない。けれど今それが、ここに必要だろうか。空を飛んで星を振りまく、キラキラとした世界。そんな世界に、この言葉は必要ない。あの影は要らない。
ヒナは、日向を歩いていく。自分で選んで、歩いていく。今日は、その第一歩なのだから。
「ああっと、忘れるところだった。ほれヒナちゃん」
「……っ、これ……!」
「ミコちゃんから贈り物だ。しゃかだま? とやらの代わりのお守りだとよ」
決まった覚悟に、そっとしゃか玉から手を離して。けれどそこで聞こえてきた言葉に、ヒナはきょとんと目を見開かせた。お守り。それはヒナが配るものであって、ヒナに渡されるものではなかったはずだが。なのに、そんな思いは一瞬でどこか遠くへと消え去っていく。
レゴが懐から取り出したのは、一枚の赤い貝殻。紐にくくられてネックレスのようになっているそれには、確かに見覚えがあった。フルフがいつかくれた貝殻。寝る前に見ると安心できる気がして、ベッドに置いていた貝殻。朝にその姿が見えなくて不安に思ったものだが、いつのまにネックレスになっていたのか。ヒナは慌ててその貝殻をレゴから受け取った。小さな手のひらいっぱいに赤い貝殻が転がる。
「それ、法術の気配がするな。風ってことはシロの坊っちゃんのか?」
「シロお兄ちゃん……?」
「貝殻の裏を見てみな。なんか書いてるだろ」
レゴに言われるがまま、赤い貝殻をひっくり返して中を。そこには確かに円と何かの文字が刻まれていた。白い文字は、見ていると白銀の髪のあの少年を思い出す。くくられた黒い紐は、大好きなあの人の髪の色を思い起こさせる。そうして肝心の貝殻は、ヒナにとってのお友達のフルフがくれたもので。
「まぁ、俺には効果まではわからないが。でもな、皆ヒナちゃんのことを見守ってる」
「…………」
「陳腐な言葉だが、お前さんはひとりじゃないぜ?」
ひとりじゃない。それがこんなにも心に沁みる言葉だということを、ヒナは初めて知った。フルフがくれた貝殻をミコがネックレスにして、それにシロが何かの法術を刻んでくれた。こんなにも心強いお守りはない。だってここにはヒナの大好きな世界がある。大好きなお姉ちゃんとお兄ちゃん、そして大切なお友達の思いやりが。
「……レゴさん。ケープ、お願いします」
「……いいのか?」
「うん」
大切に大切にそれを首へと掛けて。そうしてヒナはそっとケープを脱いだ。少女の華奢な肩が晒されると同時、ワンピースの紐を避けるようにしてそこから翼が生える。左耳に左手を当てたまま、右手でケープをレゴの方へ。試すような黄金に、ヒナは小さく笑った。耳元から外された左手は、ずっと傍らに置かれていた籠を手に取る。光を遮るため、黒い布が掛けられていた籠に。
見た目よりもいっぱいの容量が入るようになっているとガッドから貸し出されたその籠には、皆で作った星が詰まっている。けれどそのどんな星も、今ヒナが首に掛けているお守りには敵わないだろう。だってこれはしゃか玉と同じくらい素敵であったかいお守りなのだから。
「……もう、飛べるから」
もう、迷いはない。ヒナは黒い布をそっと取り払って、輝くその籠に目を向けた。横目にレゴが驚いたような表情を浮かべたのを最後に、少女はいっそうと大きく聞こえた紙花火薬の音を合図に崖から飛び立つ。あの時のように落とされたわけではなく、自らの意思を持って。そしてその意志に、彼女の真っ赤な翼は答えるように羽ばたくのだった。