十三話「突然の襲来」
「どうしよ、ほんと中身減らない……」
「…………」
水筒を真っ逆さまにすれば、水は勢いをつけてとめどなく溢れ出る。しかしまたひっくり返して中身を見れば、流れなかったと言わんばかりに水筒の中に水は収まっていて。一種の怪奇現象では? そう首を捻った私を、シロ様はじっと見つめる。いや正確には先程から私の手の中で傾けられては復活を遂げる水筒を、ではあったが。
「どうしたの、シロ様?」
「……ミコ、屈め」
「ん? うん」
その何かを見定めるような瞳が気になって尋ねれば、細めた瞳はそのままにシロ様が手招きをする。体に付着した水を払うように首を軽く振りながらも、指示と共に屈んだシロ様。私は突然の指示に首を傾げながらも、手招きをしている彼に導かれるかのように近づいて。そうして彼と同じ視線になるようにと、シロ様の目前で屈んでみせる。勿論水筒は片手に握りしめたまま。
手を伸ばせば触れられる距離。目の前で私の手の中にある水筒をじっと見つめる彼からは、もう血の臭いはしない。そのことに内心密かに安堵しながらも、私は何かを思案するかのように眉を寄せるシロ様を黙ったまま見つめていた。果たして何を思いついたのか、しかしそんな呑気な思考は次の瞬間に吹き飛んでいく。
「え、ちょっ!?」
それは瞬きの間に行われた行為だった。シロ様がふと地面の方に手をやったかと思えば、彼は一瞬でその手に握りしめた土を水筒の中に放り込む。咄嗟のことで反応ができなかった私は、その突然の暴挙に一拍遅れて慌てた。
この水筒の中身は減らない。つまりそれは、中に何かしらの不純物を入れてしまえばそれを一生取り出すことができないということ。確かにこの水筒は色々と末恐ろしくはあるが、サバイバルにおいて無限となった水源は重用するべき物のはずだ。文句を言う余裕もなく慌てて何とか土だけを取り出せないかと、水筒を覗いた私。しかしその思考はまたしても、衝撃と共に彼方へと葬られることとなる。
「……え?」
「……やはりか」
水は、透明だった。水筒の水面から水底まで、不純物が入っていることもなければ濁ることもない。先程確かに土が入ったはずなのに、そう呆然とした私を置いてシロ様は一人わかっていたかのように頷く。その開かれた左の手のひらは、残痕のように少しだけ土で汚れていた。
「軽量化、無限と等しい容量、そして何かしらの浄化作用。今わかるのはそんなところか」
「わぁ……」
左手についた土を払いながら、シロ様はそう呟く。彼の先程の行動は水筒の能力を確認するためだったのかと、そこで漸く合点がいった私はしかし頭を抱えた。口から勝手に情けない声が零れていく。正直何もかも忘れて、考えることを全て放棄してしまいたかった。だがそうはいかないだろう。
軽量化、それは持った時に重さを感じない機能。確かに二リットルたぷたぷに入った水筒が、一切の重さを感じないのはおかしい。恐らくシロ様も私と同じく、水筒を抱えた時に気づいたのだろう。無限と等しい容量も、身を以て体験したからこそわかる。どれだけひっくり返してもこの水筒は中身を減らすことがなかったのだから。そうして浄化作用もまた、目の前の少年のおかげで事実だと判明してしまった。
「……ちょっと盛り過ぎじゃない?」
「お前の持ち物だろう」
現実逃避をするかのように小さく呟けば、目の前からは耳に痛い正論が返ってきて。確かにそうなんだけど、もう私の理解の範疇を超えてるんだよ。半ば愚痴を零すかのように言葉を吐けば、それと同時に木々の隙間から僅かに指した木漏れ日が水筒の光沢をなぞっていく。まるで自分は出来る子だと、そう告げるかのように水筒は光によって輝いた。……十分知ってます。
「あ、そういえば……」
「なんだ」
「浄化作用、だっけ。なんで気づけたの?」
そこからそっと視線を逸して、しかしそこで一つ気にかかった私はシロ様に問いかけた。軽量化や容量は見て取れる効果だが、浄化作用はそうではないだろう。土を混入させた時のシロ様を思い出してみる。土が水筒の中にないのを見て、彼はやはりとそう呟いた。つまりは何かしらの確信があったからこそ、あの時土を入れたのだ。そうでなければ私よりも判断力に優れていそうなシロ様が、無策に水筒の水を汚すはずもないし。
「……我が水を汲んでいる時、水筒の中に葉が混入した」
「うん。まぁそんなこともあるよね」
問いかけた私に、シロ様は一瞬黙り込んで。しかしそれは説明の言葉を探す時間だったのだろう。屈んだ体制のまま、組んだ腕に頭を預けてシロ様は口を開く。私はその仕草と頭で揺れる耳が可愛いなと思いつつも、その話に相槌を打った。時折この男前な少年はどこかあざとい気がする。
「しかしそれが一瞬で溶けた」
「えっ」
けれどどこか和んでいた心は、溶けたという物騒な言葉で水を差されて。あの時少し距離を取っていたことから私の視界にはシロ様の背中しか映っていなかったが、まさかそんなことが起こっていたとは。思わず間の抜けた声を零した私に、シロ様は頷く。わかる、と言わんばかりの頷きだった。
やはりシロ様もその瞬間は驚いたのだなと、そんなことを考えながらも私は一つの予測を立ててみる。もし仮にあの時シロ様ではなく私が水を汲んでいたのなら、そのことに驚いて水筒を離していまった気がするような。あの時シロ様が汲んでくれていたのは知らず知らずの内に、英断であったのかもしれない。だって命綱を失った水筒は、もしかすれば泉の中心へと流れて行ってしまったかもしれないのだから。
「一瞬この水筒に入った液体が全て劇物になるかとも思ったが、手に零しても問題はなかったからな」
「……そっかぁ」
嫌な想像をして思わず眉を寄せた私は、しかしその上を行くシロ様の想定で顔を引き攣らせた。それで手が爛れてしまったり、大怪我をしてしまったりしたらどうするのだ。シロ様は基本的に冷静なのに、どこか無鉄砲なところがある気がする。ちゃんと見ていなければ、死んでしまうような。それも変な話だ。だって彼はきっと、私よりも余程強いのに。
だが私はその文句や心配を、言葉にせずに飲み込む。私と彼はまだ出会って二日。ちゃんと話をした時間として考えれば、一日にも満たないはずだ。それならばそんな家族や友達が言うようなことを、出会ったばかりの私が無遠慮に口にしていいのかと憚られて。その距離感に踏み込んでいいのか、私にはまだわからない。
だって私の頭の中には、まだ血塗れで死にかけていた少年の姿が残っている。何かの重い事情を負って、そうして傷ついた彼のことを私は知っている。それが気安く踏み込んではいけない領域、ということも。
「……どうした」
「っ!……ううん、なんでもないよ」
一瞬掠めた暗い思考は、しかしシロ様本人から言葉を掛けられたことで流れていった。思わずはっとして目を開けば、そこには案じるかのような異色の瞳がこちらを見つめていて。それに言葉を飲み込んで、私は苦笑を浮かべる。どうしてもこの躊躇を、彼に直接告げるのはやはり憚られた。やはり傷を負ったばかりの彼に踏み込んでいいのかなんて、容易に尋ねるべきではないだろう。
「……お前、っ!」
「ひゃっ……!?」
そんな私にシロ様はまた、納得のいかない表情を浮かべた。私が言葉を飲み込む度にそんな表情を浮かべる彼は、しかし今度は踏み込もうとしたのだろう。口を開きかけて、だが彼が放とうとした言葉は驚きと共に飲み込まれていった。ぐらりと小さく揺れた地面、その衝撃に私は尻餅をつく。土の間に入り込んだ石が、勢いと共に肌を滑って擦り傷を作っていった。
しかしその痛みに喘ぐ暇もないまま、私は呆然と上を見上げる。大きな木々に阻まれたこの深い森は、少し暗くて。でもそんな木陰を凌駕するような深い影が、今私とシロ様の前に立っている。凶暴な目付きを隠そうともせず、確かにこちらを獲物と認識している何かが。その大きな体躯は、その生き物がたった今地面を揺らした存在だということを物語っていて。
「……なに、これ……」
それは一見、熊のような生き物に見えた。丸い耳に黒茶色の体。けれどその瞳は動物図鑑に乗っているような、つぶらで茶色いものではない。真っ赤な瞳を滾らせたその生き物は、私を確かに見下ろしている。毛鉤のような体表は触れるだけで怪我をしてしまいそうで、その手の先端を飾る爪は私の知る熊よりも鋭く長い。今私の前に立つ熊に似た生き物は正しく、殺戮に特化したかのような私の知らない生き物だった。
「……ふん、血の匂いにでも惹かれたか。魔と冠がつけど所詮は獣だな」
しかし突然のことに呆然とするそんな私を、まるで庇うかのように小さな背中は起き上がる。濡れた白い衣の帯が、目前で小風に揺れた。嘲笑するかのように零された言葉に思わずはっとしてその手を掴もうとするも、前へと進んだ彼のせいでその手は空を切って。
「っ、シロ様、危ないよ!」
「問題ない。邪魔だから下がってろ」
叫ぶような私の声に、その小さな背中は一瞬だけこちらを振り返った。その異色の瞳は片方が元は私の物だったと思えない程、落ち着き払っていて。しかしその根底には、確かな闘争心が宿っていた。持ち主が私ならば、生涯決して宿すことがないであろう狩る側の色が。
空席だった左の眼孔に私の物だった黒を宿した少年は、そうしてふっと笑う。安心させるかのような、強者としての意思を宿したまま。それに息を呑むも一瞬、僅かな瞬きの間に彼の手には刀が握られていて。それと同時に殺意に輝いた瞳は、もう私ではなく目の前の敵を映した。
「……話は、後で聞く」
その背丈には似合わないほど、素人の私が見ても大きすぎると思うほどの、大きな刀。しかしそれを容易く片手で握ったシロ様は、熊に似た生き物の方へと向き直る。熊もまた、そうして不敵に佇むシロ様に認識を改めたのだろう。今度は獲物ではなく敵として、その赤い瞳を熱で滾らせる。そうして僅かな静寂の後、その戦いは幕を開けたのだった。