百二十一話「自由に自信を」
食事を終えて、一階に備え付けられているお風呂を借りて身を清めて。もう良い時間だと部屋の中へと引っ込んだ私達は、特に何をするでもなく各々と自由なことをしていた。私は拾ってきた貝殻を乾かすため、窓辺付近で布の上へと広げ。シロ様は生物の教科書に目を通し。そしてヒナちゃんはベッドの上でフルフと絵本を広げる。なんとも平和な時間である。少し前まで奴隷騒ぎなんて事件があったのが嘘みたいだ。
これが終わったら最近は日課となっていた法陣の書き取りをしようか。それともそれはヒナちゃんが眠ってからにして、無邪気に絵を眺めている一人と一匹に絵本を読み聞かせるべきか。そんな二択を浮かべながらも、最後の貝殻を他の貝殻に重ならないようにと並べ。よし、これならば半日もすれば乾くだろう。それなら明日はリースを……などと考えたところで。
「そういえばヒナちゃん」
「?」
「明日も練習したい?」
ふと過ぎったのは、そんな事をしている暇は無いのではという考え。ベッドに座り込んではぼんやりと絵本を眺めている少女の方に視線を向ければ、赤い瞳は一度きょとんと丸まった後に見開かれる。そう、そうなのだ。正式に前座として朱の神楽祭に参加することになった以上、ヒナちゃんの飛行の練習は継続する必要があるのではないか。それこそが私の脳裏に過ぎった考えである。あれだけ飛べるのなら十分なのかもしれないが、やはりヒナちゃんはまだ慣れていないわけだし。技術があっても、そこに自信が追いついていなければ実力の半分も発揮することが出来ないだろう。
「……したい、けど」
「けど?」
「レゴ、さん……忙しい、かも」
……しかしまぁ、やはりそこがネックになるよなぁとぽつり。おずおずとした様子で練習をしたい旨を伝えてくれるも、しょんぼりと眉を下げてしまったヒナちゃん。その頭には夕焼けの中の忠告がしっかりと根付いているのだろう。俺が居ない時にはぶっ続けで飛ぶなと言う、レゴさんの忠告が。
けれど私達にはいまいち、「ぶっ続け」の基準がわからない。果たして、今のヒナちゃんはどれくらいの時間飛ぶことが出来るのか。休憩の目安はどれくらいにするべきなのか。それが一切とわからないのだ。昼から夕方まで飛び続けても尚元気な以上、多少無茶をしてもいいのだろうか。それとも一時間ごとに数十分程の休憩を挟む形を取った方がいいのか。個人的には後者を取って欲しいのだが、それだと間近に迫った朱の神楽祭へ向けての練習が不十分になってしまうかもしれない。ヒナちゃんの不安がある程度払拭出来なければ、練習は無意味なものになってしまうだろう。
「あいつが居なくとも問題ない。お前が万が一落ちても、我が受け止める」
「シロ、お兄ちゃん……」
「我が頼りないというなら話は別だが」
「う、ううん……! そんなこと、ない」
だが、こういう時に頼りになるのがシロ様である。開いていたページを閉じて顔を上げた美少年からの、頼もしい一言。それに一度ぽかんと口を開けたヒナちゃんは、その後続いた言葉に慌てたように頭を振って。空を自由に飛ぶ人間を、地上の人間が受け止める。傍から聞けばとんでもない話だが、シロ様なら出来るだろうなぁと思えてしまうあたり規格外と言うか。いやこの場合、私が信頼を寄せ過ぎなのか?
「それにミコの糸も何かに使えるはずだ。網のようにして地上に張り巡らしておけばどうだ?」
「……! そっか、そういう使い方もあるんだね。多分、籠繭の応用で行けると思う……」
まぁ絶対の信頼を寄せてしまうのも仕方ない話だろう。なんせこの少年は私が思いつかなかったことを、あたかも当たり前のように話してくれるので。成程、糸を網のように巡らせる。範囲が広すぎるから籠繭よりも少し大変だが、今回は一瞬で展開する必要はないのだ。予め張っておく予防策のようなもの。ヒナちゃんに時折下を見てもらって、下の網の範囲から外れないようにと言っておけば安全性は更に増すだろう。私の法力がどれくらい削れるかは、生憎と未知数だが。
「……そうだなぁ、でもやっぱり心配だし。一時間ごとに十分休憩で、合計三時間くらいってことでどうかな?」
とはいえ、心配なものは心配なので。窓際からヒナちゃんとフルフが座り込むベッドの前へと向かい、視線を合わせるようにしゃがみ込む。ちらっと視線を向ければ会話に参加(?)してこなかった毛玉は、絵本の中の星のイラストに夢中だった。ぶわわと逆立った毛は警戒や怒りからではなく興奮によるものだったらしい。
道理で大人しかったはずだと内心で頷きつつ、私はヒナちゃんの前で一本と三本の指を立てた。些か日和すぎかと思われるかもしれないが、いくら安全策があろうとも飛ぶという未知の行為への不安は尽きないのだ。レゴさんが居ても絶対は無いのに、そこに更に不安要素を上塗りしてはいけない。まぁ大丈夫だろう、という慢心ほど危険なものはないのである。
「……それだけで、大丈夫かな……」
「……うーん」
しかし、どうやらヒナちゃんにとっては納得できる時間では無かったらしく。私の提示した時間に、ヒナちゃんは赤い瞳を曇らせた。その程度の練習時間で本当に本番が大丈夫なのかと不安らしい。子供のすることかつ、あくまで前座。故に失敗したところで大きな問題はないだろうし、それは話のどこかでガッドさんも言っていたのだが……。それでも当人からしてみれば、やはり失敗は恐ろしいものだろう。無責任に大丈夫、なんていうべきではない。
ならばどう説得するべきか、それとも譲歩するべきか。私はそこでシロ様の方に視線を向けた。すると再びと教科書に視線を落としていたシロ様は、すぐさまと私の視線に気づいて。どうすればいい? 言外にそう問いかけてみる。すると返ってきたのは数回と首を振るサイン。無茶をさせるな、そう言いたいのだろう。つまり天秤は、説得の方へと傾いたわけだ。それならば。
「私は大丈夫だと思うよ。だって空の上のヒナちゃんは、とっても自由だったから」
「じゆう……」
「うん。きっとどこにだって行けるし……」
しゃがみこんでいた姿勢からぺたりと床に腰を落ち着けて、ゆらゆらと瞳を揺らす少女を見つめる。ヒナちゃんに足りていないのは実力ではない。だってあれだけの時間、気球の操縦士をやっているレゴさんに追いつくように飛ぶことが出来たのだ。それならば今のヒナちゃんに足りていないのは、自信だけ。それはきっと練習以外でも補うことが出来る。見上げて微笑めば、赤い瞳の揺れは収まった。まるで居場所を定めたかのように。
「もっと練習すれば、いつか誰かをどこかに連れていくこともできるようになるよ」
「……!」
大丈夫だよと、こうして手を握ってあげるのは何回目だろう。いつか私がおばあちゃんに、おじいちゃんに、そうして過ぎ去っていった誰かに、してもらったこと。私はこれに安心をもらった。自分でいくら大丈夫と思い込もうとしても駄目だった時にだって、手を握って大丈夫だと言ってもらえれば一気に安心できたのだ。温かい言葉と温度が、私に勇気をくれた。
ヒナちゃんも同じだったらいい。今この子が目を見開いて唇を震わせている理由が、いつか怖くて仕方なかった私が救われた時と同じだったら。この人ならば大丈夫だ、受け入れてくれる。例え自分が何を失敗しても、悪い子になっても。いつか私があの人に同じ想いを抱いたように、ヒナちゃんも私に同じ想いを抱いてくれたら。それならきっと、そうきっと。
「……うん」
きっと、自分の中の大丈夫は本物に変わるから。
「……よし! じゃあ明日の午後からお祭りの前日までの四日間、頑張ってみよっか」
「頑張る……!」
握り返してきてくれた小さな手をそっと包みつつ、快活に見えるように笑えば赤い瞳は意思を宿した。決意とも呼べるそれはきらきらと光って眩しい。それだけの思いを宿しているならば、きっと大丈夫だろう。ヒナちゃんは成功する。花びらを散らして皆に笑顔を振りまくことが出来る。
「……あ、あのね……」
「うん?」
けれど一安心できたところでまた一つ、不安げな声が。説得が足りなかったかと瞳を見つめるも、どうやら練習とはまた別案件のようで。先程の不安と自信のなさとは違う、どこか迷いを感じる瞳が私を見つめる。何か言いたいことがあるらしい。
……もしかして、降らせるものだろうか。そういえば散々と考え込んでいたようだし、まだ迷いがあるのかもしれない。花びらの色とかで迷っているのか、それとも花びら以外のものを降らせたいが思いつかなくて迷っているのか。後者なら糸くんと力を合わせ、全力でヒナちゃんのサポートをする所存である。ガッドさんはああ言っていたが、私が協力するなとは言われていないし。
「……わたし、『星』を降らせたいの」
「……え?」
しかしそこで聞こえてきたのは、予想の範疇外の言葉で。予想だにしていなかったヒナちゃんからの言葉に、私は見事硬直してしまうのだった。