百十七話「貴方がしたいこと」
「……それで、少年は素敵な宝物を手に入れることができました。めでたしめでたし」
「…………」
定型通りの締め言葉。鮮やかな色彩で描かれた幸せそうな光景の次のページは、白紙で。絵本のこういうところはどこか物悲しくなる、ふとそんなことを思った。まるで今までの物語が全て巻き戻ってしまったような、寧ろ最初からなかったかのような。所詮はただ想像の世界だとは知っていても、どうしても。
けれど今はそんな感傷よりも、目の前の少女の方を気にするべきだろう。ぱたりと装丁を閉じると同時、私は未だに閉じられた本へぼんやりと目線を落とすヒナちゃんに視線を向けた。もうそこには鮮やかな絵の中の世界も、心躍るような冒険の行く末も語られてはいないのに。
朝方、ガッドさんに朱の神楽祭に出てみないかと言われてから。それからヒナちゃんはずっと何かを考えている様子である。まぁ十中八九、朱の神楽祭に関することを考えているのだろうが。食事中も、食事を終えてこうして部屋に戻ってくるまでも、今こうして絵本を通して文字の勉強をしている時だって。その赤い瞳は思案するかのように薄く揺らいでいる。心ここにあらず、といった様子だ。
「……ヒナちゃん?」
「っ、あ……」
「大丈夫?」
一応、こうして声をかければ何かしらの反応は見せてくれるのだが。大丈夫? その問いかけに小さな頷きを見せつつも、瞳はまたしても朧に掛けられて。一応こちらの声は聞こえているようなのだが、すぐに思考に沈んでしまう状態。果たして、こういう時はどうするべきなのか。私は考えた。
朱の神楽祭にヒナちゃんが参加すること。それをガッドさんから聞かされた時、私は窺うようにこちらを見上げたヒナちゃんに向けて「ヒナちゃんのしたいようにすればいいよ」と告げた。心の底からの想いである。何にでも挑戦するのは決して悪いことではない。ヒナちゃんの好きなように、自由に、選択を得る。この機会が、彼女が自分のことを自分で選択できるようになるための第一歩になるのではないかとも考えたのだ。私の想いを汲み取ってか、次にヒナちゃんに視線を向けられたシロ様も「好きにしろ」なんて言っていたことだし。
「…………」
しかし流石にこれは、そろそろ口を挟むべきなのだろうか。いよいよ表情に不安が滲み出したようにも見えたヒナちゃんを見て、私は眉を下げた。現在部屋は私とヒナちゃんの二人きり。シロ様は私達が部屋で過ごすと聞くと、ならば鍛錬をすると言って外に出ていってしまったし、フルフは満腹のおかげか優雅にも朝寝の続きに耽っている。ヒナちゃんに助け舟を出せるのは私しか居ないのだ。
「あの、ヒナちゃん」
「……!」
「なにか相談事があるなら、お姉ちゃんに話してみない?」
ええいままよ! 私は自らの手が泥舟にならないようにと祈りつつ、恐る恐るとヒナちゃんに問いかけた。ヒナちゃんに自由に選択をさせるという当初の予定は変わっていないが、何も誰かに相談をしてはいけないという決まりはない。結局選択権が最後、彼女にありさえすればいいのだ。人に相談することを覚えるというのも大事だと思うわけであるし。
ヒナちゃんも私のように思考で自分を追い詰めかねないタイプだしな、と自分にもブーメランなことを考えつつ。私はそこでそっとヒナちゃんの手を握った。その手は緊張状態のせいか、どこか冷たくも思えて。もう少し早く助け舟を出すべきだったか。僅かな後悔が頭を掠めるも、それを悟らせないようにと私は笑顔を浮かべた。少しでもヒナちゃんが安心できるように、なるべく優しく見えるように。
「……話しても、いいの?」
「うん。私はヒナちゃんの好きにしてほしいだけだから……。その『好き』の答えが出ないっていうなら、一緒に考えるよ」
するとふっと強張った肩から力が抜けていく気配が。恐る恐ると零された声に柔らかな返答を返すと、赤い瞳はほんの少しだけ潤んだ。一人で考える、自分のことを自分で決める。それは大切な権利でもあるが、時にはそれが大きな心の負担になる人だっているだろう。特にヒナちゃんは、まだそれらを得たばかりなのだから。
新しい世界は眩しくて、けれどどこか恐ろしい。そのことを知っていたはずなのに、手助けが遅れてしまった。頼りになるお姉ちゃんポイント減点である。頭の中でただでさえ低かった点数が更に引かれていった気配に肩を落としつつ、私は絵本をリュックへとしまった。さて、文字の勉強ではなく心のお勉強と行こうか。最もこれに関しては、私とて毛が生えた程度の素人でしかないのだけれど。
「……わたし、わからない」
「わからない?」
「うん。何がいいことなのかな、って考えてたの」
それでも、未熟な私にだってなにか出来ることはあるはずだ。そんな思いのまま視線でヒナちゃんを促せば、少女は心底困ったような声音でぽつりと呟く。わからない、吐露されたその言葉は不安と動揺で揺れていて。
「飛んだら、おじさんは喜んでくれる」
「うん」
「でもわたし、ちゃんと飛べないかもしれない」
「……うん」
「そしたら、おじさんは悲しくなる。どっちのほうが、おじさんは嬉しいのかな」
拙く幼い言葉が、少しずつぽろぽろと落ちていくさま。私はそれの一つずつに相槌を返しながらも、手のひらの中にある小さな握り拳を優しく握った。どうしたら、どうしたら。揺れる瞳の原因は、そこからだ。ヒナちゃんは何が正解かを、考え続けていたのだ。
ああやっぱり、もう少し言葉を掛けるべきだったなと考えて。放り投げるには早すぎたと、内心で苦く呟く。我慢上手で甘え下手。だからこそどこか大人びて見えるが、ヒナちゃんはまだまだ子供なのだ。大人びて見えるのは表面だけ、内面は同年代の少年少女よりも幼いだろう。なんせ生きることと、耐え抜くことは違うから。ヒナちゃんの今までの生活を思えば、情緒が育っていないのは当然のことなのだ。
「……ヒナちゃん」
「……うん」
「ガッドさんじゃなくて、ヒナちゃんはどうしたいかな」
「え……?」
そんな大切なことを、この子があんまりにも優しいからすっかり忘れてしまっていた。だけど今はそのことで落ち込んでいる暇はないのである。出口がわからないまま、迷子のような表情を浮かべる少女。私はそんなヒナちゃんに、優しく問いかけてみた。そう、私が聞きたいのは最初からそれだけ。ガッドさんの都合がどうじゃない、大事なのはヒナちゃんが何をしたいのか。そういう選択を、委ねたかったのだ。
「朱の神楽祭は、飛ぶのが大好きだったすごい人に飛ぶのを見せるお祭りなんだって」
「飛ぶのが……?」
「そう。だから参加するのは、飛ぶのが好きな人なんだ」
少しでも彼女の考えの幅が広がるようにと、わかりやすい補足を。誰かに頼まれたからではなく、それにヒナちゃんがどんな事を感じては考えて、そうしてどうしたいかを決められるように。ぱちりと見開かれた瞳に微笑みかけた。好奇心からか、浮かんでいた不安は泡が弾けたかのように一度姿を消している。
「ヒナちゃん、飛ぶのはどうだった? 私を助けてくれた時、どんなことを考えてた?」
「……わかんない。ただ助けなきゃ、って」
「あはは、そうだよね。あの時は、ありがとう」
そのまま少し前、彼女と縁を結んだ決定打の思い出を。決して良い思い出だけだったとは言えないけれど、それでもあの瞬間に私達の縁は強く結ばれた。その記憶を探るかのように問いかければ、細い眉は難しげに引き結ばれて。確かに私がヒナちゃんの立場だったら、その時に楽しいだなんて思う余裕はないだろう。助けなきゃ、それ以外の感情が思い浮かぶ余地がない気がする。
つまるところ、今のヒナちゃんには判断材料が足りていないのだ。自分で自分のことを決めるために、必要なこと。自分が何を好きで、何をしたくて、何が出来るのか。それらが足りていないからこそ、誰かのことを考えて結論を導き出そうとする。私の見立てでは、今ヒナちゃんに必要なのは自分の心と力への理解。恐らくはそれを補うことが、ヒナちゃんの助けになるはず。
「うーん……じゃあ、飛んでみる?」
「とん、で……?」
そこまで考えれば、答えは自然と導くことが出来た。そうだ、飛んで見れば良いではないか。それで飛ぶのが楽しいと思えたのならやってみればいいし、嫌ならばやらなくていい。何事も試してみなければ、答えなんて出ないのだ。そんな至極単純な答えにありつけなかった自分に呆れつつ、私はヒナちゃんに提案してみた。すると、赤い瞳は驚いたように見開かれ。
「そう。確か午後からはレゴさんも時間があるって言ってたし、その時間ならシロ様も帰ってくるだろうし……」
嫌な感触ではない。それを感じ取りつつも、私は思考を重ねていく。飛ぶのに不慣れなヒナちゃんが飛ぶならば、町中よりも開けた場所のほうが良いだろう。例えばあの気球を下ろした砂浜のように開けた場所なら、ヒナちゃんが何かにぶつかって怪我することも誰かを怪我させるようなこともないはず。
それと有事の際に対処できる人物が居れば尚良いだろう。午後からは暇だぜなんて言ってたレゴさんに、飛ぶためのレクチャーを頼んでみるのはどうだろうか。同じムツドリ族のハーフだし、レゴさんは気球の操縦者が出来るくらいには飛行に精通している。そこに更にシロ様も一緒に居れば、大怪我や事故などの恐ろしいことはそうそう起きないはずだ。シロ様は飛べはしないが、その跳躍力はもはや飛んでいると言っても過言ではないと私は思っているので。
「飛ぶのはあくまでついでで、レゴさんを誘ってピクニックにでも行こうか!」
「ぴくにっく……」
とはいえ、あまりプレッシャーを掛けすぎてはいけない。飛ぶのはあくまでサブ目的。思い出づくりのためにピクニックに行こうと笑いかければ、ぽかんとしていたヒナちゃんはしかし小さく頷いた。握っていた手は私の体温が移ってか、温かみを取り戻している。不安で溢れていた表情も、今は安らぎ。それでようやく、私は自分の手が泥舟にならなかったことに安堵するのだった。