百十四話「宴の裏の内緒話」
「ピュイピュイ! ピュピュ!」
「あはは……ごめんね」
まんまるの瞳は吊り目に、毛を逆立たせては不満を叫ぶように手のひらの上で鳴き喚く。そんな毛玉に、私は苦笑を浮かべながらも謝った。なんせすっかりと、この美味しい物好きの小動物をこの歓迎会に招くことを忘れてしまっていたので。
そう言えばと思いだしてシロ様に背負われたままだったリュックを探り、こっそりと呼び出し機能を活用。するとまるで跳ねるかのように飛び出して来たフルフは、このように大層お冠だった。自分からは出られないというのに、外で誰かが楽しそうに美味しそうなものを飲み食いしていたからだろう。これに関しては謝ることしか出来ない。目先の欲……つまりガッドさんが作ってくれた美味しそうなご馳走を前に、すっかりとフルフの存在を忘れていたのだから。
「悪かった。これでも食べろ」
「ピュ……?」
「ごめんね。こっちも……食べる?」
「ピュピュ……ピュ!」
だがフルフの何よりの長所は単純なところである。流石に悪いと思ったのか、バツが悪そうにシロ様が差し出したのは手毬寿司。それに続くように眉を下げたヒナちゃんから差し出されたのは、一口と掬われたちらし寿司で。見たこともない豪勢な美食を近づければ、食に貪欲なフルフが興味を持たないはずもなく。毛を逆立たせていた白い毛玉は自ら跳躍して私の手から抜け出すと、シロ様の肩へ。そのままシロ様から差し出された手毬寿司に食いつくと同時、怒りを示すかのように釣り上がっていたフルフの瞳は瞬時に丸まって光を取り戻していった。先程までの怒りなどすっかり忘れてしまったのだろう。今度はヒナちゃんから貰ったちらし寿司に夢中である。
「……ちょっと単純すぎねぇか?」
「ふふ。でもあんまり深く考えすぎても、毒ですから。あれもあの子のいいところなんです」
「あー……まぁ、そうかもな」
それを見ていたのか、いつのまにやらガッドさんとの話を切り上げて私に話しかけてきたレゴさん。というかこの場に、さっきの光景を見てなかった人は居ないだろう。和やかな宴の場に突如と人間が放つそれではない鳴き声が聞こえれば、誰だって気になるはずだ。現に、突如として乱入してきたフルフをフェンさん一家は驚いたように見つめているし。
呆れたようなレゴさんの声に思わず笑みを零しつつも、金色の目を見上げる。確かに食べ物で誤魔化されるなんて単純すぎるかもしれない。でもそれが、フルフのいいところなのだ。深く考えない、というのは時には大切なことである。それが伝わったのか、一度瞬いた金色の瞳は次の瞬間には細められ。私よりも長く生きているレゴさんなら、きっと私よりもそのことを深く実感しているはずだ。何か思い当たる節でもあったのかもしれない。
「っとそれより嬢ちゃん、アレはどうなった?」
「……無事、使わずに済みました」
私は考えすぎてしまうところがあるから、少しはフルフを見習った方が良いかと考えて。しかしそこで小声で尋ねてきたレゴさんの言葉に、私は同じように小さな声を返した。成程、話しかけてきたのはそれが聞きたかったからか。話がヒナちゃんに聞こえないようにこっそりと数歩程後ろに下がれば、何がしたいのか察してくれたのかレゴさんもそれに合わせてくれて。アレ。そう言葉を伏せたのだってきっと、この楽しい宴に水を刺したくなかったからなのだろう。だが今回は幸運なことに、レゴさんが杞憂するような展開にはならなかった。あの時ディーデさんが出てきてくれなかったら、また展開は違ったのかもしれないが。
「……そうか、良かったよ」
首を振った私を見て安堵したような表情を浮かべたその人に、淡く微笑みかける。きっと彼とて、大事になるのは望んでいなかったのだろう。それでも私達のために手段を用意してくれたレゴさんは、やっぱり面倒見が良い優しい人だ。奥さんが居ないというのが、不思議になるほど。なんて言ったら、レゴさんに少し悪い気もするが。
……アレ。私があの時胸に抱えて、結局使わなかった秘密兵器。それは起訴書、と呼ばれる代物だった。役所に行って事情を話し、内容が認められれば誰でも手に入れることができる書類。それはその名前の通り、裁判に関する書類である。レゴさんは私達の事情を役所に話しに行き、兵舎がヒナちゃんを手放そうとしないのは不当かつ誘拐に値するのではと説明してくれたらしい。そしてそれは見事認められ、こうして書類が発行されるに至った。なんせこの世界では事前調査も裏とりも必要ない。全ては天秤の揺れに委ねることが出来るのだから。
「これに関してはあっちが圧倒的に不利だ。恐らく裁判に発展するまでもなくヒナちゃんは返されるだろうが……」
「遺恨が残ります、もんね」
「……ああ」
賑やかな宴を外から俯瞰して、密やかな声を。私の視線は隣でお酒の入ったグラスを揺らすレゴさんではなく、食事の置かれたテーブルで楽しそうに談笑する二人と一匹に向けられていた。フルフに色んなものを食べさせるヒナちゃんと、そんなヒナちゃんからの餌付けに素直に応じるフルフ。それを仕方なさそうに見守るシロ様は、自分の食事を疎かにしているヒナちゃんの口に時折食事を運んでいる。大層可愛い光景だ。視界の端に映るミーアさんがぷるぷると震えているのもわかる。
あの光景の裏に、遺恨が残る形にならなくて良かった。そんなことを思う。レゴさんの言う通り、今回のことはあっちが圧倒的に不利だ。なんせ自分たちの所属でもない少女を不当に奪い、一週間も似たような質問をかわしてはのらりくらりと。全てに権利がなくて、ただ兵舎の権能と威光を利用しただけ。その裏にどれだけ切実な理由があろうと、オレンさんのしたことは決して正しいことではなかったのだ。兵舎の名に泥を重ねる、それだけの行為にしかならなかった。
「それがただの逆恨みだとしても、そんなのはこれからの嬢ちゃんたちの旅路にとって枷にしかならない」
お酒の入ったグラスを傾けたレゴさんが呟く。オレンさんのしたことが街の民衆にバレれば、兵舎の評判は下がるどころの話にはならないだろう。なんせこの世界の裁判には弁護士も検事も必要ない。正邪の天秤、嘘を許さないそれに手を乗せるだけで全てが片付くのだから。万が一にでも引かなかったオレンさんによって裁判が起こって、それで想定の通り彼らが負けて。そうすれば残ったやるせなさはどこに行くだろう。きっとそれらは恨みになって私達にいつか牙を剥く。逆恨みだろうとなんだろうと、その事実だけは変わりない。
「……実は逆に、恩を着せてやりました!」
「ん?」
「私と兵舎が協力して、この事件を解決したってことにする……って話にしてきたんです」
とはいえ、今回はそうはならなかった。ならばあったかもしれない話、なんてことは考えるだけ無駄なのである。結局、単純が一番ということだ。例えば小さな恨みをすっかり忘れて、今食事を楽しんでいるフルフのように。
わざと明るい声を上げて、何かを考え込むように俯いていたレゴさんを見上げる。レゴさんは私を大層お人好しと思っている節があるので、わざと悪ぶって。レゴさんは少し、私と似ているところがある。例えば悪い想像ばっかりして、後のこと後のことが心配になってしまうところとか。多分今も、今回のことは良かったがこれから先私達が何か悪いものに巻き込まれてしまうのではないか……みたいなことを心配してくれていたのだろう。だからそんな優しいこの人の心配を、少しでも削いでおきたかった。だってきっと、お別れはそう遠くない。
「それくらいの駆け引きはできます。だから、そんなに心配しないでください」
「……そうか」
私達は旅をして、この人は気球を飛ばすのだから。にやりとなるべく悪く見えるように笑って見上げれば、一度目を見開いたその人は次の瞬間に苦笑を浮かべた。だが狙い通り不安は少し削ぐことが出来たのだろう。頑張れよなんて肩をぽんぽんと叩いてきたその人にはい!と返事を返して。
「ところで嬢ちゃん」
「はい?」
「ちゃんと恩分の報酬は貰ったんだな?」
「…………」
しかしその後の質問に返しては答えは控えさせてもらうこととした。決して、返す言葉がなかったわけではない。いよいよ供給過多な萌えの衝動に耐えきれなくなったミーアさんがレーネさんの制止を振り切り、二人と一匹のオアシスに突っ込んで行こうとしていたからだ。それは良くないだろう。故にレーネさんの応援に参ったというわけである。重ねて言うが、決して返す言葉がなかったわけではない。ないのだ。
後ろから聞こえてきた耐えきれなかったのであろう噴き出しに眉を下げつつ、私はレーネさんに加勢した。全ては楽しそうな二人と一匹の平和を守るために。だからこれは決して、逃げたわけではないのだ。