百七話「交渉成立?」
「それでは、彼女の持つ赤い翼が欲しいがために引き取るわけではないと?」
「はい。以前もお伝えした通り」
手のひらを正の位置である白い皿の方に置いたまま頷く。するとその重さに従うがまま、天秤は揺れた。片方の黒い皿だけが持ち上がる形。つまるところ、嘘を言っていないことの証明である。その光景に、目の前の男性の頬がぴくりと痙攣した。
「……では、何のために?」
「彼女が私ならば信じることが出来ると、そう言ってくれたからです。その信頼に応えたいと思いました」
続けられた質問に、淀みのない返答を。天秤は一切と傾くことはない。それはそうだろう。なんてったって、この言葉には一つの嘘偽りもないのだから。恐らくは、彼にとって都合が悪いことに。
目の前で鷹揚に頷くふりをして焦げ茶色の髪を揺らしながらも、同じ色の瞳に僅かな焦りを走らせている男性。ここ一週間で何度と顔を合わせた彼の名前、というか端名をオレンさん。レゴさんよりも歳上でガッドさんよりも歳下に見える……恐らくは四十代半ばと言った頃の彼こそが、ここウィラの街の兵舎の外交代表なんだとか。いわゆる、副団長という存在らしい。
「……それは、素晴らしいお話ですね。しかしやはり彼女を引き取るには、ミコさんはお若すぎるのでは?」
シロ様曰く、狸親父。まぁ大変失礼だが、その印象はわからなくもない。はっきり言ってしまえば、彼は無関係なのに兵士という身分を利用してでしゃばってきたような人なのだ。何の権利もなく、ただこちらの無知を利用して。今も私の隣に座って審査を見守るシロ様は、静かな瞳の奥に小さな苛立ちを燃やしている。今日は審査がなかったはずだが、という目だ。なんやかんやと言いくるめられて始まってしまったこの問答に、怒りを隠せない様子である。
恐らくは、そこまでしても赤い翼が欲しいのだろう。彼らの気持ちがわからないとは言わない。赤い翼が齎す影響力がどれくらいすごいかは、ここ一週間で何度だって聞いた。ここでの審査に少しでも有利になるようにと、レゴさんやらガッドさんが色々な話を聞かせてくれたのだ。赤い翼の持ち主は、その殆どが英雄的素質を兼ね備えている。強大な力と、それに見合う優しい心。それがあるからこそ、赤い翼はその者の背中に生えるのだ。まるで人の背を借りて世界に力を託すように。
「……彼女を引き取るのに、年齢は関係ないと思っています。必要なのは、どれだけ彼女に真摯に対応できるか。その心構えだと思っていますので」
「ほう? ではその自信があると?」
「はい」
つまり、ヒナちゃんは英雄になれるだけの素質をあの小さな体に秘めているということである。そしていつか英雄になる存在を、幼い内から手中に収めて自分の力にしたいと思うのは理解できなくはないのだ。いや自分の、というよりはウィラの街の兵力として、という方が正しいか。だからこそこの人は似たような質問を何度もぶつけては私の心を揺さぶって、諦め悪く期限を伸ばして、そうして諦めさせようとしてくる。恐らくは、街の未来を見据えて。
「私でなければ出来ないと、そう思っています」
けれどそれに負ける気は、毛頭なかった。
「ところでオレンさんはどうなのでしょうか。いいえ、この場合は兵士の皆さん、という区分になるのかもしれませんが」
「はい……?」
天秤は白の皿が傾いたまま、一切と揺れない。それに彼の表情が初めて歪んだ。僅かに忌々しそうに細められた瞳と、憎々しげに引き結ばれた口元。その表情のままに、彼は私達を邪魔な存在だと思っているのだろう。だがそう思ってるのは私達とて同じなのだ。それをこの人は、わかっているのだろうか。
最初は兵士という立場だからこそ、彼らが日本で言う警察のようなことをしているのかと思った。なのにレーネさんの話を聞くに、そういうのは基本的に孤児院の仕事らしく。そしてヒナちゃんが孤児院の所属では無かった以上、私達に引き取られるという形を両者合意という形でまとめていた以上、本来ならば私達は既に一緒に居ることが出来たはずなのだ。美味しいものを食べて、色々なものを見せて、彼女の好きなものを探すという事が出来ていたはず。なのにそれをこの人は邪魔した。不当な形で。
「もし私が貴方達に認められなかったとして、彼女……ヒナちゃんは貴方達に引き取られることになるんですよね? その時についてです」
それならば多少の意趣返しをしたって問題はないだろうと、私は天秤に置いていた手を下ろした。傾きが戻って平等に並ぶ二つの白と黒の皿。それをオレンさんの前に差し出して、私はじっと正面に座る彼を見据える。こんな小娘に見つめられているだけなのに、彼の肩はびくりと跳ねた。恐らくは、後ろめたさから。
「そうなったら貴方達はヒナちゃんの意思を無視して利用することなく、彼女をただの一人の女の子として育ててくれるんですか?」
「っ……!」
私のやりたいことが伝わったのだろう。彼がいつかしたような質問を返すと同時、促すように天秤を見下ろす。皿は平等に並んだまま、無人のまま。私の質問に、返ってくる声はない。誰もその天秤に、手を乗せることはしない。彼の頬に、汗が伝っていくのがわかった。
「……答えていただけない、ということでしょうか」
「そ、それは……ですね……」
「では別の質問でも構いません。貴方達が育てたいのはヒナちゃんであって、赤い翼の持ち主ではないんですよね?」
「…………」
矢継早に言葉を畳み掛ける。青ざめた顔を見ると若干の罪悪感が湧くが、ここで優しくしては彼は似たような問答をこれからも続けるだけだ。終わらせる、さっきシロ様にそう告げた。シロ様に嘘を吐くわけにはいかない。私を信じて黙ったまま見守ってくれているシロ様の信頼に、背くのだけは駄目なのだ。
形勢逆転。沈黙が部屋に重く広がっていく。彼の手はその膝の上に乗せられたまま、動くことはなかった。口が言葉を紡ぐこともない。沈黙は金なり、だなんて言うこともあるがこの場合の沈黙は彼の立場を追い詰めるだけだろう。そろそろ持ってきておいた秘密兵器を出すべきかと、そんな事を考えて。
「……いいえ、だな」
「っ!」
しかし突然、天秤は傾く。否定の言葉と共に、白の方へと。突如として現れた影に、シロ様の瞳が警戒するように光った。いつのまにかオレンさんの隣に立っていたその人は、オレンさんの手を白の皿の方に乗せている。勝手に動いた自分の手にか、それともその声にか、オレンさんははっと顔を上げた。そうしてその顔は、更に青ざめていく。いっそのこと今から死んでしまうのではないかと思うほどに、青く。
「……貴方、は」
「おう、あんたらに会うのは一週間ぶりか? 悪いな、こいつの駄々に付き合わせてたみたいで」
オレンさんの隣に立つその人には、見覚えがあった。とは言え一週間前に、一度だけではあったが。褐色の肌に短く刈り上げた白い髪、レゴさんと同じ金色の瞳。屈強な体格と厳つい顔立ちは、どちらかと言えば周りに怯えられる容姿ではあるのだろう。しかしにかりと笑ったその表情が、その厳つさをいくらか軽減している。
確か、ディーデさんだったか。この兵舎で団長を務めていると快活に笑ったその人を交わした握手は、中々に痛かったような。オレンさんと同年代くらいのその人は、見た目からして明らかに強そうだった。いかにも頭脳仕事をしていますというオレンさんとは真逆、肉体労働に長けていると言わんばかりの雰囲気である。
「……俺は審査は一日でいいと言ったな、オレン。兵団の信用は自分たちで取り返すと」
「で、ですが……!」
「おめーの言いたいことはわかるけどよ、この子らはあの犯罪者共を捕まえるのに協力してくれた立役者だぜ? 義を不義理で返してどうする」
つまり何が言いたいかと言うと、そういう人が怒ると迫力がすごいという話だ。私達に向けた朗らかな笑みとは一転、瞳を眇めてオレンさんを見下ろしたその人の声は低かった。話を聞くにこれまでの審査がオレンさんの独断なのはわかったのだが、それ以上に怖いと言うかなんというか。思わずシロ様の方を見遣るも、白皙の美少年は今日も涼しい表情のままである。握られた小動物の方は、小刻みに震えているというのに。
「なのに俺が居ない時間を狙って呼び出して、こんなわけぇ女の子相手に尋問か? 落ちるとこまで落ちてんじゃねぇよ!」
「っ……! 申し訳、ありません……!」
びりびりと、怒声が部屋に響き渡る感覚。ここにヒナちゃんが居なくてよかったと、現実逃避にそんなことを思う。ディーデさんの言ってることは私達の味方寄りの言葉なのに、それ以上に迫力がすごかった。顔を真っ青に机に頭を付けるオレンさんを、情けないとは思わない。だってそれくらい怖いのだから。
成程、ヒナちゃんの引取りに関してはオレンさんの独断だったらしい。それならば常に審査する人が一緒だったのも、毎日バラバラの時間を指定されていたのもわかる気がする。つまるところこの怖い団長さんの居ない隙を狙って、私達からヒナちゃんを引き抜こうとしていたわけだ。別に尋問とまで言うことはされていないのだけれど。
「謝る相手が俺か? そこまでわからないとは言わねぇよな?」
「は、はい……! 不義理を働いた挙げ句、貴方達からあの少女を奪おうとして大変申し訳ありません……!」
「あ、いえ……」
もはやどこかのヤの付く自由業の方なのでは? と言わんばかりに凄んだディーデさんに脅され、机に頭を擦り付けて謝ってきたオレンさん。その必死さについ私は体を引いてしまった。だって別に謝ってほしいわけではなかったのだ。ただ滞りがないように、もう誰にも邪魔されないように、ヒナちゃんを引き取りたかっただけで。
どちらかと言えば謝ってほしいのは……と、もう叶うことのない願いが一瞬頭に過ぎる。しかし考えたところで無駄なことに、これ以上頭を使っても時間の無駄だろう。今大事なのはヒナちゃんを引き取れるかどうかで、それ以外はどうでもいいのだから。そしてその主目的も今、達成されようとしているわけだし。
「……あ、あの」
「ん? 土下座でもさせるか? ついでに俺も、」
「い、いえ! そんなのはいいんですが……」
だからこそ、これ以上の謝罪は必要ない。オレンさんを椅子から引きずり落とし自分も地面に膝を着こうとしていたディーデさんを慌てて止めて、私はじっとオレンさんを見つめた。項垂れたまま、顔を上げないオレンさん。多分、根っからの悪い人ではないのだろう。そう思うのは少し甘すぎるのかもしれないが。でも彼はウィラの街を守るために兵力を欲し、名誉を回復させたかっただけだ。自分個人ではなく兵団の引き取りとした時点で、それは明白である。ならばと、私は言葉を続けた。きっとこの行動は、シロ様に呆れられてしまうだろうとは思ったが。
「その、ヒナちゃんは渡したくはないんですけれど……名誉の回復、という点ならお手伝いできるのではと思って」