閑話「星と死神」
深夜、誰もが寝静まる頃。石畳の床に寝転び、ぱさついた黒髪を床の上にばらまいた男は淀んだ緑の瞳で一点を見つめていた。捉えるは鉄の棒が何本と並ぶ先、檻の外。
外を見る男の思考はただ一つに染まっていた。失敗した、失敗した、失敗した。その言葉ばかりが頭を染めて、焦燥感はじりじりと胸を焦がす。男は決して、助けを期待して外を見ているのではなかった。自分の元を訪れる死神が、いつ自分の首をその鎌で切り落とすのか。命を乞うチャンスはあるのか。それだけを考えて、男は必死に外を見続ける。緑の瞳を泳がせる結膜を、赤い線でびっしりと染めながらも。
「!」
そうしてどれくらいの時間が経ったのだろう。永遠とも思える暗闇の中、やがて一つの足音がした。硬質めいた軽いそれに男の肩が跳ねる。その足音は狙いを定めるようにこちらへと向かってきていた。それはそうだろう。この足音の主にとって、用があるのはこの男だけ。自分を窘めることが多かったあの銀髪の男や、黙々と見張りを続けていた獣人たちに用はない。そして近くの檻に閉じ込められた彼らが、この足音の襲来に気づくこともない。それがとても幸せだなんてことに、気づかないまま。
「……こんにちは! 蜥蜴のおじさん」
「……メイ、さま」
彼女が用があるのは、少しばかり「上」を知ってしまっているこの男だけ。「印」を付けられた、自分だけ。
「あれ、こんばんは……だったかなぁ?」
夜の空気に似つかわしくない、無邪気な少女の声。格子の先では、赤い長髪を揺らした少女が可愛らしく微笑んでいる。傷一つ無い白い肌、輝く二つの赤い双眼。年の頃はまだ十を過ぎたくらいだろうか。まだ幼い少女の顔の両横に生えるは、人のものではない人外のそれ。ふわふわとしたそれは良く手入れされているようで、僅かに差し込む月明かりでもその毛艶がいいことは見て取れた。男が虐げていたあの少女とは違う、立派と称してもいいムツドリ族特有の耳。
男はああ、と口の中で密やかに息を飲み込んだ。よりによって彼女がきてしまった、と。いや、彼女が来る可能性が高いことはわかっていた。ここはムツドリ族の領地。この場所で男が失敗した以上、上から送られてくるのは彼女の可能性が高い。しかしそれでもと、期待したのだ。彼女でなければ、まだ自分に道はあったかもしれないと。
何もわからないが上に、どこまでも「あの方」の愛に忠実な彼女でなければ。
「メイ、さま」
「ん? なーに?」
「今回の失態については、もはや言い訳の余地もありません。ですが俺はこれまであの方のために尽力してきました。多くの奴隷を贄に、あの方に金銭と美食を提供してきたはずです! どうか、どうか御慈悲を……!」
だが、それでも命をそう簡単には諦めることはできない。男は鎖に繋がれたまま、頭を地面に擦り付けるようにして目の前の少女に平伏した。自分を戒める忌々しい鎖がじゃらんと音を立てる。内心にはなぜ自分がこんな子供にという感情もあったけれど、苛立ちと屈辱で脳内が沸騰しそうになったけれど、それ以外に男がこの場面を切り抜ける手立てはなかったから。
「……うーん」
なぜなら男の土下座に困ったように眉を下げたこの愛らしい少女は、見た目ばかりが整った化け物。その事を男は良く知っている。この少女にかつて、自分が何をされたのかも。負の記憶は決して、薄れることはない。その負の記憶をこの少女と似たあの子供にぶつけたことだってあった。正確な回数なんて、数えるのも馬鹿らしくて忘れてしまったけれど。
「ごめんね? メイ、蜥蜴のおじさんが何言ってるのかわかんない」
「っ……!」
しかし、頭に地面を擦り付けた懸命な命乞いは届かず。こてんと首を傾げながらも、少女はそっともう一歩と檻に近づいた。もう少しで指先が鉄格子に届く、その一歩まで。
絶望に男の目は見開かれ、酒焼けた喉からは到底美しいとは言えない嗚咽が漏れた。けれど男のそんな表情を見ても、少女の顔付きは変わることがない。まるで駄々を捏ねる子供を見るような顔のまま、仕方ないなぁと言わんばかりに淡く微笑むだけ。どこまでも慈愛に満ちた表情は、到底絶望した人間を見下ろしているものとは思えなかった。その表情こそが、この少女の異様さを浮き彫りにしていた。
「メイは主様に言われたことしかしちゃ駄目なの。そうしないと、愛してもらえない」
「ひっ……来るな、来るな……!」
「だからメイ、蜥蜴のおじさんを『愛して』あげないと。いつもみたいに『愛して』あげてって、主様が言ってたから」
愛してと、譫言のように囁く。少女の華奢な指先が格子に触れた。ここなら届くねと、無邪気に笑う少女を男が見つめている。恐怖に引きつった表情のまま、見つめている。ばけもの、いつか誰かを役立たずと罵った口が震えたままに呟いた。しかしその声は少女に届くことがないまま、醜い悲鳴へと変わっていって。緑の光が男の視界を焼いていく。耐え難い苦痛と共に。
「だから星さんたち、おいで」
男が最期に聞いたのは、親しい友達を呼ぶかのような無邪気な少女の笑い声だった。
……その夜が明けた朝、奴隷騒ぎの首謀者として捕まった男が死んだという話が兵舎の中で広まった。男はまるで、干からびたかのように檻の中で死んでいたという。全ての法力や生命力を失ったかのような、凄惨な姿で。
奇妙なのは、男がそうやって死んだことを朝が来るまで誰一人と悟れなかったということだ。牢には見張りが居て、男の部屋の隣には同じ件で捕まった囚人が居た。そんな中で誰かが男を殺しに来れば、誰かは気づくはずなのに。まるで「見えないようになった何か」が男を殺しに来たような事件は、しかし牢屋内での自殺ということで片付けられる。
「呪陣ですよ」
何故ならば男の補佐のような立場だった銀髪の男が、そう語ったからだ。死んだ男の左手には何かの緑の法陣が書かれており、銀髪の男はそれを呪陣と語った。何でも誘拐事件に使った気球や馬車にその呪陣とやらを使っていたらしく、その効果は人の目を避けるというものだという。
男は奴隷事件の主犯であり、多くの情報を握った人物であった。故に男だけは人の目を避ける効果のある道具たちを見つけられるようにと、その手のひらに同じ呪陣を描いていたらしい。そうすることで誰の目からも逃げていく呪陣を、見つけられるようになるからと。そうして描いておいた呪陣を、男は自殺に使ったのだ。
「あれに法力をつぎ込めば、地獄のような痛みと共に法力、そしてそれが尽きれば生命力が吸われていく。大方情報を零さないようにあれに力を入れて、その生命力までもを注ぎ込んだんでしょう」
銀髪の男はなげやりに語った。何でも呪陣とやらは法力の少ない人物が利用するとその生命までもを吸おうとするらしく、男はその特性を利用して自殺したのだと。気づかれないようにする呪陣の効果も法力を注ぐと同時に現れ、だからこそ誰もその異常に気づけなかった。その話で、この奇怪な事件は幕を閉じたのだ。
……筋が通ったその話を、否定できるものは誰も居ない。深夜に牢へと迷い込んだ少女が居たのを知っているのは、死んだ男だけ。真っ赤で可憐な死神が蜥蜴の尻尾へと鎌を振り下ろしたことを誰も知らないままに、夜は明ける。星達を置き去りに、月を褪せさせて。
明るくなった街を、少女が歩いていた。見事な赤い髪をふわふわと揺らしながら、その手に卵がたっぷりのホットサンドを持って。ホットサンドに齧りつくたびに白い頬は薔薇色に染まり、美味しいと訴えかける表情に周囲の人々の表情は綻ぶ。まさかその少女が、大きな鎌を持った死神だなんて気づきもしないまま。
「美味しい! 皆のお土産に買っていこうかなぁ」
少女は笑う。夜に見せたあの表情と、なんら変わらない笑顔のまま。無邪気で無垢でいとけない、ただの子供のように。その背中からひらりと羽が舞った。真っ赤な羽が、宙を踊って風に吸い込まれていく。
「ジンくんは今、リーレイだっけ」
ぽつりと零された無邪気な声を、風だけが聞いていた。