百四話「ほしいもの、ねがうこと」
「だからな、あんまり危ないことはすんなって言ったばかりだろ?」
「はい……」
「……素直に頷くくせに、聞かないんだよなぁ」
地面に敷かれた黒い上着の上、正座をしている私。正面からは腕を組んだレゴさんの呆れたような声が降ってくる。そのいたく真っ当なお言葉に返す言葉など無く頷くも、金色の瞳は納得していないと言わんばかりに細められ。
さて、現在私が何をしているのかお気づきだろうか。正確には何をしているのかではなく、何をされているかなのかもしれないけれど。そう、私は今絶賛説教中なのである。レゴさんからのありがたい「危ないことに首を突っ込むな」という言葉を、舌の根も乾かぬうちに反故にしたことで。
「……仕方ない状況だったのは認めるけどよ、俺に声を掛ければ飛んで回収できたと思うしさ。そもそもシロに頼ればあの子が落ちる前に助けれたんじゃないか?」
「う……」
「ほんっと嬢ちゃん、人に頼るのが下手だよなぁ。その癖は、直したほうがいいぞ」
しかし説教と言っても声を荒げて怒られているわけではない。外見の厳つさとは裏腹、レゴさんは非常に温厚な人なのだ。今下に敷いている上着も、私が正座するにあたってレゴさんが貸してくれたものだし。レゴさんは、咄嗟の状況で私の判断力が落ちていたのを仕方ないことだとは認めつつ、もう少し人に頼るようにと促してくる。そういう心構えが今後も無茶をしそうな私に必要だからと。もう少し周りに頼ることを覚えれば、結果的に私の身に起こる危険は減るはずだからと。
「……で、だ。そっちのお嬢ちゃん」
「…………」
「なんで崖際に行ったんだ? その顔だと、理由もなくってわけじゃないんだろ?」
全く以てその通りなことに内心で猛省しつつ。しかしそこでレゴさんの視線は私ではなく、正座している私の隣にくっついて離れないあの子の方へと向いた。少女の華奢な背中から生えた真っ赤な翼は、今は姿を消している。他でもないレゴさんが、飛び方を覚えたばかりの彼女に翼のしまい方を教えたからだ。
少女は一度視線を向けられたことに肩を跳ねさせつつも、無言のまま俯いてしまう。レゴさんはどちらかと言えば大柄な方だし、もしかしたらあの犯人たちを思い出して怖いのかもしれない。だが事情を聞いておきたいのは事実だ。どうにか彼女の緊張をほぐすことが出来ないかと、眉を下げて。
「……家族、いや」
「え?」
「あそこにいたら、帰らなきゃいけない」
けれど私がフォローを入れるよりも早く、少女は己の口で話し始めた。その言葉は相変わらずたどたどしいものだったけれど、少女はそれでも自分の状況が伝わるようにと一生懸命に話していて。
「家、こわい。殴られる。だから逃げて、でも捕まった」
「……お家が怖かったから逃げてきて、そこをあの人達に捕まったの?」
「……うん」
成程、詳細はわからないがこの少女は家で虐待か何かを受けていたのだろう。今で十に満たないくらいなのに、その時の彼女は一体何歳だったのか。まだ親の庇護が必要な幼い子供が虐待から必死に逃げ出して、けれどその先で奴隷として捕まって。少女の歩んできたこれまでの道を思えば、胸が痛くなった。どうして神様はこの子にそんな苦痛を背負わせたのだろう。
いつか彼女が、彼女の手を繋いで守ってくれる人の元に戻れればいいと思っていた。なのにこの子にそんな人は居ないのだ。性根が曲がらずに優しいままでいられたのが奇跡な程に、この子が生きてきた世界は冷たい世界だった。手を引いてくれる人も、守ってくれる人も居ない。そんな世界でこの少女はただ一人、生きてきたのだ。誰も恨まないようにと、自らの心を空っぽにしながらも。
「でもあそこ居たら、帰らなきゃだめ。それ、いやだった」
「……そうね。あの列は、捕まってた人を家に送り届けるものだったもんね」
だから、逃げた。折角救われたというのに、また地獄に送り返されるのだと思ったから。どこから話を聞いていたのか、あの落下騒ぎで中断していた事情聴取を終えたらしいミーアさんが静かに頷く。先程まで安堵に満ち溢れていたヘーゼルの瞳は、しかし少女の事情を聞いたからか翳っていて。
恐らくはミーアさんが事情聴取を受けていた隙に、家に戻されてはたまらないとどこかに隠れてやり過ごそうとしたのだろう。そしてそれにいつのまにか目を覚ましていたあの男が目敏く気づき、捕まった復讐かなんなのかこの子を崖下に落とそうとした。尚、奴はシロ様によって意識を再度落とされ済みである。更に言えば法術が使えそうな人間の容疑者は、私が糸で目と口を塞いでおいた。シロ様曰く、視界と口元が遮られていると法術を扱うのはかなり難しくなるらしいので。絵面が酷いと言ってくれることなかれ、これは必要な処置なのである。鼻は開けておいたので呼吸は出来るのだし。
「……じゃあお嬢ちゃん、帰る場所がないのか?」
「いらない。人はこわいから、一人でいい」
「そ、そうは言ってもなぁ……」
というか今は犯人たちのことはどうでもいいのだ。大事なのはこの子のことである。レゴさんの問いかけに、取り尽く島もなく首を振った少女。家に帰すのは論外、更に本人が誰かに引き取られるのを断固として拒否している。これまでの彼女の経歴を考えれば当然のことなのだが、十にも満たない少女が一人で生きていけるほどこの世界は優しくないだろう。現にそれくらいの子供や女性を対象に、最悪の商売をしている奴等が居たくらいなのだ。
「……ミコもか?」
「えっ?」
「…………」
「お前はこいつも、怖いと思っているのか?」
誰もが少女の言い分に困ったように眉を下げて、黙り込む。返す言葉がなかったのだ。誰かと暮らすように説得するにはあまりにも、彼女の背負った傷が大きすぎる気がしたから。しかしその空気を、一つの凛とした声が切り裂いた。突如として話に入ってきたシロ様が、私を指差しながらも問いかける。それに思わず間の抜けた声を上げれば、何故かシロ様には黙っていろと言わんばかりに目を細められてしまい。
釈然としないものを飲み込みつつも、私は二人の会話を見守った。レゴさんとミーアさんも空気を読んだのか、口を閉じている。そんな中シロ様から紡がれた問いかけに、私は若干眉を下げて。これで怖いと思ってると言われたら、ちょっと落ち込む気がする。この子の境遇的に仕方ないのはわかるが、一応は懐いてくれる気がしたので。いや、それももしかしたらただの勘違いなのかもしれないのだが。
「……その人は、好き。優しい、あったかい」
「……!」
けれどそれはどうやら勘違いではなかったらしい。シロ様の問いかけにむっとしたのか、強く首を振りながらも言い返す少女。赤い瞳は若干不満そうな色を浮かべていた。心外だと言わんばかりのその顔に、じわりと心が暖かくなる。伝わっていたのだ、少しは。私がこの子を大切にしたいと、守りたいと思った気持ちは。
「でも……だから……迷惑は、かけたくない」
「あ……」
だからこそ、その言葉は深く胸に突き刺さって。この子は私を少なからず大切に思ってくれているからこそ、迷惑になりたくないとそう言ってくれる。この子の狭い世界の中で、信頼できる人はもしかしたら私だけなのかもしれない。それなのにそのたった一つにすらも、いいやたった一つだからこそ配慮して、手を伸ばさないようにしているのだ。
ぎゅっと胸が苦しくなった。夢にも見た、あの記憶を思い出す。襖の先、私の行き場所で揉める大人たち。そこに颯爽と現れたあの人は、私をあそこから連れ去ってくれた。苦しいという思いごと、連れて行ってくれたのだ。それがどれだけ救いになったか、希望になったか。私はそれを、誰よりも知っている。
……シロ様と目が合った。彼は一瞬瞳を細めながらも、頷いてくれた。それが、彼からの答えだった。
「め、迷惑じゃないよ……!」
「え……?」
「一緒に居たい、って思ってくれてるんだよね。そんなの全然、迷惑じゃない」
正面から彼女に視線を合わせて、固く握られた小さな手を包むように握る。丸くなった瞳を真っ直ぐに見つめながらも、私は首を振った。貴方の思いは決して迷惑なんかではないのだと、それを伝えるように。そうすれば赤い瞳はますますと見開かれ、小さな唇は言葉を失ったように薄く開いた。ゆらゆらと揺れる茜色が、こちらを見ている。空に二人きりだった時と同じように、私だけを映している。
「でも、でも……私とシロ様、あの子は旅をしてて。それは結構、危ない旅で。怪我とか痛い思いをしちゃうかも、しれなくてね」
「……目、みたいに?」
「……うん」
出来るだけ噛み砕いて、この子に全てが伝わるように。そうすれば綺麗に揃った二つの茜色は、私の左目に視線を向けた。そういえば眼帯もなければ法術も切れていたのだと、そんなことをぼんやりと思い出して。でも今はそんなのはどうでもよかった。この子に怯えられていないのなら、レゴさんやミーアさんが気にしていないのなら、私が気にする必要はない。
「……でも、私が全力で貴方を守るから。多少怖い目には遭うかもしれないけれど、痛い思いはさせないようにするから」
「…………」
「それでもいいって貴方が言ってくれるなら……一緒に、行かない?」
ぎゅっと彼女が痛くないように、包んだ手に力を込めて。かつてあの人がそうしてくれたように、優しく手を伸ばして。そうして私はゆっくりと言葉を紡いだ。丸く切り取られた茜色、朝焼けの赤。その瞳は際限なく揺れている。まるで波紋が壁に伝わる度、その衝撃でまた水面が揺れだすかのように。
誰も、止めなかった。私が言っていることを、誰一人として。シロ様はともかく、レゴさんやミーアさんは言いたいことがあるだろうに。或いはこの子が一人で勝手にどこかに行くよりは、まだ身勝手なことを言う私の傍に居た方がいいのかと思ったのかもしれないけれど。辺りは静寂に満ちていた。何一つとして音は聞こえなかった。しかしそんな静寂の中、言葉を飲み込んだ少女が一度瞬きをする。そうしてその細い首は、ゆっくりと横に振られた。
「……ううん」
「あ……」
拒絶。それを意味するサインに、がつんと頭が殴られたような心地になる。だがよく考えなくてもそれはそうなのだ。誰が怖い目に遭うかもしれないと言われて、一緒に行こうとするだろう。ましてやずっと痛い思いをし続けたこの子が。
この子に好かれているという傲慢と自信過剰が過ぎたと、内心で私が嘲笑った。だが何も言い返せないくらいにその言葉はその通りで。ゆっくりと指先の力が抜けていく。私があの時救われたからと言って、彼女が同じ救いを欲するとは限らないのに。馬鹿だなと、自嘲した。握った指は、繋いだ手は徐々に解かれていく。
「守られなくて、いい。痛いのは、慣れてるから」
「……え?」
しかしそこで、解けかけた指は握り直された。私よりもずっと小さな手が、去っていく指を追い求めるように握ったのだ。
「わたしは、守られなくていい。でもわたしは、あなたを守りたい。もう痛く、ならないでほしい」
「……!」
「だから、いっしょに行く」
強く掴まれた指。おもちゃみたいに小さなそれから冷えた温度がじわじわと伝わってくる中、けれど耳から脳へと伝達されていく言葉は決意という熱で満たされていた。赤い瞳が、真っ直ぐとこちらを射抜く。
その言葉はどこか噛みしめるようだと、そんなことを思った。自分が紡ぐ言葉を自分の中に飲み込むように、固まった決意に更に盾を足すように。そしてその決意の奥底には、喜びがある。求められた喜び、予想だにしていなかった幸せ。今までにないくらいに綻んだ少女の表情が語る。幸せだと、貴方の傍に居ることができるのが何よりも嬉しいと、そんな風に。
「いっしょに、いさせて」
そんな顔をされては、その言葉に否を唱えられるわけなんてなかった。