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四幻獣の巫女様  作者: 楪 逢月
第三章 愛の大地と飛べない少女
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百三話「黎明の翼」

 間に合わない、そんなことはわかっていた。私の足では、この暴風の中で崖際の少女の手を掴むことは不可能なことくらい。案の定私が崖際に辿り着くよりも早く、少女はもう手の届かない場所まで落ちていってしまって。もう手の届かない、世界へと旅立とうとしていて。


 けれどそれは、あくまで崖際の私にとっての手が届かない世界だったのだ。


「っ、駄目!」

「ミコ!」


 迷っている暇なんてなかった。地面を強く蹴って、崖下へと飛び込む。そうすれば自然落下に近い形だった彼女の体に手が届いた。腕を引いて可哀想なくらいに細いその体を抱きしめれば、腕の中でその体は怯えたように震えて。

 しかし今はそれに配慮している余裕もない。切羽詰まった呼びかけに視線だけで振り返れば、先程まで私が居た崖際にシロ様が居た。この距離ではどれだけ腕を伸ばしても、差し出されたその手に掴まるのは不可能。そう判断を下す間にも二人分の体は落下していく。崖下の深い森へと、吸い込まれていく。


「糸を!」

「!」


 だが腕ならば不可能でも、糸くんならば。私は左手の小指をこちらへと差し向けたシロ様に、僅かに目を見開きながらも頷いた。そうだ、まだシロ様と繋いだ不可視の糸は千切れていない。糸の強度を増強、その後無限に伸びる性質を逆転。縮めと願えば、糸くんは答えてくれる。二人分の重さでも、シロ様ならばきっと引っ張り上げてくれる。

 

「……私が、守るから……!」


 今更私の力とヒーローを疑う余地なんて、一切とありはしない。その心のままに私はぐるりと体を反転させた。まだ飛び込んだ時の勢いは死んでいない。その勢いを活かすように彼女を抱き込んだまま空を見上げる。夜明けが近い空は、僅かに夜が溶け出して光が差し込み始めていた。そうだ、夜明けだ。こんな夜に、全てが明けた夜に、影なんて降らせはしない。

 空が、見える。崖際には徐々に遠くなっていく白い影が見える。でもかち合った白銀も漆黒も、そのどちらもが諦めていない。小さくってけれどとびきり頼りになる彼は、今か今かと私が糸を伸ばすのを待っている。ならば私がすることは、目と目で繋いだ糸を変化させるだけ。


「いや……!!」

「っ、!?」


 なのに、それなのに。糸を変化させようと左手に太陽を翳した瞬間、腕の中の少女は暴れだす。その衝撃に動揺して一瞬腕の力が緩んだ隙を狙ったのか、彼女の右腕が私の腕の中から抜け出した。まさか抜け出すつもりなのかと焦って深く抱き込むも、左腕は何故か縋るかのように私の服を握りしめて。

 わけがわからなかった。間近に迫った死の恐怖に暴れだしたのかとも思ったのだが、それならば私の服を掴む意味がわからない。しかし今は少女の謎の行動に動揺している場合ではないのだ。地面は私達を待つこと無く迫り来る。あそこにぶつかる前に糸を変化させて、シロ様に引っ張りあげてもらわなければ。僅かな動揺を飲み込んで、糸くんに願いを乞う。いや、願いを乞おうとした。


「飛んで……!」


 もっともその願いは、少女の叫ぶような声にかき消されてしまったのだけれど。


「え……?」


 瞬間、視界に広がったのは赤だった。暴れられたせいか目前に迫った赤い瞳が、決死の覚悟を宿して煌めいたのだ。ぼろぼろで小さな手のひらは、同じくぼろぼろの人ではない耳の方へ。苦痛を耐えるかのように歪んだ表情、色を失った唇に歯が食い込む。

 歪な音がどこからか聞こえた。例えるならば、何か硬いものが無理やり曲げられたかのような音。しかしそれに苦悶の声一つも零さないまま、小さなその背中から芽は顔を出す。芽を出して広がって、そうして息吹く。視界を埋め尽くさんとばかりに、命を証明するかのように。


 朝焼けも夕焼けも超えた、真っ赤な翼が。


「っ……!?」


 小さな体躯のどこから生まれたのかわからないくらいに大きな赤い翼が、少女の背から生えている。しかしその事実を飲み込むよりも早く、息も飲めない程の風圧が私の体を襲った。真っ赤な翼が、羽ばたいたのだ。それと同時に落下に向かっていた体は空へと上っていく。ひとひら、ふたひらと、赤い羽根を散らしながらも。


「離さ、ないで……!」


 ぎゅうと左腕で服を、右腕で頭を抱きかかえられる中必死な声が聞こえた。突然の風圧に伏せていた瞳を開けば、間近には少女の顔がある。痩せこけた頬、傷だらけの顔。その中で際立って見える赤い瞳に、私は初めて彼女の意思を見た。空虚なんてどこにもない、影はもう差さない。彼女本来の強さが、瞳の中で輝く。

 翼がまた羽ばたいた。ぐんぐんと高度は上がっていく。一瞬、崖際で呆然とこちらを見上げるシロ様の姿が目に入った。同じような表情を浮かべたレゴさんやミーアさん、他の奴隷とされた人達や兵士さんたちの顔だって。彼女を崖下へと突き落とした男も、愕然とした表情のままこちらを見上げていた。けれどそれすらも置き去りに、赤い翼は空へと上り詰めていく。まるで昨夜沈んだ太陽が、朝と共に昇るかのように。まるで全てが目に入らないと、そう言わんばかりに。


「死なない、で……!」

「……!」


 そうして、世界は朝を迎えた。夜を超えて昇り始めた太陽、その黎明の光を背にした少女の声が聞こえる。華奢な体躯には到底似合わない真っ赤な翼を背にしながらも、彼女は私だけを見つめていた。涙で濡れた真っ赤な瞳は、太陽の光が溶け出した色のようにも見えて。それはただひたすらに純粋な願いに満ちた、光の色だった。


「……生きてる、よ」

「……!」

「貴方が助けてくれたから、生きてる」


 一瞬、どんな声を掛けたらいいのかという迷いが胸を掠める。なのにそんな躊躇いとは裏腹に、声はすっと喉を通り抜けていった。難しく考えずとも、死なないでほしいと願う声に返す言葉は一つで良い。ただ生きてると。貴方のおかげで死ななかったのだと、それだけを伝えられれば。


「ありがとう」

「……うん」


 そうして、もう一つの言葉も。使わなかった左手をそっと彼女の頬に伸ばせば、泣きそうな顔をした少女がその手にそっと擦り寄る。いつか見た猫のような動きに微笑みを零すと同時、もう片方の手で少女を抱きしめた。太陽の光を近くで浴びているからか、その体はどこか温かく感じる。

 ふと、少女の頬を撫でていた左手。その小指に嵌められた乳白色がキラリと光った。まるで自分の力は必要がないのかと訴えかけているかのようなその指輪に、小さな苦笑を浮かべる。その通り、どうやら今回は糸くんの出番はなかったらしい。けれど落ち行く中で私が絶望せずにいられたのは、この力があったから。それに関する感謝はいくらしても足りないくらいだろう。


「……ところで、なんだけど」

「……?」

「降りれる、かな?」

「!」


 そんなことを内心で考え、これまで尽力してくれた糸くんに感謝しつつ。しかし私はそこで気になったことを少女へと尋ねた。現在、高度は崖から十数メートル程。この高さではどう間違ったとしても、飛び降りれば怪我確定だろう。できれば安全策でシロ様たちが待っているあそこへと降りたいのだが。

 私の問いかけに、少女は何かに気づいたように息を呑んだ。どうやらいつまでも飛んだままではいられないということに、彼女もそこで気づいたのだろう。しかし翼の動きを上手く制御できないのか、次第に少女の表情は焦りが滲んだものへと変わっていき。


「……無理そう?」

「…………」


 続けて問いかければ、心底申し訳無さそうな頷きが返ってきた。成程、上昇とその場に留まることは出来るが、下降するのは難しいらしい。それならば、どうやって降りれば。私達は二人きりの空の中で、途方に暮れた。最もその途方は、絶望というよりはどこか間抜けな色を含んだものではあったのだけれど。

 絶望の夜は明け、視界には太陽が二つ。困ったように眉を八の字にさせる少女の瞳に、もう空虚はない。彼女にどんな心境の変化があったかなんてことは、当然わからなかった。どうして彼女の背中に翼が芽生えたのかだって。けれど腕の中の熱は確かで、鼓動も確かで。それならばちょっとした困りごとならばどうにかなる気がした。なんせ下には、頼りになる私のヒーローが居るわけだし。


 ……尚、その後結局糸くんとシロ様の力を借りつつ、私たちは崖下に降りることに成功した。着陸作業は飛んで来てくれたレゴさんの力もあって、スムーズに進んだとだけ言っておこう。しかし残念なことに、その後の説教を免れることは出来なかったのだが。

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