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四幻獣の巫女様  作者: 楪 逢月
第三章 愛の大地と飛べない少女
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百二話「朝焼けの芽生え」

 全てのことに意味なんてないと思っていた。自分の人生に起こる全てのことに価値なんてないのだと、そう思っていた。


『何してるんですか……!』


 貴方に、会うまでは。








 それは、いつも通りの日だった。少ない食事と移動中の僅かな睡眠でなんとか生き延びて、休憩時間だと寄る辺もない外に荷物のように広げられる中。そこに新しく連れてこられた人間が入れられる。なんら変わりない、何年だって繰り返された少女にとって普遍の日々。

 少女はいつも一人だった。母と共に連れてこられたわけではない、周りの人間のように気の合う者同士の群れを作るわけでもない。いや、そもそも誰かと寄り添い合うという発想すら少女にはなかった。それを少女に教えてくれる人なんて、居なかったから。


 誰もが自分を守るのに必死な世界で、自分に明日が来るのかと怯える世界の中で、それでも名前を知らないような誰かに手を差し伸べられる人なんてそう現れるわけがない。少女は定期的に入れ替わる集団の中で、いつだって腫れ物のように扱われていた。高い頻度で短気な男に暴力を浴びせられる被害者として、自分たちが受ける分の暴力までもを受けてくれる生贄として。

 それに対してだって少女は何とも思っていなかった。弱い者が淘汰される、そんなのは長い奴隷生活の中で嫌というほどに味わってきたから。売れなくて使えない商品は、惨めな最期を迎えるだけだ。そんな光景を何度だって見てきた。何度だって、見過ごしてきた。それならば自分がそうなるのもまた、当然のことなのだろう。きっとこの身が終わりを迎えるのも、遠くない。


 そう、思ってたのに。


『大丈夫……!?』


 初めて、そんな言葉を掛けられた。聞き間違いかと思った、気の所為だろうかとも思った。けれど真っ黒な両目は確かにこちらだけを映していて、見たこともないくらいの真摯な色を湛えていて。殴られた痛みよりも何よりも、その人の存在こそが少女にとっての衝撃になったのだ。


『揺れて怖かったら、捕まっても大丈夫だからね』


 そうしてその衝撃は、決して刹那的なものではなく。わざわざ取れた安全な場所を譲って、その上尚縋ってもいいと笑う。少女にはまるで理解が出来なかった。これがこの人にとって何の得になるのだろうとも思った。けれど不器用な少女の頷きに、彼女は嬉しそうに笑うから。少女が見たこともないような、優しい笑顔を浮かべるから。


『貴方は、優しい子だね』


 だから、どんどんと少女の中の何かはおかしくなっていって。気分が悪そうにしている彼女を見ると、もう忘れた痛みがぶり返す気がした。その出処を探すように彼女を見つめれば、彼女は気の抜けた微笑みで少女に礼を告げて。初めて告げられた言葉に少女はただただ戸惑うことしか出来なかった。けれどそれでも、隣の温度は離れがたいくらいに温かく。少女はその時、初めて寄り添うということを知ったのだ。


 それから。それからも積み重なっていった彼女の優しさは少女の中の何かを変えていった。当たり前のように手を引かれて、分けてもらったパンに久しぶりの満足感を覚えて。向けられる視線はいつだって温かかった。彼女の知り合いだというミーアという人も、少女に優しくしてくれた。子供に差し向けられる当たり前の優しさというものを、少女は短くも長く感じた生涯の中で胸いっぱいに感じていたのだ。

 彼女と居ると、心に入った罅が消えていく気がする。空っぽだった心に、何かが注がれていくのを感じる。それは永遠と続いた闇夜に差した光だった。少女にとって彼女の存在は、夜明けだったのだ。壊れてしまったと思っていたものを、明るく優しい光で壊れていないのだと教えてくれる。他に名を付けるのであれば、救いとも呼ぶべきか。


『っ、わ、私も……何か手伝えることは、ありますか……?』


 だから。


『……大丈夫だよ』


 だから。


『これくらい、大丈夫だから』


 嫌だと、心が叫んだのはいつぶりだっただろう。少女の仕事であった『充電』。それを彼女は額に脂汗を浮かべながらも、完璧に全うして。苦痛に顔を歪めながらも、大丈夫と嘯いて。本当は大丈夫じゃないことを、少女は知っていた。その行為がどれだけ苦痛を伴なう事なのかなんて、嫌と言うほどに。

 ただただ苦しかった。自分の存在が要らないと言われたことなんてもはやどうでもいい、自分が生き残るための役目を取られただなんて露も思わない。ただひたすらに、目の前の彼女が辛そうな顔をしていることが痛かった。心に罅は入らない。ただ内側から何かを破かんとばかりの痛みを感じるだけ。自分は決して痛くないはずなのに、痛かったのは彼女なのに。けれどそれでも、重苦しい痛みは去っていってくれなかった。鈍いそれは、深く胸の中で蟠る。


 ……彼女だけはと、そう思った。自分を優しいと言って、何の下心もなく守ってくれた彼女だけは。そう居もしないであろう神に祈った。無駄なんてことはわかっていて、それでも何もしないままは嫌だったのだ。空虚に芽生えた熱い何かは、鼓動を早めては存在を確かにしていく。何もなかったはずの心を、純粋な祈りが埋めていく。


 かくして、その願いは聞き届けられた。


「……では、貴方とお子さんはウィラの街の方なのですね」

「はい」

「いつ頃攫われたのか、それだけお聞きしても?」

「はい、ええと……」


 労りに満ち溢れた声が、時折涙に揺れる声に問いかける。何度も繰り返されたそれを半ば上の空で聞きながらも、少女の赤い瞳はただ一点を見つめていた。遠くで何かを話している、彼女と見知らぬ少年の姿を。そこに広がる気安い雰囲気に、少女の心は凪いでいった。良かったと、その言葉が胸いっぱいに広がる。

 どうやら自分たちは助かったらしい。それを少女が自覚したのは、たった今だった。ミーアに連れられて危ない崖際から離れ、周りがどこか浮足立ったようにしているのを眺め、遠目に縛られている彼らを見つけ。そうして少女は漸く、あの地獄の日々から自分たちが抜け出したことを知った。他でもない彼女が、自分たちを助けてくれたことを実感したのだ。


「おうち、帰れる?」

「ええ」

「ぱぱに、会える?」

「……ええ、会えるわ」


 見知らぬ男と話し終えた親子連れが、少女の目前を通っていった。それは最近入ってきたばかりの親子。はしゃぎ問いかける子供に、母親である女性は心底嬉しそうな表情で微笑む。数日前はどうでもいいと思えたその二人を見て、しかし今は良かったと思える。大きな傷を負うこと無く、帰るべき場所に帰ることができてよかったと。それは彼女が少女へと齎した変化だった。少女がずっと前になくしたはずのものを、彼女は光で照らして見つけ出してくれたのだ。

 けれど少女の心に、そこで一筋の亀裂が走った。家族に会える、帰るべき場所に帰る事が出来る。少女が並んでいる列は、きっと帰るべき場所に帰るための列なのだろう。少女の手を引いていたミーアも、自分の番が来るのを今か今かと待っている。きっとそれは帰るべき場所がある人にとっては救いの糸のようなもので、並ぶのが当然のもので。


 けれど、自分にとっては。


『お前なんか、生まれてこなければよかった!』


 ……少女は瞬間的に、列から離れた。一つ前で並んでいたミーアは今事情聴取を受け始めたところだ。きっと少女が居なくなったことに暫くは気づかないだろう。後列に並んでいた人は一瞬不思議そうな顔をしたが、少女にそこまで関心がなかったのかそれ以上を追求してくることもない。


「…………」


 逃げなければ、そう思った。地獄を逃げ出した先が地獄だった、それはまだいい。けれどまたしてもあの地獄に戻るのはごめんだ。この列に並んでいては同じことの繰り返しになってしまう。せっかく逃げ出した意味が無くなってしまう。

 温かい温度を知って、もう少し生きてみたいと思えた。他の誰でもない、自分に手を差し伸べてくれた彼女が自分を助けてくれた。それならばまだ生きなければ。それならばあそこに戻ってはいけない。自分を殺すあそこに戻るのは、助けてくれた彼女に対する裏切りだ。少女はその思いで、自分を『家族』へと戻そうとする糸から逃げ出した。自分が居なくなったところで気にする人は居ないだろう。あの糸から逃げた後にでも、一人で生きていこうと。


 だがそれこそが、終わりへの一歩となってしまったのだ。


「暴風! 落ちろ!」


 聞き慣れてしまった、決して好きにはなれない声。それが聞こえると同時、自分の体を痛めつけんとばかりの強い風が吹く。長年の最悪な食事環境で痩せ細ったその体は、当然人為的に起こされた暴力的な風に叶うわけもなく。浮いた、と思ったその時が最後だった。自分の体は、危ないと言われていた崖のその外側に押し出されてしまったのだ。

 ……ああ、こんなものか。ゆっくりと流れていくように見える世界の中で、そう思った。どれだけ待ち望んだ夜明けが来ても、どれだけ美しい光に出会えても、心を取り戻した気になっても。結局翼のない小鳥の顛末なんて、こんなものなのかと。自嘲めいた笑みが浮かぶと同時、彼女の姿が目に入った。必死にこちらへと手を伸ばすその姿が。でも、もう間に合わない。


 最後に、申し訳なく思った。きっと優しい彼女は、自分の終わりに胸を痛めるだろうから。助けてもらったのに傷つけてばかりの自分が情けなくて、けれどどうしようもない。せめてありがとうだけは伝えたかったのに、それすらも満足に紡げないまま体は落下を始める。永遠のようで一瞬のそれが、今訪れる。


「っ、駄目!」

「……!?」


 なのに、少女の体はその瞬間に抱きしめられた。


「……なん、で……」


 彼女だ。少女を助けるために彼女は、この崖の外へと飛び込んできたのだ。ぎゅうっと痛いくらいに抱きしめられて、全身が温かいものに包まれる。世界中から守らんとばかりのその抱擁に、全身が震えた。恐怖が胸を占めていった。だって、このままでは。このままでは、彼女が。


「……私が、守るから……!」


 声が聞こえた。自分を抱えるかのように強く抱きしめた彼女は、そのまま宙で体をぐるりと反転させる。恐らくは地面と衝突した時に、彼女の体の方が先に来るように。

 なんで、その言葉に返答はない。恐らくは風を切っていく音に、自分の声はかき消されてしまったのだろう。少女はそんなことを考えた。けれどそれと同時に、暴れだした感情に心が押し潰されそうになっていく。嫌だ、嫌だ、嫌だ。駄々を捏ねる子供のように、その言葉だけが頭を埋め尽くしていった。そうして全てが真っ暗に染まった世界の中で、より深い夜に陥ろうとしている世界の中で、全身の奥底から声が聞こえてくる。


 彼女は、こんなところで死んでいい人なのか。

 ──否。


 彼女は、到底耐えきれない痛みと共に最期を迎えていい人なのか。

 ──否。


 ……彼女を、失ってもいいのか。


「いや……!!」

「っ、!?」


 叫んだ。それはいっそのこと咆哮にも近かったのかもしれない。ぼろぼろになった喉はその叫びに悲鳴を上げて、口の中には鉄の味が染みていく。しかしそんなのはどうでもよかった。今の少女にとっては、一が全てだったのだ。彼女だけが、彼女を助けることだけが少女にとっての全てだった。

 強く抱きしめられた腕の中で、暴れるかのように右手を引き抜いた。けれど決して彼女とは離れることのないように、左手は強くその服を握って。顔を上げれば、驚いたような黒色がこちらを見つめている。その瞳が片方だけ空っぽなことなんて、今はどうでもよかった。瞳がなかろうが腕がなかろうが、生きているのならばそれでいい。これ以上の痛みを目の前のこの人が背負わないのなら、それでいい。


 そう願うままに、少女は自分の左耳に触れた。強い願い。或いは人によっては愛と呼ぶその衝動のままに、世界に希ったのだ。この人を助ける翼を、どんな風をも切り裂く翼を。それが叶うならばその翼に何を背負っても構わないからと、そう強く。

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