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キャンプ場にて

作者: タン吉

 定年退職したら、車で寝泊りしながら自由気ままな旅に出るのが夢だった。

 そして無事に念願かなって、私は今旅の途上にいる。

 しかも現時点では、在職時はほとんど使う機会も与えられず溜まりに溜まった有給休暇の消化期間中だ。

 つまり私はこうして旅をしていても、いちおうは会社員の身分のままであり、給料を支給されながらの旅という実にけっこうな御身分なわけで。あくまで、いまのところは、ではあるが。

 申請すれば65才まで雇用延長の選択もあったが、複雑で厄介な人間関係をあと5年も引きずるなど、まっぴら御免だった。

 それに私の2年先輩であった職場の同僚の例もあった。

 彼の実家は裕福な資産家であったらしく、60才で退職の日がくるのを心待ちにしていた。

 希望通り退職したら好きな山歩きと、それに関わるボランティアに専念するつもりだと良く口にしていた。だが彼は退職した翌年、あっけなくこの世を去った。

 会社の飲み会で聞いた話では死因は心筋梗塞で、朝になっても起きてこないことを不審に思った奥さんが発見したのだとか。

 そんなこともあって、私の決意はかたく迷いはなかったし、連れ合いもそんな私の心情を受け入れてくれた。

 なんの束縛のない自由な旅となれば北は北海道から南は九州、日本全域、津々浦々どこまでも行きたいところだが、とりあえず初心者の足慣らしで東北方面を目指した。

 原則下道オンリーで高速は極力使わず、あまり寄り道をせずに一路本州最北端の大間まで行き着き、そこからはゆっくりと余裕をもって東北各地を回りながら南下してくるつもりだった。

 なぜなら誕生日がきて、正式に退社する日は会社に出社する必要があり、それまでに最北端までの距離を実感として確認しておきたかったからだ。

 仕事上の挨拶回りは済ませているので、当日出社しなかったとしても書類関係は郵送してくるだろうし、たとえこのまま消えてしまったとしても、あいつは変わり者だったからということで、同僚たちの記憶から速やかに消えてしまうことは容易に想像がつくが、やはりそれでは私の会社人生に対してのケジメというものが許さないのである。

 

 自宅の相模原市を出発したのは6月30日の早朝だった。

 前々から周到に準備はしていたが、いざ生まれて初めての長旅に一人で出るとなると、やはり不安や緊張があった。

 そのせいか出発して引き返せない距離まで走ったところで、事前に旅ブログや『車中泊』のキーワードで検索して抽出した有望な道の駅や無料のキャンプ場などの情報を、県別にまとめてプリントアウトしたファイルを忘れてきたことに気付いた。丹念に調べた労作だったのに。アナログ老人には紙媒体の方が使いやすいのだ。

 おまけに、この旅で撮影した画像取り込みのために買ったノートパソコンには、このデータを移してないという間抜けぶりには、出発早々落ち込んだ。

 頼りは同時期に新調した不慣れなスマホと曖昧な記憶だけになった。

 そして初めて直面した現実の東北は、想像を遥かに超えて広大だった。

 初日は国道16号から三国峠を越えて、日本海に沈む夕日が見事だと好評のある道の駅を目指した。

 旅立ちの祝杯を高らかに挙げるためには、日本海に沈む夕日という舞台設定がどうしても必要だったのだ。

 現役を去り行く男として自分なりにちょっと恰好を付けてみたかった、そんな心理である。

 そして望みどおりにしみじみと60歳の感傷にひたり、生きてきた道はこれで良かったのかと答えの出ない自問自答の果て、珍しく泥酔した。

 翌日は海岸沿いの道をひたすら北上した。

 北へ北へ、まだ見ぬ北へ。

 

 二日目も日本海に面した大きな道の駅で泊まり、そこから100キロ程度先の無料キャンプ場に移動することにした。

 ただ眠るだけの道の駅での連泊に疲労を感じ、とにかく落ち着きたかった。

 途中観光することもなく、昼過ぎに到着すると場内を確認し、少し離れた温泉につかって、戻ってから3時過ぎには早々とビールを飲み始めていた。

 そもそも私の旅の半分はこれが目的だった。

 家ではできないことが旅の空の下では堂々と可能なのだ。

 キャンプ場では道の駅と違って、明るいうちからビールを飲んでいても他人の視線を気にすることもない。最高ではないか。

 テントは張らないので安定した地に車を停めて停泊地を決定したら、その場にテーブルと椅子を広げてセットし、クーラーボックスから缶ビールを取り出し、どっかと腰を据えて携帯ラジオを聞きながら飲むだけだ。

 見るもの聞くもの何もかもが新鮮で物珍しい旅の空の下の解放感が、振り落とせないできた背中に追いすがる苦い過去や目の前に圧し掛かる現実味を帯びた老後の不安を、いっときではあるにせよ忘れさせてくれるのだった。


 夕方ちかくになって、この日は私で貸し切りかと思っていたところに赤いバイクが一台入ってきた。

 後部に荷物満載であるところをみると、キャンプツーリングという形態であろう。道中では度々そんなバイクを見掛けていた。

 細身のひと目で女性と分かるライダーは、広場の中ほどで一旦停車すると、ヘルメットが左右に振れて、私と距離を置いた、炊事棟から少し離れたところまで進んで止まった。

 女子ライダーはバイクから降りると、もう一度場内を見渡して、納得したようにヘルメットを取った。

 年のころは幾つくらいだろうか。

 ショートカットの小柄な娘は、私から見ると少女のように思えた。

 日は暮れかかっていて、バイクからさっさとバッグを降ろして荷をほどき、テキパキとテントの設営に取り掛かる様子は、私と違ってかなり旅慣れているようだった。

若い女性ということもあって、できるだけ視線を向けないようにしていたが、気になる存在が出現したことは事実だった。

 娘はテントを貼り終えると、今度は小さく畳まれた椅子やテーブルを取り出してセットに掛かった。

 私には娘が完全に落ち着いてくつろいでしまう前にちょっと頼みたいことがあった。

 このキャンプ場は無料にも関わらず設備は評判どおり充実していた。

 屋根付きの広い炊事棟があり、その横には大人数で宴会ができるような屋根つながりの食堂棟があり、長椅子とテーブルがひとつに固定された木製の4人掛けテーブルが幾つか並んでいた。

 その内のひとつがキャンプ場の外れの木の下にポツンと放置されていた。

 昼に私がこのキャンプ場に到着した時、入れ違いにその辺りから出て行った、若者3人が乗り込んだ車があった。おそらく彼らの仕業だろうと思えた。

 最近のキャンプ場での、とくに無料キャンプ場でのマナーの酷さがネットの話題になっていることは予備知識として知っていた。

 このキャンプ場を利用させてもらう者として、置き去りにされたテーブルをこのまま見過ごして良いものかという思いはあったが、私ひとりでの移動は無理そうだった。

 そこでちょうど炊事棟に水を汲みにきた娘に声をかけた。

 解放感からくる酔った勢いというものもあったのだろう。生来の私はこんな軽い性格ではなかった筈だ。

 手を貸して欲しいと呼びかけた私に、娘は「いいですよ」と快諾してくれて水タンクを炊事場に置くと、先に歩き出した私のもとに小走りで駆け寄ってきた。

 並んで歩きながら娘が言うには、ゴミとか焚火の跡とかマナーの悪さが最近目立つということだった。

 やはりこの子は旅慣れているようだ。少女のように見えたが、近くで対面すると顔つきと話し方に落ち着きがあった。

 息を合わせて「せーの」でテーブルを持ち上げると意外な重さがあって心配したが、娘は「全然平気です」と言い、その足取りは確かで強がりではなさそうだった。

 進行方向に横向けた顔と、浮かびあがった白い首筋が眩しかった。

 無事にテーブルを元の位置に戻し、私は礼を言い、娘は「いえ」と笑って水タンクを手にテントへ帰って行った。

 

 夕飯を途中のスーパーで買った惣菜で済ませ、そろそろ車内で酒の続きをと思っていたところに車が一台入ってきた。

 管理人のいない無料キャンプ場は道の駅と同じで、チェックインもチェックアウトもないので人は好きに出入りする。

 ヘッドライトが場内を舐めるように端からグルっと無遠慮に照らし出した後、テーブルのあった木の下辺りに停車した。

 昼間の若者グループが戻ってきたのだった。予想外だった。

 しばらく賑やかにガチャガチャワイワイやっていたが、その内二人がまたテーブルを持ち出した。やれやれであった。

 娘のテントはと伺うと、前室の幕越しに薄明かりが浮かんでいたが動きはなかった。私は車内に引き上げた。


 翌朝も天候に恵まれた。

 私は車内の湿気を取るために軽バンのリアゲートを開け放し、その下で朝のコーヒーを淹れた。

 気になる娘は炊事棟の側のテーブルのひとつでパンを焼いていた。香ばしいにおいが漂ってきた。

 それほど親しくなったわけでもないのに、ひと言朝の挨拶を交わしただけで少し浮いた気持ちになった。

 キャンプ場外れの木の下の若者3人はテーブルの回りで何やらやっていた。

 テントがないところをみると車の中で3人寝たようだ。大きなバンタイプの車だからそれも可能なのだろうか。旅の無茶も若いからできることだろう。

 ラジオの天気予報では、この地方は今夜から雨になるようなことを言っていた。

 このキャンプ場は広い屋根があるし、ここでもう一泊するかと思案した。

 娘は朝食を摂る間バイクの上に広げていたテントを畳む作業に入っていた。ここを撤収して移動するつもりらしい。

 つかの間のふれあいだった。彼女がこのキャンプ場を出て行く時は、あえてこちらからは言葉を掛けたりせず、黙って見送るつもりだった。馴れ馴れしい態度で、最後になって嫌われたくはなかった。

 椅子に座って次の宿泊地候補をスマホで探していると、トイレから若者が一人出てきて、私の前を黙って通って炊事棟に向かった。

 流し台から大き目の鍋をひとつ、両手で抱えて戻ってきた。中には食器類が入っているのかカチャカチャ触れ合う音がした。昨夜のうちに洗い物をしたのだろうか。

 とそこへ撤収作業をしていた娘が駆け寄り「あのう」と若者に呼びかけた。

 思わぬ展開だった。

 若者が足を停めると娘は「使ったテーブルは元に戻しておいたほうが良いと思います」と何の気負いも感じられない口調で進言した。

 若者がどんな反応を返すか、私は少し緊張する思いで成り行きに注目した。逆ギレなどという言葉はきょう日の流行語である。

 そこで彼がボソッと発したひと言は私の思いもよらぬものだった。

「めっちゃカワイイ」

 そのまま若者は立ち去り、娘はその背中をちょっと見送ったあと、私にチラッと視線を投げて作業に戻って行った。

 はたしてこれでコミュニケーションとしては成立したのだろうかと、私は何だか取り残されたような気持で大いにいぶかり、さすがにひとり旅を、しかもバイクで実行する今どきの娘は違うなと感心し、手強いお嬢さんという昔あった歌の題名だかが脳裏に浮かぶのだった。

 結果、テーブルは戻され、娘は旅立って行った。

 その際、わざわざ近くまで来て停車し、立ち上がった私に向かって右手でVサインを出してみせた。ヘルメットの中の目が笑っていた。

 私は静かに拍手をして見送った。

 これが女子力というものか、やられたなと思った。

 これが旅の空の下なんだなと実感した。

 旅に出る前と、出てからの様々な思いが交錯し、長いこと忘れていた感情が心の底の深い所から湧き出てきて、朝から涙腺が緩みそうになるのをジッと堪えた。


                                おわり

 


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