タイトロープ
結婚して二年目になる夫婦があった。夫は30才、妻は28才だった。
二年目であっても、二人ともまだまだ「ラヴラヴですよ」なんて、臆面もなく人に言えるくらいに愛し合っていた。
だが、転機が訪れた。夫は日本中に事業所がある大手の会社に務めているのだが単身赴任で地方に行くことになったのだ。「戻ってきたときには、一つ頭が抜けた出世コースさ」と夫は喜んだが、「夫さえいれば出世なんて、どうでもいい」という妻は、悲しんだ。かといって、各種の事情から自分も夫のいる場所へついていくわけにはいかなかった。
いよいよ夫が赴任地へ旅立つとき、
「いつもアナタの傍にいたいの。アタシだと思って、毎日、このネクタイを締めて」
妻は自ら選んで購入した数本の新しいネクタイを夫に見せた。
「ああ、そうするよ」
夫は、彼女をネクタイごと抱きしめた。
「アタシを裏切らないでね。浮気なんかしたら、ダメよ」
「まさか。そんなことしないよ」
彼はもっと強く彼女を抱きしめた。
*
夫は、「爽やかな二枚目」で仕事もできたから、よくモテた。トラブルは、向こうからやってくる。
「今夜、食事でもどうかしら」
会社の人間で、彼が妻帯者だと知っていても、平然と誘ってくる女性がいた。彼女も結婚していて、年は彼と同じだった。もちろん、食事に誘うだけで「浮気に誘っている」と解釈するのは早計だろうし、赴任したばかりの彼だから、親交を深める意味でというのも頷ける。だが、そういうのは職場の人間みんなでというのが相場だろう。いきなり二人でというのは、気が引けた。
「ええ、今度皆でいきましょう。おいしいお店、教えてもらいたいし」
彼は、軽く爽やかに、彼女の申し出をかわした。
ところが、この同僚女性は、簡単に引き下がらなかった。
「やっぱり、結婚二年目じゃ、気が引けるのかしら……食事するだけよ」
「ああ、ええ、ちょっとね」
彼が少し照れたような顔をしたところへ、彼女は、スッと彼の胸元へ手を伸ばした。
「すてきなネクタイ。アナタによく似合ってるわ。奥様が選んだのかしら」
「ええ、赴任したら毎日この中から選んで使ってくれと、新しいのをまとめて買ってくれたんです」
「そうなんだ?!」
彼女がさらに手を伸ばして彼のネクタイに手を触れた。
「ひゃっっ」
彼女は、指先にチクリとした痛みを感じて、思わず声を上げて手を離した。
「どうしたんです?」
「静電気かしら。指先がビリッと……変ね、まだそんな季節でもないと思うけど」
「そうですね、ははは」
これで、話の腰が折れて、彼女も誘うのをやめて引き下がった。
*
彼は、積極的に誘ってきた同僚女性に、とうとう「落とされて」しまった。
「しまった」というのは、こんな時によく使うが、意味としては『もはやどうにもならない。元へ戻らない。取り返しがつかない』という意を表す。
彼が彼女の部屋に泊まって、帰ろうと服を着たとき、
「あれ、ネクタイがないや。どこにいったんだろ」
「そう。いいじゃない、あとで探して置くわ」
「ううん。頼むよ。無くなると困る」
「フフフ。わかってるワ」
彼女には、難攻不落だった男を落とした達成感があった。しかも、それが「ちょっとお目にかかれないような、よくできた男」だったから、層倍の喜びだった。
彼が部屋を出て行ったあと、彼女はまた、一人、ベッドに身を投げ出して、少しイヤラシい思い出し笑いをすると、寝たり無かったのか、そのまま眠りについた。
彼女は眠っている。すると、ベッドの下から彼が無くしたネクタイがスルスルと這い出してきた。ネクタイの太いほうを頭にして進む様は、さながら「蛇」。濃いブルーと薄いブルーの縞模様のそのネクタイは、ベッドの足から這い上がり、眠っている彼女の首に「シュッ」と衣擦れの音をさせたかと思うと一瞬で巻き付いた。
「はっ、はぁぁう、うぐぅううぅ」
彼女は、もがいて首をかきむしりネクタイを外そうとしたが、とても外れるものでは無かった。数分後、彼女はグッタリとして、息絶えた。すると、ネクタイは緩み、また蛇のごとくにうねりながら進むと、少し開いていた窓の隙間から外へ出て行った。
「彼女は、何者かに殺された」そういうことだった。彼は、完璧なアリバイがあったし、そもそも彼は全く疑われなかった。犯人もわからない。凶器もわからない。彼女は、未知の侵入者に細い紐のようなもので絞め殺されたという結論になった。
彼は、自分が部屋を出て行ったあとに彼女が殺されたという事実を知り、とても驚いた。けれど、彼女が死んだ時間は、自分が帰ってから数時間たっていて、どう考えても自分に責任の一端でもあるようには思えなかった。それで、少し安堵もした。けれど、
「なくしたネクタイ。どこに行ったのだろう。あれが見つかったら、何か疑われるかも知れない……」
そう危惧していた。彼は、たまらず、そのときに着ていたスーツを出して、もう一度確かめた。すると右のポケットにあのときしていたネクタイが丸まって入っていた。
「ああ、あった。気がつかなかったナァ。しかも丸まってる」
その丸め方は、ネクタイをしまうときに妻がしていたやり方だった。彼は、戦慄を覚えた。これは、自分に対する戒めか警告か。そんな気がした。
*
数ヶ月の間、彼は「おとなしく」していた。けれど、一度知ったアソビは、彼の心から消えず、成長して蝕んでいた。
彼は、とあるバーで出会った女と親しくなり、密会するようになった。
彼は、アソビだった。もう「爽やかな二枚目」とは言えない男になっていた。
彼女は、ホンキだった。成ってしまった。
あるとき、彼女は彼の会社まで来て、彼の退社をビルの前の道路の反対側に立って待っていた。ただ待っていただけなら目立たなかっただろう。彼女は、何時間も雨の中で傘を持った姿勢のまま、彼の働くビルの玄関ホールを見たまま動かなかったのだ。
「あれ、誰の客だろうネェ」
「ヤバいことになってる」
「誰に用があるのか、賭けない?」
ビルの窓際に集まって、皆が興味津々で彼女を見た。ビルに出入りする社員も、通るたびに、彼女のほうを伺った。
彼は不在だった。朝から取引先へ行っていて、この事態を全く知らなかった。夜になって、ビルの窓にも明かりが点るころ彼は帰社した。そして、彼女が会社の前に何時間も立っていると知ると、慌わてて携帯電話で彼女に連絡をした。電話で話したあと、彼女がどこかへ移動したのを見て、会社の人間は、「今帰社したのは誰か」などと、推理して楽しんでいた。
いつも彼女と待ち合わせるバーに彼がやってきた。
「なんで、あんなことをしたんだい」
「会社で働く、スーツを着たアナタを見てみたかったの」
「そんなことで……」
「ワタシがまだ見ていないアナタを知りたかったの」
「ううん」
彼は、彼女と食事をして彼女の部屋へゆき、数時間して明け方に部屋をあとにした。そのとき彼は、ネクタイを外して自分で上着のポケットに丸めて入れていた。けれど、帰るときにネクタイはポケットから消えていた。
翌日、彼は、彼女が死んだことを知る。だが今回も、彼に嫌疑が掛かるようなことは無かった。『未知の何者かによる、紐状のものでの絞殺』、警察の捜査は、それ以上進まなかった。誰かが侵入した形跡も、争った形跡も無い。凶器もわからない。あるのは被害者がノドをかきむしっているということだけだった。
ネクタイは、いつの間にか彼の上着のポケットに戻っていた。彼はポケットにネクタイを入れていたことを忘れていた。気づいて取り出して、また驚がくした。丸め方が妻のものだった。
*
休みを利用して、彼は妻の待つ家に帰った。にこやかにやさしく迎えてくれる彼女は、やはり『アソビ』とは違う幸せを彼に感じさせた。
一度本社に顔を出してから帰宅した彼は、スーツにネクタイ姿だった。
「休みなのに大変ね」
彼女は、彼の上着を脱がせた。そして、彼の前に回り、ネクタイをそっと撫でると、
「アラ……あまりイタズラしちゃいけないワネ。やっぱりネクタイだけじゃ、しばらくわからないこともあるわねぇ」
彼の胸元に顔を寄せてつぶやいた。
*
何の変哲も無いマンションの一室。だがドアを開けると、神秘的な形の香炉から独特の香りが漂い、赤黒いカーテンとカーペットが敷き詰められた部屋の中は、およそ都会の一部の空間だとは思えなかった。
「どうでしょうか。わたしのかける呪いの効果。体感していただけましたか」
ランプの明かりが揺らめく丸いテーブルの向こうに座る、黒いボロ布を体に巻き付けたような出で立ちの男は、椅子に腰を下ろした彼女に不敵な笑いを見せていった。
「ええ、とても満足しています。でも、ネクタイだけでは、『気付く』のが遅れることがあるの。だから、ほかにも必要だと思って」
「そうでしたか。満足していただければ、嬉しゅうございます。……そうですね、用途から考えると、追加でベルトはいかがでしょうか?奥様の髪の毛を入れて呪文をかき込む細工も、しやすいですし。ベルトなら、仕事でも普段着でも使えますし、『絞まり』もよいかと』
「そうね。そうしてちょうだい。早速新しいベルトを選んでこなくちゃ」
「はい。お待ちしております」
黒い男は、恭しく頭を下げた。
おわり