忠実な従者
振り返ると、腰のすぐうえまで届く長い金髪に深く碧い美しい瞳を持つ背の高い女性が、女性といっても僕より少し歳上のせいぜい16歳か17歳くらいの見た目ですが、背筋を伸ばして姿勢よく、それでいて気品ある雰囲気をまといながらスッと立っていました。
「ああガド……、いやごめん、フィーユに戻ってたんだね」
「旦那様、戻った訳ではありませんよ。私は霊的にはどちらかと申しますとガドの姿の方が本来の姿で、このフィーユとしての姿の方が仮の姿です。街中で今みたいに安全な人達に囲まれていて警戒を解ける時にだけ、人に似たこの姿になれるのです。ここにいればそれほど大変ではありませんが、この姿を維持する間はほんの少しずつですがマナを消費し続けているのです。ちょっとずつでもマナを使わないとフィーユとしてのこの姿は維持できないのですから、私の本来の姿はやはりガドの方、ということになります」
「うん、そうだったね、ごめんよ。よかったらそこにかけて一緒にお茶をごちそうになろうよ」
「よろしいですか? ブランカ様」
フィーユは丁寧にブランカ婆さんに尋ね、ええ、もちろんよ、という返事を受けてから僕の横の椅子に座りました。
さっきまで部屋を走り回っていて、それから部屋の隅で何かをかじり始めていたクヌクヌも、かじるのを止めてフィーユの足下に来てちょこんとお座りをしました。
「それにしても、いつもこの子のことを守ってくれてありがとうねえ。この子何にもできないから、フィーユもどこに行っても大変じゃないの?」
ブランカ婆さんが少しいたずらっぽく笑いながらフィーユに話しかけました。ブランカ婆さんは、僕のことを『この子』と言ったり『あんた』と言ったりします。
「……」
フィーユは黙ったまま静かに微笑んでいます。
「おい、そこは否定してよ」
僕は、慌てて口を挟みました。
「旦那様は、いつも頑張ってらっしゃいますよ。何も問題はありません」
美しい、気品ある表情と姿勢を崩さずに、フィーユはブランカ婆さんに向かって言葉を足しました。
「私にとって、旦那様をお守りすることが私のすべきことの全てですし、旦那様はいつも私を側に置いて優しくお声をかけて下さいます。私が危険な目に遭わぬよう、毎日毎日心から心配して下さいますし、時々、私を膝の上にお乗せになり、じっと愛おしそうに私の目を見つめて下さいます。それから……」
「あり、ありがとう、フィーユ! もう充分だよ!」
さすがに、恥ずかしくなって慌てて話を遮りました。フィーユがガドの姿の時には確かによく膝の上に乗せて撫でてあげたりはしていますから、フィーユの話を嘘ではありません。でも……。
フィーユは、落ち着いた表情で、抜けるように白い肌をより一層輝かせながら話し始めていましたが、僕のお願いを素直に聞き入れてくれて、言葉をスッと止めました。
その様子を見ていたブランカ婆さんがまたいたずらっぽく笑って何か言いかけようとしたその時、
「お婆ちゃん、大変です、ブルーベリー茶もシェリー茶も切れています!」
台所の方から、エリーの大きな声が聞こえてきました。
「あら、それは大変ね。そしたら、バターコーヒーはどうかしら?」
ブランカ婆さんは、台所の方に向かって返事をしました。
「バターコーヒー用のプーシャバターがないのです。コーヒー豆はまだあるんですけど、です」
「あら、そうだったのね。うっかりしたわ。どうしましょ」
お茶好きのブランカ婆さんがお茶を切らすなんて一大事です。珍しく、本当に困ったような顔をブランカ婆さんがしています。
「なら、僕が買ってこようか? ちょうど万能ナイフが痛んできたんで、金物屋で手入れの相談をしようかと思ってたんだ。途中で市場通るから、ついでにだけど。プーシャバターは市場じゃなかなか手に入らないけど、ブルーベリー茶とシェリー茶なら市場に出てると思うよ」
「あら、せっかくこれから一緒にお茶をいただこうと思ってたお客様に、買い物に行ってもらっていいものかしら?」
「別に大丈夫だよ。元々市場にはこの後行くつもりだったし、お茶がなかったら、ブランカ婆ちゃんは声が枯れてお喋りどころじゃないでしょ」
「まいったわねえ、私をからかうなんてこの子は……。でも、お茶がないんじゃ始まらないから、お願いしようかしら。そしたら、エリーも連れてく? あの子も少し外を歩きたいだろうし」
「うん、行くのですよ!」
僕が答えるより早く、奥からエリーの声がしました。
「じゃあ、そうしよう! フィーユ、クヌクヌ、準備して」
「承知いたしました」
フィーユは、落ち着いた表情を崩さないものの、一緒に出かけることが嬉しくて仕方がないのでしょう、人の姿をしていても唯一残るワンコとしての特徴、髪色と同じ金色の毛並みの1フィートくらいのバランスのとれた長さの尻尾を上に向け、表情からすると不釣り合いなくらい激しく左右に振っています。
一方、クヌクヌの方は……、あまりが人通りの多い場所への外出が気に入らないのでしょうか、ブランカ婆さんの足下に行き、頭を床にこすりつけたかと思うとそのまま器用に体をよじらせてコテンと横に転がってお腹を見せて居眠りのポーズを取り始めました。
「何だよ、クヌクヌ、抗議のふて寝ポーズかい? そんな手が僕に通じるとでも思っているのかい?」
僕は、少しかがんでクヌクヌの方に手を伸ばして両手の指をクネクネ動かしながらくすぐるポーズをしました。でも、クヌクヌは肝の据わったうさぎです。そんな脅しなどでは微動だにせず、かえって、小さい寝息を立てて居眠りさえ始めてしまいしました。
「まあ、本当にクヌクヌは、人混みは苦手だからなあ。婆ちゃん、悪いけどクヌクヌ見といてくれる?」
「ああ、もちろんだよ。クヌクヌからも土産話を聴きたかったからねえ」
「……クヌクヌのままのクヌクヌと直接お話ができるのなんて、婆ちゃんくらいだよ」
ブランカ婆さんは足下に転がって寝息を立てているうさぎに目をやりながら黙って微笑んでいます。
「お待たせです。さ、いきましょ!」
エリーが、部屋の奥から丈の短いオレンジ色の薄手の外套を羽織った姿で出てきました。
「うん、じゃあ、行ってくるね」
「分かってるだろうけど、気をつけてね」
「うん、もちろん」
僕は、エリーと一緒にブランカ婆さんの家の扉を開けて、外に出ていきました。
僕達の後にフィーユが続きました。彼女は扉の方に歩きながら、外に出る直前で体全体が薄くなったかと思うとフワッと床近くに吸い込まれ、そのまま小さな塊になってからガドの姿に戻りました。そして、そのままガドは立ち止まることなく2人の後について外に出ていきました。
……覚えておられるでしょうか?ガドは、街中で安全な人達に囲まれて安心できる場所でだけ、少しのマナを使ってフィーユとして人に似た姿をとることができることを。
なぜ、フィーユはブランカ婆さんの家を出るその扉の前でガドに戻ったのでしょうか。そうです。全くご想像の通りです。例えここグランド・ジョルディンの街中であっても、物静かではありますが大変強力な魔力を誇る高名な黒魔術師ブランカ婆さんが住むこの家を一歩出れば、そこはまるっきり命の危険を意識しなくても何事も起こらないと言い切れるほどには、決して安全安心な場所ではないからなのです。