グランド・ジョルディンにて
頭が真っ白になる、というのは月並みな言い方ですが、本当に頭の中が白一色に染まりました。
『もう助からない』
僕は、前の光の粒を見つめたまま、すぐ後ろを振り返ることもできずにそのままの姿勢で止まっていました。たぶん、息もしていなかったと思います。
何もできないまま、それこそ身動き一つできないまま、前方の光の粒が10個、20個、100個とどんどん増えていきながら大きくなっていくのをただ見つめていました。
もう数え切れないほどの数になって、はっきりと何か光の大群が僕達に向かって一直線に突っ込んで来ていることが分かった時、ガドが小さく唸りました。
「クウッ……」
本当に短く、小さな鳴き声です。でも、僕には、ガドが人間には聞こえない音域で、細く長く声を出し続けているように思えました。
突然、目の前の光の大群が左右に二つに割れ、そのまま僕達の乗るいかだに突っ込んできました。
「蛍蜻蛉だ!」
もう数千にもなった青紫色の光の粒が、いかだだけを避けて僕の左右の頬の少し先と頭のすぐ上を通って僕達を包み込むように前方から後方へとすり抜けていきます。
蛍蜻蛉は赤蜻蛉に似た無害な昆虫で、大きさは普通の赤蜻蛉より一回り大きいくらい、羽は非常に柔らかく羽音はほとんどしません。今の季節、水辺で幼体から成体に変体した蛍蜻蛉達は、その最大の特徴である胴体の大半を占める発光体を青紫色に明るく光らせながら数千から数万にもなる群れをなして繁殖地に向かうのです。
何か夢でも見ているような、幻想的な光景でした。
無数にも思える大きな光る蜻蛉達が、半透明の羽を激しく羽ばたかせていながら全くの無音でゆっくりと僕達を包みながら後ろへと流れて行きます。
僕は、直前まで恐怖で息ができませんでしたが、ゆっくりと後ろに流れて行く光の粒の壁を見つめながら、今度は別の意味で息を飲みこんでいました。
……どのくらいの時間が経ったのでしょう、蛍蜻蛉の光のカーテンが通り過ぎても呆然としている僕の目の前に、唐突に対岸に生える木々の姿がびっくりするくらいはっきりと広がりました。
と、その時、今度は後ろではなくいかだのあちこちから、
『カタカタカタカタカタカタカタカタッ……』
小さいがどこかけたたましい音が鳴り響きました。
「クヌクヌぅ……」
いかだの上を、小さなうさぎが勢いよく走り回っていました。
クヌクヌです。小型の焦げ茶色のうさちゃんで、絵本で見るような『ザ・うさぎ』という姿をしています。種類としてはネザーランドドワーフというのが一番近いのではないでしょうか。サイズも本当に小型で3ポンド半くらい、頑張れば僕の腕でも手のひらと手首の辺りを上手く使えば片手に乗せることができます。クヌクヌを毎日見ていると、たまに村や街で見かける飼い猫が巨大、と言ったら言い過ぎですが、かなり大きく見えます。
クヌクヌがあまり濡れないよう、時々弁当箱に使っている籐で編んだ蓋付きのバスケットに入れていたのですが、勝手に出てきてしまったようです。さっき僕の身体を凍り付かせた『カタッ』という音は、後ろに置いてあったバスケットからクヌクヌが抜け出した時に鳴った音なのでしょう。月のない夜道では、木の枝が揺れる姿も魔物に見えることがあるそうです。クヌクヌが立てた物音一つで凍り付いてしまったのも、そういうことなのでしょう。
「クヌクヌぅ、本当にかんべんしてよぉ……」
少しおおげさに半泣きのように顔をしかめて、クヌクヌに話しかけました。
クヌクヌは、走り回るのを止め、涼しい顔をしながら今度はカリカリカリと小さな音を立てていかだの丸太をかじっています。
横に座っていたガドが、チラッと一瞬だけクヌクヌに目をやってから、深いため息をつく僕の左側の頬を一回だけペロッと舐めました。
◇◇◇
フォレ・ノワールでの出来事の数日後、仕事を終えた僕達(僕、ガド、クヌクヌ)は、グランド・ジョルディンの街に戻ってブランカ婆さんの所に報告と報酬の受け取りに行きました。ジェムがらみの依頼は、少なくともこの街ではほとんどブランカ婆さんからのものでしたので、仕事の後に婆さんを訪ねるのはいつものことです。
「おや、よくきたね。もう戻ってきたのかい?」
ブランカ婆さんは編み物に似た魔道具を編む手を止めて、入り口に立っている僕に話しかけました。
ブランカ婆さんは、婆さん、と呼ぶには少し若いおばさんとお婆ちゃんの中間くらいの見た目ですが、当の本人が婆さんと呼んで欲しいのよというので、皆からそう呼ばれているこの一帯では名高い黒魔術師です。
何で黒魔術師なのに『ブランカ』婆さんなのかというと、比較的若く見えるその容貌からするとちょっと不思議なくらいの白髪、純白と言っていいきれいな髪色ですが、をしているからだと言われています。人によっては、
「あれは、ブランカ婆さん本人が、何か理由があって自分に魔法をかけて真っ白にしたらしい。それ以前は、それはそれはきれいな栗色の髪だったそうだ」
と言います。でも、他のある人は、ブランカ婆さんの元の髪色は輝くような金色だったと言いますし、青空のような透き通った青だったという人もいますので、本当のところどうだったのかは分かりません。とにかく、人々の記憶が薄れるほど昔に、自分で魔法をかけて髪色を今のような純白にしたらしい、ということはどうも本当の話のようでした。
「あちらさんは、何か言ってたかい?」
「フォレ・ノワールに囲まれてると、どうしても白系や黒系以外の系統のジェムが生成し難くなるから運んでもらわないと不足しがちでね、というような、いつもの話を少ししただけだよ」
僕は、フォレ・ノワールでの届け先で話したことを手短に答えました。
「そうよね、そうなるよねえ。私からすると、あんまりあんな難しい所に村を作らなくてもいいんじゃないかと思うけど、まあ、色々と事情もあるんだろうねえ」
ブランカ婆さんは、フォレ・ノワールに囲まれた一帯が、下級の魔物に襲われたり、人間同士の戦争に巻き込まれたりすることがあまりないのが利点であること、でも、交易に不向きで人も物も動きが少ないこと、何よりも決定的に特定の系統のジェムが慢性的に不足しがちになるうえに外からジェムを運び込むにも地理的に不向きであることが大きな弱点であることなどを話してくれました。
「まあ、そんな所だから、あんたに頼む仕事もできるんだけどねえ」
ブランカ婆さんは深いため息混じりにそう言い添えました。
婆さんの話が終わるか終わらないか、たぶんほとんど同時に、
「おかえり!」
奥の部屋から元気いっぱいの声がして、赤毛の目のクリクリっとした女の子が顔を出しました。