黒い森の沼
うっすらと白い霧が広がる中、僕はいかだをゆっくりと前に進めていました。
まだ、対岸までは距離があるのでしょう、そう濃くはない霧なのに前の方には全く陸地が見える気配はありません。
僕の横には、身体を寄せるようにちょこんと薄茶色のワンコが座っています。
ワンコはガドといいます。
『ガーディアンドッグ』という海の向こうにある小さな島国で使われている呼び方を縮めただけの名前です。現代日本の言葉で言えば『狛犬』という言葉にあたるのでしょうか。犬種としては柴犬という種類に近い外見で大きさもだいたい同じくらいかと思います。ただ、色はかなり白に近い薄茶色で少しだけ毛は長く柔らかい毛質ですので、撫でてみると柴犬とはきっと違った印象を持つでしょう。夕日にあたると金色に輝くとても美しいワンコです。
ガドは、落ち着きがあってとても賢いワンコですので、時々何かのはずみで揺れるいかだの上でも、そのあたりの村で飼われている騒がしい番犬たちとは違ってほとんど身じろぎ一つせずに、穏やかな表情を崩すことなく前を見つめながら注意深く周囲の音に耳を傾けています。
本当は、ガドを『ワンコ』と呼ぶのはあまり正確ではありません。でも、僕はその方が呼びやすいし親しみがわくので、そう呼ぶことにしています。
◇◇◇
いかだを進めるうちに、少しずつ霧が濃くなっていきました。
フォレ・ノワールと呼ばれているこの一帯では、一般に誤解されているように猛獣の類いがたくさんいる訳ではありません。むしろ、そういった危険な野生動物は多くはないと思います。
ただし、猛獣よりはるかに危険なオンブルという土から生まれた精霊がいてごくたまに人を襲うことがあります。オンブルの魔力は非常に強く、どこの村でも売っているようなありふれた護符では全く身を守ることはできません。そのうえ、種類によっては人の精神波に乗ることができるので、そういった強いオンブルに出会うと一瞬のうちにすっかり心を乗っ取られてしまうこともあります。
もちろん、フォレ・ノワールにはオンブルが住んでいるといっても、そう滅多に出くわすものではありません。
例えば、現代日本に住んでいるあなたは、たまに友達と日帰りで郊外の山にハイキングに行き『熊に注意!』といった看板を見かけることがあるでしょう。きっと内心少し怖いなとは思うでしょうが、だからといって楽しみにしていた友達とのハイキングをやめて引き返すほどではなく、あなたは麓の売店で熊よけの鈴でも買って腰の辺りにつけてそのまま山に入っていくでしょう。鈴がどの程度役に立つのかはともかく、『熊に注意!』という看板があるからといって、ニュースになるほど熊がよく出る地方でもない限りは実際には滅多に熊には出くわさないと思えるからです。フォレ・ノワールのオンブルもだいたい同じようなものです。
でも、だからといってオンブルは出てこないと決めつけて進んで行けるほど、フォレ・ノワールは安全ではありません。何よりも、万が一にもオンブルに出くわしてしまい、しかも不意打ちをかけられるようなことがあれば致命的なことになることは間違いないからです。
もちろん、熊にだって不意に襲われればたいてい命を落とすのかも知れませんが、それでも熊であれば無我夢中で手荷物を振り回すうちに運良く硬い部分が熊の鼻先にでも当たり怯ませることができるかも知れませんし、距離が取れれば、目をそらさないようにしながらゆっくりと後ずさりしてそのまま難を逃れられることもあるでしょう。
でも、熊と違ってオンブルにはそんな手は通用しません。ただ暴れただけでは怯ませることもできませんし、かすり傷を負わせることもできません。
そのうえ、精神波に乗られてしまい心を乗っ取られてしまったら……。
その悲惨さといったら、口にするだけで心が壊れてしまいかねないほどだそうで、大人達も誰もきちんと話してくれたことがないので中身は分かりませんが、その様子からすると、おそらく巨人鬼に体を左右に引っ張られて引き裂かれるよりは相当に悲惨なことになるらしい、という程度に僕にも想像はできています。
白い霧がますます濃くなり、ほとんど視界が真っ白になった頃、ガドの耳がピクピク小さく動き、それから声をたてずに僕の方に首を少し回して鼻先でチョンと腰の辺りを突付いて合図を送ってきました。
「うん……」
本当に聴き取れるか聴き取れないかのギリギリくらいの小さな声でガドに返事をしました。
まだ目には見えませんが、対岸が近づいてきたようです。ガドには、対岸の草木が微かに風になびく音や水際に生える苔の匂いで陸地が近いことが分かるのです。
岸が近づいてきたことを知らせるのと同時に、ガドは何かに警戒するよう注意をうながしています。水深の深い沼の中央部よりも岸に近い浅瀬の方が、普通の動物にとっても死を司る危険な魔物や精霊にとっても何かと棲みつき易いのです。
僕は、できるだけ音を立てないように慎重に櫓で沼の水をかき、不意に声を出さないよう息を殺しながら岸があるらしい前の方にいかだを進めていきました。
『何かいる……』
僕は息を殺したまま手に握っていた櫓をもう一度強く握り直しました。
周囲には風の音すらも無く、ただゆっくりと櫓が水面をかく音だけが聞こえます。静かに、ただ静かにいかだは前に進んでいきます。
……不意に、ガドの耳がピンと立ち上がりました。
すると、ほとんど同時に、前方で青紫色の粒のような何かが強く光りました。
僕は、全身の注意を前に傾けました。
まだ少し先の方で光っている青紫色の粒が2つに分かれました。
僕は、さらに目を凝らしました。
ところが、注意力のほぼ全てが前を向いたと同時に、意識ががら空きとなった自分の身体のすぐ後ろ、しかもよりにもよって僕達が乗っているこのいかだの上で『カタッ』と乾いた音が鳴りました。
きっと完全に隙きをつかれたのです。
『えっ、乗り込まれた!?』
そう思った瞬間、今度は前方の光の粒が2個から3個、4個、10個と増えながらどんどん大きくなって迫ってきました。
前後を挟まれ、僕は口から心臓が飛び出しそうになりました。