第9話 「彼女がまき散らかした全ての贈り物は、僕にとってただひとつの希望になる」
第9話 「彼女がまき散らかした全ての贈り物は、僕にとってただひとつの希望になる」
10月も残すところ5日になった満月の木曜日、僕は悩みがひとつだけあった。
食堂に集まって昼食を食べる僕達の中で、僕の対角線上に存在する鹿山梨世の誕生日が次の週の火曜日に迫っていた。
彼女がカノジョだった時に買おうと思っていた指輪のために短期のバイトもした。
けれど、今は指輪をプレゼントするには重すぎる。
だからネックレスにしようと思ったものの買いに行けずにいた。
「あ、ねえカニクリ。12月になったらちょっと付き合ってほしいんだけど?」
「何? 急に」
「卒業した先輩が起業するんだけどそのパーティーが12月にあって来てくれないかって」
「そこに私も来いって? イズちゃんは?」
「私、12月はショップのバイトで忙しくなっちゃうから代わりに行ってくれないかな?」
黙っている僕達を余所に彼女とイズちゃんはカニクリに詰め寄る。
「堅苦しくないパーティーなら行ってあげてもいいよ」
「安心して。ほとんどが先輩のサークル仲間だし私が一緒にいるから問題ないよ」
「梨世がそこまで言うなら行ってあげるけど、資金提供とか怪しい話なら速攻帰るからね」
「大丈夫だよー。私の先輩だよ?」
「だから心配なんだってば」
「ひどーい。まあ、よろしくね。近くなったら細かいこと教えてくれるって」
と話していた彼女の背後から革ジャンを着た三人組が現れる。
「あれ? 梨世じゃね?」
「ん? あ、タツキ先輩。お疲れ様です」
金髪の前髪で表情がほとんど隠れてしまっているオトコが彼女の肩に手を置いた。
「ちょうどよかった。今日さ、渋谷でオレ達ライブするから来いよ」
「……そうですね」
「また打ち上げで羽目外しすぎてホテルでゲロまみれとかやめてくれよ」
オトコ達三人は下品に笑う。
「そんなこともありましたね。でも今日は私達、企業研究の勉強会があるのでまたの機会に」
「梨世が勉強会? マジで? ま、気が向いたら来てくれよ。また朝まで楽しもうぜ。よろしく」
精神的にオトナになりきれていないコドモのようなオトコ達は去っていく。
「梨世、アンタの先輩ってあんなのばっかなんじゃないの?」
「えー、あれは特別だよ。起業する先輩はマトモだから大丈夫だって」
彼女は笑ってそう言った。
「マトモだからって本質はそうとは限らないよね」
僕はそれが気に食わなかった。
食欲も失せてしょうが焼きが熱を失っている。
「先輩はちゃんとした信念を持ってやってるの。それをバカにしないでよ」
「バカにはしてないよ。ただオトコ相手にヘラヘラしてる鹿山さんが気に食わないだけ」
「何なの? 私のことビッチだって思ってるの? 期待しすぎなんじゃないの? 勝手に期待したくせに勝手に幻滅しないでよね」
食事もそこそこに彼女はバッグをつかんで学食を出ていく。
「ちょっ! 梨世!」
メロスは僕を一瞬見て彼女を追いかけていく。
「朋弥くん。梨世ちゃんも悪いけど朋弥くんも悪いからね」
ちゃんとご飯を食べ終えたイズちゃんはそう言い残して去っていった。
ちらちらと見ている周囲の目の中に僕とミツさんとカニクリが取り残される。
「今日はやけに突っかかるのね。梨世、ほんとに怒ったかもよ?」
カニクリが上手に焼き魚の骨を取り分けながら言う。
僕は何も言い返せずに冷めたしょうが焼きの皿を見つめていた。
「なあ、朋弥。オマエのために言うけどな、あんなんただのメンヘラビッチだぞ。あんなんと付き合って何の得があるんだよ」
「……損得じゃねえよ。言いたいだけだろ」
ミツさんの言葉に僕はいら立ちを隠しきれなかった。
「――ミツさん、ごめん。でも、彼女のこと悪く言ってほしくない」
「悪かったよ。付き合ってるカノジョのこと悪く言って」
「もう、付き合ってないんだけどね」
僕がついでにそう言うと、カニクリは驚きもしなかった。
「なあ、カニクリ。ちょっと付き合ってくれない?」
大学の講義が終わり、バイトは彼女と新しく入った女の子の二人のシフトで僕は休みだった。
年下のバイトが入ってきてどうしたらいいかがわからず受け入れられないと言っていた彼女は大丈夫だろうか。
「いいけど、どっか行くの?」
「買い物。アドバイスほしいなって」
「メロスくんじゃなくて私?」
「うん。プレゼント、一緒に選んでほしいんだ」
「もしかして、梨世の誕生日プレゼント?」
「そう。彼女の誕生日」
夕暮に照らされるモノレールの車内で、ドアの左右に立って言葉を交わす。
「別れたのに?」
「……そもそも付き合ってなかったんだってさ。僕の勘違いかな」
「だからか。何か最近空回りしてるなって思ってた」
「ホント?」
「うん。梨世のこと、まだ好きなんだね。だから好きすぎて空回り」
「あー、……うん。そうだね」
差し込む西日がビルに隠れる。
「それで、何をプレゼントするの?」
「ネックレスにしようと思ってるんだけど、重いかな?」
「いいんじゃない? 下手に指輪プレゼントするよりもずっといいよ」
再び現れた夕日を浴びるカニクリの笑顔は優しかった。
ショーケースの中にはキレイに飾られた指輪やピアス、ブレスレットに時計、バッグや財布まであった。
「梨世の好みって聞いたことあるの?」
ネックレスのショーケースを眺めながらカニクリが言った。
「そう言えば聞いたことないかも」
「まあ、このブランドも普段つけてるから嫌いではないだろうね」
カニクリは気になったモノを店員に頼んで見せてもらう。
「値段も手頃だし、悪くないと思う。ただ――他のオトコからももらってそうだけどね」
似合う? とカニクリは自分の首に当てて見せる。
「たとえそうでも聞けないけどね」
似合うね。自分で買ったら? と少しだけ意地悪を僕は言った。
「でも最近オトコ友達と出かけるの、断ってるらしいよ」
「え? そうなの?」
「理由までは聞かなかったけど、私とイズちゃんといることのほうが多いかな」
「そっか。でも、プレゼントくれるヒトはいそうだよね。被ったら嫌だな」
「その時はクリスマスプレゼントにでもしたら?」
「誕生日でもあれなのに、クリスマスは特別すぎない?」
「そう? クリスマスは誰にでも平等に同じ日に来るのよ」
「クリスマスはちょっとダメかな。付き合ってもないのに誕生日プレゼントするのでもやめたほうがいいと思ってるよ」
「やめとけって言われて、箱にしまったままにできたら苦労しないよね」
「パンドラの箱みたいな?」
「開けてはいけないと言われたら開けたくなる。世界に災厄を振りまいた悪女、パンドラ。でも、パンドラはいいオンナだよ。ただ好奇心が旺盛だっただけ」
「見るなのタブーだね。神話にはよくある」
「カリギュラ効果って言うんだって。ローマ皇帝、カリギュラを題材にした映画が語源で、過激な内容で公開禁止にしたら世間からより一層の関心を集めたんだって」
「神統記を書いたヘシオドスは神につかわされた人類最初の女性のパンドラがいかにオトコの災いだったかって記したのは極度のオンナ嫌いだったからだって読んだことある」
「……全ての贈り物」
「何それ?」
「パンドラの意味。神様からあらゆる贈り物を与えられたパンドラちゃんはいろんな災いが入った箱を開けてしまい、災厄をまき散らした。そして慌てて閉めた箱の中に残されたモノが、希望」
「まあ、カレシのケータイ見ちゃうみたいな女の子だよね。あんなの見たって、最後に希望も何も残されていないのにな」
「疑いがあるから希望も何も残らないのよ。結局自分でトドメを刺すみたいになってしまうのにね」
「……やっぱりやめようかな」
目を落とした先にあるハートモチーフでピンクゴールドのネックレスは予算内で収まる。
「どうして?」
「付き合ってもないって言われたのにこれ以上干渉するのは違うかなって」
「朋弥くん、――どうしたいの?」
ガラスケースの上に置かれたカニクリの手が力強く握られていた。
「いつまでもそうやってやらない理由ばっかり並べて、逃げてばかりで。結局どうしたいの?」
「どう、すればいいかな」
「簡単な話よ。やればいいのよ。だから私を連れてきたんでしょ? 逃げられないようにするために」
キツい言い方だったけれど、
「自分の心にまで嘘をつかないで」
カニクリは笑顔だった。
***
そんなかわいい顔で悩んでいるから、私はほんとうの気持ちを言えなかった。
結局彼が買ったのはハート型のネックレスで、ピンクゴールドの金属に囲まれたピンクトルマリンは10月の誕生石だった。
「ほんとうに梨世は思われててうらやましいな」
ガラスのショーケースの前で一時間ほど朋弥くんが悩んだおかげでデパートを出た頃には空が夜の濃い青に包まれていたけれど、辺りは街灯やネオンに照らされて明るかった。
「でも本人に言うと調子に乗るから言わないけどね」
「確かに。調子に乗って浮気とかしそうだよね」
「朋弥くん。君がそんなこと冗談でも言わないで」
「ごめん。……そうだね。僕だけでも彼女のことちゃんと受け止めてあげないとね」
「そうだよ。――気に入ってくれるといいね。大好きになってくれるといいね」
いつもよりもゆっくり歩く私達の距離は近くて遠い。
「前にさ、好きなヒトの好きなモノを好きになるかって話したじゃん」
手を伸ばせば届くはずのこの距離に、答えはあるのだろうか。
「うん。話したね」
「好きになってもらいたいって思うのって、気持ちを共有したいからだと思うんだ」
大好きなヒトに私の大好きなモノを知ってほしいし、大好きになってもらいたい。
「それと同じだけ好きになりたい、知りたいと思うけど、正直、私もそれを好きになるかはわからない」
――答え。
「好きになればお互いにいいんだろうけど。でも、否定することは絶対にないよ」
私はどうしたいんだろう。
彼との距離を保つことは彼の恋を応援することで、私の恋に答えは出ない。
いや、出ないのではなくて出さないだけだ。
逃げているのはこの私。
けれど、今の彼に何を言ってもムダだ。
だから恋にはフタをしよう。
何も残らなくても、そっと私の中に閉じ込めておこう。
それが答え。
「……逃げてるよね。私も」
走り抜けていく車の騒音でその言葉は彼に届かない。
「ん? 何だって?」
「何でもない。あ、ちょっとご飯寄ってかない?」
「うん、いいよ。でも終電なくなっちゃうんじゃないの? 家まで二時間かかるって言ってなかった?」
「安心して。今日は梨世に聞きたいことあるから泊まっていこうと思ってて」
嘘をついてでも私は彼のそばに、友達として存在していたい。
「友達だから」
見上げた夜空には太陽を追いかけていた満月がもう沈んでしまっていた。
***
僕がカニクリに付き添ってもらってプレゼントを買ってから、彼女の誕生日まではあっという間だった。
彼女の誕生日当日、今月最後の火曜日。
大学の中で彼女に会うことはなかった。
朝の電車も、昼時の学食も、講義が終わってからも、彼女に出会うことはなかった。
たとえ会えたとしてもこの前のことで機嫌を損ねているだろうから話してくれはしないだろう。
僕がそのままバイト先の『Crystal Jellies』に入ると待っていたのは新しく入ったばかりのバイトの女の子だけだった。
「あ、椋木先輩。お疲れ様です」
全身黒ずくめの喪に服したような格好の松井林檎は店のエプロンを身に付けて水槽をのぞき込みながら餌やりをしていた。
「松井さん、お疲れ様。ずいぶんアクロバティックな餌やりだね」
「……クラゲって案外かわいいですね」
僕の冗談を何も受け止めず松井さんは水槽を上から見ている。
渡来和紗の紹介で入った松井さんは渡来さんの知り合いだけに少し癖のある人物だった。
「そう言えばオーナーは? 今日の昼間はオーナーの担当だったよね?」
「オーナーはいつもの病院です。急に代わってくれって言われました」
松井さんは脚立を次の水槽に運ぶとまた上から見下ろしながら餌をやり始める。
「そうなんだ。奥さん、何かあったのかな」
「わかりませんけど、あまりいい感じはしないですね」
無表情のまま松井さんは水槽を見つめていた。
「そっか。鹿山さんは?」
「鹿山先輩は今日お休みですよ。そんなこと聞かなくても知ってるんじゃないですか? カノジョなんですよね?」
と次のバイトが見付かるまでの条件付きでバイトに入った松井林檎が僕を見つめる。
「付き合ってなかったんだって。僕達」
「そうだったんですか。私には付き合ってるように見えましたよ」
興味がなくなったように松井さんはまた餌を水槽に浮かべる。
「松井さんってさ、カレシいるの?」
「……いますよ」
その微妙な間が何を示すのか、すぐにはわからなかった。
「そっか。だよね。松井さんかわいいからな」
「かわいくないですよ」
何事もないように松井さんは餌を捕らえるミズクラゲを見ていた。
「フラレたからって、もう他のオンナに乗り換えるんですか?」
「そうじゃないよ。ただ、フラレたのに誕生日プレゼント渡されたらどう思うかなって聞いてみたかっただけ」
「いいんじゃないですか? 私だったらうれしいですよ。――もう会えませんから」
再び松井さんは脚立から降りると次の水槽へと移動する。
最後の言葉は脚立を引きずる音で聞こえなかった。
「最後、何だって?」
「いえ。それで、誕生日っていつなんですか?」
「今日だよ」
「え? 今日ってあと6時間しかないじゃないですか。どうするんですか?」
「いや、だからどうしようかなって」
「椋木先輩、すぐに電話してください」
松井さんはじっと僕を強い眼差しで見つめる。
「今日はもう残り少ないですよ。それに、もう会えなくなったらどうするんですか? 今の気持ちもプレゼントも、そのままにしたら絶対後悔しますよ」
今までにない松井さんのはっきりとした言葉に僕は言葉を失っていた。
「先輩がしないなら私がします」
と松井さんは傷だらけのガラケーを取り出し、電話をかける。
「あ、鹿山先輩ですか? 松井です。お疲れ様です」
ちらっと松井さんは僕を見た。
「大変なんです! 椋木先輩がケガしちゃって! すぐに来てください!」
そう叫んで電話を切った。
大声を出すようなキャラじゃないと思っていた松井さんは得意げにニヤリと笑った。
「これでゆっくり歩いたとしても鹿山先輩の家から20分で到着できるはずですから気長に待ちましょ」
「気長にって彼女が家にいるのかもわからないのに?」
「最近鹿山先輩、引きこもってるって言ってましたよ」
「引きこもってるの? 鹿山さんが?」
「はい。夢のためにがんばってるって言ってましたよ」
夢。
彼女がそんなことを言ったなんて想像できなかった。
「どんな夢だって?」
「そこまでは教えてくれませんでしたよ」
その夢を、僕は知りたいと思った。
電話が終わってから僕達は餌をすくい、掃除をして時間を潰していた。
ちょうど松井さんが休憩に入った頃、勢いよく店のドアが開いた。
「椋木くん!」
ヒールの高いショートブーツで走ってきたようで少し息が乱れていた。
「……ん? あれ? 元気……?」
いつものようにエプロンを付けてレジに立っている僕を見て彼女は拍子抜けしていた。
「ごめん。元気です」
彼女の声が聞こえたのかバックヤードから松井さんが顔を出した。
「あ、鹿山先輩。お疲れ様です。遅かったですね。私、これから休憩なんでごゆっくりどうぞ」
「え? ちょっと松井さん?」
「一時間くらいで戻ってきます」
すれ違いざま松井さんは彼女に何か言ったようだった。
「お節介。でも、……ありがとう」
彼女が小声でそう言った。
ドアベルの余韻が残る店内に響くクラシックの曲が一瞬の沈黙を生み出す。
僕の視線の先で彼女は青いライトに照らされたミズクラゲを見ていた。
その横顔のシャープなアゴのラインが前よりもくっきりと映し出されている。
「ケガは? ほんとうにないの?」
少し痩せたのかもしれない。
「ないよ。何か、ごめんね」
「……何が?」
ぼそっとした声は機嫌が悪いようにも聞こえた。
「松井さんのお節介」
「ほんとうだよ。先輩の勉強会、途中で抜け出してきたんだからね」
思い出したように彼女は話しながら歩いてきて、
「絶対今度ご飯おごらせてやる」
とソファに座った。
「あー、例の先輩? 何の勉強会なの?」
「えっと、……経営のこと。ウチの大学じゃ勉強できないから」
「その先輩って経営学部のヒト?」
「そう、って言っても違う大学ね。K大OBなんだよ。社会人三年目だから私達より五個上なのかな。――ねえ、何か飲む物ない? 走ってきて喉カラカラ」
彼女がそう言ったので僕は、しょうがないな、と言って事務所の冷蔵庫からよく冷えたミネラルウォーターを差し出す。
「でね、先輩って今はマジメに起業するとか経営とは、なんて言ってるけど最初に会った時はめっちゃチャラくて、1年でもこんなにヒトは変わるんだってくらい真逆で」
ありがとう、と彼女はペットボトルを受け取った。
「だから、私も変われるのかなって思ってさ」
今度は何も言わずに彼女が僕にペットボトルを差し出す。
「お願いしますは?」
「お願い」
「しょうがないな」
「そういう言い方、好きじゃない」
僕はペットボトルを開けて彼女に返す。
「はい。ごめんね」
「ウソ。絶対思ってないでしょ。とりあえず謝っとけばいいんだろ? な感じ」
「そんなことないよ。今のはちょっと意地悪でした」
「そうだよ。椋木くんはいつだって意地悪だよ」
「そうかな?」
「そうなの。最初にここで会った時だって、普通泣き疲れて寝てる女の子にキャラメル食べさせる?」
「だってそれは鹿山さんが魚みたいに口をパクパクさせてて、餌をほしがってるのかなって」
「私は魚じゃありません。ちゃんと足もあります」
彼女は足をバタバタとさせると、
「――この前のこと、私、まだ許してないよ」
そのつま先を見つめたまま言った。
「そのことは僕が悪かったよ。鹿山さんが尊敬してる先輩のこと悪く言って」
「そうだよ。尊敬してるの。私のことはバカにしても軽蔑してくれてもいいよ。でも、会ったこともないヒトをそんなふうに言うのはやめて」
短めのワンピースの裾から伸びる脚は細くて白い肌が青白く輝いて見えた。
「それに、椋木くんにはそんなことを言うようなヒトになってほしくない」
視線が交わらない僕達のクロストークは事務所の扉が開いて中断された。
「あれ? 松井さん、早いね」
「はい。コンビニでお弁当買ってきました。あとのことはやっとくんで先輩方、今日はもうお帰りいただいてもかまいませんよ」
「え? 大丈夫?」
「はい。あとちょっとですし、きっと暇ですよ。お二人でご飯でも食べてきてくださいよ」
松井さんのお節介が僕達に対する気遣いなのは容易に感じ取れた。
「あー、ごめん。今日はイズちゃんご飯の日だから私帰らないといけないの」
「そうですか。じゃあ椋木先輩、送ってあげてください」
そうやって少し強引に松井さんは僕達を送り出した。
「今日の松井さんっていつもとキャラ違くない?」
「何かすごいお節介だったよね。普段は素っ気なくて何考えてるかわかんないのに」
「それは椋木くんのことでしょ?」
「え? そんなことないよ」
「そんなことあるよ。それに、こうやってちゃんと話すのも久しぶりだし」
街灯に照らされた帰り道は冬の気配を知らせていた。
「それは、何か気まずいじゃん。付き合ってたって僕だけが勘違いしてたから」
肩が触れ合う距離で歩く彼女の首筋が夜風にさらされて寒そうだった。
「うん、ごめんね。私のせいだね」
「そんなことないよ」
そう言っても彼女の視線は下を向いたままだった。
「あの時ね、私、……自分のことが許せなかったんだと思うの」
その歩き続ける速度に僕は合わせる。
「椋木くんに、――朋弥に言ったこと、私が言われたことだったの」
吐き出すような彼女の独白は視線も絡み合うことなく続けられる。
「付き合うなんて言ってないって、一回ヤッたくらいで付き合ってるって思われてもって、私が言われたの」
僕は彼女の言葉を受け止めるしかできなかった。
「意地悪してごめんね。朋弥」
「もういいよ」
けれど、過去に誰に何を言われたとかそんなことは聞きたくなかった。
「もう終わったことだからいいんだよ」
僕達は今を生きていて、未来を歩いていくんだから。
「――そうだよね。終わったことだもんね」
その時、僕の隣には誰がいるんだろうか。
できるならそれが君であればいいのにと、夜空を照らす真上の半月に思った。
「……そうだ。これ、渡そうと思ってて」
僕は立ち止まると、バッグの中から小さな四角い箱を取り出す。
「え? あ――」
彼女も立ち止まり振り返る。
「誕生日、おめでとう」
「……覚えてたんだ?」
「うん。僕の誕生日に話したよね。半年後だって」
「そうだね。……そう言えばあの時も、月がキレイだったね」
「うん。今日も月がキレイだね」
その半月を見上げて、彼女は僕を見た。
「気持ちは、うれしいんだけど。でも、ごめん。もらえない。もらう資格なんてないよ」
「資格って何だよ」
「私、朋弥にひどいことしてきた」
「そんなことはもういいんだよ」
「よくないよ。私が私を許せない」
僕と彼女との微妙な距離感が今の僕達の心の距離だ。
少し先にいる彼女に僕は追い付けない。
「だから、ごめん。今はもらえない」
今は――
その言葉の真意を確かめることはできたかもしれない。
それでも僕は――
「わかった。それでも、誕生日おめでとう」
「うん。ありがとう。その気持ちだけでもう、充分だよ」
それを確かめることなく、彼女のマンションの入り口まで送り届けた。
***
ありがとう。
と彼女がつぶやく。
月に照らされた笑顔は白い肌をさらに白く見せていた。
梨世の夢って、何?
僕は唐突に尋ねる。
夢? 内緒。だって、誰かに語ったら叶わなくなる気がしない?
彼女は笑った。
朋弥の夢は?
僕も内緒だよ。
ふーん。じゃあお互いに秘密ということで。
これが僕達の恋の答え。
手を伸ばして触れてはいけない彼女に僕は笑いかける。
***
見つめ合い、お互いの秘密を確認し合った私達の頭の上で輝いている、真っ白な半分の月が笑っていた。
私達の微妙な距離感を。
私達のどうしようもないもどかしさを。
私達の不器用な恋を、笑っている。
私達はわかっているんだ。
彼が私を好きなこと。
私も彼を好きなこと。
だから、お互いが傷付かない近さでそのままの遠さを保ってる。
嫌われてもいい。
軽蔑されてもいい。
そう言いながら私は怖いんだ。
嫌われることが。
軽蔑されることが。
彼に拒否されてしまうことが。
***
「ねぇ、梨世。僕達は出逢わないほうがよかったかもね」
「ねぇ、朋弥。私達、付き合わなければよかったね」
「そうだったら、こんなにも辛い思いをしなかったかもしれない」