第8話 「夜空が明るいのは遠いオレンジの星の花」
第8話 「夜空が明るいのは遠いオレンジの星の花」
あんなに暑かった夏の気配も秋の空気に押し流されて、夜が肌寒くなった10月。
「いつまで、『椋木くん』なの?」
とカニクリがいきなり言い出した。
「え……だって――」
「いい加減、『朋弥』って呼んであげたら? 付き合ってんでしょ?」
すっかり日が暮れるのが早くなった私の部屋までの帰り道、今日もお泊まりのカニクリはいつものキツい言い方で私に迫る。
「もう1ヶ月も経ってるのに。それとも二人っきりの時は呼んでるの?」
「二人の時も『椋木くん』です……」
「そろそろ呼んであげたら?」
「何か、きっかけってわかんない」
「そんなの何だっていいんじゃない?」
「何だっていいって言われても、ほら私、普通の恋愛に慣れてなくて」
付き合って1ヶ月と言っても私と椋木くんの距離は付き合う前とそれほど変わらない。
大学でもバイトでも会うし、帰る時に手をつなぐくらいでキスもしていなかった。
「何それ。普通って何って聞き返したくなる」
なぜカニクリがイライラしてるのかわからなかった。
「カニクリはどうだった? カレシといる時に何話した? 手はすぐつないだ? キスは何回目のデートでしたの?」
「え、……キスは付き合おうって言われてすぐでそのまま流れでホテルに――」
カニクリにそんなイメージはなかった。
どちらかと言えばマジメで奥手なのかと思っていた。
「カニクリって意外と軽いのね」
「梨世に言われたくないよ」
「ひどーい。私軽くなんてないよ」
「あぁ、別れ際重そうだよね。前に水かけたって聞いたよ」
「あれは確かにかけましたけど、向こうが浮気してたんだよ?」
「出た。私悪くないもん」
「だって私悪くないもん」
「で今は? もちろん朋弥くんだけだよね?」
「――あ、えーっと、そうだね」
「は!? まだ切れてないの?」
「いやオトコ友達だよ? たまに連絡が来るけど二人で出かけたりしないよ?」
「じゃあ、あのヒトは?」
「あのヒト? いやー、桂木さんは……しばらく会ってないよ」
あの一件以来、彼が受け持っていた講義は彼の後輩や他の教授が担当していて、彼が大学に来ることはほとんどなくなってしまった。
プライベートでも連絡は来ずに、彼という癒しが私には一切与えれていない。
「……会いたいのに会えないんだよね」
水槽の汚れみたいに何もしなければ降り積もって苦しくなってしまう不安も、あのヒトに会えば一瞬で消えてなくなる。
恋をするってこんなにも辛いモノだったのかしら。
「え? 朋弥くんだったら今日も大学で会ったじゃん。そんなに一緒にいたいの?」
「あー、うん。デートらしいデートもしてないし、キスもまだなんだよ?」
「会ってすぐにヤッちゃうチャラいオトコとは違うんだよ。朋弥くんは」
いつの間にか、カニクリが『朋弥』くんと呼んでいる。
「何か、会いたいのに会えないのが続くと、会ってはいけないんだって言われてるような気がして」
「誰に?」
「神様」
「あぁ、都合のいい神様ってヤツね」
マンションの入り口にいつの間にか咲いたキンモクセイの匂いと同じような気持ちがあった。
「……まだ、好きなんだね」
私よりも先にマンションに入っていくカニクリの背中に、私はつぶやいた。
***
イズちゃんがショップのバイトで遅い日は梨世がさみしい一人ご飯になるからと私をお泊まりに誘う。
「ちょっ! 梨世、それは砂糖! 塩はこっち!」
キツいツッコミで梨世を時々へこませてしまうけれど、梨世はそれでも私がいることに喜んでいるようだった。
「ちょっと間違えただけじゃん。怒りすぎだよ」
「ちょっとじゃないよ。砂糖と塩を間違えるのはありえない」
そんなこんなででき上がった秋野菜の豚汁は温かくて、さつまいもが甘くて美味しかった。
「でね、私はもう少し椋木くんが積極的になってもいいと思うの。どこ行きたいとか話もないのはなくない?」
「そうだけど、どうしてアナタはすぐにヒトを否定するの?」
料理をしている間も二人で食べている間も梨世はしゃべり続け、朋弥くんに対する文句を言い続けた。
「彼なりに梨世と付き合うのに考えがあるのよ。可能性のあり方はヒトそれぞれ。一つの答えで他人を否定するやり方は違う。そのカタチはヒトによって違うんだよ。だから、軽々しく否定しないで」
「それは、アナタもでしょ? カニクリ」
私が朋弥くんのフォローに徹していると不意に梨世が核心を突いてくる。
「……そうだね」
けれど私自身それは理解していたし、だからこそ梨世に言いたくなってしまったのもわかっていた。
「私も梨世も自分を好きになれないコドモなんだよ。だから、他人を否定したくなる」
私は伏し目がちにそっと箸を置く。
「自分を好きにならなきゃ、なんてのは、コドモの頃にちゃんと親からの愛情を受けて育ったから、自分に自信がある、自分が愛されているっていう自信があるからだと思うんだよね」
私が両親に愛されていたという自信は微塵もなかった。
「私、三姉妹の真ん中なんだけど、お姉ちゃんは小学校からずっと成績優秀でA大学を出て一流企業に入って、妹も同じ大学に入った。私だけが両親の期待を裏切ってる」
私はいつも家の中で居場所を失っていた。
「でも、それでよかった気がする。何も考えずに生きてたら私は大好きなヒトに会えないままだった」
全てを終わらせようと家出をして出会った彼が、私を救ってくれた。
「勝手にそう思ってるだけだけどね」
だから、私は生きていく。
「ただの卑屈なだけでしょ?」
「そうね。それでも、私は感謝してる」
珍しく梨世がツッコミを入れてくるけど、私にはそれが彼女の優しさに思えた。
「だからかな。梨世のこと、どうしようもないバカな子だって思ってもほっとけないんだよね」
こんな梨世だけど救いたいと、守りたいと、幸せになってほしいと思う。
「そんなのただのエゴだよ。私は望んでない」
「そうだね。お節介だね」
「でも、ありがとう。カニクリがいてくれてよかった」
まあ、バカは余計だよね、と笑う梨世の笑顔に私は救われているのかもしれない。
***
これは私の、恋のフリをした醜い愛の物語。
「初恋」
鹿山梨世。
それが私を示す記号。
そしてそれ以外に、何もない。
私の記憶している中で、それは物心がついたとか、いうのかもしれない、私が私であった初めてのできごと。
「何から話せばいいかな」
好き、という感情が私の中で初めて生まれたのは小学二年生の頃だった。
それまでは好きの感情は老若男女問わず存在していた。
たとえば、歯医者のお姉さん。
たとえば、スーパーのおじさん。
たとえば、母親。
「メガネをかけた頭のいい男の子だったよ」
小学二年生になった時、同じクラスで隣の席になったそーちゃん。
話しかけると少しうつむきながら答える。
その仕草がたまらなくかわいいと思った。
それがきっと私の初恋だ。
今となっては彼がどうしているかなんてわからないし、興味もほとんどない。
その頃の私といえば、さぞやかわいくて賢しいコドモに映っただろう。
私は世界の中心で、いや世界には私とその他のモノという図式しかなく、私以外の存在は作り物のようだった。
私はその作り物達からかわいがられた。
その理由が、私がかわいいからだと気付いたのは小学校に入る前、周囲のオトナ達から特別扱いされていたからだ。
けれど唯一祖母だけは私ではない同い年のいとこをかわいがっていた。
それは3歳にして気付いてから今までずっと続いている。
私は特別な存在なのに。
祖母の愛を得られないことが、私自身の悔しさであり、いとこに対する妬みになった。
周囲が私の知らない思考で動いていると知ってから、私はその注目を引こうと躍起になってメガネの彼のことよりも私が愛されることのほうが重要になっていた。
そんな呪縛にも似た思い込みによって支配されていた私がいつの間にか12歳の誕生日を迎えようとしていた数日前、初潮が来た。
それは算数の授業中、朝から下腹部に鈍痛が続き片足を折り曲げて座っていた私をひどく驚愕させた。
何かが私の体から出てきたのだ。
それは排泄とは違う、重く熱いモノが私の中心から産まれた。
私は驚いてイスから転げ落ちた。
クラスのみんなが、隣の席のメガネくんが私を、私の赤黒い血に染まったソックスを見ていた。
担任はすぐさま委員長に私を保健室に連れていくように言った。
保健室では保健の先生が連絡を受けていたようで理由も聞かずに下着の替えを用意してくれていた。
着替えた私がベッドで横になっていると委員長は、
「おめでとう。これで梨世ちゃんもオトナの仲間入りだね」
と皮肉のように言った。
クラスの中で誰よりも成長の早かった委員長が小学生向けのかわいいブラをしているのは女子も男子も誰もが知っていた。
今思えば、彼女はカニクリに少し似ていたのかも知れない。
そっとベッドに腰かけ彼女は自分が初潮を迎えた時のことを話してくれた。
そして持っていたナプキンを私にそっと渡した。
「男子には内緒にしなきゃいけないんだって」
この瞬間、私は女の子から違う何かになれた気がしていた。
家に帰り、母親にそのことを伝えると大急ぎでコンビニに行きレトルトの赤飯を買ってきた。
「そんなに特別美味しいものじゃないけど」
と母親と食べた赤飯は予想ほど美味しくはなかったけれど、私はコドモではなくなってしまったんだと思いながら食べていた。
「これで梨世もオトナのオンナだね」
その言葉を投げかけられてから、私の中で何かがさらに変化した。
変化したことを確信したのかもしれない。
それは心の変化だったり、体の変化だったかもしれない。
何より気持ちや考え方が変わった。
オトコの視線を意識するようになった。
まだ膨らみ始めの胸や体付きを見られているのだと思うと私の中の何かが疼いた。
そんなことを考えていた私が12歳の誕生日を迎えてから、二つ年上の幼なじみの先輩からデートのお誘いがあった。
中学二年生になった先輩のことを私はそれほど好きではなかった。
ただ、しばらく会わないうちに声も変わり背も伸びていて、とても大人びて見えた。
私の年上に対する感情の原点はここだ。
憧れと恋心を混ぜ合わせて、女の子から女性という対象、それはすなわち性の対象として見られることで、私は痛みとともに喜びを覚えた。
それから、オトコはみんな私に優しい。
友達はオトコのほうが圧倒的に多かった。
「キープ」
そうかもしれない。
中学も高校も共学でよく話しかけられていた。
そのたびに周囲の女子からはよく妬まれていた。
またカレシを取られたと言われたり、媚びを売るなと言われたりした。
ただ友達なだけで、そんなつもりはないのに。
高校一年になった時、学校に行って下らない女子の嫉妬やおしゃべりに巻き込まれるのが嫌になり不登校気味になった私をずっと親身になってくれたのが、担任のカレだった。
学校にいつでも戻ってこれるように一年から仲よくなったイズちゃんを介して様々なアプローチを試みてくれた。
その頃から私はカレとの接点を求めていた。
話があると呼び出したカレとのよくわからない進路相談にカレは真摯に答えてくれた。
結婚して間もないカレの指には指輪が光っていた。
そんなモノは何の役にも立たなかった。
他人のモノだからこそ、光って見えた。
価値があると思えた。
だって私にはその価値があるから。
それが許されない不倫の恋だったとしても、私の人生には必要な恋愛だった。
私はそれからずっと先生のことが好きで、その埋まらない傷跡を埋める方法を探していた。
やがて先生に会うために学校へ通うようになった。
高校を卒業して東京に行くのも心のどこかにカレとの関係を独占したいという気持ちがあったに違いない。
けれどそれは叶わず、カレは私の夢を応援するという名目のままこの関係を終わらせることを選んだ。
だから、私はカレを忘れるために、カレに忘れさせないために、カレの目の前で好きでもなかった相手とキスをして、
「東京に行くからアナタとの思い出がほしいの」
なんてもっともらしい嘘をついて、告白してきたサッカー部のキャプテンと卒業式のあとにラブホへ直行した。
「そこからは話したでしょ? イズちゃんと上京してきてメロスと会って、アナタ達に出会った」
この話を包み隠さず話したのはカニクリが初めてだった。
イズちゃんにも言えない秘密の物語。
「私はアナタのセラピストじゃないんだけど」
カニクリは相変わらずの冷たい言い方で笑った。
「ナラティブセラピーって知ってる?」
「ううん。知らない」
「日本語にすると物語療法って言うんだけど、簡単に説明するとクライアントのお話を聞いてあげる心理療法で、そのヒトの独白を聞き出すことでその症状を改善させるんだけど」
「話を聞くだけなの?」
「ちょっと違うかな。よく誰かに悩みを話すことで自分で自分の立場や置かれてる状況を理解できることがあるでしょ? 自分の問題だけじゃなくて周りから受けている問題に気付いたりすること。それを促すやり方だよ」
「さすがカニクリ。よくわかんないけど、やっぱりカニクリは私のセラピストなんだね」
「どうも、カニクリこと、カニエクリニックです」
変な顔でやる気なさげに彼女が言うから私は笑ってしまった。
「まあ、とにかくさ。ヒトってね、きっと誰もが自分の物語の中の主人公なんだと私は思ってる。恋したり、フラレたり、楽しいことがあったり、悲しいことがあったり、何でもない一日があったり。そんなドラマみたいな日々も、何気ない日々も、アナタの物語の大事な一ページなんだよ。そんなページが集まった本のタイトルのことを『人生』って言うんじゃないかな。これからどうなるかは誰にもわかんないけどさ、今の思いを後悔しないように生きていこうよ。――ハッピーエンドじゃなかったら私が許さない。その本の主人公の幸せを読者として願ってるからさ」
カニクリの難しい言葉が、友達として私の背中を押してくれているんだと思えた。
***
「ミオ先輩が、バイトを辞めたの」
僕らは罪深い。
「インターンでもう働き始めるんだって。ミオ先輩、C大学で頭もいいからなー」
僕からの連絡は控えていたのに、梨世から連絡が来た。
「最後に、会いたい」
それだけのメッセージに僕は動揺を隠しきれなかった。
「ミオ先輩ね、ずっと輸入雑貨の仕事がしたかったんだって。夢が叶ってほんとにうれしそうだった」
それは会ってからも同様で、車を走らせながらも何を話せばいいのか年甲斐もなく緊張していた。
「ミオ先輩が言ってたの。夢を叶えるってことは、可能性を捨てることだって。無限にある可能性の中から一つずつ、たまには一気に選択肢を消していって、たったひとつの希望を選んでいくことだって」
僕はその捨てられてしまう可能性だ。
「梨世、もうすぐオリオン座流星群の見頃だからまた二人で見に行こう。夏は行けなかったから今度こそピークの時に。そしたら願いごとをしよう」
観覧車の見えるホテルで窓から空を見上げた彼女に僕は言う。
「桂木さん、――ごめんなさい。私、ちゃんとしなきゃいけないと思うの」
僕に顔を向けることなくうつむく。
「付き合ってるヒトがいるの。そのヒトのことだけは、裏切れない」
「そのカレのことが、好きなの?」
「うん。――きっと好きになれると思う」
君の淡い恋心がどうかキレイなままで粉々になってしまえばいいのに。
そうすれば君は一番近い僕のそばにいてくれる。
星に憧れるから、手が届かないって思ってしまうんだよ。
***
ドライブをして郊外の小高い山の上で二人並んで座りながら、
「寒いね」
なんて言いながら私はカレの腕にからまり肩に頭を乗せる。
満ち足りた気持ちになりながら私達は夜景のキレイなホテルでセックスをする。
そんなデートを繰り返していた。
けれど、なぜだろう。
彼はきっとこんなところには連れてきてはくれないなとか、彼だったらもっと星のこと詳しく知っていそうなだなとか思ってしまった。
楽しかった、とか表面的な笑顔を浮かべて言いながら私は心の奥底でずっと彼のことを考えていた。
誰でもいいから心の隙間を埋めてほしかった。
「誰でもよくない。――彼だけ」
合コンはよくする。
だけどオトコ友達が増えるだけで。
「友達以上恋人未満」
都合よく利用して利用されるだけ。
「温もりだけでは埋まらない」
心の傷、みたいなモノ。
「その傷の理由が、高校の時の先生」
オトナの恋だと思っていた。
「不倫? 愛人?」
キンモクセイの匂いがする場所。
「笑わせないでよ。何がオトナなの? んなもんただ盛ってるだけじゃん」
梨世のほうがよっぽど詩人向きだね。
「言い過ぎた。ごめん」
「傷付いた。カニクリ、嫌い」
「ごめん。ついつい、何かさ。こう、あるじゃん?」
「何が?」
「えーっとね、何かに腹が立つのは、自分に対して腹が立つからだ。そういうのどこかで読んだことがあって。それってつまり、その相手の言動や行動に対して過去の自分、悪い部分とか幼い部分とか否定したいモノを投影しているんだよ」
「全然わかんない。つまりどういうこと?」
「私の中に梨世似た部分があるってこと」
「私とカニクリは似てるってこと?」
「認めたくないけど。だから、わかっちゃうの」
「ん?」
「梨世、ほんとは別に好きなヒトがいるんでしょ?」
「……似てるんだからバレちゃうか」
「バレバレ。だけどさ、これから朋弥くんと付き合うんでしょ? だったら高校の時の車でデートとか都心の高層階でディナーとか、そんな価値観をそのまま大学生の朋弥くんに求めないでよね」
「いけないの?」
「できるわけないじゃない。そのヒトと彼は別人なんだから」
ああ、そうか。
やっぱり私は――
「お邪魔しまーす」
それでも私はバイト終わりに彼の部屋へ初めて訪れた。
広くはないけれど一人で暮らすなら十分な部屋の中で、空っぽの水槽がやけに目立っていた。
「水槽、まだ空っぽなんだね。クラゲ、また飼わないの?」
「うん。原因わかんないから。水槽が問題なら買い換えたいし。でも今はお金ないからね」
「そっか。空っぽだと何か、さみしいね」
私がそう言いながら水槽をのぞいていると彼がマグカップに入った温かいコーヒーを差し出す。
「ありがとう」
「それで用事って何だったの?」
「ん? 内緒」
そんなモノは口実だった。
「内緒って」
「たまにはちゃんとお話したいの」
確認をしに来たのだ。
彼は私をちゃんと好きなのか。
私は、彼を好きなのか。
「だってもうあの日から1ヶ月と二週間経つよ。デートらしいデートもしてないし、――キスもしてない」
「……キス、すればいいの?」
並んでベッドに座る彼が私を見ている。
じっと瞳の中に私が映る。
「キスくらい、してよ」
そっと彼の顔が近付く。
コーヒーの香りのする吐息が鼻にかかる。
置き忘れたカップを彼は私から奪い取ると顔を近付けたままテーブルに置く。
「梨世って、呼んでもいい?」
「うん。いいよ――」
私が言い終わらないうちに彼は私の唇を奪う。
唇が触れ合うたびに、舌をからませるたびに、私の中で何かが弾け飛ぶ。
頭の中では記憶と言葉がごちゃ混ぜになってわけがわからなくなる。
「……椋木くん」
苦くて、甘い。
そんなキスだった。
彼の唇がやがて耳を、首筋を伝ってゆっくりと降りてくる。
私の手を包み込む彼の手がそっと私の胸に触れる。
その温かさが服とブラの上からでも伝わって素肌で感じられる。
優しく腰に添えられた手は私の体のラインを確認するようになでてくれる。
静かにベッドに寝かせられると彼はもう一度キスをした。
「――朋弥」
彼の存在を確かめるように私は彼を抱きしめる。
そんな時、ふとシズクのことを思い出した。
彼の元カノのシズク。
きっとシズクもこのベッドで彼とセックスをしたのだろう。
こんなふうに彼にキスをされながら服を脱がされ、大きな手で胸に触れられた。
吐息だけが密着した私達の隙間を漂い、言葉もいらないこの時間を二人で共有したんだ。
そう思うと、なぜか私の意識はぼやけていたモノがはっきりとしてきた。
それから彼と私が大きく息をしながら力尽きるまで、私はずっと演技をしていた。
オトコが求めるオンナの理想をいつものように繰り返す。
心が別の場所にあるような、私がここにいないような感覚。
「――朋弥、私もっと一緒にいたい。朋弥と話がしたい」
それでも私は嘘をつく。
誰かにそばにいてほしいと、それがアナタだと嘘をつく。
「毎日大学でも会ってるしバイトでも一緒じゃん」
「それじゃ嫌なの。もっともっと一緒にいたいの」
「そんなに急には変われないよ」
「だったら変わってよ。私のために」
彼は私の上に折り重なったままじっと私を見ていた。
「私のこと、好きなんでしょ?」
「好きだよ。それでも、変えられないこともあるよ」
「一緒にいるのに一緒にいないみたい」
私は彼から逃げるようにベッドを抜け出した。
「……そんなんじゃ暇つぶしもできないよ」
脱ぎ捨てた下着を拾う。
「君にとって僕は暇つぶしかもしれないけど、僕は違うよ」
「何が違うの?」
「ちゃんと向き合って付き合ってるよ」
「――付き合うなんて言ってない」
私は彼に背中を向けたままパンツを履く。
「一回ヤッたくらいで付き合ってるとか思われても」
そう言いながら、私は自分がそう言われた時のことを思い出していた。
それは4月のあの日。
高校の時のあの夏の日。
君のことをオンナとして見られない。
何だか妹みたいで。
そう言いながらカレは私とセックスをした。
その行為に愛なんて必要ない。
好きじゃなくてもすることができる。
愛がなくても愛し合える。
幸せじゃなくても、幸せになれる。
私の幸せはそこにあるかもしれないけど、彼の幸せはそこにはない気がして、
「椋木くん。やっぱり私達、合わないみたい」
そう嘘をついた。
***
彼は何も言わなかった。
他のオトコのヒトなら怒って部屋を出ていくか、私の全てを拒否するだろう。
けれど、彼は何も言わなかった。
それどころか脱ぎ散らかした服を私に着せてくれた。
世話のかかるコドモみたいに。
帰るの?
とバッグを持った私の背中に彼は投げかけた。
送っていくよ。
と言われて私はただ、うん、とうなずくだけだった。
***
その帰り道、僕達はほとんど言葉を交わさなかった。
付き合っていたのかさえわからないこの関係が終わりなのか、始まってすらいなかったのかわからないまま、僕達は歩いた。
駅前の広場を、彼女の部屋まで続く並木道を。
深夜の国道は車の通りもまばらで信号待ちすら億劫だった。
どうしてこんなことになってしまったのかも思考が停止して考えられず、僕はそのまま彼女と歩き続けた。
***
「私達、付き合ってないからこれからも友達でいてくれるよね」
「僕達、付き合わなかったから今までみたいな友達でいられるよね」
「きっとこれがキミとの運命だったんだと心の中で思っていた」