第7話 「世界で一番不幸な灰かぶり姫は、世界の最果てで祈りを捧げる」
第7話 「世界で一番不幸な灰かぶり姫は、世界の最果てで祈りを捧げる」
夕方から降り続くゲリラ豪雨が強く窓を打つ8月下旬に入った月曜日。
僕の小さな部屋で、僕はシズクに別れようと告げた。
「――何で?」
僕は答えられなかった。
「私達、やり直せるんじゃなかったの?」
「シズクは悪くないんだ」
二人の沈黙を雨音だけが埋めている。
「……梨世のこと、好きなの?」
ベッドの上で並んで座る彼女は両手をぎゅっと握っている。
「好き、かもしれない……」
「――やっぱりな」
薄暗い部屋の中で、静かに涙を流しながらシズクは僕を見て笑った。
「いつか、そうなると思ってた」
「こんな気持ちのままシズクとは付き合えない」
「……何で、自分ばっかりキレイ事言うの?」
彼女の涙がぽろぽろとこぼれた。
「みんな思ってるよ。誰かと付き合っていたって目の前にいるヒトを恋人と比べてるよ。カレよりかっこよくない、カノジョよりかわいくない。気持ちは一個じゃないよ」
僕はただ、シズクのあふれてくる言葉を受け止めるしかなかった。
「私だって前のカレと付き合いながら思ってた。朋弥だったらこんなことは言わない。朋弥だったらこうしてくれる。ワガママで自分勝手だけど、ずっと朋弥が一番だった」
「……シズク」
「梨世のこと、好きでもいい。私と付き合っていて」
「――ごめん」
「イヤだよ。だって、朋弥に梨世は似合わないよ。住む世界が違いすぎる。梨世のことわかってないよ」
「それでも、シズクとはもう――」
と言いかけた僕にシズクはキスをした。
「……もういいよ。私に嫌われたくないんでしょ? 朋弥も、ワガママで自分勝手だね」
シズクの涙はもう流れない。
代わりに、一番の笑顔がそこにはあった。
「だから、私の最後のワガママ。――しよ? これで最後だから」
強く降りやまない雨音が僕達の吐息に重なった。
「今度の土曜さ、みんなで花火大会行こうぜ」
相変わらずこういうことを言い出すのはミツさんだった。
「ミツさん、そういうのは恋人とかと行くんですよ。ミツさんはいないんですか? 仲のいい女子」
掃除をしている手を休めて鹿山さんは言った。
「そんな二人で花火行くような女子がいたら合コン繰り返してねえつーの」
「あー、無理そうですもんね」
「うるせー。それにここにいるみんな恋人いないじゃん」
週の真ん中、水曜日。
蒸し暑い夏の陽射しから逃げるように、僕と鹿山さんがバイトの時間にみんな集まっていた。
「え? みんなって……椋木くん、シズクと別れたの?」
カニクリはソファからレジ横のパソコンに向かう僕を見た。
「はあ。ミツさんしゃべりすぎ」
「いいじゃんか。慰めてやろうと思ったんだよ。なあ、イズちゃん」
「イズのことは言わないでくださいね」
イズちゃんがそう言って僕らは理解した。
イズちゃんもまたカレと別れたのだ。
その原因を作り出した鹿山さんは居心地悪そうにバックヤードへ入っていった。
「メロスくんは知ってたの?」
「ん? まあね。どっちも報告してくれたから」
メロスはアイスコーヒーを飲んでこうも言った。
「いずれわかることだし、無理して隠すこともなかったけど、言いふらすことでもないよね」
「それはオレが悪かったよ」
珍しく落ち込むミツさんはソファでうなだれる。
「にしてもこの店落ち着くけど、ホントに暇な」
「暇は余計だよ」
「悪い悪い。で、みんな花火大会どうする? イズちゃん、浴衣着てきてよ」
「うん、いいよ。梨世ちゃんと着てくね」
「よっしゃ。カニクリは? 浴衣持ってんの?」
「持ってない」
「だったらカニクリちゃん、一緒に買いに行こうよ。私、着付けもできるから」
「イズちゃんが選んでくれるならいいよ」
「とびっきりかわいいの選んであげるよ」
いつの間にか仲よくなっていた二人が笑い合っていた。
「椋木くん。餌やり、私やってくるね」
みんなが浴衣を買いに行ってしまい、店の中には僕と鹿山さんだけが残された。
夕暮れの赤い光と、店内の青い光が混ざり合って彼女の表情がよく読み取れなかった。
「うん。よろしく」
鹿山さんが孤独に打ち震えていたあの日から、僕と鹿山さんの距離感はおかしくなっていた。
必要最低限のことしか話さない遠い距離。
それでも全てを投げ出さずにいてくれたことに感謝したかった。
「ねえ、鹿山さん」
彼女は餌やりの手を止めることはなかった。
「何?」
そしてとても素っ気ない。
「鹿山さんは浴衣持ってるの?」
「……え? うん。持ってるよ。高校の時に買ったヤツ」
「そうなんだ」
ヒトを寄せ付けないオーラを放っているようだった。
「僕さ、みんなで花火大会行くの夢だったんだよね」
「そう。叶ってよかったね」
奥の水槽の様子をうかがいながら彼女は言った。
「……シズクと行かなかったの?」
「シズクとは夏になる前に別れたから」
気まずい空気だけが水槽の間を流れている。
「鹿山さんは夢ってある?」
「夢は、ないかな」
質問を投げかけてもその会話は続かない。
「私、夢みたいなことは願ってないの。現実的なことだけで、理想なんてムダだって思ってる」
何も言い返せなくなっていた。
短い沈黙の中、クラシックのメロディがよく響いていた。
僕は沈黙を埋められず言葉を探していた。
「椋木くん。無理にしゃべろうとしなくてもいいんだよ」
と彼女はその間を埋めてくれた。
「無理なんかしてないよ。ただ、鹿山さんに避けられてる気がしてさ」
「――ううん。避けてるの」
彼女は僕に視線を向けることなく言った。
「シズクと、お似合いだったのに」
手際よく餌やりを繰り返し、また同じように水槽を周りながら食べ残しを拾い上げていく。
「……この前さ、シズクのこと許したのかって聞いたじゃん?」
「そうだっけ?」
「聞いたよ。――ほんとうはまだ、許せないんだ」
「……スルーしたくせに」
ぼそっとつぶやいた彼女の言葉は宙を舞う。
「許せない自分が許せなかったから。鹿山さんにそう思われたくなかった」
「私と付き合ったらもっと大変だよ?」
「……え?」
「男友達も多いよ。浮気だってするし、親友のカレシにだって手を出すオンナだよ」
彼女がじっと僕を見ていた。
「だから、私のこと軽蔑してよ。――嫌いになってよ」
その強い光を放つ瞳に負けて、僕は今も言葉を見付けられずにいる。
***
私達が浴衣を買いに行き、他にもいろいろと買い込んでイズ梨世の部屋でご飯を食べてくつろいでいると、バイトを終えた梨世と椋木くんが帰ってきた。
ぎこちないその距離感の二人を余所に私達はひとしきり騒ぎ、メロスくんと泊まりたいと駄々をこねるミツさんを送り出した。
「カニクリは今日泊まっていくの?」
「うん。さすがにもう終電ないからね。それに最近イズちゃんが私の歯ブラシ買ってくれたから」
「いつの間にイズちゃんとそんなに仲よくなったの?」
「この前、私の部屋に泊まりに来てからかな」
「へえ、そうなんだ」
「椋木くんはもう少しいいでしょ?」
「うん。もう少しだけね」
いつもの優しい椋木くんだった。
リビングに戻ると梨世はお風呂に行ったばかりで、
「朋弥くん。のぞいちゃダメだよ」
「のぞきません」
からかうイズちゃんに照れながら真面目に返す椋木くんは面白かった。
「私、部屋で課題やってるからカニクリちゃん、あとはよろしくね」
飲み物は冷蔵庫に入ってるよ、そう言い残してイズちゃんがリビングから去っていく。
リビングに私と椋木くんだけが残される。
「……シズクとほんとに別れたの?」
微妙な空気がさらに悪化するような質問だった。
「別れたよ」
「それでよかったの? 後悔してない?」
「してない、て言うのは嘘かもしれない。それでも、気持ちに嘘ついたままシズクと付き合えないよ」
「そっか」
苦笑いのままの彼の表情でわかってしまった。
「――梨世のこと、気になるんだね」
「うん。住む世界が違うって言うか、釣り合わないかもしれないけどね」
こうなる原因を作った自分を少し恨んだ。
あの日、梨世が大変だと椋木くんに電話しなければこうはならなかったかもしれない。
自業自得だ。
自分で叶わない恋を作り出している。
「それって手の届かないところにあるからこそ、ほしいと思っちゃうんじゃない? 高いところにあるブドウはすっぱい、みたいな」
「キツネの話? アルデルセンだっけ? グリムだっけ?」
「イソップの『すっぱいブドウ』だよ。もしくは『キツネとブドウ』ってタイトルの」
「そんなタイトルだったんだ。何となく内容覚えてるくらいだな」
「あれね。フロイト心理学では、防衛機制の合理化の例だって。努力しても得られないからその対象を価値がない、としてあきらめることを言うんだって」
自分で気付いてしまった。
私は彼に彼女をあきらめさせようとしていた。
「僕は、あきらめてないよ」
「……どうしても?」
「うん。だって、――好きだから」
私も、好きだ。
目の前にいるのに手の届かない存在の彼が、好きだったんだ。
「――そうだね。そんなことわかってたよ」
自分の中でも認めようとしなかっただけだ。
「両思いになれたらいいね」
私の薄っぺらい言葉。
「なれたら、いいよね」
彼の重すぎる願い。
「梨世の好きなモノ、好きになってみたら? 話が広がるかも」
思慮深さが足りない私のセリフは彼の反論を招く。
「好きなヒトの好きなモノを好きになるのって、思われてるヒトにとってはうれしいことかもしれないけど、好きなヒトの好きなモノだから好きだと言うのは僕がそれを好きになったのとは微妙に違う気がする」
「……ごめん。簡単に言いすぎた」
「僕もごめん。勝手な意見を押し付けすぎた」
斜め前に座る彼が大きく息を吐いて言った。
「僕みたいな恋愛初心者が言うことじゃないよね」
「初心者ってほどじゃなくない? シズクと付き合ってたじゃん」
「そうだけど、実はシズクが初カノなんだ。だから初心者だよ」
「それなら私も一緒だよ。私も付き合ったのは高校の時のカレシ一人しかいないし。最近は何もないから」
「そうだったんだ。まあ、多ければいいってわけでもないよね」
彼は飲み物を一口飲んだ。
「付き合った数イコール、モテるかもしれない。だけど、そんなことは重要じゃなくて、まだほんとうの恋に出会っていないんじゃないのかな。モテないヒトの言いわけみたいに聞こえるけど、僕はそう思うよ」
彼は私を見ていた視線をグラスに落とす。
もうなくなってしまいそうだった。
「私もそう思う。だから、今の恋愛が運命なんだって思ってる」
「好きなヒト、いるの?」
少し驚いて顔を上げた彼の、メガネの奥にある長いマツ毛のその瞳に私が映る。
「うん。――椋木くんの中に、私と付き合うっていう可能性はあるのかな?」
これは告白なんだろうか。
もし告白なら、私の告白は失敗だ。
彼には好きなヒトがいると、それが梨世だと聞いたばかりなのに。
そんなつもりはなかった。
話の流れのついでに聞いてみたかったのだ。
私が、シズクでもない、梨世でもない、この私がアナタの隣にいられるのかどうか。
ただ、気になっただけなんだ。
彼がいつも見せる困った笑顔がいとおしい。
「答えがないのは、否定だと受け取っておくよ」
彼は、
「――ごめん」
とつぶやき、お風呂から出てきた梨世を見て、
「おかえり、鹿山さん。それじゃあ、僕は帰るよ」
そう言うと静かに部屋から出ていった。
「椋木くんと何を話してたの?」
髪の毛をタオルで拭きながら缶を開けてぐいっと飲むと梨世は私に尋ねた。
「イソップ童話の話」
「へえ。どんな話だったの?」
梨世は内容が気になるようだった。
「梨世も知ってると思うよ。キツネが出てくる『すっぱいブドウ』の話」
「あー、ちっちゃい頃に読んだことあるかも。おなかいっぱいになって幹の穴から出られなくなっちゃう話でしょ?」
「うーん。ちょっと違うかな」
「えー、違うの?」
「うん。キツネが高いところにあるブドウを採れなくて、きっとあのブドウはすっぱいに違いないってあきらめる話」
「ふーん。この話懐かしいねって話?」
「ううん。フロイト心理学では防衛機制の合理化の例として有名だねってこと」
「んー、頭のいい二人の話はわかんないよ」
「そんなことないよ。ただ心理学の話だからじゃない? くら……朋弥くんも、好きな話だったよ」
私は梨世に嘘をつく。
彼はそんなことを言っていないし、梨世が好きだということを教えてあげる義理はない。
彼が梨世にフラレてしまえば、それでいいんだ。
「そっか。ねえ、カニクリの夢って心理学の先生になること?」
そんな悪い考えの私を余所に梨世は夢について聞いてくる。
「先生っていうか、とりあえず大学院に進むことだけど、急にどうしたの?」
「私の夢って何だろうなって」
彼女は私を見るのではなく、視線を落としてその先のテーブルの向こう側の何かを見ていた。
「椋木くんに聞かれたんだよね。夢は何って」
「それで、何て答えたの?」
「私の夢はないって答えちゃった」
「ほんとうはあるのに?」
「うん。ほんとはね、私、幸せなお嫁さんになりたいの」
私なら臨床心理士になりたいと思うのと同列に、
「そう。お嫁さんになりたい」
彼女の小学生のようなありふれた夢は存在するらしい。
「そんなの、全うに恋愛してれば叶うんじゃない? ここで言う夢はもっとこう仕事的な話なんじゃないの?」
「将来の夢がお嫁さんって変かな?」
「変ではないけど、答えに窮する」
「キュウする?」
「困るってこと。それで、何かないの? こういう仕事がしてみたいとか」
「んー。服が好きなだけで今の学科行ってるから、結局そっち系のアパレルの仕事になるのかな」
「梨世はオシャレだから向いてるよ」
「そうかな。でもまだ何がしたいかはっきりしないんだよね。デザインなのか販売なのか」
「それはこれから考えていけばいいよ」
「そうだね。……椋木くんは夢ってあるのかな?」
「私に聞かないでよ。椋木くんもまだ悩んでるみたいだったし」
「そうなの?」
「前に聞いた。だからゼミの先生の手伝い一緒にしないかって言ったら考えとくって」
「そっか。みんなちゃんと考えてるんだね」
「まだ焦ることないよ」
「そうだね。こういうこと考えさせてくれる椋木くんってすごいなあ」
独り言のようにぼーっとしながら梨世は言った。
「何で今まで考えなかったのかな」
「考えるきっかけがなかったんじゃない? ほら、梨世は恋愛体質で恋愛が人生の大半を占める重要なファクターだから」
「難しい言い方しないで」
頬を膨らませて梨世は私を見ていた。
「ごめん。簡潔に言うと、恋愛が全てってこと」
「カニクリは違うの?」
「私は違うわよ。私はアナタみたいに自分かわいそうって思ってないもの」
さらに梨世はムッとした表情になった。
「自分は悲劇のヒロインだって思って無意識にそれになりたがっているのよ。世界で一番不幸なのは私なんだって思うのが好きなのよ」
「そんなこと思ってない」
「報われない恋に一生懸命で、そしてひたむきになってる。目の前にある幸せに見向きもしないで」
「それはアナタにとっての幸せでしょ? 彼といることが私にとって幸せとは限らない」
飲み物を持つ梨世の手に力が入る。
少し言いすぎたかもしれない。
それでも、お節介でも私は気付いてほしかった。
私が願ってやまない幸福をアナタは持つことができるんだと教えてやりたかった。
「そうね。確かに私は彼が好きよ。そんなつもりないのに告白みたいなこと言っちゃったわよ。でもね、ただそれだけのことで、彼が私を好きになることはないの。わかってるでしょ?」
「……うん。わかってる。空気を読むの得意だから」
梨世は持っていた缶を飲み干してテーブルの上に置く。
「私ね、小学生の頃からそういうの得意で、クラスの中で誰が一番力があるのかすぐにわかった。だってそういう子は必ずわたしを嫌うから。その見えない力に反抗したくなるんだろうね。人気者のいるグループで美人とかがちやほやされてるのが私も嫌いだった。マンガとかお話の中だったら私は脇役の悪女みたいな存在だったんだと思う。クラスの中でみんなに嫌われる低いポジションで、顔がよくてモテる中心的な存在のヒトがただうらやましかった。どうしてあそこにいるのが私じゃないんだろうって思ってた」
そしてじっとその空き缶を見つめている。
「そのグループにも入れずに教室の隅っこでカレシとどうしただの、オトコにどんなアプローチされただのって赤裸々に語ってみんなの関心を引こうと躍起になっている私が、ただの自己満のつまらないオンナになっていることがほんとうは堪えられなかった」
梨世は立ち上がるとその缶を持ってキッチンに歩いていった。
「結局、ただ誰かに私自身を認められたいだけだったんだろうね。それは今も変わらない」
薄暗いキッチンで冷蔵庫を開けている後ろ姿は、
「何か、かわいそうね。梨世って」
さみしいと泣いているコドモみたいだった。
「もう私達の前ではそんな虚勢を張らなくてもいいんだよ」
そんなかわいそうな梨世の承認欲求を、私は受け止めることしかできなかった。
***
8月、最後の土曜日。
その日はとてもよく晴れていた。
場所取りのために早めに会場へ来ていた僕達は交代で落ちていく太陽に焼かれていた。
日が暮れて、周りがヒトで埋まり始めた頃、休憩で抜けていたミツさんが浴衣のオンナの子を連れてきた。
「椋木先輩。お疲れ様です」
「え? あ、渡来さん? お疲れ様」
現れたのはバーベキューに一緒に行った学部の後輩の渡来和紗とユウキとマイだった。
三人ともかわいらしい浴衣を着ていた。
「椋木先輩、どうですか? この浴衣、昨日買ってきたんです。かわいくないですか?」
中でも和紗は淡いピンク色の浴衣で大きな花柄の模様が映えていた。
「あぁ、そうだね。かわいい。よく似合ってる」
彼女達も栄川先生のゼミに入ることを決めたらしく時々アドバイスや話をするようになっていた。
「もっと和紗のこと褒めてくださいよ。せっかく椋木先輩のために浴衣着てきたんですから」
そう言って和紗はコンビニで買ってきた飲み物を渡してくれた。
「渡来さん達も偶然見に来たの?」
「いや昨日さ、花火大会行くって話したら連れてけって頼まれちゃってよ」
「そういうことなんで私達もご一緒しますね。よろしくです」
ミツさんに続いて和紗は言うと僕の隣に座った。
「あー、いたいた!」
と今度はメロスに連れられて浴衣姿の鹿山さん達がやってきた。
「あ、梨世先輩。お先してます」
「げっ。何でアンタがいるのよ?」
「ミツさんに誘ってもらったんです」
驚いて素になっている鹿山さんの後ろでカニクリが頭を抱えている。
「みんなで花火楽しみましょうよ。ねー、椋木先輩」
和紗は梨世に言ってから僕の腕に手を回してくる。
「やめなよ。僕、汗かいててベタベタするよ」
「汗はみんなかきますよ。それにちゃんとボディペーパー買ってきましたよ」
今度は朋弥が狙われてるんだな、と言っているメロスの隣で、
「梨世ちゃん、あの子が前に言ってた子? 面白い子だね」
とのん気にイズちゃんが笑っていた。
満月に近い月が東の空に昇り始めた頃、花火大会は盛大に始まった。
体の奥にまで響く音と色とりどりの光の中で、僕達は歓声を上げたり拍手をしたりしていた。
「――先輩! 椋木先輩!」
花火の音にかき消されながら何とか届いた隣の和紗の声は僕にだけ聞こえていた。
「先輩。ちょっとお願いが」
近付いて和紗が耳元で言った。
「どうした?」
僕の問いに和紗は再び耳元に口を近付けた。
「トイレに行きたいです」
彼女は顔を離すと僕の目を見て照れ笑いを隠そうとうつむいた。
「わかった。行くよ」
僕が立ち上がると和紗は見上げて手を出した。
僕はその手を取って引っ張り起こすと、目が合ったミツさんにトイレと短く告げて和紗と歩き始めた。
道もヒトで埋め尽くされていて、下駄でふらふらと進む和紗の歩く速度がちょうどよかった。
「先輩、速いよ」
それでも歩くのが遅い和紗がつまずいて僕の腕にしがみつく。
「先輩。腕組んでもいいですか?」
息がかかるほどの距離で和紗が僕を見つめる。
「歩きづらくない?」
「全然。先輩に置いてかれるよりマシです」
和紗はそう言って笑った。
「先輩って普段は優しいっていうか優しすぎるのに、こういう時は素っ気ないっていうかオトコっぽいですよね」
「それって褒めてる?」
「褒めてるって言うか、そういうの好きですよ。先輩」
和紗は僕の腕に腕をからませると、
「和紗は、先輩のこと好きなんですよ」
と、何でもないようなニュアンスで言いながら和紗は僕を見ていた。
「それはどうも」
「ほら素っ気ない。今の、――告白ですよ」
「……え?」
驚いてもう一度和紗を見ると、笑顔だった。
「先輩、カノジョと別れたって聞いてチャンスだと思ったんです」
僕らはゆっくりと歩いていた。
「先輩の返事、聞かせてください」
僕の腕を強くつかむ和紗はうつむいている。
「渡来さん、あのさ――」
ヒトと花火と夜の闇の中で、見上げた和紗の黒い瞳がキラキラしていた。
「――椋木くん!」
その声が聞こえた瞬間、ほとんど反射的に振り向いた勢いで和紗から腕を振りほどいた。
「鹿山さん。どうしたの?」
人波をかき分けて小走りで来た鹿山さんに僕は尋ねた。
「私もトイレ!」
勢い余って僕の服の袖をつかんで止まる鹿山さんは呼吸を整えると、
「迷子になるから私も連れてって」
と言った。
「梨世先輩、下駄で走ったら危ないですよ」
鹿山さんを心配してか和紗はそう言うと僕の手を引いて歩き出した。
「心配してくれてありがとう。でも私、転んだりしないから」
鹿山さんは僕を挟んで和紗の反対側を歩く。
彼女は僕の袖をずっとつかんでいた。
「ちょっとくらいよろけたほうが守りたくなるんですよ」
「私はアナタみたいに恋愛をゲームみたいにしてませんから」
「ゲームなんてしてません。和紗はいつだってマジなんです」
二人が僕の左右で言い争っている間にやっとトイレに着いた。
「じゃあ、椋木先輩。待っててくださいね」
立ち止まった僕から離れて和紗はトイレ待ちの列に並ぶ。
「梨世先輩、並ばないんですか?」
「あとで並ぶよ。ちょっと飲み物買ってくるね。椋木くん、行こ」
僕の返事も待たずに鹿山さんは僕の手を引いて人込みを縫うように歩いていく。
「ちょっと梨世先輩!」
背中に聞こえる和紗の声が花火と雑踏にかき消される。
「鹿山さん、トイレは大丈夫?」
「うん。平気」
「えっと、何買う?」
トイレからそんなに遠くない屋台で僕達は足を止めた。
「冷たい飲み物。それと、――椋木くん最近モテ期じゃない?」
彼女は屋台のお兄さんからスポーツドリンクを人数分買うと、その重そうなビニール袋を受け取る。
「持つよ。別に、モテ期なんかじゃないよ」
僕達は視線を合わせることなく飲み物を買うと、周りの歓声に反応して夜空を見上げた。
「そうかな。――カニクリが、告白みたいなこと言っちゃったって」
「聞いたんだ?」
「自分で言い出したんだよ。そんなつもりじゃなかったって」
「うん。それはわかってる」
「それに、和紗にもアピールされてるし」
「それは、……予想外だったけど」
続けて何発も打ち上がる花火の音に遮られて僕達は距離を近付ける。
「ほらモテ期じゃん。もう和紗と付き合っちゃえば?」
もっと君の声が聞きたくて。
「それは打算的すぎだよ。いくら何でも――」
音と歓声にかき消される僕の話を聞いてほしくて。
「そうだね。さっき渡来さんに告白されたからオッケーするよ」
僕は心にもない嘘をつく。
「……え? マジで?」
彼女の驚いた声は僕にだけやっと届く小さな声だった。
「マジだよ。そこはおめでとうじゃないの?」
いつになく近い距離で、
「そう言いたいけど、何か――イヤなの」
「何で?」
「何でも!」
僕から逃げようと走り出す彼女の手を僕は容易くつかんだ。
「僕だって鹿山さんが他のオトコといたり、付き合ったりするのはイヤだよ!」
僕に手首をつかまれたまま彼女は振り返り、にらむように僕を見る。
「だったら何で!」
「――君が僕を選ばないからだよ」
彼女はきゅっと下唇をかんでいた。
「自分で幸せになろうとしないからだよ」
「じゃあ、椋木くんを選んだら私は――幸せになれるの?」
「少なくとも結婚しているヒトと付き合ってるよりは幸せにできるよ」
「……そんなの勝手だよ。椋木くんにはわかんないよ」
「それで君は幸せなの? 自分で自分を幸せにする努力をしない人間は幸せになんかなれないよ」
「わかっててもできないヒトもいるんだよ。好きなのになっちゃいけないって思ってるの」
「どうしてなっちゃいけないのさ。好きになるのも嫌いになるのも本人の自由だろ?」
「それが簡単にできないのが恋なんでしょ! わかってたらこんなに椋木くんのことで悩んだりしないよ!」
「悩んでたの?」
「当たり前じゃん。好きなヒトに自分以外のヒトと仲よくされてうれしいわけないじゃん。――私だけを見てほしいよ」
僕が握る彼女の腕に力がこもる。
「それでも、……私のこと軽蔑してよ。嫌いになってよ。好きになんかならないで」
僕から外された視線の先に、彼女は何を見るのか。
「軽蔑して嫌いになっても、また君を好きになるよ」
その視線の先に何があっても、僕を思ってくれたらそれは幸せだ。
「――私が、君を好きじゃなくても?」
世界は僕を取り残して回っている。
「好きじゃなくても、何度でも」
彼女の瞳に僕が映る。
「君を、好きにならないかもしれないよ」
初めてそんな奇跡が起きた瞬間は、そう思っていた。
「好きになってくれるまで待つよ」
けれど、
「待ち続けておじいちゃんになっちゃうかもよ?」
「そしたら鹿山さんもおばあちゃんだね」
それは奇跡なんかじゃなかった。
「おばあちゃんになるまで私を好きでいてくれるの?」
「もちろん。白髪が生えたって、しわくちゃになったって、ずっと鹿山さんのことが好きだよ」
当たり前にある現実。
「まだしわくちゃじゃないよ」
「そうだね。まだ若いもんね」
「そうだよ。だから、やり直して」
失恋を繰り返す悲しい恋に終わりを告げる。
「わかった。――鹿山さん、大好きだよ。だから、付き合って」
ありふれた言葉。
何の変哲もない会話。
「……ありがとう」
花火で鮮やかに染まる白い肌は、とてもキレイでそれ以外の言葉を見つけられなかった。
「キレイだね」
僕が言うと彼女は空を見上げる。
「うん。キレイ」
力が抜けた彼女の手が僕の手に包まれる。
細くて長い指が僕の指にからまる。
「あ、そろそろ戻らないと。行こ?」
ぎゅっと握られた手を彼女に引かれて僕は歩き出す。
***
僕らは歩く。
一人なら遠い道のりも、二人ならそんなに遠くは感じない。
気のせいじゃない?
僕が言うと彼女は笑って言った。
みんなから少し離れて並んで帰る。
それにまだ二人きりじゃないよ。
見られないようにそっと手をつなぐ。
その瞬間、僕は手の先にいる彼女しか見えていなかった。
その彼女の先にある何かを知らなかった。
まだ、世界は僕を取り残して回っている。
***
ほんとうのことを言っていい?
いいよ。
と隣に立つ彼が私の目を見つめる。
初めて会った瞬間から運命のヒトだと思ってた。
こういうこと言うの、恥ずかしいね。
その時にほんとうに思ったかは重要じゃない。
運命とか奇跡とか、ただの後付けでキレイ事。
汚れた私には似合わない。
だから、私は希望を持たない。
期待をしない。
私はただ、目の前にある幸せをつかんでいる。
***
「僕の手の中にある温もりが、消えてしまわないように」
「私の見つめる瞳が、光を失わないように」
「夜空の星にそっと祈りを捧げる」