抱きしめない
震える肩がうつむく君の涙を教えていた。
そして、何を不安に思っているのか、今更過ぎる答えを僕に伝える。
思えば、ここ最近はずっと忙しくて、珠の電話やメールはいつもおざなりだった。
まさか距離が離れていたなんて、考えてもいなかったけれど。
いつも明るい言葉で励ます目の前の彼女を、寧ろ煩わしいとさえ感じていた。
けれど、それも無理をしていたんだって、今なら解る。
不安にさせてごめん。
口に出すよりも、解りやすいことがある。
でも、僕は抱きしめない。
あえて、僕は抱きしめない。
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霙が降った。
そう遠くない内に雪も降るだろう。
タイヤも交換した。
いつ降ってくれても構わない。
出来れば、今日みたいな休日にでも。
のんびりと見てられるような日に。
目の前で頬杖を突く彼女と一緒に呑気な顔をしていられたら。
そう言えば、部屋の中が妙に寒い。
そういえば、暖房をつけてなかった。
なのに彼女はノースリーブだった。
鳥肌も立ってる。
しきりに腕を摩ってる。
眉間に皺を寄せて唇を尖らせている。
「人肌が恋しい」
彼女がぽつりとつぶやいた。
「ここに人は二人しかいませんが」
僕が答えると、彼女は両腕を広げた。
でも、僕は抱きしめない。
あえて、僕は抱きしめない。
―――――――――――――
「比喩表現にいちいち噛みつくのってどうなの?」
「どんなものだって使い過ぎると色褪せてしまうもんだよ」
冷めたコーヒーを睨みつけつつ、彼は唇を舐めた。
砂糖もミルクもいれていない。いつもはどばどばといれるのに。
「大人になりたいの?」
「ブラックコーヒーを飲むことが大人の証明なんて考え方、嫌いだね」
「んじゃ、入れればいいじゃない。砂糖とミルク」
「たまにはブラックで飲もう、って思っただけさ」
「それじゃ、飲めば?」
ああ、飲むさ。
けれども、彼は唇を少し濡らす程度で、またカップを離した。
苦い、とこちらに聞こえるか聞こえないかの呟きが毀れた。
「そう言えば、コーヒー好きじゃなかったわ」
「おい」
彼はテーブルの上にカップを卸した。
「湯気の立たないコーヒーと、僕らの関係を結び付けてみるとして」
「はあ。何? 冷めてる、って言いたいわけ?」
「冷めても美味い、って言いたかったけど、苦いしな」
「甘くはないわね」
別れ話かしら。
と、彼を見ると、何だか複雑な顔をしつつ、席を立つ。
冷蔵庫の中から牛乳と、隣の棚からガムシロップを取り出し、それらをコーヒーの中に入れた。
「スプーン取って?」
「あいよ」
差し出すと、彼はぐるぐると回して、啜った。
満足げに微笑む。
「ガムシロと牛乳を入れないと飲めない関係?」
「ガムシロと牛乳を入れれば飲めるなら十分すぎる関係だろうけど。まあ、何かに重ねてみる程虚しい作業は無いってことさ」
はぐらかされた気がしないでもない。
てか、そもそも、結び付けたのはあんたの方だろうに。
「好きなの?」
「好きだよ」
彼は少し間を置いてそれだけ答えた。
「そう」
努めていつも通りの顔を浮かべようとして、いつも通りの意味が解らなくなる私も、大概なもので。
「季節を抱きしめて、って言葉、意味わかんねーな」
と誤魔化すように馬鹿なことを口にする彼の代りに、牛乳を冷蔵庫の中に戻してあげた。