月下美人
和風不思議噺
「どうしてそんなもの買って来なすったんです?」
咎めるような妻の声に、善治郎は視線を伏せたまま茶をすすった。
「気に入ったのだ」
「これをですか?」
妻の視線が自分から離れた気配につられて、善治郎も改めてそれを眺める。
今朝方骨董屋から届いたそれは、灰褐色の鄙びた花器であった。
表面ばかりは滑らかな器に、昨今流行りの色絵付けは無く。
ただ胴体に図って描いたような円が一つ有るきりだった。
「これは花の蕾を模してある」
「左様でございますか」
「月下美人という名がついているそうだ」
「良うございましたこと」
日頃やわらかな物言いをする女だが、今日は何とも声が硬い。
まあ、この花器一つに給料の三分の一を注ぎ込んだと聞いては解らなくもない反応ではあるが。
「……雪枝、そうつんけんするな」
茶をすする善治郎の言葉に、綺麗な面に微笑みを張り付かせたまま妻は席を立った。
「私、つんけんなどしておりません」
ピシャンと音を立てて閉まる障子を見送り、善治郎は少し残念そうに花器に視線を戻す。
佳いものだと聞いたのだ。
二つと無い、と云っていた、骨董屋の顔を思い出す。
気に入ったのだが。
・・・仕方がない。
善治郎は渋い顔で茶をすすった。
「明日、返しに行くか」
その夜の事だった。
妻の機嫌をなんとかなだめ、善治郎はいつもの時刻に床についた。
寝入りかけた夜闇に、聞き慣れない音を耳にして目を覚ました。
最初は気のせいかと眠りかけたが、再び聞こえた物音に、訝しげに床の上に身を起こす。
「あなた?」
眠たげな妻の声を制して耳を澄ます。
「書斎からだ」
妻に寝室で待つように言いおき障子を開けて縁側に出ると、宙天に図って描いたような満月が皓々と照らしていた。
足音を忍ばせ行くと、確かに硝子でも砕くかのような微かな音が書斎の中で響いている。
善治郎は、書斎の障子を薄く開いてそっと中を覗き見た。
裏庭に面した縁側の硝子から白い月光が射し込み、文机に乗せていた例の花器を照らしていた。
ぱき
ぱりん…。
繊細なビイドロを砕く様な儚い音がする。
目を凝らした善治郎は、ふと、あることに気がついた。
「円が無い…」
代わりに。
灰褐色の花器の胴体に、一輪の華が咲いていた。
ゆっくりと開く花弁から雲英々々と輝く灰褐色の欠片が落ちてゆく。
ぱき
ぱき
ぱりん…。
なるほど、こう言う意味で有ったかと、花器に咲く神々しいまでに美しい白い華を眺める。
やはり、良い物であった。
開き切った純白の華は、四半時ほどの後。
月明かりに溶けるように姿を消した。
後には唯、胴体に円を一つ浮かべ鄙びた灰褐色の花器が残るのみ。
きっと、雪枝は怒るだろうが、骨董屋へ返すのは止めておこう。
佳いものを見た。
善治郎は、満足して床へと戻った。
完読ありがとうございました。