1-22 ほんとうの あくまばらい
その日は降り注ぐ朝日が眩しくて目が覚めた。
午前六時過ぎだ。
転がっている髭親父の腕に巻きつけられている銀色のアナログ時計で時間を確認してから、そういえばここは室内ではなかっただろうかという当然の疑問を強い朝日とまだ冷えた冷気の断層に浮かべた。
ふらふらとしながら朝日を仰ぐと綺麗な裂け目ができている。
天井に、綺麗な裂け目ができていた。
幅五十センチほどで長さが五メートルを超える裂け目だった。端は黒く焦げており、何か熱のような異能力でつくったのだろうと推測できる。
髭親父の傍に転がっている青銅霊剣を見た。
抜き身で転がっている。
畳を少しだけ切りつけて、少しめくりあがらせていた。落ち着いてきたちょうど良い匂いの畳だったのでもったいなく思ったが、どうせ俺の家じゃないのでどうでもよいことにした。もったいない。
さすがに危ないので青銅霊剣を手にすると鞘を捜す。
辺りを見回してもそれらしい龍の鱗革を使った鞘が見当たらない。あれじゃなくては刃を立てて転がしただけで地面に柄まで潜り込んでしまうほどの馬鹿げた切れ味なので、本当に危ない。腕のひとつや二つ切り落としたところで治癒させることに何の問題もないのだが、そういう問題ではない。自分の家の床に包丁が落ちていたら拾うのと同じことだ。
鞘が見当たらない。
思い出した。
そうだ、昨日に宴会芸をやるときになんか髭親父が必殺技を見せてくれたんだった。ビームソードで天井を斬って「どうじゃワシの一撃は満月をつくることができるわ」とか戯れたことを言っていたので周りからたこ殴りにあったのだった。だから寝ているのだ。
そのときに鞘を思い切り投げ捨てたのだが、確かそれが障子を破って庭先まで飛んでいったはずだ。
あのときはみんな酒を浴びるほど飲んでいて正常な判断が下せなかった。
ビーム撃ったときにみんなで「てめえ宴会で主賓より目立っているんじゃねえ」とか言って笑いながらぼこったのだ。今考えるとどうかしている。もっとしっかりと殴っておくべきだったな。それが礼儀だ。
全長一メートルもない青銅霊剣を腹から引きずって歩く。
さりさりと音を立てて畳を裂いて剥がしていく。別にそのつもりはないのだが、どうもうまく思考がまとまらない。というか畳の一枚や二枚くらいどうだっていいだろう。
長い棒切れを叩きつけた様に妙な破損をしている障子を開けるために力を込めた。
ズキン、と頭が痛んだ。
開いた障子の先から差し込んでくる全力光の朝日を全身に受けて、思わず融けてしまいそうなほどの刺激を受けた。黄色く見える朝日は後方にいる髭親父と、その他三人の分家連中にも分け隔てなく降り注いだが、四人の酔っ払いは意識なくもぞもぞと動いて部屋の暗がりへと逃げていった。
めっちゃ頭痛い。
ここで初めて二日酔いだとわかった。
体力の低下はもとより思考領域の狭域化が著しい。集中力がまともに練れない。
不可視の板切れを構成してから着色で黒色に塗りたくるとそれを日除け傘として頭の上に置いた。なんかまともに集中できないなと思ったが、良く考えたらリキマルに異能力のほとんどを封印されていたのだった。今すぐ世界を闇に包み込みたいが、出力がまるで足りない。まあ、いい。
俺は傘の陰から鞘を捜す。
ない。
良く探す。
ない。
めんどくさくなったので庭に倒れこんだ。
冷たくて気持ちがいい。
日守家の庭は普通に日本庭園を模したような庭だ。白くてわずかに青みがかったつるつるの玉砂利を敷いた枯山水もどきの庭であり、城壁のようなしっかりとした塀がぐるりと屋敷を取り囲んでいる。その合間に松が植えられている。
玉砂利がぬるくなった。
ごろごろと転がって冷たい砂利を探す。
冷たくて気持ちがいい。
ざくり、と青銅霊剣で腕の肉を切ってしまった。
だくだくと流れ出る血液が玉砂利を汚していく。
……
痛い。
ここでようやく目が覚めた。
切ってしまった腕の肉を治癒する。かなり良い力の部分が封印されているので多少焦ったがなんとか治癒に成功する。危うくどうでもいいことで死に掛けたが、誰も見ていないのでセーフだとする。
しかし鞘がない。
青銅霊剣の柄をしっかりと握ったまま、探す。
たった十二しか起動できない『眼』を使うと見つけることができた。
目の前にある松の幹で跳ね返り、かなり遠くへ飛ばされてしまったようだ。どれだけの馬鹿力で投げたのだろうか。少し感心しながら庭をひたひたと歩く。玉砂利が素足に冷たい。
現在の俺の格好はシャツとトランクスだけの姿だ。
確か宴会で野球拳が行われ、普通に俺が負けたのだ。
ちょっとした手違いで生まれる性別を間違えただけで、俺の姿はあまりに女性めいている。十三歳の姿を考えるとかなりエロティカルだろう。俺は自分の姿をなんとも思わないが、確かに俺と同じ姿を女がしていたら欲情しないでもない。
ざりざりと音を立てて庭を歩く。
踏んで乱れた玉砂利は、足を離した先から元のなだらかな状態に戻っていく。俺が流した血液もそのうちなくなるだろう。
鞘を拾うとそのまま青銅霊剣を収める。
「そもそもなんで俺がこんなことをしているんだか」
ぼそりと呟くが誰かが声をかけるわけもない。
俺はあたりを見回して先ほどの俺の醜態を見ていないか確かめる。
誰もいない。よかった。
そう思ったときに入り口のくそ長い階段を誰かが上ってきているのが見えた。
義父、コーセツだ。
軽快な走りで階段を上っている。
その両手の中には箱が抱えられていた。
スイカでも入っているのだろうか。
そんなことを考えた。
なんとなく食べたかった。
それはともかくとして義父と話すこともあるので階段先の門へと俺も移動する。こんな格好で会うのか、と思われるかもしれないが、俺の着ていた服はすべて灰になるかお土産として奪われたので、実は着るものがない。婚前の儀で着ていたやつもお土産になった。本当にバスタオルを巻くくらいしか、ない。
俺は門へと移動する。
門へと近づくと、すでに誰かが待っているのが見えた。
瑞香だ。
瑞香は神妙な面持ちで門から少し離れた広場の真ん中で待っている。
主に祭事か御前試合で使うくらいの広場だ。何かをやるには狭いが、何もせずに立っている分にはあまりに広い。
そんな寂しい場所に瑞香が立っていた。
「瑞香、どうかしたのか?」
俺のほうがコーセツよりも先に到着して瑞香に話しかける。
だが、瑞香は一言も発しなかった。
ただ門の向こうを見ている。
コーセツに何かあるのか。
そんなこと考えながら俺も瑞香の隣で待った。
気がついたら青銅霊剣を手に持ちっぱなしだったので、鞘と一体化している腰帯でしっかりと自分の腰に巻きつける。金具で固定すると、それなりに様になっていると思えた。
数秒でコーセツが現れた。
「瑞香様、このたびは我が娘が無礼を申し上げました」
いえいえ、そんなことはないですよ。
瑞香がそんなことを言ってころころと笑うだろうと思ったが、
「……」
そんなことはなかった。
ただ、一辺倒に黙っている。
無表情というにはあまりに何かを抱えた面持ちであるが、表情を察するにはあまりに情報が足りない。しかめているのか、笑っているのか、わからない。
「こちらは我が氷神家の忠誠の証であります。どうぞお納めください」
そう言ってコーセツは瑞香に手にしている箱を渡そうとした。
白木の箱だ。
何の文様もなく、ただ蓋で密閉されているだけの箱だ。上部にぴったりとした切れ目がある。立方体の綺麗な箱だった。
コーセツが瑞香に近づいて箱を渡そうとするが、瑞香はそれを受け取らない。
一瞬、デコイか何かと思ったが、瑞香ははっきりとコーセツを見ている。強い視線だ。
困ったコーセツは隣にいる俺に箱を渡してきた。
思ったのだが、シャツとトランクス姿の変態に普通の表情で物を渡してくる親父って、ちょっとおもしろいんじゃないだろうか。俺には負けるだろうが。
俺は受け取る。
「?」
妙に、重い。
十キロはないだろうくらいの重さであるが、中に入っているものがどうやらごろごろと固定されていないようで本来の重量よりも重く感じる。
「お納めください」
コーセツから受け取った箱を持ったまま、瑞香に視線を送る。
瑞香は箱に興味がないのか、こちらを向こうとしない。無視され続けているので、俺が瑞香の不興を買ったのかと思ったが、特に思い当たる節はない。強さと弱さを兼ね備えた完全な女なので理不尽にキレることとかやりそうなのが珠に瑕だ。あまり深くは考えないでおく。
俺は箱を地面に置くと蓋に手をかけた。
一瞬だけ、瑞香の気配が膨らんだ気がした。
それは微動したとか、気のせいだとか、影の揺らぎだとか、実際に異能力で俺に何かをやろうとしたとか、そういった事柄だ。
三秒ほど待った。
待ったが、それ以上に何もしてこなかったので箱を開けることにした。
蓋を取る。
黒いスイカが入っている。
珍しいスイカだな。
陽光を浴びて天使の輪のようなきらめきを返している。
まるで『髪の毛』みたいに。
リキマルの生首だった。
叩き伏せられる。
他者に反応できない速度で立ち上がる。
胸と腹に致命的な裂傷を受けているのだが、受けた瞬間のことを覚えていない。
今、気がついたが意識と記憶が飛んでいる。
見れば俺は戦闘状態に入っており、コーセツと瑞香の二人を相手取って戦っていた。
目標であるコーセツはその手に刀を握っている。
どこかで見たことがあるやつだ。
そうだ。
キリヒトから回収した刀だ。
昨日に婚約がどうこうな話になってからいつのまにか俺の手元から消えていたのだが、どうやら適当なルートを通ってコーセツの手に渡っていたらしい。
というか、もともとコーセツのものなんだろう。それをキリヒトが持ち出して、リキマルが返却したんだろう。
普通にコーセツは血塗れだ。肩で息をしておりあと一息で止めが刺せそうだ。
だがそれを瑞香が守っている。
こいつ本当に馬鹿だな。
邪魔をするなら殺す。
俺は、右手の親指と人差し指が切り飛ばされており青銅霊剣が握れない。そのためにすでに左手に切り替えている。コーセツが握っている刀は、青銅霊剣で三度ほど切り飛ばしたがその都度に生えてきた。
そこまでやってようやくその刀が緋守家護封印の霊刀『鉄食い』であると理解した。日守家目録に目を通したときに確認した覚えがある。鉄を食って異空間に収納して、そして吐き出す能力を持つ覚醒した刀だ。どうりで精神構造体が存在するわけだ。
しかたないので少ない異能力を使って青銅霊剣を守る。あれは金属に限らず、ほとんどの物理体吸収することができる刀だ。青銅霊剣であるといえど例外じゃないだろう。
切っ先を削がれた青銅霊剣を媒体に直接斬撃を放つ。優秀な媒体である青銅霊剣は俺の力場をしっかりと補正してくれて、本来の俺の力にまったく及ばない程度の斬撃を放った。
コーセツに直撃する。
血反吐を吐きながらコーセツが壁に叩きつけられた。
利き腕を操作する。巨大腕に遠く及ばない不可視の細い腕が切り飛ばした鉄食いの刀身を握っている。その数二本。一本はしくじったが残りは俺が支配権を奪って維持している。俺の実力では不可能なので削がれた青銅霊剣の切っ先を利用して俺の意思を増幅、無理やりに現界させている。この辺りは赤城一子の能力を見てからわずかにであるが理解していた。一度の失敗だけで鉄食いの維持が可能になったのは運が良かった。
俺を押さえつけようとする『水』を切り裂く。青銅霊剣の性能が凄まじい。物理構造体にはそこまで強くないが、対異能現象には極端に高い性能を誇る。直接斬撃や三尺一寸のような例外はあるが、こと対異能者戦闘においてこれ以上に頼りになる武器もそうそうないだろう。
板状の水が俺を挟み込もうとする。
瑞香としては同時に二枚の壁が来るから防ぎづらいと思っているのか。俺は片方の水壁に縮地移動をすると地面を潰さんばかりの踏み込みから青銅霊剣を振り下ろして、一撃で切り裂く。
返す刀で迫ってきた水壁も切り捨てた。
利き腕がコーセツを狙う。
手には鉄食いが握られている。切り合わせたらこちらが負けるのは『眼』に見えている。不可視の力場は銀光の殺害意志をぬるりと動かしてコーセツの柔らかいところを狙っていく。
コーセツを守るために瑞香の能力が動く。
よくわからない動きであるが、霧の鞭のようなものが集合していくのが見える。利き腕は俺の腕であるが、破壊されても俺が痛いわけじゃない。これも擬似神経が通っているが、別にやられたところで血が出るわけじゃない。なぜこれを迎撃するのだろうか、瑞香は。俺を攻撃したほうが早いだろうに。
青銅霊剣を振るって瑞香に攻撃を行うが、当たらなかった。大丈夫だ。七歩七手詰みの一手が揃った。俺の左手からの袈裟懸けと瑞香の十一時回避が重なった。馬鹿め。
左手からの貫き、回避掛け、返し通し、瞬きが順番に行われる。たった一歩に行われる高度戦術が数千の通り道の中の、数十しかない七手詰み順手を踏んでいく。
あばよ。
俺は二本の指がない右手を瑞香の腹へと刺し込む。
金属を擦る鉄臭い音がなる。
防がれた。
俺の力場を通した腕を貫通して、その腕に鉄の棒がねじ込まれたのだ。
完璧だったのだが。
今のは完璧な攻撃だったのだ。もったいない。今のでやれないとなるともう、機会はまわってこないな。そんなことを考えながら右腕を引き抜く。
ばりっ、と間抜けな音を立てて縦二つに割れた腕を引き抜く。
あと三分くらいは全力でいけるだろうか。
血液を流しすぎる。すでに全力で治癒に力を傾けても数秒では治せない傷ばかりだ。治す意味はない。現状で戦う算段を練る。
「雅弓! 何をしておる!!」
髭面の音が大音声をあげる。
火神の当主だ。名前はなんと言ったか。頭も顔も圧倒的黒色で覆われた達磨坊主のようながっしりした大男だ。赤の胴衣袴を着ているのでできの悪いコスプレ巫女女装を見ているようだ。気持ち悪い。
火神は手にした金属棒で俺の腕を割って縫いつけようとしたが、俺が引いて逃げたために目論見はご破算になったようだ。肩で息をする瑞香の前に立ってかばう。
ち、そうだな。別に瑞香はどうでもいい。
コーセツを殺せればいいか。
俺は振り返る。
そこには三人の分家どもがコーセツをかばうように立っていた。
みんな俺に対して完全な戦闘状態になっているが、その表情はあまりに優れていない。酒が残っているのだろう。クソどもめ。
「雅弓、お前の気持ちはわかる――」
「わからなくてもいい。どけ。コーセツを殺す」
「やめてくれ、誰も望んでいない」
コーセツをかばう少年が、昨日俺の家に遊びに来るといった緋守家の少年が俺に視線を向けてから、そして俺のが利き腕でしっかりと胸の前で抱えている物体に目を向けている。
リキマルが、そこにはあった。
四本しか出せない利き腕の二本を使って、丁寧にリキマルを、やさしく抱えている。
「ど、け、よ」
「……だめだ」
俺の言葉に弱気で答える少年。
「力丸も、それは望んでいない」
「そんなことは知るか!! 殺させろと言っているんだ!! あまりふざけるなよ。なぜリキマルが死ぬ必要があるんだ! しかも実の親が殺して生首にして手土産として持ってくるだと! ありえない! 恥ずかしくないのか! 悪魔か! 悪魔判定か! 貴様のほうがずっと悪魔だ!! コーセツ、お前は人としてただのクズだ! 今、ここで死んだほうがより人のためになる! お前が悪魔だ! 俺が今すぐにでも祓ってやるわ!!」
火神が俺を抑えようと背後から攻撃を仕掛けてくるが、見えている。青銅霊剣で鉄の棒を斬り捨て、返し刃で止めを刺そうと思ったが、状況的に無理だったので蹴り飛ばす。そこまで含めて予定通りだったのか、火神は瑞香の手前で体勢を整えて着地する。
その手の中には、リキマルが握られていた。
「!?」
俺は自分の胸前を見る。
ない。
どこにもない。
火神が奪ったのだ。
「貴様! 返せ!!」
背後に回った三人が俺に襲い掛かる。
馬鹿が。返り討ちにしてくれる!
利き腕を伸ばす。巨大腕なら楽勝だが、別に利き腕でもできないことはない。
俺は襲い掛かる三人に攻撃を見舞う。
衝撃、衝撃と衝撃。
な、に?
攻撃を受けたのは俺だった。
利き腕がかき消されたのか、どこにもない。攻撃どころか防御もできずに三人の体術が俺に突き刺さったのだ。
だが、この期に及んで手加減されている。
「う、おおおおおおッッ!!」
裂帛の気合と共に気合を入れる。
振り回した腕で三人を払う。
だがそんな雑な攻撃など軽く流されると俺は地面に叩き伏せられた。
「なかなかの術だ。まさか俺の能力が、かき消されるとは、な!」
全力で力を込めて三人の押さえ込みを払おうとするが、まるで敵わない。さっきまで凄まじい力を発揮していた体はほとんど力を込めることもできなくなっていた。
「……雅弓、私たちは特に何もしていませんよ。ただあなたの体が動かなくなっているだけです」
そんな馬鹿な。
そう思ったが出血の量がひどい。
血圧が下がり精密な動きなどもってのほかなのか、利き腕の維持すらできない。異能力を封印される前ならこれくらいはなんとでもなったのだが、今は無理らしい。
そういえば異能力を封印したあとのサプライズもわからなくなったのか。
リキマル……
「ようやくおとなしくなりましたか。雅弓、先に言っておきます。この、あなたがしでかした事態は不問とします。絶対に後追いなどしないよう。それだけはリキマルは求めていないとわかるでしょう」
他の奴らもそれに賛成なのか、まったく意見しない。
コーセツの気配が見えない。おそらく壁辺りで転がっているのだろうか。どうでもいいか。
「では雅弓、あなたはこの先、私が良いと言うまで氷神に会うことを禁止します。そしてこのたびの勝手な振る舞いを行った氷神に責を与えて、数年は氷神家を日守に呼ぶこともしません。あなたの頭が冷えるまで関わることはないでしょう」
数年は氷神に会うことはできないのか。
今なら勢いで殺すこともできただろうが、これから時間を与えられて計画的に殺してしまえば、氷上家にも迷惑がかかる。
もう、復讐の機会はないのだ。
どうでも、いいか。
「雅弓、こちらを見なさい」
俺は頭を上げた。
瑞香の顔と、火神が持っているリキマルの首が見えた。
何も考えずにリキマルの方を見た。
虚ろな眼をして少しだけ口が開いている。
今までになかった表情だ。そう考えると愛らしくもある。
良く見ると、リキマルの唇がほんのりと桜色に染まっていた。
口紅だ。
珍しい、一度もつけたことがないのに。
そう思ってからその口紅の色が俺が選んで買ったものだとわかった。
口紅を塗ってから首を落とされたのか、
首を落とされてから誰かが口紅を塗ったのか、
そんなことを考えたが、正直、本当に、どうでもいいことだった。
「雅弓、こちらを見なさい……まったく。ではこのままで行います」
見ずとも、瑞香の水が見える。
俺の責は不問となった、とか言っていたが何かをやるようだ。
どうでもいいことだ、といいたいがさすがにどうでもよくはないだろう。
冷静になってきた。
コーセツに対する怒りも鎮火してきた。
最低、だ。
時間が経過するほどに冷静になってくる。
この身が焼け付くほど腹立たしい。
熱しやすく、冷めやすい。
自分で自分に失望する。
俺はそこで目を閉じた。
水が飛んできた。
普通に俺が死ぬレベルで飛んできた。
俺は反射的にそれを知覚するとちょっとだけ首を傾げるように、回避する。
「雅弓、今、寝ていたでしょう?」
それだけ言って微笑んでいた。
時間は正午過ぎ。
場所は瑞香の部屋。
襖の向こうで笑顔のキリヒトが俺を見ている。
「さあ、そろそろ最終戦の開始ですね」
瑞香ははりきってそう言った。
あれちょっと、記憶が混乱してきたぞ。
俺はゆっくりと今日、日守家に来た理由を思い出していた。




