1-21 『ひかみ家』⑨
食いしばった歯の隙間から一筋の血が落ちる。
噛み砕いた奥歯から流れた赤い雫が俺の涙と混ざった。
思考を平坦にする。
状況類推は破棄する。俺にこれを打破することは不可能だ。武力で解決できる話はすでに過ぎ去った。俺の敗北がすべてを物語っている。この後に取れる方法などそう多くはない。泣き落としか、それくらいだ。それも通じるか怪しい。
下げた頭の先に握り拳が見えた。
いつのまにか握りこんでいたらしい。小指の先や中指の第二間接辺りが、いや、指のほとんどが砕けているほど握りこんでいる。リキマルが何かをやろうとするのを邪魔するにはあまりに不向きな状態であるが、邪魔できるほど優秀ではないためにこれはこのままでいい。
まったく良い考えが浮かばない。
自分のことを頭が良いと誤解していたようだ。
何も浮かばない。
おそらく俺の人生においてそうはないと思われるほど重要な機会であるが、残念ながら俺にこれを最良解決するための糸口すら見つけることができない。
単純に解決するのは簡単だ。
瑞香を殺せばいい。
そしてリキマルの言葉が本当であれば俺は宗家の当主となって死ぬまで過ごすことになるだろう。
ただそれだけだ。
デメリットは……いくつもあるが、大きなものはひとつ。
生きている間、リキマルはこの日守屋敷から出ることができなくなる。
この場所は日本に水を供給するという点においてはとても優れた龍穴であるため、ここ以外だと効率が落ちる。落ちたところで別に日本列島は問題ないのであるが、北海道や九州といった端っこの辺りの水量が減ってしまう可能性が高く、また水量減少で枯れた大地はすぐには元に戻らない。そしてそこに住む人間もそれなりにダメージを受けるだろう。住めなくなるとか、そんなの。
最初の頃に別の場所に拠点を構えていれば多少変動したところでどうということはなかったのだろうが、この最効率の場所で活性化を行ったため、それを前提とした発展を行ってきた。
もう、どこに移動しても均衡は崩れる。
『水』は、ここにしかいられないのだ。
それは、嫌だ。
あまり外出が好きな性質ではないが、それでもたまにはご飯を食べに行きたいし、遊園地に行くのも悪くないだろう。電車で揺られながら洋服を買いに行ったり、ぶらぶらと街通りを歩いたり、喫茶店でまずいコーヒーを飲んだり、したり。昨日みたいに家でじゃれてから遊びに行くのは悪くなかった。またやりたい。おんなじようなことにはならないだろう。けど同じ気分は味わえる。
ずっと、屋敷に座っている。
それは、嫌だろう。
瑞香は、
とにかく、絶対に止めさせる。
詳しい言い訳はあとで考えてもいいだろう。
どうとでもなる。
今は、ただ考えるだけだ。
泣き落としだろうが、恫喝だろうが、とにかく。
とりあえずすがりついてから考えてみるか。
思考は最優先だが時間はそう多くはない。
すがり付いてこの場所が完全に壊れるくらいまでの時間は稼いでも、きっと問題はないだろう。もしかしたら瑞香のほうでも何かしら良い考えが浮かんでいる可能性も無きにしも非ず。無理だろうがな。
落ちきった涙を払って頭を上げる。
本来なら相手から三回ほど「頭をあげてください」といわれない限り頭を上げるつもりはなかったのだが、時間が時間だ。有効に使うべきだ。それくらいはリキマルもわかっているだろう。
しかしすがりつくにも鉄騎兵をどうにかしないといけないのだが、どうしたらいいだろうか。現在の俺は弱さ爆発の大絶賛無力少年なので無意味に攻撃してくるつもりはないと見るべきだろうか。もうその体でいくしかないか。あまり良い考えが浮かばない。限界まで日本式誠意である粘り強さでも見せるべきだ。
俺は完全に頭を上げる。
うっぴょーん
変な声が頭の中で叫ばれた。
「み、瑞香」
「はい、雅弓。どうかしましたか?」
俺の目の前、鉄騎兵に囲まれた瑞香が立っていた。
リキマルもその隣に立っている。
え、本当に瑞香か。
すげー遠くに走っていったはずなのに。
なぜ、ここにいる。
マジで日守宗家エンド五秒前。
あまりの出来事に思考が半分ほど吹き飛ぶ。
残りの半分が仕事を放棄していると思うほど高速で動いている。動いているだけだ。まともな考えなんか少しも湧かない。
「あ、お、が」
「はあ、どうかしたましたか?」
困ったような瑞香の顔。
まるで訓練場に咲いた徒花を見ているかのような、優しい顔だ。隣にダンプカーが迫っていることに気がついていない。轢かれるのはかまわないが生きていて欲しい。こいつが生きてないとリキマルに問題が出てくる。
瑞香には本当に悪いが、生きていて欲しい。本当に。
「リキマル、瑞香は、だいじょうぶだから、殺すのは」
途切れ途切れの言葉が出てくる。
何を言っているのか自分でもわからない。
この一瞬の繋ぎ、そのわずかな時間ですら瑞香の首が離れる可能性がぎゅっと詰まっているのだ。普通にしゃべれと言われても問題だけしかない。
いや、瑞香のことだ。
首が取れても生きていてくれる可能性はゼロじゃない。体の弱い子は無理だろうが、きっと瑞香なら生きていてくれるだろう。俺はそこまで非常識じゃないからそんな首が離れたら死んでしまうだろうが、きっと瑞香なら生きていてくれる。
細切れにされるだけか。
首を切り飛ばされて生きていたとしても細切れにされて確実に殺されるだけか。
「雅弓、落ち着いてください。もう、だいじょうぶですよ」
いやいやいやいや、なにもだいじょうぶくない。こいつなにってるんだ。
おかしいことを言ってくる瑞香とリキマルを交互に見る。めんどくさい。顔を動かして姿を確認する面倒くささが目に沁みる。どちらかしか視界に入れることができないもどかしさと焦燥感が俺を襲う。普通のやつはよくもこんな自前の目で不安にならないものだ。
「雅弓、もう、戦闘は終わりました。あなたの勝ちです」
あまりリキマルを刺激するのを避けて欲しい。所詮ただの水か、瑞香このやろう。命を狙っている相手が目の前にいるのに安心しきっているその心が意味わからん。だいたいなぜここまできたんだこいつ。せめてこの場所が崩壊するまで隠れていていればいいのに。あと十分以上は持つだろうに。それまでに俺がスーパーウルトラ凄い考えを思いつく可能性だってある。瑞香が思いつく可能性だってある。リキマルが諦めてくれる可能性だってある。
それからでいいだろう!
死ぬのは!!
「雅弓、おめでとうございます。あなたは格上の相手に勝利したのですよ」
瑞香がゆっくりと俺のところへと歩いてくる。
鉄騎兵の誰もがそれを止めない。
俺の目の前で殺すつもりなのだろうか。
さすがにそんな趣味がリキマルにあるとは思えないが、可能性としては、なくはない。なくはないが、止めなくては、ならない。
俺の正面までくると、瑞香は屈んで俺と視線を合わせようとする。
それでもわずかに低い俺を見下ろして、少しだけ俺の頬を撫でた。
立ち上がる。
「力丸。異能力『水』の廃棄を。もう、この空間は持ちませんので」
何を言っているのかわからない瑞香であったが、それに応えたリキマルがやはり瑞香の前に出てくると、ひとつだけ大きく頷いて、自分の体に腕を差し込んだ。物理的なそれではない。別に存在する不連続する空間のポケットに腕を入れるように、ごそごそと何かを探して引き抜いた。
青い水の真球がそこにあった。
どこかの水の惑星のミニチュアのようなそれを、リキマルは握りつぶして破壊する。
すると、空間の裂け目から流れてくる水が止まった。
俺の隣でこぼれていた水が止まった。
いつのまにか濃霧は晴れていて、なんなのかよくわからない太陽が燦々と輝いている。不可視の足場の下の水もゆっくりと水位を下げており、遠くからゆっくりと屋敷が再生しているという気持ち悪い状況が広がっていった。
みんな黙ったままだ。
ほんの数分ですべては何もなかったかのように、
ただ、元通りになった。
何が、起きたのかはわからない。
ただリキマルが異能力を捨てたのだ。おそらくは瑞香も持っている、日本の水量を八割確保している馬鹿げた能力を。惜しげもなく捨てたのだ。
「何が、起きた、んだ……?」
俺はゆっくりと立ち上がり、誰に聞くわけでもなく、呟いた。
「なんでもありません。力丸が調子に乗って私の能力を使っていただけです。外に影響のないこの空間だから、なんの問題もありませんでした。誰も見ていません。戻りましょうか」
ぱんぱん、と埃を払って瑞香が足場の下にある屋敷の廊下へと降りた。
リキマルが続いて降りたので、俺も降りる。
屋敷も、庭も、水で埋もれていたとは思えないほど綺麗な状態に戻っている。
「瑞香……?」
「何も起きてませんよ。ただ婚前の儀で力丸がテンパっただけです。わけのわからないことを言って暴れただけですよ。力丸は小さい頃から良く暴れていたので、問題なく続けられるでしょう。どうせ方々も同じ部屋で待っていることでしょう。さあ、行かないと」
「待てよ、説明しろ。お前はリキマルに何をしたんだ。なぜリキマルはお前の言うことを聞いているんだ。お前は何をしたんだよ!」
俺が瑞香の掴もうと近づくが、それをリキマルに防がれた。ただ、普通の顔のまま俺を通せんぼするリキマル。さっきまで戦っていたとは思えないほどだ。
「雅弓」
瑞香が足を止める。
「私は何もしていませんよ。やったのはあなたです」
「だからそんな形式ばったことを聞いているんじゃない。何をしたのかと――」
「雅弓、ごめん。私、わかってなかった」
俺の言葉を遮ってリキマルが声を出した。
そういえばしばらく聞いていなかったリキマルの声だ。いつから黙っていたのだろうか。覚えてないが、その辺りから何か瑞香がやったのだろうか。さすがに問いただす必要がある。
「問いただす必要、ないよ」
リキマルの言葉に、驚く。
心臓を鷲掴みにされたときもここまで驚かなかった、と思う。
まさか、リキマルは俺の声が聞こえているのか。
俺の心の中で考えたことが。
「うん、聞こえてる。ずっと聞こえてる。離れていても、近くにいても、聞こえてる。一昨日、一美ちゃんに教えてもらった」
一美、とは俺の姉のことだ。
俺の脳領域拡張に一役買ってもらった幼い姉で、双子で、本当は姉妹のはずで、俺と違っている同じ生き物で、二人だけの感応能力を持った、世界でたったひとりの姉だ。
だから、二人の間では隠し事はできない。
その能力をリキマルが使える、という。
「ごめんね。ひとりで張り切っちゃって。話、聞いてなくて。でも、雅弓だったらこうすると喜ぶって聞いて。雅弓の声、聞こえなくて。一美ちゃんから声の聞きかた、教えてもらって。みんな私のことが変とか気持ち悪いとか言ってて、そんななかで雅弓の言葉聞こえなくて、知りたくて、教えてもらって、聞いて、喜ぶと思って」
「いやいや、お前は変で気持ち悪い女だぞ。そこは自覚しろよ」
かなり大切なシーンだと思ったが、本音で会話する。
さすがにこの辺を暈してこの先を生きていくことができない。これから何十年の付き合いになると思っているんだ。少しでもごまかしはなくしていきたい。
「はは、まさゆみ、ひどいね。ひどいね」
そういいながらほろほろと、リキマルの大きな瞳から涙の粒がこぼれた。
「お、おい、泣くなよ。これから変えていけばいいだろ」
「ごめんね。雅弓、こんなに私のことを考えていてくれたのに、私、何もわかってなかった。日守家が欲しいと思ってた。そう信じてた。けど、普通にいっしょに遊びに行くだけでよかったんだね。私も、それがいい、それがいい」
リキマルが俺に抱きついてくる。
俺のほうが身長が高ければ様にもなっただろうが、どうにも年齢で埋められる部分は手の出しようがない。子供はただの子供だ。これから伸びる身長に期待する。
「じゃあお前は昨日からずっと俺の考えを読んでいたのか?」
「うん。ずっと、ずっと」
「さっきの戦闘中まで」
「うん、今も。ずっと私のことを考えてくれてた。私、私の勘違いわかった。ごめん、ごめん」
一応は古い家柄であるし、政略的な結婚でもしていると思われたのか、俺は。そう思われても仕方がない部分も多いか。
「ごめん、ごめん」
とにかく過程はどうであれ、よかった。
リキマルの対人関係不足による発作であると思えばなんとかなるレベルだ。他の連中に許してもらえるだろうか心配であるが、力でねじ伏せればいいかもしれん。きっと最終的には折れてなっとくしてくれるだろう。腕の一本とか二本とか。
「待てよ。おい、瑞香。お前、知ってたのか? リキマルが俺の心を読めたことを」
「もちろんですよ。自分よりも位階の低い人間の心が読めたり異能力が詳細にわかったりと、かなり破格の能力ですよ」
すげえ能力だ。
成長しきったら最強になれるだろうな。
「ところで雅弓、どこか痛いところない?」
「いや、さっき治した。手のひらがバッキバキだったから。あと奥歯とか」
「ううん。ほら、雅弓、今の私を傷つけたら凄く痛いから。だいじょうぶかな、って」
……つまり、かすり傷ひとつつけられずに敗北したのか、俺は。
痛みは覚悟していたのだが、それにしても全力で戦ってかすり傷のひとつすらつけられないなんて。
さすがに鍛えなおしだな。
できるだけ異能力を使わない方向で。
「あ、そうだ。異能力を使わない方向で、で思い出したんだけど」
「ナチュラルに俺の思考と会話しないでくれよ。エッチなこととかも考えるときがあるから、そういうときを含めて口にしていないことはそっとしておいてくれ」
「え、うん。だからかすり傷のくだりは、言わなかった」
「ははあ。そういえば雅弓はまったく痛がっていませんでしたね。呪いは発動しなかったということですか。普段、態度大きく威張っているのにそれはどうかと」
ふふ、ちょっと黙ってろよ瑞香。そしてこれを読んでいるリキマルに告げる。こういうのは無視したほうが相手にダメージが大きいから黙っておくように。
「うん、瑞香には黙ってる」
「ちょっと待ちなさい。二人してなんの相談ですか」
「あ、そういえば。雅弓にちょっとお願いがあるんだけど」
「なに?」
後ろのほうで瑞香が「ちょっと聞きなさい」とか言っているのを全力で無視すると俺はリキマルに耳を傾けた。さすがにリキマルの情報を教えてくれなかったのはどうかと思う。もしかしたら俺以外の日守一族のすべてが知っている可能性もあるが、そんなことは知らん。
「あのね、あとで必要になるから、雅弓の異能力をすべて封印してもいい?」
「別にいいよ。なんか弓と矢を使うのも加減よくしないといけないとわかった気がする。しばらく使わなくてもいいよ」
「よかった。じゃあちょっと間だけごめんね」
「別に。ただ、帰りはリキマルが自転車をこいでくれよ。あの新しく買った自転車」
「うん、いいよ」
そして数分ほどで俺の弓と矢の異能力は封印された。
と思ったのだが、まだ使える。
何万本も出すのはさすがに無理だ。前と同じように十万と六千本出そうとしたら、たった数本しかでないくらいだ。
力場とかも少しだけなら使える。巨大腕が一本だけギリギリ使えるくらいの出力だ。
「リキマル。完全に封印できてないぞ」
「さすがに私の持ってる緋守の封印術じゃ雅弓の異能力をすべて封印するのは無理みたい。けど以前と比べたら使えないも同然だよね」
「まあね。ところでこれが何になるの?」
なんとはなしに聞いてみる。
「えへへ、ないしょ」
子供っぽいいたずらな笑みで答える。
俺はそれを受け入れた。
通常空間に戻ると、本当にあの婚前の儀をやっていたリキマルが壊した場所でみんな座って待っていた。こいつら馬鹿なんじゃなかろうかと思ったが、さすがに口にするのはかわいそうだと思い黙っていた。
そして何事もなかったかのように婚前の儀は進み、
リキマルをちょこっとだけ刺して、
俺が超痛くて悲鳴をあげて、
笑いながら終わった。
すまなそうに遅れてやってきたコーセツ――いや、義父か。義父に挨拶をした。どうしても外せない用件があったそうだ。人の生き死にに関わる日守家であるからこういうのは珍しくない。ただ、居て欲しかったと思うくらいだ。
そして今日のところはお開きになった。
宴会の席でぐでんぐでんになった出席者を帰すのに必死だった俺は、リキマルを先に帰宅させた。本当はいっしょに氷上家に帰りたかったが、さすがに婚前の儀において父親と話をしていないのだ。しかも昨日の今日でまともに話もしていないのだろう。
二人で積もる話もあると思い、普通に帰ってもらった。
本当に仲良く帰っていった。
俺は、このとき、二人で返したことを、本当に、後悔した。
翌日、義父が――コーセツが、手ごろのな大きさの箱を持って日守家にやってきた。
スイカでも持ってきたのかな、と思った。
俺は、リキマルもいないし、帰るのが面倒くさかったので日守家に泊まっていたのだ。
後悔した。




