♯18 無題
私、ユーリ・グーデリアは生まれた頃より、不自由の無い生活をしていた。
金銭的な面は当然の事、グーデリア重工の社長令嬢という立場は、ある種、王族の姫君に近しい。地元住民だけではなく、一族経営故に社員である親戚縁者も、私に対してまるでご機嫌でも伺うかのよう、恭しい態度で接していた。
大人達は私に会う時は両手一杯に玩具やお菓子を抱え、顔を合わせれば満面の笑顔で必ず、私の何かしらを褒め称える。服装や髪型、顔立ちなどの外見は勿論、画用紙にクレヨンで書き殴った落書きや、適当に吹き鳴らす笛の音まで、彼らにとっては子供のご機嫌を取る恰好の材料だった。
親族のご機嫌伺いは、彼らの子供達にまで及んでいた。
友人関係を築ければ、一族内の立場が有利になると考えたのだろう。
特に男子ともなれば、上手く私に取り入る事が出来れば、許嫁候補に選ばれるかもしれない。そうすればゆくゆくは、グーデリア重工の次期社長の座を得る事が出来る。そんなあからさまな打算が、明確に見え隠れしていた。
そのような前提で築かれた友人関係など、正しく機能する筈がなかった。
予め親に言い含められていた子供達は、無邪気とは無縁な従順さで、私を崇め奉る。友達同士なんて言葉ばかりで、傍目からは女王様と下僕のような、明確な上下関係が浮き彫りになっていた事だろう。
週に一度、休日になればお遊び会と称して、親戚の子供達で集まる機会がまさにそれに当たる。
中にはそんな歪な関係を嫌って、私に対して反抗的な態度を取る子供もいた。
そういう子は決まって、次のお遊び会に来る事は無かった。
自ら私に会う事を拒んだのか、それとも大人達が引き離したのか。
その子の両親とも会う事は無かったから、恐らく理由は後者なのだろう。
都合が悪くなる前に、頭のいい連中が間引きしたのだ。
もしかしたら私の知らないところで、多くの親戚縁者が不幸な目にあっていたのかもしれない。子供のご機嫌一つで大袈裟かと思われるかもしれないが、権力者とそれに群がる人々の間には、往々にして起こりうる事態なのだ。
親戚縁者でそうなのだ。他の人間達にとっては、私はさぞ恐ろしく見えたに違いない。
なにせ私の機嫌を損ねれば、家族全身が路頭に迷う可能性だってあるのだから。
老若男女大人も子供も私を褒め称え、敬わない者は両親以外に存在しなかった。
まさしく私は、グーデリア重工のお姫様。
正直に言って私の言葉や行動一つで右往左往するのが、面白くて堪らなかった。
普通の生活をする人から見れば、悪趣味で愚かしい事この上ないのだろう。
だが、もっとも愚かしいのは、その状況に何の疑問も抱かず、蝶よ花よと育てられていた私自身だ。そうに決まっている。
私の言動で不幸になる人が生まれていたのなら、子供だったという言い訳は何の理由にもならない。無知が罪だと言うのならば、あの頃の私は罪の意味にすら気が付かない、愚かな罪人だったのだろう。
あるいは上辺だけを取り繕う親戚縁者を、心の底で蔑んでいたのかもしれない。
同じ穴のムジナだと言う事に気が付きもせず。
そんな救い難い私でもたった一つ自信を持って言えるのは、両親が大好きだったと言う事だ。
父は才覚に恵まれた人物で、祖父より引き継いだグーデリア重工を、数年で業界でも屈指の大企業へと作り変えた。他人にも自分にも厳しい人物だが、私は私や母に優しく、病的なまでに生真面目な父を尊敬してやまなかった。
母は関連会社の令嬢で、父とは幼馴染の関係。
令嬢だったと言っても、一般的にイメージされるお淑やかさとは無縁の人で、どちらかと言えば勝気で子供っぽいお転婆さを兼ね備えた、父とは正反対の人物だ。
几帳面な父と、大雑把な母。
ともすれば、相性が良いとは思えない二人で、婚約が発表された当初は、一部から猛反対があったと聞く。それらを全て黙らせ、結婚まで漕ぎつけるまでの苦労は、閉鎖的で陰湿な一族の内部を知る私だからこそ余計に実感出来た。
物心が着く前から共に過ごし、苦労の果てに結ばれた二人。
物語の出来事ならば、ハッピーエンドと共に幕が下がる所だろう。
しかし、人生という道に終わりは無い。当然の事だ。
結婚後、母は退職して本格的に家に入る事になった。
とは言っても、社長夫人という立場にいる以上、専業主婦のように家事だけをしていれば良いと言うわけでは無い。パーティーに招かれたりすれば、夫のパートナーとして付き添わねばならないし、逆に主催する場合は陣頭指揮に立って、全ての事柄を取り仕切らなければならない。
父が事業の拡大に乗り出した時期でもあり、若かった事もあってか、夫婦としての時間より圧倒的に、社長と社長夫人という立場で人の前に立つ時間の方が多かっただろう。
数年後、妊娠が発覚しても、状況は何一つとして変わらなかった。
周囲は身重な身体を気遣い、無理はするなと言ってくれたようだが、負けん気の強い母は誰よりも懸命に、自分の職務を全うしようとしていた。
今思えば、母は仕事を引退するという事に、未練があったのかもしれない。
無事に私を出産した後も、母の目まぐるしい日々は変わらない。
むしろ子供を理由に後ろ指を差されたくないからか、家事や育児に心身を削られながらも、社長夫人という立場を完璧にこなして見せていた。
それは母に対して好意的じゃない人間達ですら、ぐうの音も出ない程に。
一方で新しい事業が軌道に乗り始め、父にも余裕が出来始めたからか、私が四歳の誕生日を迎える頃、父と一緒に過ごす時間が急激に増え始めた。
夏季や年末年始などには長期休暇を取り、母と三人で旅行に出かけたりもした。
マークⅦを初めて見たのも、ちょうどその頃くらいだろう。
私の人生の中で家族と過ごした、一番幸せだった時期。この幸せが一生続けばいいとすら思わないほど、私は幸福に満たされていた。幼くして傲慢で身勝手な私が、無邪気に笑っていられたのは、父と母が側で笑っていてくれたからだろう。
そんな幸せが長く続かないだなんて、私は想像もしていなかった。
◆◇◆◇
社長に就任して以来、父にはとても優秀は秘書官が付いていた。
秘書と言えば女性のイメージがあるが、彼が担う仕事は社長の代行など非常に重要な職務ばかり。実質上、組織のナンバー2の立場にいると言って良いだろう。
その人は男性で、母と同じく父とは幼馴染の間柄だったそうだ。
性格を一言で表すなら、底抜けのお人好し。
生真面目な父とも、豪放な母とも違う彼は、人懐っこく優しい性格で両親は勿論、社内の人間からも信頼が厚かった。人柄も然ることながら、秘書官としても有能な人物で、父が多忙でも身体を壊さずにこられたのは、彼が全てのスケジュールを管理してくれたからだ聞いた覚えがある。
一方で優し過ぎる性格が、優秀さの足を引っ張ると父が零していた事もあった。
大企業ともなれば当然、綺麗事ばかりを語っているわけにはいかない。清濁を飲み下さなければならない場面が、往々にして訪れるわけなのだが、秘書官には弱者を切り捨てる判断がどうしても許せず、意見の相違で父と言い争う事も度々あったそうだ。
そんな時に間に入り、争いを仲裁するのが母の役目だ。
性格が違う三人だったが、この三人だったからこそ、上手く輪が回っていたのかもしれない。
父と母が結婚してからも関係は大きく変わらず、秘書官は度々、私へのプレゼントを両手一杯に抱えて遊びに来ていた。
「ほら、ユーリちゃん、プレゼントだよ。僕は女の子の好きな物とかわからないから、手当り次第買ってきちゃったんだけど……どうかな?」
「うん。ありがとー」
毎回毎回、凄い量のプレゼントが送られるので、置き場が無いと両親が苦笑していたくらいだ。
そんな秘書官の事を私は密かに……苦手に思っていた。
誤解を恐れずに言うなら、嫌っていたと言い換えても良いだろう。
優しくて人当りも良く、仕事も気遣いも出来る人物。お人好しな部分を覗けば、考えうる限り欠点らしい欠点が無い人間だったが、どうしても私は彼を好きになれなかった。
勿論、両親の手前、そんな素振りはおくびにも出さなかったが。
秘書官の家族は数年前に他界しており、本人は結婚はおろか恋人も存在しない。父は仕切にお見合いなどで家庭を持つ事を進めていたが、「僕は不器用な人間で、君のように過程と仕事を両立出来ないから」とやんわり断り続けていた。
それでも、家に帰ると一人という環境は、心に侘しいモノがあったのだろう。
暇を見つけては私の家に遊びに来て、両親の都合が付かない時は、父母の代わりに私を遊びに連れていったりしてくれた。
正直に言うと、二人きりで遊びになど行きたくなかった。
けれど、断る事は出来ない。断れば秘書官は遠慮してくれるだろうが、そうすると今度は父と母が悲しむからだ。お前に付き合ってやるのは、両親の為。子供のようにはしゃぐ秘書官を私は内心、高飛車な態度で見下していた。
そんな私の気持ちにも気づかず、秘書官は何時も嬉しそうに語りかけてくる。
「ユーリちゃん。ユーリちゃんは、将来何になりたいのかな?」
「パパのように、きかいのおしごとがしたい」
「……パパは好きかい?」
「うん。だいすき」
何を当たり前な事を聞くのだと、そう思う私を彼は、優しく頭を撫でた。
彼が私に過剰なまでに優しいのは、やっぱり私がお姫様だからだ。
無知で愚かな私は、秘書官の好意をそう自分勝手に理由づけていた。
あるいは無意識の内に、認めたく無い何かを感じ取っていたのかもしれない。
◆◇◆◇
数年後。
私が七歳になる頃、父は再び多忙になり休日でも顔を合わせる事の無い日々が続いた。
父が忙しくなれば、社長夫人である母もまた多忙になる。
大陸全土を駆け回る父に成り代わり、本社の業務を一手に引き受けていたのは秘書官で、名代として母も職場に出向く事が多くなっていた。
両親が家におらず、愛想笑いが張り付いたお手伝いさんとの生活が何日も続いたが、私は寂しいとは思わなかった。何故なら、父も母も家族を守る為、養う為に働いているのだから、子供の私が二人の帰る場所を守らなければ。
子供らしい責任感を、勝手に抱いていたからだ。
ある日、休暇が取れたという母と秘書官と共に、大陸の西海岸に旅行へ出かける事となった。
私的には父も一緒がよかったので、正直渋々というのは否めない。
秘書官が同行するのも気に入らなかった。
けれど、我儘を言えば困らせるのはわかっていたので、そこはグッと我慢しながら、にこにこと笑顔を張り付けて無邪気に二人と旅行を楽しむフリをした。馬鹿な秘書官は自分が懐かれていると勘違いしたのか、一人で大盛り上がりをしながら、私を楽しませる為に道化の如き振る舞いを、道中でも旅先でも繰り広げていた。
馬鹿みたい。
内心で嘲りながらも、私は笑ったフリを続けた。
横で楽しげに私達を見つめる母を悲しませない、ただそれだけの理由で。
私が異変を感じ始めたのは、五日が過ぎた辺りからだ。
この三人だけで旅行をする事は、さほど珍しくは無い。しかし、多忙な母や秘書官が、五日以上も仕事から離れるのは初めての出来事。最初の内は珍しい事もあるモノだと、深く考えはしなかったのだが、二日、三日と時が過ぎる内に、私の中での不信感がムクムクと鎌首をもたげてきた。
おかしい。何かがおかしかった。
旅行の時は、何時もニコニコと笑顔の絶えない二人なのに、今回は何処か口数が少なく顔色も優れなかった。仕切りに周囲の様子を気にしては、黒いスーツの人間が近づくだけでビクッと身体を振るわせ、通り過ぎると二人揃って安堵の息を吐き出す。
その癖に二人の様子を伺うと、憂いを帯びた眼差しで見つめ合ったりしていた。
私の視線に気が付くと慌てて繋いでいた手を離し、頬を紅色に染めたまま愛想笑いを向ける。
愛して止まない母を含めて、そんな二人が私はとても不快だった。
真夜中。
宿泊しているホテルで目覚めると、横で眠っている筈の母の姿が無かった。
「……ママ。どこ?」
旅行に得体の知れない恐怖を抱き始めていたからか、途端に強い不安感に襲われた私は、涙を堪えぐすぐすと鼻を鳴らしながら、暗い廊下を一人、母を探して歩き回っていた。
数十分。あるいは、ほんの数分だったのかもしれない。
自然と足が向いた先は、秘書官の部屋の前で、私は嫌な予感を抱きながら、鍵を閉め忘れたらしき扉を、音を立てぬようゆっくりと開いた。
そこから先の事は、あまり覚えていない。
思い出したくも無い。
ただ、鮮明に耳に残るのは、母の聞いた事の無い嬌声と、汚らわしい秘書官の息遣い。
気が付けば私は泣きながら、夜の闇に包まれたホテルの外へと飛び出していた。
背後からは悲痛な母の叫びが聞こえたようが気がしたが、背中を追いすがる嫌悪感を振り払うかのように私は走り、素足を小石などで切って血だらけになりながらも、憑りついた悪夢から逃げるよう、私は慟哭を響かせた。
偶然、夜間の巡回をしていた警察官が見つけ、保護される頃には私は力尽き、泥のように眠りに沈み込んだ。
それが、明けない悪夢の始まりだったとは、知る余地も無く。
翌朝、警察によって私に捜索願が出ている事と、母と秘書官が指名手配されている事実を知った。
罪状は未成年者略取。
旅行なんて嘘っぱちで、母と秘書官は私を連れ、駆け落ちしたのだ。
幼い私は事実を上手く理解する事が出来なかったが、二人が大好きな父親を裏切った事だけはハッキリとわかった。
そして泣いた。
大好きな母が、大好きな父を裏切った事実がただただ悲しくて、代理人が私を迎えに来る間、身体中の水分が全て出しきってしまうのではと思う程、私は泣き続けていた。
憔悴し家に戻った私を待っていたのは、酷くやつれた表情の父だった。
父は今にも泣きだしそうな表情をくしゃっと歪めると、私を力一杯抱き締めてくれた。
「……パパ。ママ、は?」
裏切った母は許せない。けれど、愛している事実が消える筈も無く、私の口から出た言葉はそれだった。
出来るなら、母を許してあげて欲しい。
贖罪が必要ならば、私も一緒に償うつもりでいた。
それでまた家族三人で笑える日が戻ってくるなら、こんなに嬉しい事は無い。
けれども、乾き切った父の唇から告げられた言葉に、頭の中は真っ白になる。
「ママは……あの女は死んだ。あの男と一緒に」
「……えっ?」
「わかるかい、ユーリ。私を裏切った二人は、心中したんだ。もう二度と、私達の前に現れる事が無ければ、私達に許しを乞う事も無い……二人の裏切りは、裏切りのまま終着したんだ」
「ママ、が……?」
「ユーリ。私にはもう、お前だけだ。信じられる存在も、愛する家族もお前だけ……だから、ユーリ。お前だけは、パパを裏切らないでおくれ」
「……うん。わたしは、パパをうらぎらない、よ」
唐突に訪れた母の死を受け入れきれぬまま、私は夢遊病者のような父の言葉に頷いていた。戸惑いと混乱に頭の中がぐちゃぐちゃになっていても、父を裏切らないという誓いだけは、確りと胸に刻まれていた。
だが、その誓いも長くは続かず、無残で無慈悲な疑惑の元に打ち砕かれる。
「ユーリは本当に、社長とあの女の子供なのか?」
誰が最初に言い出したのかは覚えていないが、一族の中に誰かが発した疑問は、水源に落ちた毒薬の如く、瞬く間に社内全土に広がった。
蝶よ花よと育てら、畏怖の対象であった私への視線が、ガラリと方向性を返る。
好奇と嘲りに下世話な妄想を膨らませ、密やかな噂話は明確な誹謗中傷へと変化した。
最初は否定して利く耳を持たなかった父も、内心では不安と疑惑を抱いていたのだろう。周囲に押される形となりながら、魔術を用いた親子鑑定を行う事に踏み切った。
結果は、父と私には血縁関係が無いというモノだった。
つまり、母と秘書官の間にあった不倫関係は、私が生まれる以前からずっと続いていたという証拠を、皮肉にも私自身の血が証明してしまったのだ。
事実を知って唖然とする私と父に、周囲はそれ見た事かとこれ見よがしに攻め立てる。
最初から反対だった。一族の恥さらし。これは大問題になるぞ。
昨日まで私や父、母の顔色を窺いご機嫌取りに終始していた連中が、こぞって手の平を返したかのように母の不貞を糾弾し、気づかなかった父を責め立て、不義の子である私を迫害した。
不倫の果てに生まれた忌み子。
スキャンダルを嫌う一族の総意で、その事実は隠蔽される事となったが、真実を知る者達にとって私達……いや、騙されていた父には、まだ同情的な面もあったが、私に向けられる視線はひたすらに冷たく白い。
重くのしかかる無言の非難に、私は逃げ場を求めるよう父に縋りついた。
「パパ、パパ! みんながわたしをいじめるの。おまえはふぎのこだ、いみごだって。ねぇ、パパ。わたし、いいこだよね? パパはわたしのこと、きらいじゃないよね」
「…………」
「ねぇ、パパ。なんでなにもこたえてくれないの? なんでこわいかおでわたしをみているの?」
「……ユーリ」
魂が抜け切ったかのような呟きと共に、頬に触れた手の感触を、私は生涯忘れる事は無いだろう。
血が通っていないのではと疑いたくなるほど、冷たい手が私の頬を撫でる。
「お前も、裏切り者だったんだね」
「……えっ」
その日を境に父の私への態度は一変し、父の中から人に対する優しさが消えた。
一族経営だったグーデリア重工を自身のワンマンへと方針を切り替え、全ての業務を自らの監視下に置いた。
当然、他の一族から反対の声が相次いだが、父はそれらを悉く封殺する。
それでも逆らう者がいれば徹底的なまでに叩き潰し、気が付けば社内の反対は全て駆逐され、父の独裁体制が築き上げられていた。
笑わなくなった父の私への態度は冷ややかで、直接的な暴力や罵倒の言葉こそ無かったモノの、失った愛情が向けられる視線に再び宿る事は無く、明らかな嫌悪感は私が歳を重ねる度により明確に、鮮明な憎悪となって降り積もっていた。
成長する度に母と、親友であった秘書官の面影の色が、強くなっていったからだろう。
何時か私は、父の殺されるのかもしれない。漠然と、そんな事を考える日々が続いた。
表面上は、社長令嬢という私の立場は変わらなかったが、家での扱いはまるで囚人のようだった。
学校に通うようになっても、私は友人を作る事を許されず、登下校は送迎によって管理され、休日はおろか一度自宅に戻ると、許可の無い外出は一切許されず、広い屋敷の中で事務的なお手伝いさん数人と、軟禁のような生活を続けていた。
お手伝いさん達も私と会話をする事は、固く禁じられていたのだろう。
必要最小限の言葉しか発する事は無く、此方の問い掛けに答えてくれる事など皆無。まるで、私の存在など見えてないかのように扱っていた。
当然、父がこの屋敷に帰って来る事は無い。
数ヶ月に一度、屋敷を訪れては私を私室に呼びつけ、その間にあった出来事を全て口頭で説明させる。どんな意図があったのかわからない私は、一方的に喋るだけではあったモノの、父と対面出来る事に喜びを感じ、何も無い日常の中で小石を拾い集めるように、小さな出来事を懸命に話して聞かせた。
例えそれが、私が懸命に拾う小石を、先んじて回収する為の調査だったと、後に気づいたとしても。
私が十二歳になった頃、学校で始めての友達が出来た。
生活の全てを管理されている私には、友達を作る猶予など無かったし、原因は知らずとも私が父から疎まれているのは既に噂になっていたのだろう。保身の為、進んで私と接して来る人間は教師を含めて、誰も存在しなかった。
そんな中、私は一人の少女と出会う。
きっかけは授業中、落とした消しゴムを拾ってくれたという些細な出来事。
彼女もまたクラスで孤立する私を、以前から気にかけてくれていたらしく、それをきっかけに向こうの方から、積極的に話かけてくれるようになった。
会話に餓えていた私は、正直嬉しかった。
同時に不安も抱いてしまう。彼女に、何か迷惑をかけてしまうのでは無いかと。
「もう、私にあまり話かけない方がいいわ」
「えっ、どうして? もしかして迷惑だった?」
「ううん、嬉しかった! ……とっても嬉しいけど、私と話していると、貴女にまで周囲から変に見られてしまうかもしれないから……」
「そんな事考えてたの? ハハッ、ユーリちゃんは考えすぎだよぉ!」
そう言って、彼女は朗らかな笑みを私に向けてくれた。
私が通っている学校は、いわゆるお嬢様学校で、周りはグーデリア重工の関係者が多い。だから、私が内部で微妙な立場にいる事を知っていて、面倒事を避ける為に私をいないモノと扱っていた。
しかし、知り合った少女は、外部からの特待生。
貧しい農家の生まれらしく、私とは別の意味で学校内では浮いた存在だった。
グーデリア重工内のしがらみとは無縁の彼女は、しり込みする私の手を積極的に取り、時間が許す限り二人で過ごした。時には使用人の目を盗み、二人で町に出かけたりしていた。
彼女と時を過ごす内に、私は久しぶりに笑う事を思い出したのだ。
ある日、屋敷を訪れ私を呼びつけた父は、開口一番に彼女の事を問い質した。
決して怒っているわけでは無く淡々と。けれど、口にすれば彼女に迷惑がかかると思い、私は何も言わずにその日は終わっていった。
一週間後、少女ははにかんだ笑顔で、私に頭を下げ礼を述べてきた。
「ありがとう、ユーリちゃん」
「えっ? なにが?」
「娘と仲良くしてくれたお礼だって、腰の悪い父ちゃんの為に、凄く利く塗り薬を送ってきてくれたんだ」
「……パパが?」
「うん。最初は断ろうと思ったんだけど、そんなに高いモノじゃ無かったし、父ちゃんも腰が大分楽になったって言ってたからさ。とても嬉しくって」
「そう、パパが……そうなんだ」
少女の嬉しそうな言葉に、私は例えようの無い喜びを噛み締めていた。
たった一人の友達である少女が、喜んでいるのは勿論嬉しい。それ以上に嬉しかったのは、父が私に友達が出来た事を良かったと思ってくれていた事実だ。
私はその場で、涙を流して父に感謝し、疑った事を謝罪した。
翌月。私を訪ねて来た父に、私と少女の出会いから現在までを、喉が枯れるまで語り尽くした。今はまだ、私に微笑みかけてくれなくても、何時の日か昔と同じように、私を愛してくれると信じて。
その証拠に自由な時間も増え、以前より長く少女と過ごせるようになっていた。
しかし、それは父の私に対する罠だった。
最初に異変を感じたのは、少女の制服が新調された事。
貧しい家柄の彼女は、制服を複数用意する事が出来ず、一張羅を何度も選択肢、解れれば修復して着まわしていた。けれども、少女はある日、何の前触れも無く真新しい、ピカピカの制服を着て、学校に登校して来たのだ。
そして私の元に駆け寄ってくると、手を握って礼を述べてくれた。
「ユーリちゃん。ユーリちゃんのお父さんに、お礼を言っておいて貰えるかな。新しい制服、ありがとうって」
なんだそうだったのかと、私の疑問は直ぐに氷解した。
確かに思い出してみれば、彼女が制服を一着しか持ってなくて大変そうだと、父に喋った事があったからだ。
それからも、少女の変化は続いた。
休日も一緒に遊べるようになり、少女と出歩く機会が増える。
当初は飾り気の無い簡素な服装を着ていた少女は、最初は同じタイプの新しい洋服に始まり、生地が上等なモノになり、徐々に高級な服へと変わっていった。気が付けば彼女には少し似つかわしく無い、派手な服装を好んで着込むようになっていた。
服装だけでは無く、以前は無縁だった指輪などアクセサリー類も、身に着けるようになる。
見せびらかすように宝石が煌めくブレスレットを眺める彼女に、私は戸惑い気味に問いかけた。
「それ、どうしたの? もしかして……」
「ん? 違うってユーリ。最近、実家の農家に大口の契約が来て、お金に余裕が出来てきたのよ」
「そう、なんだ。ふぅ~ん」
「だから、お小遣いも増えたってわけ。もう昔みたいな貧乏人じゃないのよ?」
周囲への劣等感が払拭された影響か、少女は以前より自信に満ち溢れ、社交的になっていた。
実家の方の農業も順調らしく、規模が大きくなるにつれ少女はより豪奢に、大胆に変化していく。気が付けば私と同じ浮いた存在の筈の少女は、多くの友達と言う名の取り巻きを引き連れ、学年でも目立つ存在へと変わっていった。
恰好だけでは無く、口調も大分変り、彼女に対する良く無い噂も耳にした。
それでも彼女と私の友情は変わらないと、私は必死で信じていた。
「ねぇ。私達、親友だよね?」
「ん? ……あ~、そうね。そうそう。私とユーリは親友だって」
教室でマニキュアを塗りながら、上の空で答えた言葉でも、私は信じて縋りつくしかなかった。
弱い私。一人になるのが嫌で、私は張り付いた作り笑いを彼女に向ける。
幼い頃、私のご機嫌を取る為に、本心に無いおべんちゃらを並べる親類達と同じ顔をして、私は嫌われないよう、捨てられないよう、神経が磨り減る思いで笑い、煽て、プライドを溝の中にかなぐり捨てた。
その頃には既に、友人関係という形は崩壊していただろう。
大勢の取り巻きを率いる彼女の、たった一人にしか過ぎない。
いや、彼女達にとって私は、家柄だけの都合の良い奴隷だったのだろう。
命じられるまま、道化の真似だって笑いながらやって見せた。
そんな自分が惨めで、鏡で顔を見る事すら嫌だった。ストレスで食べた食事を、吐き出した事もある。
今日は何かが変わる筈。明日こそは違う出来事が起こる筈。
根拠の無い思い込みの中、嘲笑と失笑、嫌悪と憐憫に心身を削られ続けながら、私は岩に齧りつくよう日々に耐えていた。
母を失った時と同じよう、終わりは唐突にやってくる。
ある日の放課後、忘れ物をした私は迎えの自動車を外に待たせたまま、教室へと戻っていった。
良く晴れた日で、燃えるような夕焼けが、教室全体を真っ赤に染めていた。
残っていたのは彼女と、取り巻きが二人。
話の邪魔にならないよう、音を立てないよう静かに扉を開くと、聞く気も無しに会話が耳に届いてしまった。
「……ねぇ。あのお嬢様、何時まで一緒に連れて歩くの? 何やってもへらへらして、正直気持ち悪いんだけど」
「そうそう。弄られキャラなんて言えば聞こえはいいけど、あそこまで何でも言うこと聞くとドン引きだよねぇ」
ワイワイと自分らしき人物の話題で盛り上がる取り巻き達は、意見を求めるようミニスカートで、大胆に机の上で膝を組む彼女に視線で意見を求めた。
彼女は興味無さげに綺麗に染髪された髪の毛を、気怠そうに指で弄る。
「ああ、アレね。ペット替わりに側に置いておいたけど、そうね。最近はアイツの親父から貢物も無くなってきたし、捨てちゃおっか」
「だったらさ! 派手にやっちゃおうよ。あたし入学した当初から、金持ちだからって偉ぶってるあの女が気に入らなかったのよね……例えばさ……」
「ええ~!? それ鬼畜ぅ。そんなことされたら、人として終わっちゃうよねぇ」
「いいんじゃない? 苦労知らずのお嬢様なんだから、それくらい。苦労は買ってでもしろって言うでしょ?」
得意げな彼女の姿に、取り巻き達はケラケラと無責任に笑う。
聞くだけでもおぞましい、醜悪な話題に花を咲かせながら。
私の中で、何かに罅が入るような音が聞こえた。
「ひっどいわぁ……一番の友達だったんじゃないの? 親友とか呼ばれてたし」
「冗談は止めてよ」
不快そうに、彼女は髪を掻き上げた。
「最初は親切心で構ってやってたけど、調子づいて犬みたいに擦り寄ってさ。真面目な話、ずっとウザいって思ってたのよ……まぁ、生まれが生まれらしいから、仕方ないのかもしれないわね」
「生まれ? どういう意味よ」
嘲り混じりの言葉に、取り巻き達は不思議そうな表情で食い付く。
扉に手をかけたまま、凍りついたように動けない私の心臓が、ドクンと鼓動を高めた。
誰にも喋らなかった私の秘密。親友の彼女だから明かした私の秘密を、何も気負う事なく雑談のついでのようなノリで、彼女は唇を滑らせていた。
「母親と浮気相手の間に出来た子供だから、他人に媚びるのが得意なんじゃない?」
「――ッッッ!?」
目の前が真っ白になり、心臓が張り裂けそうなほど血が沸騰した。
世界から音が消え、勢いよく開いた扉に驚いた三人の顔だけは、妙に鮮明に覚えている。
瞬間、息を飲むような様子を見せるモノの、彼女は姿を現したのが私だとわかると、何故か安堵の表情を見せた。
私なら幾らでも言い含められると思ったのだろう。
得意げに何かを語るが、一つとして覚えていなければ、耳にすら届かなかった。
机から降り私を宥めようと近づく彼女の顔に、私は全力で拳を叩きつけた。
音は届かなかったが、両サイドにいる取り巻き達が悲鳴を上げるような素振りをするのを一瞥してから、鼻から血を流し膝を突く彼女を押し倒すようにして、私は馬乗りになって拳を振り上げる。
顔を血に染め、鬼のような形相で罵詈雑言を浴びせかけるが、全てを無視して拳を叩き続けた。鼻の軟骨を砕き、前歯を叩き折り、その一部が拳の皮膚を裂いて、真っ赤に染まる彼女の血と私の血が入り混じった。
逃げ出した取り巻きが呼んだ教師が助けに入るまで、私は泣き叫びながら拳を振り下ろし続けた。
その後の事はよく覚えていない。
気が付けば私は、暗い自室の隅で膝を抱いて蹲っていた。
悪夢なら醒めろと泣きじゃくっても、包帯の下から感じる、燃えるような痛みが、今の状況を現実だと容赦なく叩きつける。
浅い眠りを繰り返し、何度も死にたいと呟く私の前に、何時の間にか父が立っていた。
父は以前より少しやつれた表情と死人のような顔色で、蹲る私を見下ろす。
「友達が好きだったか?」
「……うん」
「裏切られて悲しいか?」
「……うん」
「そうか」
言葉を切り、父は腰を曲げて私の顔を近づけた。
「ざまぁみろ」
感情の乗らない一言と共に、父は部屋から出て行った。
その時に私は全てを察した。
彼女や彼女の実家の変化は、全て父が仕組んだ事。
警戒心を抱かれぬよう礼と称して安い代物を渡し、弛んできた頃を見計らって、実家へと働きかける。真綿で首を絞めるよう、ゆっくりと浸食していく豊かな生活が、彼女の心を溶かす。貧しさを知る故に一度覚えた贅沢を失う事を恐れ、より強く金や権力に執着するようになったのだろう。
父が策略を用いたわけでは無い。
何故なら、誰も不幸になったわけでは無いから。
彼女が特別、強欲だったわけでは無い。
人が弱いのは、私が一番知っているから。
愛していた母と、信頼していた親友に裏切られた父は、行き場の無い憎しみを忌み子である私にぶつける事で、辛うじて自身を繋ぎとめていたのだ。
子供染みた所業、逆恨みに思えるだろうが、行き場の無い復讐心は鋭利な刃物のように私を削ぎ取り、心を完膚無きまでに打ち砕いた。
誰も信じられない。父も、母も、親友も。
以前より頑なに心を閉ざし、私は灰色に染まる日常へと戻っていく。
暴力事件を起こしながら、何の咎も無く戻ってきた私に、誰もが無関心を装う中、久しぶりに座る席の隣には、かつて消しゴムを拾ってくれた、親友と呼んだ彼女の姿は無かった。
事件以降、どうなったのかは知らないし、知りたいとも思わない。
磨り減るべき精神も砕け散り、私は空虚な心のまま、灰色の日々を生きる。
見上げる空はどんなに青くとも、手が届かない事を苦しいほど痛感しながら。
それでも空に焦がれる残滓が胸の奥の残るのは、遠いあの日、父と母と見上げた青空が、あまりに美しかったからだろう。