♯17 何も起こらない日の夜
デートと言う名の散歩は、日が暮れる前につつがなく終了した。
特に何か大きな事件も、心の深く刻まれる思い出深い出来事も無く、駅周辺をグルリと回り軽く食事だけをするだけの、至って平凡なお出かけ。これがキャシー相手だったら、途中で頬を膨らませ、涙目で拗ねているところだろう。
あえて出来事を上げるとすれば、銀製の懐中時計を買い与えたことだろうか。
それも実際には物が壊れているので、修理してから渡すつもりだから、現時点でユーリの手元には形として残る物は何も存在していない。
デート終了後、二人でブリュンヒルデに今日一日の事を報告した。
格納庫内で作業していた彼女は、報告を聞いている最中も仕事の手を一切緩めず、エルフ特有の長い耳だけを此方に向け、一応は報告を聞いてくれていた様子。駄目出しの一つも飛んでくるかと思いきや、聞き終えたブリュンヒルデは「そうか」と短く頷いただけで、何も言わず黙々と作業に戻っていった。
彼女から言い出した事なのに、何とも腑に落ちない終わり方だ。
技術者として魔導機兵の事を第一に考える人物なので、今回のデートがバッドラックの機嫌を良くする事が目的なら、ブリュンヒルデの口から追加の注文が出なかった事は、思惑通り事が進んだ証拠なのだろう。
楽しかったかと聞かれれば、ジョウは「まぁ、悪くは無かった」と答える。
特別は何も無い、今日を象徴する言葉かもしれない。
そして何も無い一日は、もう少しだけ続く事になる。
★☆★☆★☆
夕食後が終わり、時刻は深夜を回る。
何故か気合の入った格好をしたキャシーからの、飲みの誘いを断り一人宿の自室に戻ったジョウは薄暗い室内の中、スタンドランプで照らされた、備え付けてあるテーブルの前に腰を下ろしていた。
テーブルの上には銀製の懐中時計と、工房で借りてきた修理工具が並んでいる。
「さて。始めるか」
手を擦り合わせてから、テーブルの上に布を広げ懐中時計を手に取った。
蝶番になっている蓋の反対側に突起があり、その下にある僅かな隙間にこじ開けを差し込むと、自然に中蓋が外れて中の機械部分が露わとなる。
複数のギアが重なりあったムーブメント。
計算され尽くした動作機構は繊細で美しく、魔術の基礎に通ずるモノがあった。
惜しむべきは経年による劣化で、歯車の歪みや軸のブレが様々な箇所で見られる事だ。
しかし、逆の言い方をすれば、型通り目に見える部分しか劣化していないので、それらを交換、修復すればまた元通りに時を刻む事が出来るだろう。
「これなら、修理は難しくは無さそうだな」
手慰み程度に出来るとはいえ、本格的な修理は無理だったので、ユーリに自慢げに語った手前、これにはホッと胸を撫で下ろした。
元々の持ち主が、大切に扱っていた証拠だろう。
「さぁて、と……部品も社長に集めて貰った物で、足りる……かな?」
小さな部品に目を細め、指を差しながら確認をする。
布で作られた包みを開くと、中から懐中時計の部品らしき小さな歯車が複数入っていた。
これだけあれば、修理には十分だろう。
「それじゃ、一つヌルッとやってみますか」
気合を入れると、ジョウは分解した懐中時計を広げた布の上に置く。
工具の中からピンセットを手に取り、まずは破損した部品を取り除く為、スタンドランプで影を作らぬよう気をつけながら、背中を丸めて他の部分を傷つけぬよう、集中するように目を細めた。
カチカチと小さな音だけが鳴り響く。
細かい作業をしているから、手元が狂わないよう呼吸するのにも気を遣い、室内は軽い緊張感と沈黙に包まれた。
小一時間ほど、時計を弄っていただろう。
想像以上に仕掛けが細かく、四苦八苦していたジョウは、気分を切り替える為に曲げていた上半身を元に戻し、溜めていた息を吐き出す。
久しぶりの機械弄りだからか、全然上手くいかない。
「これは、思ってたよりしんどいな」
目頭を指で強く揉み込みながら、霞む視界を解す。
ずっと同じ態勢でいた所為か、背中から肩にかけて鈍い痛みが走る。凝ったという程では無いが、錆び付いたような上半身の筋肉を緊張感から解き放つ為、大きく伸びをしてから身体を左右に捻る。
これだけでも、大分身体が楽になった。
軽い疲労を感じるが、初めて早々に投げ出すわけのもいかない。
「もうちょっと、目途が立つまではやらなきゃな」
自分から引き受けた手前、出来ませんでしたじゃ恰好が悪いのもある。
バッドラックの修復が完了するまでは、特に急いでやるべき事も無いので、感覚を取り戻す意味でも、このまま作業を続行する事にした。
「今夜中とは言わないが、せめてもう少し切りのいいところまで頑張るか」
普段はあまり見せないやる気を滲ませる自身に、軽く呆れながらも、工具を手に取り再び時計の修理に取り掛かろうとした。
部屋の扉が、控えめにノックされる。
「……ん?」
手を止めたジョウは、反射的に扉の方を向くと、再びノックの音が鳴る。
こんな時間に、一体誰だろうか?
訝しげな顔をするが、続くノックを無視するのも邪魔臭いので手の取った工具を置き、椅子から立ち上がって扉の方へ向かう。
「はいはい。どちらさんですか?」
面倒臭そうな口調と態度で、扉の鍵を外す。
どうせキャシー辺りが、酔っ払って押しかけてきたのだろうと予想していたが、扉を開けた先に立っていた人物に、思わずギョッと目を見開いた。
来客は気まずそうな上目遣いをジョウに向ける。
「お嬢?」
「その……少し、いいかしら?」
固い口調でお嬢。ユーリが言うと、緊張を誤魔化すよう自分の髪の毛を撫でた。
服装は昼間と同じセーラー服だが、シャワーを浴びてきたらしく、ほんのりと石鹸の香りが鼻孔を擽る。
ジョウは何も答えず、眉間の皺を深くしてユーリを見下ろす。
反応が無い事に不安を覚えたのか、ユーリは戸惑ったような表情を浮かべた。
「あ、あの……?」
「夜這いか?」
「――違いますッ!」
眉を吊り上げて睨み付けてくるが、直ぐに視線を泳がせてしまう。
昼間に引き続き、何時もとは違う様子に調子を狂わせながら、ジョウは鼻から軽く息を抜く。
「どうした。子供はもう寝る時間だぞ」
「失礼な事を言わないで、私は子供じゃないわ。子供だとしても、まだそれほど遅い時間帯じゃない」
「そりゃ失敬。最近の子供は夜更かしだな」
茶化しながら肩を竦めてから、改めてユーリを見下ろす。
「で? 俺に何か用か?」
「用ってほどでは無いのだけれど……その。少し、話がしたくて」
チラチラと、此方を伺うような視線を向ける。
これまた予想外の言葉に、ジョウは直ぐに口が開けず、逡巡するように言葉を濁して頬を掻く。
最初に口に出したのは、自分らしくない正論だった。
「……夜中に男の部屋を訪ねるのは、あまり健全とは言い難いんじゃないのか?」
「その点では信用しているわ。実際、今までも何も無かったわけだし」
ここまでの旅路、短い期間とはいえずっと二人きりだったのだ。間違いが起こるとしたら、とっくに起こっているだろう。
逆に言うなら、最初の方は信頼されていなかったように聞こえる。
問い返してみると、何を今更とでも言うよう怪訝な顔をされた。
「当然に決まってるじゃない。今だから言うけど、最初の何日かは怖くて、殆ど眠る事も出来なかったのだから」
強気を装っていても、ユーリは十代の少女。見知らぬ人間と旅をする事に、抵抗もあれば恐怖も感じていただろう。もしかしたら、乗り物酔いで体力が削られていなければ、脱走事件など余計な面倒事を引き起こされていたのかもしれない。
安堵すると同時に、気が回らなかった事を少しだけ申し訳なく感じる。
「それで話なのだけれど……させてくれるのかしら?」
「ま、夜更かしにならない程度にな」
そう言ってユーリを導くよう、半開きだった扉を完全に開いた。
ユーリはほんの僅かだが、唇の端を綻ばせた。
「どうも」
軽く礼を述べてから入室するユーリに続き、ジョウも扉を閉めて部屋へと戻る。
部屋の真ん中で立ち止まったユーリは、落ち着かないのか仕切りに周囲をキョロキョロと見回していた。
表情も何処となく、緊張感が増しているように思えた。
私物など置いて無いから、幾ら見回しても自分の部屋と同じだろうに。
何しに来たんだかと疑問に思いつつ、ジョウは直前まで座っていた椅子に座り直した。
「適当に座ってくれ。それと悪いが、俺はやる事があるから、話は作業を続けながらにさせて貰うぞ」
「作業?」
忙しなく動かしていた首を止め、椅子に座っているジョウの背後から、スタンドランプで一際明るく照らされているテーブルの上を覗き込んだ。
広げられた布の上に分解して置かれた懐中時計に、驚くよう息を飲み込む。
「それって……昼間の懐中時計?」
「ああ、そうだ」
「……本当に修理出来たのね」
心底驚いたかのような声に、ジョウはガクッと肩を落とした。
似つかわしく無いのは自分でも理解しているが、他人に改めて指摘されるのは、何だか納得いかない部分がある。それに対して声を荒げて反論出来ないほど、腕が鈍ってしまってはいるのだが。
一端会話が途切れると、室内にはカチャカチャと工具を動かす音だけが響く。
薄暗い部屋に男性と二人きりという状況に、ユーリは居辛さを感じるらしく、そわそわと忙しなく動く気配だけが背中越しに伝わってくる。
物音を立てて無いのは、作業をするジョウに気を使っているからだろう。
「えっと……そこを、少し借りるわ」
ユーリが向かい腰を下ろした場所は、部屋に一つしかないベッドだった。
少し固めのスプリングが軋む音に、作業の手を止めたジョウは何のつもりだと、呆れる横目を向ける。
「やっぱり、夜這いだったのか?」
「ち、違うと言っているでしょう! ……距離が遠いと、話し辛いと思っただけよ」
腰のかけられそうなのは、後は小さなソファーがあるのだが、今ジョウが座っている場所とは反対側にあるので、確かに話をするにはちょっとばかり遠い。
ソファーを移動させればいいだけの話だが、面倒なので指摘はしなかった。
ベッドの上に座り会話をする形は整ったが、一向に口を開こうとしない。
正確には言葉を発する為、口を開きかけはするのだが、途中で諦めたように唇を閉じてしまい、代わりに湿っぽいため息だけが何度も漏れ聞こえていた。
何をやっているんだか。
視線を懐中時計のムーブメントに向けたまま、内心で嘆息する。
「……昔な」
「えっ?」
見兼ねて、ジョウは態勢をそのままに、静かな口調で語り始めた。
「俺が初めて魔術の基礎を習った時、師匠に教わったのは、ひたすら機械を分解して組み立てての繰り返しだった」
興味を惹かれるかのよう、ベッドが大きく軋む音を奏でる。
此方に耳を傾けているのを気配で察しながら、ジョウは工具を操る手を止めずに続けた。
「最初は意味がわからなかった。それまで俺は機械を壊す事はあっても、順序だてて分解する事も、組み立て直すのもやった事が無かったから、当然、上手くいくはずも無かった。けど、師匠の言いつけだから仕方なく、朝から晩まで。酷い時は三日三晩、不眠不休でやらされていた」
語りながら、何故、自分はこんな事を喋っているのかと自問自答する。
昔の事。ギルド空撃社に入る前の事は、出来るなら思い出したくも無い。しかし、頼りなさげな表情で、恐る恐る前へと踏み出そうとしてるのに、最初の一歩が踏み出せないユーリを見ていると、自然と何かを語らなければという気持ちになっていた。
散々冷たくあしらっておいて、結局のところジョウは、彼女に情を抱いてしまったのだ。
「慣れってのは不思議なモンで、ネジ一つ外すのにも苦労していたのに、一週間も立てば詰まる事なく分解出来るようになっていた。更に一週間後には、手順を確認する必要なく組み上げられるようになった。そうなると単純なモノで、嫌で嫌で堪らなかった修業が、途端に楽しくなっきやがる」
「どんな物を分解したの?」
「色々さ。子供の玩具からラジオ、用途のわからない機械類まで。最終的には、分解するだけなら自動車だって、一人でバラバラにする事も出来たんだ」
当時の高揚感を思い出してか、自然とククッと笑みを零す。
それがユーリには楽しげに見えたのだろう。
不思議そうな表情で、小首を傾げた。
「凄いとは思うけれど、それって楽しいモノなのかしら? 設計図を眺めている方が、よっぽど機械に対する理解が深まると思うのだけれど」
「そりゃ、見解の相違だな」
ユーリらしい物の考え方に、ジョウは苦笑を漏らす。
「魔術でもっとも大切なのは、理論の構築だ。正しい手順を踏んで初めて成立する魔術論を、知識としてでは無く感覚として身に着けるには、この方法がもっとも確実なのさ。おかげで、ちょっとした機械類の修理なら自分で出来るようになったから、修理代が浮いているのさ」
「その理屈で言うなら、別に数学でも良かったんじゃないかしら」
「最初に数学の教科書渡されてたら、一時間で逃げ出してる自信があったね」
「……なにそれ」
呆れたような、それでもちょっと楽しげな色をユーリは言葉に滲ませる。
ジョウも緊張が解れる気配を肌で感じ取り、頬を緩ませながら懐中時計を修理する手を動かし続けた。
話し終えると室内に再び沈黙が宿るが、気まずい雰囲気は払拭されている。
右手に持つ工具をピンセットに持ち変え、割れたゼンマイを砕けないように慎重に掴み、横へと捌けてから、ふぅと長く息を吐き出した。
妙に力が入ってしまうのは、横から見つめられている気配を感じるからだ。
視線の主は当然、ベッドの上に腰かけるユーリ。
先ほどまでの落ち着かない様子から打って変わって、普段通りのクールな雰囲気を身に纏い、黙って作業をしているジョウを見守っている。いや、普段より気配は幾分柔らかく、刺々しさが薄れていたから、見つめられて力は入っても、嫌な緊張感は無かった。
それでも視線を感じる事自体には、少しばかりやり辛さを感じるが。
暫く無言の状態が続くと、不意に何かがベッドに倒れ込むような音が聞こえた。
反射的に横目で確認すると、ユーリが座った態勢のまま、横に寝転んだのだ。
「おい。寝るなら自分の部屋に戻れ」
「……ねぇ」
ジョウの声を遮るように、ユーリが言葉を重ねる。
「少し、私の話を聞いて貰えるかしら?」
「…………」
「いいえ、聞いて欲しいの。他でも無い、貴方に」
「…………」
夜の静寂の中、懐中時計を弄る音だけが響く。
寝そべっていても、横からは強いユーリの視線を感じる。
弱々しいが縋りつくような脆弱さでは無く、自身の弱さに向き合い噛み締めるような、そんな視線だった。
「……好きにしろ」
「ありがとう」
小さくか細い声に、ユーリは思いを込める。
深呼吸するように瞳を閉じて、数秒ほど沈黙してから目を開き、ゆっくりと言葉を紡ぎ始めた。
吐息混じりの声には躊躇いが。
震える唇を抑え付ける力強い意思に押され、ユーリは淡々と語り始めた。
自らの過去と傷と。、への渇望を。