♯1 運の悪い男・前編
男が最後に見た光景は、涙で顔をぐしゃぐしゃにした少女の姿だった。
胸から血を流し仰向けに倒れる男の頭を膝に置き、外聞も無くしゃくりあげながら、熱い雫を溺れてしまいそうなほど,止めどなく顔に降り注がせていた。
あまりに悲壮感丸出しに悲しむモノだから、風穴の空いた胸がチクリと痛む。
しょうがねぇなぁと言いながら、涙の一つも拭ってやりたいが、残念なことに指先一つ動かすこともままならなかった。
記憶の中の少女は、何時も不機嫌な表情を晒していた。
楽しい時は気恥ずかしさから、悲しい時はプライドの高さから。
何時だって少女は感情を押し殺したような仏頂面だ。
それが今日は感情を露わに泣いている。死に逝く男を悼んで、涙を流してくれている。
失いつつある視力では表情はちゃんと確認出来ないが、首にぶら下げる懐中時計が揺れているのだけがわかった。
死に際に残すモノなど無いと考えていた男は、一つだけ情けない未練を残した。
男は別に死ぬことが怖いわけでは無い。
ただもう少し、後僅かな間だけ、この少女の行く末を見守ってやりたかったと、今際の際にらしくないことを考えてしまった。
全く、格好がつかないなんてモンじゃない。
傷の痛みは殆ど無く、倦怠感から強い睡魔に襲われている。
血を流し過ぎた所為か身体も酷く冷える。
視界は歪み、泣き声だけが聞こえていた耳も、段々と遠くなっていく。
これでお終い。
感慨の一つも無く、男の人生は幕を閉じようとしていた。
ただ、終わるにしてもまだ死ぬには勿体ない頃合いだ。
「……あ」
辛うじて動く唇から、か細い吐息のような言葉が漏れ落ちた。
驚いたのか、少女の泣き声が小さくなる。
ぼやける視界の向こうで、少女の唇が問いかけるように動いた気がした。
「……たば、こ」
乾いた喉に引っかかるような、掠れた声を絞り出す。
「悪いが、煙草を一本……咥えさせてくれないか」
それを言うだけでも体力を消耗し、男は苦しげに息を荒げた。
少女な何かを一言呟いてから、男の着ているジャケットの内ポケットをまさぐり、煙草の箱を引っ張り出す。
血で汚れ潰れた箱から一本取り出すと、口に咥えさせてくれた。
少し遅れて煙草の先に熱を感じたので、張り付く喉を唾液で湿らせてから、咥えたフィルターをゆっくりと吸い込む。
肺を満たす不健康な満足感に、男は思わず咳き込みそうになった。
「……ふぅぅぅ」
込み上げる咳を何とか堪えて、口から紫煙をたっぷりと吐き出す。
血が足りてない所為で頭がくらくらするが、ようやく一心地ついた気がした。
心残りは煙草の紫煙と共に、灰となって真っ白に燃え尽きる。
それでいいじゃないか。
後は最後の瞬間まで、膝の温もりと煙草の煙を楽しもう。
酒でもあれば尚喜ばしかったが、そこまで求めるのは贅沢過ぎるか。
少女の泣き声を肴にするのは趣味が悪いので、別な物で代用する。
つまらない過去の思い出でも振り返りながら、粛々と最後を迎えるとしよう。
★☆★☆★☆
寂れた港町に、べた付いた潮の香りに満ちた風が吹き抜ける。
かつては夏に行われるヨットレースで栄えたこの町も、今は古びた漁船が荒れ果てた港から、日に一、二回漁へ出る程度。観光客はおろか、住人の数より無駄に増えた海鳥の鳴き声が煩い町に、訪れる奇特なよそ者など数える程しか存在しない。
たまに訪れたとしても、どいつもこいつも胡散臭い恰好に、胡散臭い面をぶら下げた、胡散臭い無法者ばかりだ。
無法者の集まる町。
それだけで、どれだけ碌でも無い場所か理解が出来るだろう。
どんなにボロボロな酒場でも、町に酒が飲める店がそこ一軒なら、嫌でも人が集まる。
昼間は食堂も営んでいるようだが、住人達の懐具合は寂しいのか、店内には常連らしき老人が二人、昼間から酒に酔いながら思い出話に花を咲かせていた。
見慣れた常連しか訪れない店の隅に、見慣れぬ来客が一人、異質な雰囲気を漂わせる。
近年、一般に普及し始めた電話機の前に立つのは、ジャケットを着た黒髪で背の高い細身の男。
受話器を耳に添える男は、苛立つように壁を拳で叩く。
「おいおい、冗談は止めろよキャシー。俺ぁ物見遊山でこんな辺鄙な港町に来たわけじゃないんだ……納得のいく説明くらい、して貰えるんだよなぁ?」
青年は唾を飛ばしながら受話器に向かって凄むと、他の客達は何事かと此方に驚きの視線を向けた。
受話器の向こうからは、聞きなれたアダルティな女性の声が聞こえる。
しつこく食い下がるジョウが面倒なのか、息を付く音が鮮明に耳まで届く。
『ジョウ。ねぇ、聞いてジョウ。そりゃ、依頼した仕事がこっちのミスで飛んでしまったのは謝るわ。けれど、電話口でそれをやいのやいの言われたところで、もうどうしようも無いことなのよ』
子供に言い聞かせるよう、キャシーは一音一音、ハッキリと口にして説明する。
ジョウが露骨な舌打ちを鳴らすと、また向こうから息を吐く音が聞こえた。
『もうっ。あんまり我儘言ってると、私も怒っちゃうわよ。今回は相手の方が一枚上手だった。それで、納得して貰えないかしら。そうしたら私も貴方も、次のお仕事を気持ちよく迎えられるじゃない。ね?』
「女学生じゃあるまいし、いい年こいて気持ちの悪い声を出すな」
懐柔しようと猫なで声をするキャシーを、冷たい口調でバッサリと切る。
瞬間、癇癪を起したのか、何やら派手に物が割れる音と金切声が響いた。
「怖いねぇ。女のヒステリーってのは」
受話器から耳を離しながら、ジョウは肩を竦めた。
目の前に本人がいれば、大抵の男なら色香に惑わされているだろうが、生憎と声しか伝わらない電話のみの会話。それに、キャシーとは長い付き合いだ。見てくれだけで、中身が如何にずぼらか知っていると、ネグリジェで誘われても断れる自信がある。
『……今、物凄く失礼なこと考えなかった?』
「いや、気のせいじゃ無いか?」
戻した受話器から聞こえる怒りに震える声に、すっ呆けた言葉を返した。
喚き散らしても、失った仕事が戻らないことは、ジョウも理解している。
無駄な文句だとわかっていても、言わずにはいられない人の性だが、同時に八つ当たりをする自らにせせこましさを感じて、海風以上に湿っぽくべた付いたため息が、口から漏れ出てしまった。
それを好機と見てか、キャシーは早口で捲し立てる。
『そういうわけでねジョウ。今回はお仕事がぽしゃったから、報酬は無し。ごめんなさいね』
「……最近は、機兵のマナも安く無いんだがな」
『わかったわよ。今回かかった経費は、ちゃんと落としてあげるから……海辺なんでしょ? 何か美味しい物でも食べて、骨休めに来たと思えばいいじゃない、ね』
「骨休め、ねぇ」
受話器を首に挟み、グルッと店内を見回す。
寂れた店内は酔い潰れた老人達以外に客の姿は無く、閑古鳥が鳴いていた。
「俺は、休みに静けさを求めるほど、爺じゃないんだけどな」
『とにかく、今回のお仕事はお流れ、ご苦労様。それじゃ、また何かあったら連絡するから、ギルドに戻ってきたらまた会いましょう。じゃあね』
「お、おい、キャシー。キャシーッ!」
一方的に話を終了の方向に持っていかれ、慌てて受話器に向かって怒鳴るが、聞こえてくるのは、簡素な機械音だけだった。
数回、目を瞬かせて、歯をガリガリと噛み締めながら受話器を置いた。
「仕事も報酬も無く、こんな魚臭い町で何をしろってんだよ。全く」
燃料費だけ余分にかかり、徒労にもならない無駄足を踏まされた。
全く最悪だと額を手で押さえ、ジョウは力無くカウンターの方へ寄りかかる。
するとカウンターの向こうから俯いた顔の前に、にょきっと人の手が伸びてきた。
「……あん?」
見上げると、店主である痩せ気味の男が、催促するように手の平を振る。
「電話代。30ジット」
「…………」
思い切り顔を顰めてからジョウは、ズボンのポケットから取り出した硬貨を、店主の手の平の上に乗っけた。
全く最悪だ。
★☆★☆★☆
なけなしの現金を支払い、疲れた表情のジョウは店の外へと出てくる。
港の方から強く吹き抜ける、潮の香りの混じる風がピリピリと肌を刺す。
ほんのりの鼻の下に漂う魚の生臭さに、不快感を顔し示しながら、少しでも胃の辺りを蝕む苛々と共にそれを解消しようと、ジャケットの内ポケットに手を突っ込んで、煙草の箱とマッチを取り出した。
潰れかけた箱を上下に振り、飛び出した煙草を口で咥え引き抜く。
靴の裏でマッチを摩り煙草に点火すると、大きく肺一杯に紫煙を吸い込んだ。
脳が痺れるような感覚と共に、肺を通り血管を巡るニコチンが、腹に溜まった苛々を文字通り煙に巻いてくれた。
大きく開いた口から煙を吐き出せば、寂れた港町もちょっとした楽園に思える。
喫煙者にしか理解出来ない、最高にクールな瞬間だ。
二、三度、それを繰り返してから、煙草を咥え、両手をポケットに突っ込む。
「さてっと……どうすっかな」
金も仕事も行く宛も無いが、とりあえずジョウは歩き始めた。
見るべきモノなど、特に何も無い小さな貧乏臭い通りには、冬もとっくに終わったというのに、妙な寒々しさがあった。
「羽根を伸ばすったってもな。な~んもありゃしないじゃないか」
港町という開けた場所でありながら、町の雰囲気は酷く退廃的。
路地の隅や、地べたに座り込むガラの悪そうな地元民達は、外からの部外者であるジョウに、挑発的な視線を向けてくる。
女性なら挑戦を受けたくなる気持ちも湧いてくるが、残念ながら男ばかりだ。
「こりゃ、目があったら絡まれるな」
咥え煙草を燻らせながら、横目でチラリと地元民達を一瞥した。
美味い物でも食べて帰れとキャシーは電話口で言っていたが、こんな場所で上等な食事にありつけるのか怪しい物だ。
「そもそもにして、金が無いんだけどな」
悲しくなる事実を口にして、やっぱり悲しくなってしまった。
財布の中には小銭が少々だけ。
上手い食事も楽しい遊びも、元手が無ければありつく事にもままならない。
そんなジョウの寂しい懐事情を象徴するよう、腹の虫がぐぅっと唸りを上げた。
「ああ。腹減ったなぁ」
すきっ腹に紫煙が染みる。
今日の報酬に期待をかけていたので、朝から何も食べておらず胃の中はすっからかん。
煙草を根元まで吸い尽くしても、空腹を紛らわせるのは不可能だった。
どうしたモノかと歩いていると、何処からか荒々しい喧噪が聞こえてくる。
「……ん。何だぁ?」
咥えた煙草を吐き捨て、吸い殻を足で踏み消しながら、ジョウは左右を見回す。
誰かが言い争う声が聞こえてきたのは、少し前に進んだ先の、右手にある小さな路地の奥からだ。
喧嘩だろうか?
興味本位で何気なく路地を覗き込むと、そこには一人の少女とそれを取り囲む、数人のガラの悪い男達がいた。
どう好意的に解釈しても、仲の良い友達同士には見えない。
少し薄汚れた格好の少女は、男達に向かって威勢の良い怒鳴り声を張り上げる。
「――だからッ! 知らないって言ってんだろッ!」
肩を掴もうとする手を払い、少女は男達をジロリと睨む。
払われて赤くなった手を摩り、男の一人が激昂するよう眉を吊り上げた。
「こっのクソ餓鬼! 下手に出てりゃいい気になりやがって!」
「下手だって? はん。冗談は顔だけにしろよ」
少女は馬鹿にするよう、鼻でフンと笑い飛ばす。
「人をいきなり路地裏に引っ張り込んで、聞きたいことだけ捲し立てて。これで下手だって言うなら、痴漢の方がよっぽど紳士だよ!」
「い、言わせて置けば……ッ!」
「待て」
後に控えていた男が激怒する男の肩を掴み、無理やり下がらせる。
男達の中で一番体格のいいスキンヘッドの男は、少女の前に歩み出ると、有無を言わさず睨み付ける頬を平手で張り付けた。
「――アッ!?」
小気味よい音と共に少女は身体をよろめかせ、張られた頬が赤く染まる。
気丈な少女はすぐさま、スキンヘッドを睨み付けるが。
「な、なにしやが……グッ!?」
「いいか、小娘。俺達はガキの使いじゃないんだ、同じセリフを何度も喋らせるなよ?」
食って掛かろうとする少女の喉を鷲掴みにして、無理やりに黙らせると、男は脅しつけるよう声色にドスを含ませる。
「お前の親父は何処にいる? 痛い目に合いたくなかったら、さっさと吐け」
「し、知らな……ぐううっ!?」
喋れる程度に緩めていた手を、万力のように力を込めてゆっくりと締め上げる。
指先が肌にキツク食い込み、少女の顔色が見る間に青く染まっていく。
呼吸が上手く出来ないのか、カッ、カッと苦しげに息を鳴らした。
「もっと頭を働かせろよ。それとも何か? お前さん、あのクソ親父を庇ってるのか?」
「……くっ」
「実の娘に身体売らせて食ってる屑親父なんて、どうなったっていいじゃねぇか? 何だったらテメェを、俺が囲ってやってもいい。飯くらいなら毎日食わせてやるさ……」
趣味が悪いと仲間達が苦笑する中、男は顔を少女に近づける。
「悪くない話だろう。親父を売れば、お前はもう明日の食い扶持に困るこたぁない」
少女は睨み付けると、男の顔面に向かって、ペッと唾を吐きかけた。
叩かれて切れていたのだろう。
頬に付着した唾液には、僅かに血が混じっていた。
「お、一昨日きやがれ、この、ロリコン野郎!」
「いい度胸じゃないか……ああッ!」
「――あうッ!?」
怒りに任せて、男は少女の身体を壁に叩きつけた。
ギリギリと体重をかけて押し付けると、少女は苦悶の表情を浮かべる。
明らかにやり過ぎな光景。
だが、周りの男達は止めるどころか、薄ら笑いを浮かべ煽り立てている。
まだ幼いと言って良い女の子を、大人の男達が数人がかりで痛めつけている姿は、見るに堪えない。
「あのガキ。若いが、売春婦か」
このご時世、若い少女が身体を売るなんて、差ほど珍しいことでは無い。
無情の渡世を生きるなら、多少のトラブルは自力で切り抜けられなければ、この先の暮らしもままならないだろう。
商売上の揉め事なら、止める道理は無いが、どうもそれとは違うらしい。
なによりもあの光景は、不快以外の何物でも無い。
「……ま。八つ当たりをするには、ちょうどいいか」
後頭部を掻きながら自分に言い訳をして、ジョウは路地の中に入っていく。
「おい」
少女を取り囲んでいた男達の視線が、一斉にジョウへと向けられる。
ガラが悪い、育ちが悪いと、それ以外に言いようの無い凶悪な顔が、よくもまぁ計五つも雁首を揃えたモノだと、思わずジョウは笑みを零してしまう。
男の一人、一番下っ端らしき小男が、睨みを利かせて甲高い声を張り上げる。
「なぁんだぁ? テメ、見せモンじゃねぇんだよさっさと失せろゴラァ!」
「そう言うなよ、可哀想だろ? 止めてやれよ」
軽く両手を上げて笑みを浮かべると、出来る限り友好的な態度で接する。
へらへらと笑う緊張感の無い態度に、困惑したのだろう。
男達は胡散臭げな視線を向けてから、今度は一際身体のデカい大男が進み出た。
「失せろって言ってんだろ……さっさと失せろ、よッ!」
言い終わると同時に、大男は問答無用で右拳をジョウの顔面に打ち付けた。
子供の胴回りはあるだろう腕から繰り出される一撃に、男達は死んだんじゃないかと、ニヤケタ笑みを浮かべていたが、直ぐにその表情は凍りつくこととなる。
「ば……かな」
顔面に拳を受けたジョウは微動だにせず、僅かに首を傾けていただけだった。
拳が離れると、ジョウは頬を手で拭ってからニヤッと歯を見せて笑う。
「悪いな。蚊でも止まってたか?」
言いながら、ゆっくりと片足を持ち上げる。
「お返ししてやる、よっと!」
「――ぐべらぁ!?」
無造作に突き出した右足は、大男の腹筋に突き刺さる。
ちょうど鳩尾部分。水月とも呼ばれる人体の急所だ。
身体をくの字に折り曲げると、ぱくぱく口を開閉しながら、地面に崩れ落ち悶絶した。
「こっ、この野郎ッ!」
呆気に取られる男達の中で、すぐさま反応した小男は、ナイフを取り出すと怒りに任せてジョウに突撃してくる。
軽く横目で動きを確認してから、手首を掴み容易く軌道を外す。
「――なぁッ!?」
「おいおい」
バランスを崩す小男を、手前に引き込み顔面に肘打ちを合わせた。
「――ぺぎゅ!?」
「いきなり、危ないじゃあないか」
肘の固い骨で鼻を叩き潰すと、小男は鼻血を撒き散らしながら、大男の上に重なるよう倒れた。
一瞬にして二人。
唖然とするスキンヘッドの手から力が抜け、首を掴まれていた少女がドスンと地面に落ち尻餅を突く。
他の二人が戸惑いを浮かべる中、我を取り戻したスキンヘッドは顔を真っ赤に染める。
「て、テメェ……!」
「おっと、動かない方が身の為だぜ大将」
懐に手を伸ばし、スキンヘッドが何かを取り出そうとするのを、ジョウが何時の間にか腰の後ろから引き抜いたそれで動きを制する。
リボルバー式の、小さな拳銃だ。
向けられた銃口に、スキンヘッドの顔が一気に青ざめる。
「ちっぽけな銃だが、眉間に当たれば人は死ぬぜ?」
「お、俺を、殺すつもりか……?」
「人を勝手に殺人者にするなよ。撃つとしたら、腕か足だな」
その言葉に僅かながら安堵の表情を浮かべるが、釘を刺すようにジョウは、親指で撃鉄を上げる。
「ただし、俺は射撃が不得意だ。狙った場所に弾が飛んでくとは、限らないぜ?」
ニヤリと笑ってみせると、途端にスキンヘッドの視線が落ち着きなく泳ぎ始めた。
懐に伸ばそうとしていた手を下ろして、悔しげに舌打ちを鳴らす。
「……テメェ、何者だ。その動き、素人じゃないな?」
「別に大したモンじゃない。フリーランスの、魔導機兵乗りさ」
「賞金稼ぎの類か? ……まさか、ウィザードかッ!?」
「さぁて、どうかな」
はぐらかす言葉にもう一度舌打ちを鳴らして、スキンヘッドは男達に「おい」と声をかけた。
「戻るぞ。ウィザードなんかとまともにやれるかッ……そこに倒れてる連中は、お前らが運べ」
「へ、へい!」
慌てて倒れている大男と小男を担ぎ、スキンヘッドに引き連れられて、路地を後にしようとする。
出て行く間際、スキンヘッドは一度、ジョウのキツク睨み付け、去って行った。
姿が見えなくなると、ジョウは大きく息を吐き出してから、取り出した銃を腰の後ろにあるホルスターの納め、地面に尻餅を突く少女の方へ近づく。
「よう。まぁ、なんだ。大丈夫か?」
「あ、ああ、うん。何とか」
手を伸ばすと、少女は素直に握り返した。
引っ張りながら助け起こすと、少女はズボンについた埃を払い、笑顔でジョウの顔を見上げた。
「ありがと、兄さん。助かったよ」
「いいや、礼の言葉はいらないさ……その変わり」
内心の期待感に誘われたのか、ジョウの胃袋が数時間振りに活動を再開する。
ぐぅと鳴り響く腹の音に、少女は目を丸くした。
「何か奢ってくれない? 俺、腹ペコで死にそうなんだ」
そう言ってジョウは、恥も外聞も無く笑顔で少女にたかった。
★☆★☆★☆
「はいよ。町の名物、サバサンド」
窓際の席に向い合せで座るジョウと少女の前に、痩せ気味の男がやる気の無いだらけた口調で、大皿一杯の盛られた雑な作りのサンドイッチを置いた。
立ち昇る独特の生臭さに、ジョウは眉を八の字にして息を詰まらせる。
「うぐっ……な、中々、独創的な臭いだな」
「安くて量が食える、貧乏人の友ってヤツだよ。遠慮せずに食ってみなって」
ここは、つい先ほどまでジョウが電話をしていた酒場。
小さな港町で外食出来そうな場所は限られているから、必然的にここになってしまう。
戻ってきたと思ったら、町で売春婦をやっている少女を連れてきたのだ。
いらっしゃいと言いながらも、向けられる視線が冷たいのは仕方が無いだろう。
だが、そんなことを気にしていたら、空腹を満たすことは出来ない。
「ま、これも一種の珍味だと思えば、食えんことも無いか」
「そうそう。食ったら病みつきになること、間違いなしってね」
「そりゃ楽しみだな。んじゃ、早速……いっただっきま~す」
手揉みをしてから唇をペロッと舌で舐め、サバサンドを一つ手に取ると、大きく開けた口で半分まで被りを食らいつく。
ソテーされた香ばしい鯖と、酸味の強いソースの味が口内に広がる。
だが、
「……あんまり、美味く無いな」
咀嚼したサバサンドを飲み込み、ジョウは残念そうに呟いた。
その言葉に、正面に頬杖を突いていた少女が、呆れたように息を吐く。
「何だよ。人に奢らせておいて、感想はそれぇ?」
「んなこと言ったって、はぐっ……小骨は取ってないから口の中でチクチク痛いし、んぐんぐ……挟んでる野菜も萎れてる。かかってるソースだって酸味だけが強くで、コクも深みも足りない……むぐむぐ」
「……文句が多い割に、食は随分と進んでるようだけどな」
言葉とは裏腹に、サバサンドを口に運ぶ手を全く緩めようとしない姿に、少女の視線が細まる。
数だけは大量にあったサバサンドは、もう半分以上無くなっていた。
「空腹は最高の調味料って言うからな。何より、奢り飯なのがまた格別だ……ええっと」
「リラ。リラ・ハモニカだよ」
「ジョウだ……サンキュ、リラ。アンタがトラブルに巻き込まれてたおかげで、俺は極上の昼飯にありつけた」
「そりゃ、どーも」
呆れた様子で椅子の背もたれに体重を預け、自分もサバサンドを一つ手に取る。
既に大皿のサバサンドは、三分の一になっていた。
「ま、別にいいけどね。ここのサバサンドは安いから、あたしの稼ぎでも十分に奢れるし」
「売春婦だっけ?」
「……ガキの癖にって、思ったでしょ」
僅か棘が含まれる口調に、ジョウは無言のままサバサンドを齧る。
「別にいいよ、本当のことだし。ガキだから需要もあるし、食うに困らない程度には稼げる……先のことは、まだわかんないけど」
「親はどうした?」
「なに? 説教でも始めようってわけ」
「違う。ただの興味本位だよ」
肩を竦め正直の答えると、リラは「ふ~ん」と疑うような表情を見せるが、直ぐに語り始めてくれた。
「母ちゃんは、赤ん坊の頃に死んじまった。父ちゃんは、稼ぎの悪いチンピラ崩れだよ……女の家を転々としてて、家に帰って来るのなんか一ヶ月に二、三度。その度にあたしの稼いだ金、根こそぎ持ってっちまうけど」
言いながら、リタは指に付いたソースを舐めとる。
不幸な身の上話の割には、浮かべている表情に自虐や悲壮感は無かった。
彼女のような境遇の人間は、昨今では差ほど珍しいモノでは無い。むしろ、毎日の食事に困っていないのだから、その意味では幸せな部類に入るのだろう。
それを知らない頭の茹で上がった人間は、不幸せの一言で片づけてしまうのだろうが。
「湿っぽい話しちまったけどさ、要するにサバサンドを奢るくらい、あたしには大した負担にはならないってわけ……まぁ、それであたしを可哀想って思ってくれんなら」
急にリタは向ける視線を、蠱惑的な仕草を演出するよう舌なめずりをする。
椅子から腰を上げテーブルに身を投げ出すと、ヨレヨレになっているシャツの襟をズラして、誘うように自分の右肩を露わにした。
「あたしを買わない? 助けてくれた礼に、お安くしておくけど」
「いらん」
無下に断られプライドに障ったのか、リラは頬を膨らませた。
「なんでさ? ここの安っぽいサバサンドよりは、美味しく頂けるぜ。身体は痩せっぽっちだけど、テクならそこらの娼婦にだって……」
「金が無い」
その一言で、リタの言葉と動きがピタリと静止する。
伸ばした襟を離して露わになった肩を隠すと、リタは聞こえるよう舌打ちを鳴らす。
「なんでぇ、貧乏人か。ウィザードって言うから、溜めこんでると思ったのに」
そう言うと、残ったサバサンドを掴み、無理やり口の中に詰め込む。
もしゃもしゃと咀嚼した食べ物を嚥下すると、リタは乗りテーブルから降り席を立つ。
「金持ってない奴なんかにゃ、興味ないよ……纏まった金が手に入ったら、サバサンドより美味しいモノをご馳走したげる」
「結構だ。俺は子供に劣情を催すほど、退屈な人生を送って無いんでね」
名残惜しそうにジョウは、皿に付着したソースを指で掬い舐めとる。
素っ気ない態度にまた舌打ちを鳴らし、ズボンのポケットに手を突っ込むと、クシャクシャになった紙幣を、カウンターの上へ乱暴に叩きつけた。
「――帰るッ! んじゃね、兄さん! ……これでチャラだから、礼はもう言わないよ!」
べぇと舌を見せると、リタは小走りに店から出て行った。
窓から走り去っていくリタの姿を眺めながら、ジョウは頬杖を突いて苦笑する。
「今時のガキってのは、忙しないモンだな……ああ、いかん、喉の小骨が」
サバサンドの小骨が刺さったのか、妙な違和感に喉を鳴らす。
痛痒い何とも言えない感触に、洗い流してしまおうと水をがぶ飲みしていると、店主が近づいてきて「おい」と、不機嫌な口調で話しかけてきた。
思わず、水を吹き出しかけてしまう。
「な、何だよ……まさかっ!? 金、足りなかったのか?」
嫌な予感に椅子を弾き飛ばしながら立ち上がる。
請求されたところで、水代も払えないのだが。
しかし、店主は首を振って、ジョウに向かい硬貨を一枚投げてよこす。
「おっと。これは?」
右手に握った硬貨を、親指と人差し指で摘む。
10ジットの硬貨だ。
「つり銭だ……それと」
店主は親指で、店の受話器の方を差す。
「アンタに電話だ」
「……俺に?」
まさかの言葉に、ジョウは思い切り眉を潜めた。
訝しく思いながらも電話の方に近づいて行くと、上がった状態の受話器に手を取り耳にあてる。
「あ~、もしもし?」
『ジョウ!? よかった、連絡が取れた』
受話器の向こうからは、安堵の声を漏らすキャシーの声が聞こえてきた。
「なんだよ、キャシーか……わざわざ何の用だ? 土産なら金が無いから買えないぞ」
『大丈夫。お土産を山ほど買える、お得情報よ』
「……何だと?」
表情を切り替え、受話器を反対側の耳に当てる。
「依頼か?」
『トンだ仕事が、別件になって戻って来たわ……ジョウ。大至急、ある男を拘束して欲しいの』
「ある男?」
頷く気配だけが伝わる。
『男の名はダニエル・ハモニカ。例の仕事が飛んだ、原因を作った人物よ』
「ダニエル……ハモニカ!?」
思わずジョウは、視線を窓の外の向けてしまう。
人通りの少ない港町の通りに、リラの姿はおろか、人影すらなかった。
『どうしたの? まさか、知り合い?』
「いや……キャシー」
一度目を閉じて、気持ちを落ち着かせてから、改めて切り出す。
「依頼は受ける、詳しい情報を寄越せ」
真剣な口調で問いかけながら、ジョウは手に持った硬貨を、胸ポケットへとしまった。