かわいい人VS
「また読んでるの」
ソファで体育座りして、お気に入りの小説を膝の上で広げていたら、この部屋の主である臣吾さんが呆れ顔でこっちを見ていた。
「いいでしょ。好きなんだもん」
つんと澄まして云ってやる。
「咲が好きなのは小説じゃなく、ナタネさんだろ。ったく」
ナタネさんと云うのは、今私が広げている本に出てくる登場人物。主役ではないけど、物語はこの人がいないと成り立たない。
ものすごおおっく、かっこいい男の人なんだ。
「うふふふう。やっぱかっこいい~」
もう、何度も、何十回も、ひょっとしたら百何回かは読んでるかもしれないので、話の流れどころか、言い回しも句読点の打たれ方も、全部頭に入ってる。
今日は、私のお気に入りの『myベストオブ・ナタネさん』シーンばかり、追いかけているところ。
「すてき……」
思わず呟くと、貴方はもう慣れたっていう顔つきで、相手してくれた。
「はいはい、スーツが上等で、私服も洗練されてて、頭がよくって、とびきりチャーミングで、優しくって、『ラフシーン』にも動じなくって、最高。だろ?」
私が何回も云っているせいか、ナタネさんの魅力について彼も余すところなく知っている。『ラフシーン』なんて、作中に出てくる言葉回しだって覚えてるくせに、悔しいから読んでない、らしい。読めばいいのに。
「そうなんだよ~。現実にどっかいないかなーこんな人」
「いたらどうせソッコーで捨てられちゃうんだろ俺」
あらかわいいことを仰る。
「捨てないよぉ。」
「どうだかな。俺には上等なスーツも洗練された私服も明晰な頭脳もチャーミングなところも優しさもラフシーンの経験もないから」
ナタネさんになぞらえてそんな云い方して。
あんまりかわいくって、つい云っちゃった。
「貴方のいいところは、ナタネさんとは違うけど、大好きだよ」
「ふうん。」
その云い方はかわいくないぞ。
嬉しいんだか嬉しくないんだかわかんない。ズルイ。
ふうんとフラットに云ったテンションのまま、臣吾さんは私に聞いてきた。
「じゃあさあ、愛してる?」
「うーん、そうね、はい」
こんな事、素面で云わせるなバカ。
「どれくらい?」
「……そうねえ、このうっとうしいやり取りをされたら今までだったら冷めてたけどかわいいから許す位は」
「うっとうしいとかかわいいとか初めて云われた……」
まあね。
ナタネさんほどじゃないけど、貴方も現実世界ではそこそこ優良物件だもんね。
ショックを受けてた臣吾さんだけど、そのうち私が云った『あること』に気がついて、ニヤニヤし始めた。
臣吾さんと云う人は。
うんと仕事が出来て、仕事に誇りを持っていて。厳しくって。
背が高くて整った顔立ちなのに、目つきが鋭いから、最初はみんな遠巻きにしていて。でも、それが怒ってるんじゃなく地なんだと周りが気付いて、慣れた頃モテ期が急にやってくる。そんな人。
上等なスーツは持っていないと云うけど、セミオーダーのスーツとシャツは十分上等だと思う。曰く、腕と首が長くって、市販のものを身に着けるとバランスが悪いんだそうだ。
そんな貴方と、貴方に群がる女の人達をいつも他人事で見ていた。
手に入らない人を思ってみても仕方ない。
だから、小説のナタネさんを夢中で追いかけた。だって憧れるだけなら傷つかない。会社でも、休憩時間に臣吾さんの噂話を耳がうっかり聞き取らないように、貪り読んだ。
「それ、面白いの」
ある日のお昼休み、頭上から降ってきたのは、まるで接点のない筈の貴方の声。
突然の事に驚いたけど、はなから見込みがないから、自分をよく見せようと思う気もない。
にっこり笑って熱く語ってやった。
「ええ、とっても。登場人物に、すっごく素敵な人が出てくるんで、思わず何回も読み返しちゃってるとこです」
「へえ、どんな人なの」
スーツが上等で、私服も洗練されてて、頭がよくって、とびきりチャーミングで、優しくって、ラフシーンにも動じなくって、最高。
捲し立てたら目の前で手の平を壁のようにして突き出された。
「わかった、わかった。よくわかった。大好きだなその……?」
「ナタネさんです」
「それ。そいつと俺と、どっちがかっこいい?」
「ダントツのぶっちぎりでナタネさんです」
迷う隙もなく云ってのけると、臣吾さんは弾けるように笑った。そんな笑顔は一緒の部署で働いてて初めて見た。
「すげー即答。ねえ、じゃあ、かっこいい人が理想なの」
「うーん、恋人とか結婚相手は、かわいい人がいいですね」
「それは女の人ってこと?」
「いえいえ、かわいらしさがある男の人、ですかね」
何を云わされてるかな私。
恋愛及び結婚観を、会社の昼休みに、手の届かない男相手に吐かされるとか何プレイよ。
「俺は?かわいい?かっこいい?」
「どっちかを選択できるほど親しくないからわかりません」
「じゃあさあ、見つけてよ。俺の中に、かわいらしさって奴?があるかどうか」
その云い方がもうすでにかわいいんですけど。とは云えず、持ち前の変化球でつい返してしまう。
「見つけられるほど親しくもありません」
「だから、まずは食事でもしましょうって事」
終業後あっという間に手を引かれて、食事に連れ出された。
すでにかわいらしさの兆候を見出していたからなのか。――手が届かないから、耳を塞ぎたいから、そんな理由で小説に逃げた時点で、もう惹かれていたのか。
食事が終わるころにはすっかり私の中で臣吾さんは、手の届かない人から、かわいらしい男の人、になってた。
「どう?」
「まだわかりません」
食後のエスプレッソを戴きながら、尚もそ知らぬふりを通す。すると、「じゃあ、もっと親しくならないと」って、次のデートを約束させられた。その次も、その次も。
そうして一歩ずつ、お互いの領域に踏みこんだ。
手を繋いで、キスして、ハグして、セックスして。
いつしか、『どう?』『わかりません』『じゃあ、もっと親しくならないと』と云う一連のやり取りは、二人の関係を先に進めるよっていう、合図になってた。
気が付けば、目の前にはにやけまくった貴方の姿。
普段目つきが鋭い人がやると、そのギャップが半端ない。これは、かなり、かわいい……。
「やああっと、吐いたな」
「何の事」
しらんふりで、またナタネさんの活躍を読もうとハードカバーを手に取る――と。
「もう、いいだろナタネさんは」
あっという間に取り上げられ、サイドテーブルにそっと置かれた。貴方のそんな、きめ細かいところも、私は。
「俺の事がかわいいって、ようやく云った」
「そうね。それが?」
なんでもない風を装う私だけど、きっと貴方にはバレバレ。うー、恥ずかしい。
――だって。
『かわいい男の人』の先にあるのは……。
「あと一つ、俺たちが進められる駒があるの、知ってるよな?」
「そうみたいだね」
「じゃあさあ、それ、進めてみないか?」
「……分かりやすく云って」
分かってるけど――ちゃんと聞きたいの。私ばっかり恥ずかしいんじゃなく。
貴方は私の両手をとって、手遊びする風に、すこしぶらぶらさせた。
「付き合う前に、咲は云ったよな?『恋人とか結婚相手は、かわいい人がいいですね』って」
「云い方まで覚えててマネしなくたっていいのに……」
思わずよそを向いてしまうくらい、むず痒い。……ほんとは、嬉しい。
あんなの覚えてただなんて。――あのやり取りを覚えていたのが、私だけじゃなかっただなんて。
「いいじゃん、俺浮かれてるんだよ?だって、ようやく、よ――やく云ってくれた。俺の事、かわいいって。」
「……」
恥ずかしすぎて俯いた。
「それって、咲の結婚相手として俺は合格ってことだよな?」
「……」
顔も首も、真っかっかだきっと。
「ねえ、咲、結婚して?長いこと一人暮らしだから家事は一通り出来るし、来年昇進出来そうだし、自分で云うのもなんだけどお得物件だと思うよ、俺」
そんなの、よく知ってる。
この部屋が整っていて、生活感もちゃんとあるっていうのは、仕事で忙しい合間を縫って日々のメンテナンスをきちんとしているって云う証拠だ。
そして仕事面でこの人がどれだけ頑張っているかも、勿論見て知っている。
「絶対浮気なんかしないし、いい夫になるよう努力するから。俺と、結婚して下さい」
「……」
付き合ってても、かわいい人だなって思っても、貴方はどこか遠い人だった。会社に行けばモテモテで、エリートコースまっしぐらな貴方とは、いつかどこかで道が分かれるかもしれないと思ってた。だから、いつそうなってもいいように、結婚については何も云わないでいた。
なのに今貴方は、私に結婚を申し込んでいる。
嬉しくて、夢みたいで、つないでる手に涙が落ちた。貴方はそれには気付かないふりで、わざと陽気に聞いてくる。
「咲―。返事―。」
「……ハイ。」
蚊の鳴くような声で、俯いたままで返したのに、臣吾さんはそんな私を思いっきり抱きしめてくれた。柔らかいシャツに顔をすり寄せれば、そのまま耳を食むように囁かれる。
「どれだけ俺が嬉しいか、きっと咲には想像もつかないよ?」
それはこっちの台詞だ。と、返すはずの言葉は、
貴方とのキスの中で、溶けた。
ナタネさんはほんとかっこいいんですよ……。ちなみに、ポケッタブルなモンスターではなく、小路幸也著『僕は長い昼と長い夜を過ごす』の登場人物です。検索掛けたら前者が出てきてびびりました。
14/10/13 誤字修正しました。