02 特別任務
『陽炎』に入隊したあの日から、2年。クロはひとりの兵士となっていた。そして、傍らに立つ少女と共に、任務のためにある場所に来ていた。
町外れの朽ち果てた港。いまやただのコンテナ置き場と化しているその場所には街灯が無く、暗闇が支配している。小さな事務所がひとつと無数の巨大コンテナ。それらが無造作に置き去りにされ、潮風が吹き付ける。長年放置されたそれらは朽ち、風が吹くたび獣のうなり声のような声を上げる。
その恐ろしげな音が理由で、肝試しの舞台として一時期脚光を浴びたことがあった。その際、立ち入り禁止の表示を無視して進入を繰り返す者が後を絶たなくなったらしい。それ以来、いたずらを防ぐ目的で、周囲には高さ2メートルを超えるフェンスが張り巡らされている。
月明りを浴びてぎらぎらと光るそのフェンスを、2人は一息に飛び越えた。
「予定通り、おれが突入する。ツグミは周囲の奴等を片付けてくれ」
声を潜めて作戦を確認する。クロの言葉に、眠そうな眼をしたツグミはこくりとうなずいた。
「わかった。任せて」
そう言うと、音も無くツグミは闇に姿を消した。
それを見送り、ツグミが向かった方角とは反対側に向かってクロは駆け出した。コンテナに身を隠しながら、五感を研ぎ澄ませて進む。
物音はしなかった。それどころか、人の気配が無かった。
(おかしいな)
そんなはずはないと思いながら、はやる気持ちを抑えて慎重に動く。
油断は禁物だ。
いくつもの任務をこなしながら生き抜いたクロは、身をもってそれを知っていた。
雲の切れ間から差した月明りが、黒いコートに身を包んだクロの顔を照らし出した。
目を覆うほど伸びた前髪と、そこからのぞく鋭い目。隈は濃く、不健康な印象を見る者に与える。
クロ、というのは捨て子だった彼に政府が与えた名前だった。
しかし、クロは自分の名前が嫌いではなかった。誰に付けられようとも、それが自分の名前であることに変わりは無い、と思っていたから。
音を殺して闇の中を徘徊する。風を切る音さえわずらわしく感じるほど、クロの精神は高ぶっていた。
物陰から物陰へ。
姿勢を低くして駆ける。
そうして誰とも会わず、一際大きなコンテナの角を曲がったクロ。その目に映ったのは全く予想していなかった惨状だった。
「人の気配が無かったのは、これのせいか」
もはや気配を消すことも意識せず、クロは呟いた。
地面に横たわる無数の人影。
アスファルトには鮮やかな赤が撒き散らされていた。
手近に転がる男の首元にクロは手を触れた。脈は無かった。
飛び散った血液はコンテナにもべったりと付着し、たらたらと赤い線を描いている。血は乾ききっていない。
「クロ」
声をかけられて、はじめてクロは隣にツグミが立っていることに気がついた。
「どうした」
小柄な少女は眉ひとつ動かさず、手を差し出した。
「これが、周りに」
受け取ったクロは目を細めてそれを観察した。ライターほどの大きさの容器だった。質感は滑らかで、つるつるとしていた。
中には青い液体が波打っている。裏返したクロは、そのカプセルの底に文字を見つけた。
『R-110T』
そこにはそう書かれていた。
「ツグミ、これはどこにあった?」
「その辺に転がってる」
言われて周りを見回すと、たしかに、ツグミの言うとおり、同じようなシルエットがそこかしこに散らばっていた。
死体に気を取られて見落としていたらしい。
「ツグミ、撤退するぞ。ここにいるのは危険だ」
そう声をかけ、クロは来た道を戻り始めた。正体不明のカプセルは右のポケットに忍ばせた。
任務は中止だ。対象がすでに死んでいるとは思わなかった。
反社会勢力同士による取引の妨害。
それがクロとツグミが受けた指示だった。だが、どうやら、妨害などしなくても取引は決裂したらしい。
(誰かに見つかる前に急いで離れよう)
こんな場面を見られれば、騒ぎになるのは明らかだ。
あらかじめ逃走用の服を用意しておいた、人気の無い家屋の裏手。そこでクロ達は服を着替えた。
さっきまで着ていたのは『陽炎』の制服。動きやすさと隠密性を最大限追及された一着。その性能は非常に高い。
しかし、これから地下拠点に戻るには街中を通る必要がある。明るい市街では、白い紙ににじむインクのように、その服は目立った。
「着替えは終わったか?」
「うん」
緊張感の無い声でツグミが言った。ツグミが白いワンピースに身を包んでいるのを確認して、クロはうなずいた。
「じゃあ、行くぞ」
港からのびる寂れた道路を歩いて、ライトアップされたように輝く街へと向かう。はじめは心躍ったその光景、しかし、見慣れてしまったクロにはすでになんの感情もわきあがらなかった。
夜中だというのに、大通りはにぎやかだった。クロはポケットに入れたカプセルに指を沿わせた。
(死体に外傷は無かった。にもかかわらず、あの出血量は一体……)
さきほどの現場が脳裏に蘇る。犯人が能力者であるのは確実だ。しかし、どんな能力を行使したのかは謎だった。クロの知る限り、あの状況を作り出せる能力は存在しない。
意識せずとも、足は勝手に目的地へと向かっていった。
大通りから閑静な住宅街へ。しばらく進み右に曲がると、見ているだけで気の滅入るような廃れた地区に出た。
その中でも特に廃退が進んだ一軒。
崩壊しかけた木造家屋。
それに隣接した、高い塀に囲まれた庭へとクロとツグミは侵入した。
地面を覆う雑草を踏みつけながら、庭の端に立つ焼却炉に近付く。大きさは洗濯機ほど。赤茶けた錆に侵食され、元の色はクロには想像できなかった。
モニターの隣についた、3つのつまみ。それを順番に、決められた順序で、定められた方向へとまわす。
カチッという音が鳴った。
それが地下拠点への入り方だった。
近くの地面が割れる。その先には地下へと下る、細い階段があった。
「ツグミ、憶えてるか」
出現した穴に身を滑り込ませながらクロは訊ねた。
「はじめてこの道を通ったときのこと」
「憶えてる」
ツグミが小さな声で言った。
誘導灯を頼りに、2人は一段一段、急な階段を下っていく。
「アキラが馬鹿をやった」
「そうそう。あれからもう2年だな」
『陽炎』で過ごした2年間。
それは、クロにとっては決していいことばかりではなかった。しかし、たくさんの経験をした。地上にも良く出るようになり、いろいろなものを見た。
そして、あれ以来、ひとつの心配がクロの中にはあった。
「リュートは結局、どこへ行ったんだろうな」
訓練生時代、共に生活を送った親友。その行方だけが、気がかりだった。
何時間も馬鹿な話をした。
何度も一緒に教官に怒られた。
そして結局、誰にも配属先を告げずにリュートは姿を消した。その理由は、今でも分からない。
「黙って消えやがって、絶対に許さん」
「そうだね」
ツグミは抑揚の無い声で答えた。しかし、長い付き合いだからこそわかる感情のゆれをクロは確かに聞き取った。ツグミもまた、リュートとは顔見知りだった。
「元気でやってればいいんだけどな」
それが希望的観測だというのは、クロは良く理解していた。自分達『ファースト』が生きていける環境は少ない。政府により生かされていることに、今でも変わりは無い。訓練生時代も、今このときも。それでも願わずにはいられなかった。リュートが何処かで生きていることを。
「きっと、大丈夫」
ツグミが言った。その言葉に根拠は無いことは2人ともわかっている。しかし、クロはそれにすがりたかった。
闇に目が慣れてきた所で、クロは歩き出した。以前は長く感じたこの道。しかし、歩きなれた今ではほんの数分の距離に思える。
ひんやりとした、地下独特の静けさの中を進む。クロもツグミも、あまりおしゃべりなほうではない。足音だけが響く。
クロは何度も目にした、重厚な扉の前で立ち止まり、力をこめて引いた。
開けていく視界には、月が顔を出す。一瞬、地上へ戻ってきたのかと、クロはいつもの錯覚を覚えた。
地面から生える高層ビル、人工的に作り出された月。そこにはひとつの街が広がっていた。
『陽炎』地下拠点、通称『ホーム』。
拠点内の空調管理は完璧だ。ひんやりと水気を帯びた1月終わりの風がクロの顔にかかる。
病院、食堂、果ては草木まで。地上を再現された地下都市が巨大な空間を埋める。今ではここがクロの家であり、ツグミの家でもあった。
中へと足を進めたクロは、扉の近くに突っ立つ一人の男に気がついた。
「シーヴァス副指令?」
痩身の彼は腰に2本の剣を差し、近くの壁に寄りかかっていたが、クロの声に気づくと神経質そうな顔に笑みを浮かべた。
「やあ、待っていたよ。おかえり、2人とも」
『陽炎』のナンバー2がそこにいた。
扉がしまる重い音がクロの耳に届いた。
「こんなところでどうしたんですか?」
「クロ、君に緊急の話ができた。これから一緒に来てくれ」
そういってから、シーヴァスはツグミに目を向けた。
「ツグミはもう戻っていい。先に休んでいなさい」
「はい」
クロはなにか言いたそうな視線をツグミから感じた。しかし、彼女は結局何も言わずに居住区に向けて歩いていった。
去って行くその後姿を見送り、シーヴァスはクロに向き直った。
「さて、行こうか」
シーヴァスは足早に拠点内を進んでいく。時々、途中であった隊員たちが彼に挨拶するのを見て、クロは彼の人望の厚さを再確認した。
やさしげな風貌のこの副指令が声を荒げる姿を、クロは一度も見たことが無かった。いつも司令の傍らで黙々と自分の仕事に取り組む姿に、尊敬の念を感じるものは多い。そして、それはクロもまた同じであった。
「副指令、話とはなんですか?」
「悪いが、ここでは話せないんだ」
その言葉に素直にクロは引き下がった。もとよりクロも聞き出せるとは思っていなかった。ここで話せるなら、場所を変える必要はない。この時間に召還命令を出すくらいなのだ。込み入った話であるのは間違い。
拠点中央部、重要施設が集まるこのあたりは中央区と呼ばれていた。
その中央区の中でもさらに中心地、そこに向かってシーヴァスとクロは歩いていく。司令室へと向かう階段を下っていく。
地下拠点のさらに地下。そこに司令室はあった。
シーヴァスは頑丈そうな両開きの扉の前で一旦立ち止まり、扉を叩いた。
「ナガレ、クロをつれてきた」
「入って」
扉が開かれ、クロは何度か見たことのある室内に招かれた。
部屋の中央には来客用のソファが置かれ、その先には大きなデスクが2つ。左の壁にはどこへ続くか分からない扉と本棚がある。
天井に埋め込まれた照明は眩しく、部屋にいる者の影を消す。
真正面のデスクに座る、司令官ナガレその人を、クロは見つめた。
人形のように美しく、そして無表情な顔。そこから感情は読み取れない。
「呼び出してすまなかったわ」
「いえ、緊急の案件なんでしょう」
クロの言葉に、ナガレはふっと笑った。
「その通りだ」
クロは話の前に、任務の報告をしておこうと思った。
「お話の前に、ひとついいですか」
そういってクロはポケットから例のカプセルを取り出した。
「今日、港で行なわれる予定だった会合は、何者かに襲撃されました」
「襲撃?」
ナガレは眉にしわを寄せた。自分のデスクに着いたシーヴァスも顔をしかめるのを、クロは目の端で捕らえた。
「はい。その場に、これが」
ソファを避け、クロはナガレのデスクまで進んだ。机上に置かれたそれに、ナガレは視線を向けた。
「そうか。これは私が預かろう」
「お願いします」
ナガレはしばしカプセルを観察して、それを引き出しにしまいこんだ。
「襲撃についても、上には私が報告しておく。それじゃあ、本題に入ろうか」
ナガレがシーヴァスに目配せした。すると、シーヴァスが一枚の文書を取り出し、クロへと差し出した。
とりあえず受け取ったクロは、堅い質感にその紙が上質なものであると感じた。
「今日、そいつが届いた。命令文書だ」
「命令文書、ですか」
それがなぜ自分に渡されたのか、クロは首をかしげた。
政府の秘密部隊『陽炎』にまわされる任務は全て、司令官であるナガレの元に集められる。そして、その後一人ひとりに分配される。
その際、命令文書などは渡されない。口頭で内容を確認される。それは、無駄な証拠を残さないための配慮だった。
『陽炎』が扱う任務は法に触れるものが少なくない。政府による、明らかな無法行為。それが世に露見したあとの混乱を考えると、一枚の命令文書はあまりにも危険性が高い。
そのため、クロが命令文書を実際に目にするのは、初めてだった。
「その文書の差出人と宛名を見てみろ」
言われたとおり、最下段に書かれた署名に目を落とす。そこには防衛省長官、御影総一の名と、クロの名前が記されていた。
「その命令文書は、クロ、お前に届いたものだ」
「おれに?」
クロは思わず敬語を忘れて聞き返した。それをとがめることも無く、ナガレは頷いた。
「知ってのとおり、『陽炎』は防衛省の管轄だ。つまり、御影総一はここの最高責任者だ。その男がお前を指名して、命令を出してきた。なにか心当たりはあるか?」
一瞬、考え込みそうになったが、クロはそんな男と面識は無いと断言できた。政府高官と近付いた経験など、一度も無い。
「ありません」
「だが、相手はお前を知っている様だぞ」
ナガレのいぶかしげな視線を感じながら、クロはなにか思い当たる節はないか、と記憶を手当たり次第に呼び寄せた。だが、やはり、なにも見つからない。
「わかりません」
「そうか。ならいい」
ナガレは腕を組むと、ふう、と息を吐いた。
「本来、個人指名はルール違反だ。だから、おそらく、その命令文書は議会の承認を得ていない。そのため効力はない」
ナガレの言葉にクロは再度、混乱した。
『陽炎』にまわされる任務は、一度専門の議会にかけられ発行されていた。その理由は、『陽炎』が少数精鋭である、という点にあった。実態を世間に隠された武力は、非常に便利な場面が多い。
しかし、その構成員の少なさから『陽炎』が受け入れられる任務は限られてくる。そのため、任務は議会を通して選別する。
それが規則だった。
それを破れば、省長官といえども厳罰は避けられないだろう。
「クロ、受けるかどうかはお前が決めろ。未承認である可能性が高いが、相手が相手だ」
ナガレの言葉に、クロは文書に目を落とした。そこに書かれていたのは、この任務が護衛任務であり、詳細は明日防衛省にて行なう、という趣旨のもの。
なぜクロを知っているのか、なぜ危険を冒してまで未承認の任務を発行したのか。その答えはどこにもなかった。
知りたければ、話を聞きに来い。差出人のそんな声が聞こえた気がした。
「やります」
自分から面倒ごとに身を投じるのは愚行だとは思ったが、クロはそれを受けることにした。
なぜ自分を知っているのか。クロの心の中で、その疑問は膨らむ一方だった。知らないうちに生活の全てを見られているような、そんな不快感。
確かめるべきだ。
この御影という男が何を考えているのか。そう思った。
「そうか。ではそれを此方に渡せ」
言われたとおり文書を渡すと、ナガレは灰皿の上でそれに火をつけた。
パチパチと火の粉がはぜる。それを眺めるナガレの目からは、いまだクロは何の感情も読み取れない。もしかしたら怒っているのだろうか、とも思ってしまう。
「明日、22時に迎えが来ると、さきほど電話があった。遅れないように」
「わかりました」
クロが受けることを、御影は見越していたのだろうか。表現しづらい不快感が増していった。
話しは終わりだ、という空気をナガレから感じ、クロはきびすを返した。
「失礼します」
一礼をして、クロは部屋を出た。もやもやとしたものが、頭の中に満ちていた。
(明日になればきっとわかる)
強引に思考を切り替えて、クロは歩き出した。
***
≪ナガレ視点≫
クロが部屋を出てから、ナガレはひとつ溜息をついた。
(御影総一、何を考えている)
ナガレの脳裏に、あの忌々しいすました顔が浮んでくる。
「心配か?」
シーヴァスの言葉に曖昧に頷く。心配ではあったが、そんな一言では片付けられない違和感がナガレにはしていた。
たしか、シーヴァスは御影と面識がないはずだ。
だから、あの男の異常性を知らない。
(何も考えずに行動を起こす人間じゃない。きっと何かをたくらんでいる)
しかし、何を? 肝心の部分が見えてこない。
「シーヴァス」
「なんだ?」
ならば、見つけ出すまでだ。
「防衛省内部に少し探りを入れて」
「わかった」
この拠点に住む隊員はナガレにとって家族のようなものだった。
それをあの男に壊されるわけにはいかない。
思いがけず、もう一度溜息が出た。灰になった文書が少しだけ舞った。
5月14日 修正