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第捌章 恋慕地獄道・前編

 今回、途中で視点が変わります。

 二年前、『弥三郎』様が弥三郎様であった頃のお話。

 私は姉様と桜花に新しい着物を作ろうと反物を求めて反物屋さんを数件巡っていました。

 しかし二人に似合う良い柄と色に恵まれず落胆して下を向いて歩いていた時、背に衝撃を受けて転びそうになってしまいました。

 でも、咄嗟に腕を掴まれて転倒だけは避けられたのは幸いでした。

 見れば背に大きな風呂敷包みをいくつも背負った青年がバツの悪そうな顔をしていました。


「すまねぇ。オラァ東京さ初めてで、見る物全てが珍じぐっでつい余所見じて歩いでただ」


 それが私と弥三郎様との出会いだったのです。

 彼は月代こそ剃ってはいませんでしたが、未だに髷を結っている垢抜けない青年でした。

 当時十七歳だったと云う年齢にしては顔立ちが幼く、初めは同い年か年下に見えたものです。


「いえ、私こそ下を向いてましたので……こちらこそ失礼しました」


「いや、ぶつがったのはオラァだし娘さんは悪がね!」


 彼はそう云って頭を深々と下げたのでしたが、背の荷物がそのまま彼を押し潰しそうで怖かったので頭を上げさせました。


「いえ、それに転びそうになったところを助けて頂きましたし、感謝しています」


 私がお礼を述べて頭を下げると今度は彼が首を横に振って私の頭を上げてくれました。


「いやいや、元はど云えばオラァがぶつがんながっだら転ばずに済んだで、礼を云われるこっちゃね!」


 そう云って彼は再び頭を下げてしまいました。

 その後、私達は互いに頭を下げては相手に恐縮する事を繰り返していました。

 しかし私はここが天下の往来ということを失念していました。

 気がつけば私達は周りから好奇の目で見られていました。


「あ……こちらに」


 私は彼の手を取って人だかりを抜けて、馴染みの茶店に落ち着きました。

 思えば私はあの時、何故彼の手を取ったのでしょうか? 私だけ逃げても良かったのに……

 まあ、済んだ事は仕方ないとして、そのまま別れるのも薄情な気がして互いに自己紹介をする事になりました。

 聞けば彼は青森から絵の勉強をするために単身東京へとやって来たそうです。

 なんでも彼の故郷の近くで西洋画の個展が開かれて、そこで西洋画の魅力に取り憑かれて一念発起をして東京に出てきたとか。

 そして高名な画家が来日していて東京に滞在していたそうで、この機会に弟子入りすべく上京してきたのだそうです。


「オラァの実家は恐山にあっで、おっ母はイタコやっでて、そんで生活しでるだ」


 彼の兄弟は皆小作人になって母親を手助けしていたそうですが、彼は生まれつき病弱で農作業に耐えられなかったそうです。

 腕力こそ強かったそうですが、すぐに熱を出して寝込む事が少なくないそうで、いつも兄弟に負い目を感じていたとか。

 でも、彼は絵の才能がずば抜けていて、イタコをしている母親の傍らで似顔絵描きとして糊口をしのいでいたそうです。

 特にイタコに“口寄せ”を依頼しにきた家族から特徴を聞き出しただけで故人そっくりの絵を描く特殊な技能を持っているそうで、それが評判だったようです。


「オラァ、偉い画家先生になっでおっ母と兄弟を助げてぇ。今まで不甲斐無がった分、家族に楽させでぇンだ!」


 私は彼の手を取って、何度も頷いていました。彼の情熱に打たれたのかも知れません。

 私達はその場で別れましたが、その別れ際、私は明日もこの茶店で会いましょうと約束を交わしていました。

 勿論、東京に不案内な彼を案内するためです。

 思えば私はその時、既に彼に惹かれていたのでしょう。

 その後、私達は暇を見つけては、示し合わせて一緒に芝居見物や神社参拝に出かけるようになっていました。

 その事を私は姉様や桜花には内緒にしていました。私は姉妹といえども彼との逢瀬を知られたくなかったのです。

 逢瀬……そう、私達は惹かれ合っていつしか恋愛感情が芽生えていたのです。

 出会ってたったの三月(みつき)で彼、弥三郎様は私にとって特別な存在になっていったのです。


 そんなある日、私は弥三郎様に呼び出されて夕方、洒落た洋食屋で落ち合う事になりました。

 大事な話があるという彼の真剣な目に私はただ頷くしかありませんでした。


「お呼びだてして申し訳ありません。月夜殿」


 待ち合わせのお店に着くと弥三郎様が出迎えて下さいました。

 彼は洋装にザンギリ頭という垢抜けた姿で私の手を取って席へと案内して下さいます。

 弥三郎様は幸運な事に上京してすぐ目的の画家に弟子入りを許され、お師匠の身の回りをお世話しながら絵の勉強をしていました。

 同時にお師匠に指摘されて、まず髷を落とし、必死に標準語と英語、伊太利亜(イタリア)語を身につけて、今では下手な東京の人間よりも垢抜けた近代的な美青年へと変貌を遂げていました。


「あ、いえ、ご招待ありがたく思います」


 私は糊の利いたシャツにスーツという姿の弥三郎様にドギマギしてしまい、そう答えるのがやっとでした。

 こんな事なら以前知人に勧められるまま作ったドレスを着てくれば良かったと後悔をしたものですが、後の祭りです。

 その後、一緒にお食事をしたはずでしたが、その時の私は相当に舞い上がっていて料理を味わうどころではありませんでした。


「月夜殿……今日、お呼びしたのは他でもありません」


 食事を終えて食後のお茶を楽しんでいると、弥三郎様は居住まいを正して私の顔を見つめました。


「は、はい! 何でしょう?」


 私はこの時ばかりは自分に呆れてしまいました。「何でしょう?」は無いでしょうに……


「実は……師匠が国に、伊太利亜に帰る事になりました」


「そうですか……」


 私は話の先が見えず、そのまま先を促します。


「そこで私も師匠に付いて伊太利亜に渡ろうと思っています」


「え……」


 私は目の前が真っ暗になったような錯覚を覚えました。

 すると、もう弥三郎様に会えなくなる?


「三年です」


「はい?」


 弥三郎様は私の手を取ってそう云われましたが、私は頭が回らず呆けた返事しかできません。


「三年後、私は再びこの日ノ本に帰ってきます。その時までには絵で生活できるようになっています。だから……」


 弥三郎様は私の顔を真っ直ぐに見つめて私に赤い水晶玉のような物を握らせてから、言葉を続けます。

 その言葉に私は涙を止めることができませんでした。


「三年後、月夜殿には私の妻になって頂きたい!」


「え……」


 今度は目の前が真っ白になったような錯覚を覚えました。

 そして不意に唇に何かを押しつけられた感触・・・・


「好きです。愛しています。月夜殿、私の妻になって下さい」


「私のような者で良ければ喜んで!!」


 私は胸に溢れる歓喜に流され、はしたなくも弥三郎様に抱きついて今度は私の方から唇を重ねました。


「私も弥三郎様が好きです! 愛しています!! どうか私を妻にしてください!!」


 彼も若かった。私も十四の小娘だったけど、感情の高まりを抑えることができませんでした。









 翌朝、目が覚めると私は弥三郎様の洋風の下宿にいました。

 私は生まれたままの姿でしばらくベッドの上で惚けていたのです。

 あれは夢だったかと思いましたが、下腹部に走る疼痛とシーツに落ちた赤い斑点から現実であると漸く自覚する事ができました。


「おはよう、月夜ど……月夜。その……もう大丈夫です……もう大丈夫かい?」


 見るとパンが入った籠と軽いお食事の乗ったお皿を手にした弥三郎様が顔を真っ赤にさせてそう訊ねられました。

 言葉がしどろもどろで何度も云い直しているのは、私が呼び捨てにする事と敬語を使わない事を望んだからです。


「おはようございます。ええ、大丈夫です。弥……旦那様」


 旦那様。そう云ってから私の頬は熱くなってしまい、恥ずかしさに思わず下を向いてしまいました。


「月夜……」


 弥三郎様が私の顎に手を添えて上を向かせます。


「旦那様……」


 どちらからともなく、私達の唇が重なりました。

 その後、弥三郎様が伊太利亜へ旅立たれる日の三日前まで、私は彼の下宿に行っては家事を手伝い三日に一度は泊まるという生活が続きました。

 足繁く弥三郎様の元へ通う私に桜花を始めとする門下生達も不審がっていましたが、あえて何かを聞き出そうという気配は見せませんでした。

 ただ姉様には、「それが貴女の幸せに繋がると云うのなら私は何も云わない」と云われましたが……


 その頃の私は幸せの絶頂と云えました。けど、その幸せも長くは続かなかったのです。

 弥三郎様が渡航の準備に追われている中、私はいつものように彼の部屋を掃除していました。

 その時、魔が差したのでしょう。つい弥三郎様の机の引き出しを開けてしまいました。

 そこには丁寧に保管された手紙が何通か入っていました。

 送り主は女性で住所は青森、初めはご家族からの手紙かと思いました。

 しかし弥三郎様と姓が違うのです。

 私は悪い予感を覚えて、罪悪感を振り切るように封筒の中身を取り出しました。


「こ、これは……」


 私は絶望感に頭を掻きむしりたくなる衝動を必死に抑えて他の封筒の中身を全部開けます。

 手紙の送り主は全て同じ人物、同じ住所、しかも女性……

 しかも、その文面は明らかに恋文だったのです。

 文字は汚く平仮名だらけで、文章も拙い。でも『彼に逢いたい』と云う気持ちは痛いくらいに伝わってきました。

 そして乱舞する『いいなづけ』と『およめさん』という単語。

 その時、私がどんな顔をしていたのか判りません。想像もしたくもありません。

 けど、判っているのは『心』……私の『心』は悋気、嫉妬なんていう言葉など生ぬるい感情で溢れていました。

 純粋な怒り、憎悪。私は『たなかウメ』なる人物に自分でも吐き気を催すほどの憎しみを抱いていました。

 もし、「何故、弥三郎を憎まない?」という声があれば、私は蔑んでこう答えるでしょう。


「それは殿方の勝手な云い草……『女』は『女』を怨みます」


 とね。


「月夜? こんなところにいたのか?」


 私はその時、もっとも聞きたくない声を聞いてしまいました。


「恨めしや……弥三郎様」


 私は彼の下宿から逃げるように我が家へと走り去りました。

 家に着いた私は姉様の咎める言葉を振り切って私室の襖を開けると、愛用の文机の引き出しから一つの薬包紙を取り出しました。

 私は弥三郎様と同じく生まれつき体が弱く、剣術の稽古はおろか基礎体力作りの運動にさえ耐えられない人間でした。

 しかし私は姉様達が剣術の稽古をしている傍ら、土蔵にあった我が霞家に伝わる古文書を読み解き、兵法や火術を独自に学んでいました。

 今、私の手の中にある薬包紙には兵法の奥義の一つである投毒術の集大成が詰まっているのです。


「オノレ、憎しや! 『たなかウメ』!! 我が魂魄、オノレの血筋末代まで祟ってくれようぞ!!」


 否、やはり弥三郎様を愛するが故……仮令(たとえ)憎い『女』でも弥三郎様の愛する人を殺せない。

 心の底では『たなかウメ』を殺して地獄に堕ちるより、弥三郎様を愛したまま死のうと想っていたのかも知れません。


「何故……何故で御座います? 弥三郎様……恨めしや……恨めしや、弥三郎様……恨めしいほど愛しています」


 私は薬包紙に包まれた白い粉を口に入れながら未練を吐露してしまいました。

 涙で霞む視界の中で姉様が私を呼んだような気がしました。









 私こと吉田弥三郎は月夜殿が走り去った後、しばらく阿呆のように立ち尽くしていました。

 ふと足下に目をやると封筒と手紙が散乱しているのに気づいてしまいました。


「ま、まさか月夜はコレを読んで?!」


 私は取る物もとりあえず、月夜殿の後を追いましたが、しかし彼女の姿は既になく、私は焦燥を募らせるしかありませんでした。

 なんという事だ。私は彼女の家にまず連絡をするべきかと思って愕然としました。

 私はこの時、彼女の家がどこにあるのか知らない事に初めて気づいたのです。

 私はいつも彼女との待ち合わせに利用していた茶店に向かう事にしました。

 しかし茶店の主人も看板娘のおキヨさんも月夜殿の家を知らないと云う。

 焦燥に駆られながらも私はたまたま通りかかった官憲を捕まえて月夜殿の家を訊ねると、逆に不審者扱いされて詰問され余計に時間を費やす結果になってしまいました。

 焦りが焦りを生み、喧騒の中で右往左往していると急に胸が苦しくなって私は酷い咳をを繰り返し立っていられなくなってしまいました。


「こ、こんな時に喘息の発作なんて……」


 私は何度も咳き込み、呼吸をする事さえままならず次第に意識を手放していったのでした。









 目を覚ますと、心配そうに私を見つめる先生の奥方様と目が合いました。


「まあ、ヤサブロー、目を覚ましたのね!」


 奥方様はしきりに私の絵の師匠、マリオ先生の名を呼んでいるのをぼんやりと聞いていました。


「良かった。気がついたんだね! 君はもう四日も昏睡していたんだ」


 にこやかに話しかけるマリオ先生に私は朦朧と謝罪するしかありませんでした。

 そして急に意識が覚醒してマリオ先生に詰め寄ってしまいました。


「わ、私は四日も眠っていたのですか?!」


 その直後、大きく咳き込んでしまい、奥方様に支えられながら先生に叱られてしまいました。


「ヤサブロー、無理をしてはいけない。何、船は昨日出てしまったが、焦ることはない。我が祖国、伊太利亜は決して逃げないからね?」


 マリオ先生はウインクをしておどけて見せました。

 奥方様も「体が健やかになればいくらでも機会は得られるわよ」と微笑んで下さいました。

 たった数ヶ月しかいなかった私をここまで気にかけて下さる先生達に感動したのは確かですが、私は兎に角月夜殿が気になってその事を訊ねました。

 すると奥方様は急に不機嫌になられて彼女を罵り始めてしまいました。


「まったく、貴方の一大事だというのにあれから全く姿を見せないんだよ! 何があったか知らないけど、冷たい話じゃないのさ!」


 私はその言葉に悪い予感を覚えてベッドから降りようとしましたが、マリオ先生の意外と力強い手にベッドに押さえ込まれてしまいました。


「ヤサブロー、無理をしてはいけないと云ったはずだよ? 彼女が気になるのは仕方ないけど、今はゆっくり休む事だよ」


 私は奥方様に何かの薬を飲まされると、次第に眠気に襲われて瞼を開ける事すら困難になっていました。

 私が再び意識を手放そうとする直前、マリオ先生がこう仰いました。


「安心しなさい。ツキヨは私達も捜している。本当は君が目覚める前に見つけたかったんだがね? でも、約束するよ次に君が・・・・」


 マリオ先生の言葉を最後まで聞くことは叶わず、私は意識を途切れさせてしまいました。









 再び目を覚ますと、既に夜になっていて私は闇の中にいました。

 私は夜風に頬を撫でられながらおぼろげに視線を這わせると、窓が開いている事に気がついたのです。

 いくら春とはいえ、夜風にさらされるにはまだ寒い時期。私はぼんやりとした意識のままベッドから降り、窓を閉めようとしてハッと覚醒しました。


「この窓は嵌め殺しのはず! いったいコレは?」


 私は足下に奥方様自慢のステンドグラスがある事に気づきました。そう、この嵌め殺しの窓にあった物です。


「な、何か鋭利なもので切り取られている?!」


 私は例えようもない悪寒に身を震わせる事になります。

 つまりステンドグラスを音も立てずに綺麗に切り取る物を持つ人物が、私の部屋から進入した事になるのですから。

 何が目的かは判りませんが、侵入者は再び私の部屋に戻ってくるかも知れません。この窓から出るために……

 そこで私はもう一つ重大な事を思い出しました。ここは、下宿に使っているマリオ先生の私邸は三階建て、そして私のいる部屋は三階……

 窓から身を乗り出すと、地面は夜の闇に飲まれて見えなくなっていて、ソレは奈落の底を思わせて私は思わず身震いしました。

 そしてさらに足場になりそうな出っ張りのない平坦な壁、また吊り下がる為の縄などが見当たらない事実に私は叫び声を上げそうになってしまいました。

 いえ、今思えば悲鳴の一つでも上げれば異変を察して誰かが来てくれたかも知れませんが、後の祭りです。


「そんなに身を乗り出したら危険よ?」


 突然背後から声をかけられて私の体は硬直してしまいました。


「吉田弥三郎さんですわね?」


 名前を呼ばれて私は恐る恐る振り返りました。


「吉田弥三郎さんに間違いありませんね?」


 私が無意識に頷くと、タンスの陰から大きな影が現れました。


「それは良かった。こればかりは人違いで済ませる訳には参りませんものね」


 その時、雲が途切れたのか月光が部屋の中に差して影を照らしました。

 影の正体は剣道か何かの道着を着た長身の女性で、手には木製の六角杖が握られています。

 恐怖を懸命に抑えながらよく見ると、長い髪を後頭部で縛った月の光の中に映える美貌の人でした。

 目はきつく閉じられ、哀しいのか怒っているのか判りにくい表情をして私を『視』ているのです。

 そう、私には何故か解りました。その閉じた瞼の下からジッと私を『視』ている事を。


「先日……」


「え?」


 苦悩する哲学者のような重たい口調で彼女は私に話しかけてきました。


「先日、一人の少女の『夢』が無惨に打ち砕かれました」


「一人の少女の……『夢』?」


 彼女は眉間に深い皺を刻んで頷きます。


「そう、愛しい人と結ばれたいという少女なら誰でも抱く『夢』です。しかし、その少女の『夢』は残酷な方法で砕かれました」


「ま、まさか……その少女というのは?」


 私は恐怖を上回る焦燥感に襲われて彼女に詰め寄ろうとしましたが、六角杖を突きつけられて歩みを止めざるを得ませんでした。


「『夢』を砕かれた少女は恐ろしい毒を呷り……その儚い『命』さえも自ら砕こうとしました」


「ど、毒ですって?!」


 私は形振り構わず彼女に縋ろうとしましたが、顎を蹴られて悶絶するだけという惨めな結果に終わってしまいます。


「幸い手当が早く、命は取り留めましたが……」


 彼女は私の髪を掴むと無理矢理立たせて顔を近づけて続けます。


「あの天上の雅楽のようだった少女の美しい『声』は……」


 いきなり彼女は私の喉笛に噛みついてきて、私は痛いと思う前に恐怖に駆られて叫びそうになりましたが、喉仏を噛み潰されて悲鳴にはなりませんでした。


「あの誰もが羨んだ美しかった『声』は毒に潰され、童話の魔女のような恐ろしい『声』に!!」


 私は憤怒の表情で涙を流す彼女に、月夜殿の面影を見たのです。


「ひゅー……貴女は……ひゅー……月夜の……ひゅー……ひゅー……」


 喉を潰され、私の『声』にならない『声』にそれでも彼女は頷いてみせました。


「少女の砕かれた『夢』……その代価、払って頂きます」


 彼女が六角杖を左手に持って腰に添える奇妙な構えを見せたと思えば、月光を反射して何かが煌めき、気付いた時には彼女の姿はどこにもありませんでした。

 あれは夢だったかと思った矢先に切り取られたステンドグラスが目に入り、夢ではなかったのだと他人事のように思いました。

 そう思ったと同時に再び彼女の声が聞こえて来ました。


「少女の『夢』の代価は……貴方の『夢』」


「え?」


 聞き返そうとしたその時、ドサッという音がして足下を見ると黒い塊が見えました。

 何かと思ってソレを拾おうとした時、私の右腕が無い事と落ちていた物こそが私の右腕だと気付き、私は喉の痛みを忘れて絶叫を上げたのでした。









 その日の霞流道場は朝から騒然としていました。

 先程、顔見知りの巡査殿が来て、姉様が白装束を身に纏って警察に出頭した事を伝えて帰っていったのです。

 巡査殿の話では姉様は「人の腕を斬り落とした。その場は命までは取らなかったが、傷の具合いかんでは殺人罪になるかも知れぬ」と自ら捕縛されたとの事。

 そして被害者の名前を聞いて私は今度こそ絶望感に打ちひしがれたのでした。


『弥三郎様……姉様、どうして……』


 毒で爛れた私の『声』は世にも恐ろしいものとなっていたのです。

 私はすぐにでも弥三郎様と姉様の元へ馳せ参じたかったのですが、まだ毒が抜けきっておらず全身が痺れて這うことすらできませんでした。

 その遅れが後にあの地獄を生み出す事になろうとは、想像すらしていなかったのです。









 明晩、私は不思議な夢を見る。

 切なく哀しい別れ…そして希望の言葉。

 しかし、偽りの希望は更なる地獄をこの世に齎す。

 弥三郎様と私の恋の行く末は?

 警察へ出頭した姉様の運命は?

 それはまた次回の講釈にて。


 月夜の過去です。

 前編だけ見ると弥三郎が悪いように思えますが、真実は……

 哀しい月夜の恋は次回、収束しますが、救いはあまりないかも知れません。

 しかし、私はハッピーエンドを目指して執筆してますので、今後もお付き合い頂ければ幸いです。

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