第漆章 『弥三郎』様
城下町を抜け、外壁の門を潜った私達は広大な草原に感嘆しました。
「ここを順調に南下できれば夕刻までにはロッツァーという街に着きます。今日はその街で宿を取る予定になっております」
メフィさんは事務的な口調で説明をします。
「解りました。では参りましょう」
姉様は杖を先に出して障害物が無いか確かめながらゆっくりと一歩を踏み出しました。
「ええ、順調にいけば……ですけどね」
姉様の歩みを見つめるメフィさんの目は限りなく冷たいものでした。
結論から云えば、私達の旅は順調でした。
途中、人の様に直立して武器を使いこなす狼や一刺しで岩をも砕く巨大な蜂の怪物に数度襲われましたが、ほとんど姉様が排除してくださいました。
私は炸裂弾で数匹の蜂を纏めて倒し、桜花も『日輪』を使って狼を倒しましたが、私達の合わせた数よりも姉様一人で排除した敵の数が多かったのは明らかです。
メフィさんは貴重な治療要員であったので、姉様の指示で後ろに下がらせたのですが、私達はろくに手傷を負う事もなかったので、彼女を煩わせる事はありませんでした。
けど、何故かメフィさんは苦虫を噛み潰したような顔で私達を、正確には姉様を睨んでいます。
「流石、勇者様ですわ。大きな痛手を受ける事無く、あのモンスター達を蹴散らすなんて! アレらには並みの騎士では歯が立たないというのに!」
「ううん、ほとんど何もしてないよ。ホント、いつになったら姉様と肩を並べて戦えるようになるのかなぁ?」
手放しで褒めるメフィさんに桜花は小さく首を横に振ると、姉様に憧れの目線を向けます。
それが面白くないのか、姉様を見るメフィさんの目が益々険しくなっているようでした。
「あら、貴女はもう十分強いわよ? 後は実戦を積めばすぐに私を追い抜くはずよ。だから自信を持ちなさい」
姉様は慈愛の表情で桜花の頭を撫でられました。
「姉様……うん♪」
桜花の笑顔はまさに日輪のようで、それを見ただけで疲れが吹き飛びます。
「あれ? ねえ、メフィさん?アレって何?」
昼下がり、怪物の襲撃も落ち着いて、のんびりと街道を進んでいると、桜花が遥か前方を指差しました。
目を凝らすとなにやら黒い靄ののようなものが立ち込めているようでした。
「アレは……あそここそが『要』、“悪しきモノ”を封じる禁断の地の一つ。そしてあの大地に突き立つ巨大なモノこそ『楔』です」
わなわなと身を震わせて説明するメフィさんの云うように、靄の中に巨大な黒い円錐状の影が見えます。
これだけ離れても威圧感を感じると云う事は近づくだけで如何なるモノを感じるか想像も尽きません。
「「「「……っ?!」」」」
今、一瞬だけでしたが靄が形を作って巨大な人影になったように見えました。
「月夜? 今、只ならぬ気配を感じたんだけど……」
(姉様も感じられたのですね? 話に聞いていた黒い霧が一瞬、巨大な鬼の姿に……)
「ご覧になられましたか? 黒い霧が作り出す影こそが『要』に封じられた“悪しきモノ”の姿と云われています」
メフィさんの言葉に私達は何も云えなくなってしまいました。
確かに気配だけでこれ程の瘴気を放つモノを復活させる訳にはいかないですね。
「成る程、想像していた以上に世界を取り巻く状況は悪いという事ね」
姉様は真剣な表情で『要』のある方角に顔を向けていますが、私は見てしまいました。
姉様が一瞬、まるで獲物を見つけた獣の如く愉しそうに唇を舐めるところを……
「行こう! 一刻でも早くヴェルフェゴールを倒して『楔』を砕いてあげよう!」
「勇者様……」
使命感に燃える桜花にメフィさんは感激そのものといった表情で見つめています。
対照的に姉様と私はヴェルフェゴールに対する義憤はあっても使命感までは芽生えておらず、微妙な温度差がありました。
強いていえば、『地獄代行人』としての義務感があるくらいでしょうか?
報酬? 無論、頂きますよ。ちゃんと聖帝陛下やアリーシア様と契約は結んで書面にも残してあります。
前方に街が見えてきた頃には太陽が西に連なる山々の向こうへ姿を消そうとしていました。
「あれに見えますはロッツァーと呼ばれる街です。乗り合い馬車の中継基地でもあり、明日は馬車を借りて運河まで一気に進みます」
成る程、確かに遠目にも街の中で沢山の馬車が行きかっているのが見えます。
そう云えば道中、何度も幌馬車や荷馬車と擦れ違いましたね。
「……」
不意に姉様が足を止めてしまいました。
「どうしたのです? もう街は目の前なんですから頑張ってください?」
どうやらメフィさんは姉様が単に疲れて歩みを止めたと思ったようですね。
「出てきなさい。日中は兎も角、夜まで監視されるのは御免よ?」
「何を云ってるのですか、貴女は?」
メフィさんは苛立たしげに姉様に詰め寄ります。
「それともニンゲンが怖いの? 魔族と云ってもピンキリね」
嘲笑まで浮かべる姉様の5間(約9メートル)前に黄昏の闇が凝縮されたような気配が生まれました。
『ふん! 安っぽい挑発だ事……あまりにも子供染みた挑発しか出来ない貴女が可哀想だから出てきてあげたわ』
闇はやがて人の形を作り、アリーシア様より更に切れ込みを凄くした黒い革製の肌着に黒いマントをつけた金髪の女性が現れました。
金髪と云っても赤みがかっていて、さながら闇の中で揺れる炎を連想させました。そして何より特徴的なのは妙に先の尖った耳です。
思えばスタローグ家の人達も耳が尖っていましたね。
「出てきてあげた、ねぇ……貴女の役目は諜報? 刺客? 前者なら既にしくじりよ。最も後者なら後者で真正面から来るなんて刺客失格だけどね」
更に嘲る姉様に魔族と思しき女性は顔を真っ青に染めてしまいました。
ややこしいですが、血の気が引いているのではなく、血液が青いために顔が紅潮すると魔族の場合は青くなるのです。
『う、うるさい! うるさい! うっるさーーい!! どの道、アンタ達の情報なんて役に立たなくなるわよ!!』
どうやら前者だったようですね。地団駄まで踏んでいます。
「あら? その心は?」
『ここでアンタ達が死ぬからよ!! 私は魔将軍ヴェルフェゴール閣下から最も信頼を得ている将軍直属の情報武官・ヴァンティス! 鮮血のヴァンティス!! スタローグ達なんかとは格が違うわよ!!』
ヴァンティスは鋭く尖った犬歯を剥き出しにして姉様に肉薄します。
それはまるで矢の様で常人では見切る事はおろか身のこなしさえ見えなかったでしょう。
「スタローグ一家の面々は尊敬すべき敵であると同時に家族よ。彼らを貶める云い方は感心しないわね」
しかし矢はおろか近距離でなければ拳銃の弾さえ叩き落す姉様には不十分の速さだったようです。
姉様は既に抜刀して上段の構えで待ち受けています。
『がっ?!』
ヴァンティスの蟷螂を思わせる爪が姉様の喉を貫く寸前、大真典甲勢ニ尺六寸が彼女の脳天に落ちていました。
『あういいぃぃぃぃ……ま、まさかそんなぁ……そんなぁ……』
「確かに私達の情報は役に立たなくなったわね? 情報をヴェルフェゴールにもたらすべきモノが死んでしまってはね」
『そん……おらそんごく!!』
姉様は力を込めていた様子はありませんでしたが、ヴァンティスはあっさりと脳天から股間まで真っ二つに裂けて絶命しました。
ヴァンティスの顔は真っ二つになった時に潰れて元の顔が解らなくなっています。
「な……聖剣を持たないただの剣士が魔族を……」
メフィさんは驚愕と恐怖を顔に貼り付けて姉様とヴァンティスを交互に見る事しかできなくなっていました。
「聖剣? そんなモノは私には必要ないわよ? 大真典甲勢ニ尺六寸、歴代霞家当主によって九百と七十と八の妖魔の血を吸い続け……今やどんな高僧でも拭いきれない怨念が籠った妖刀よ」
姉様が血振りをくれて納刀すると、ヴァンティスの死体は急速に黒く変色して、やがて塵となって消えていきました。
「人と魔が相争う世でなければこうして殺し合うこともなかったでしょうに……哀しきは兵達ね」
先程までヴァンティスの死体があった場所に姉様は哀しそうな顔を向けると、右手を眼前に掲げて黙祷されました。
我が霞家当主の役目、この世にはびこる悪を妖魔の形にして斬り捨てる……それが如何なる重みなのか傍観者である私には想像も尽かない事です。
「さあ、早速宿に行きましょうか」
姉様は呆然とするメフィさんを置いて街の門を守る番人らしき人の方へと歩いて行かれました。
「メフィさん? 街の案内をお願いします」
嫌に熱の籠もった目の二十歳くらいの番人に手を握られた姉様が困惑げに首だけ振り返ってメフィさんにそう云ったのでした。
かすかに聞こえてくる番人の声から、彼は先ほどのヴァンティスとの戦いに興奮しているようです。
「実はあの魔族はこの辺りに現れては悪さをしていたので困っていたところだったのですよ!」
「左様でしたか……それはそれとして、手を……」
あ、姉様の声にやや怒気が混ざって……
いい加減助けないと後が怖いですし、そろそろ呆然としているメフィさんを再生させて……
「メフィさん、行こ?」
桜花がメフィさんの手を取ると彼女は漸く正気を取り戻すことができたようです。
「ゆ、勇者様! これは失礼致しました」
復活したメフィさんは桜花と手をつないだまま姉様のいる門へと歩いていきました。
(彼女、大丈夫でしょうか?)
メフィさんの足取りは重く、今にも倒れそうで後ろから見ていて気が気ではありません。
しかし番人と何か二、三言話して姉様を解放したところを見ると大丈夫なようです。
街に入って宿屋に落ち着いた私達は今後の行動を打ち合わせを済ませて早めに就寝することになりました。
明日は馬車を借りるとは云え、長距離を一気に進むという事で体力を温存する必要があったからです。
「では私はこれで失礼します。今夜は私が見張りをしていますので、安心してお休みください」
メフィさんはそう云うと自分の部屋に戻っていきました。
その際、姉様を大きく避けていく彼女に少なからず嫌悪感を感じてしまいましたが、顔には出ていなかったと思います。
「見張りなんて必要ないのにね」
姉様は苦笑してベッドの上に体を倒します。
確かに私達は変事があればすぐに起きる事ができるので見張りは必要ありません。
「折角の好意だし、彼女の好きにさせましょう」
姉様がそう仰ってから、すぐに寝息が聞こえてきました。
「姉様ってホント寝付きが良いよね」
桜花は姉様の寝顔を見て苦笑しています。
かく云う私も姉様の寝顔を夢中になって見ていますけど……
「姉様の寝顔って相変わらず子供みたいだよね? 剣の稽古してる時とは全然違うよ」
(当然でしょう? 剣術とは結局は人を傷つけ、命を奪う技術、それを人に教える以上真剣になるのは当たり前です)
「そうなんだけどね。この寝顔を知ったら門下生の皆は絶対にビックリすると思うよ?」
云われてみれば姉様の寝顔は穏やか過ぎですね。無垢な子供のようで、とても十八歳とは思えません。
すると姉様の頬を一粒の雫が筋を描いて流れていくのが見えました。
「つ、月夜姉様……これって?」
い、いけません。姉様の寝顔を見入っているうちに涎が……
私は手拭いを取り出すと姉様の睡眠を妨げないように軽く頬を拭いました。
「月夜姉様って雪子姉様の事になると変わるよね……」
お、桜花? 何故そんな眼で私を見るのです? 何故そんな微妙に距離を置こうとするのですか?
「まさかとは思うけど……」
桜花は頬を引き攣らせながら姉様に布団を掛けて云います。
「雪子姉様、清いままだよね?」
どういう意味ですか。
「月夜姉様、鏡……」
桜花が差し出した手鏡に映った人物に私は目を丸くしてしましました。
(これは誰です?)
「月夜姉様だよ……桜花、女色に偏見はないけど一応血の繋がった姉妹だからね?」
私は鏡に映る爛々と目を輝かせている自分自身に呆気に取られて桜花の言葉のほとんどが耳に入っていませんでした。
「なんか怖いなぁ」
うう、平常心、平常心。
「今の月夜姉様の目って、いつも桜花にお団子をくれる団子屋のおキヨさんが桜花を見る時の目にそっくりだよ」
あ、あの人と同類ですか……
ちなみにおキヨさんとは桜花の顔馴染みで、何と云いますか強烈なまでに女色のケがある人なのです。
その人は桜花が大のお気に入りで、桜花に余計な知識を刷り込んでは私達に迷惑をかけてくれます。
(そ、それは兎も角私達も休みましょう)
私はあの人と同列と括られた心の痛手を引き摺りながら頭から布団を被ります。
「うん、おやすみなさい」
程なく桜花の寝息が聞こえてきましたが、私はすぐさまベッドから降りると、寝間着を脱いで愛用の紺の着物を直接素肌の上に羽織ります。
(しばらく安眠は得られそうにないですね)
私は帯を締めると袖の下に妖しく光る赤い玉を忍ばせます。
(参りましょうか、『弥三郎』様?)
そう心の中で呟くと袖の中に仄かに暖かい気配が生まれました。
街は闇に覆われ、宿の中で起きているのは私の他には見張りを買って出たメフィさんだけでしょう。
私はギシリギシリとゆっくり廊下を進む足音にじっと耳を傾けています。
『さっきは酷い目に遭ったけど、コレで汚名返上よ』
『何がです?』
私の問いかけに闇の中の気配に動揺が生まれます。
『な、アンタは?! 年寄りみたいな声を出すから誰かと思ったじゃない!!』
闇から現れたのは夕方、姉様に唐竹割りにされたヴァンティスでした。
しかし私は特に驚いてはいません。何となくですが、気配が彼女に似ていたからです。
「何事ですか?!」
部屋から勢いよく飛び出してきたのはメフィさんです。
一瞬、下半身だけ裸に見えて驚きましたが、どうやら恐ろしく布地の面積が少ない下着を着用していたようです。
「あ、貴女はあの剣士に殺されたはず?!」
メフィさんはヴァンティスを指差したままあんぐりと口を開けています。
『フフン♪ 私があの程度で死ぬワケないじゃない? 私はね、血の一滴さえこの世に残っていれば月光の魔力を借りてすぐに復活できるのよ!!』
ヴァンティスは私達を威嚇するようにマントを翻します。
『だから私はヴァンティス!! 鮮血のヴァンティスと呼ばれているのよ!!』
「ぐっ……化け物め!」
メフィさんは槍を構えると間合いを取りながらヴァンティスを睨みます。
穂先はヴァンティスの喉を狙っていて、メフィさんはいつでも槍を突けるように緩急をつけて扱いています。
「私は星神教・守護騎士の一人! 『水』と『癒し』を司る『亀』の神々の加護を受ける者! メンフィス=イルーズ、参る!!」
その槍の一撃はまさに疾風迅雷!
穂先は正確にヴァンティスの喉笛を貫きました。
『フーン? 守護騎士といってもこの程度なの?』
口から血の泡を吐きながらヴァンティスが小馬鹿にした笑みを浮かべてメフィさんを見つめていました。
「くっ! 魔族め!!」
必殺の一撃を受けても平然としているヴァンティスにメフィさんは驚愕と恐怖の表情で叫びます。
どうやら彼女は精神的に追い詰められやすい性格のようです。
『今度はこっちから行くわよ! 『プロミネンス・ボール』!!』
ヴァンティスは喉を槍に貫かれたまま何事かを呟くと、手のひらに巨大な火球を出現させました。
『すぐに勇者様に後を追わせてあげるから寂しくないわよ!!』
巨大な火の玉はメフィさんを飲み込もうとしています。
「水よ、全てを清める聖なる水よ。盾となりて我を守り給え。『アブソリュートゼロ・シールド』!!」
命中の寸前、メフィさんの前に氷の盾が現れて火球を防ぎますが、力負けをして押し戻されてしまいました。
しかしそれでも火の勢いはほとんど相殺されて僅かな炎と衝撃がメフィさんを襲うに留まります。
「こ、これが魔族……」
炎で服が少し焦げてしまったメフィさんは憎々しげにヴァンティスを睨みます。
『あらあら、私の『プロミネンス・ボール』を受けてその程度のダメージで済ませた貴女の実力は賞賛してあげるわよ?』
「ふざけるな! 魔族に褒められる謂われはない!!」
『そうよね、苦手な炎の魔法を相殺するのがやっとのアンタを褒めてもねぇ?』
ヴァンティスはニヤニヤと嫌らしい笑みを浮かべてメフィさんを挑発します。
『私のもっとも得意とするのは精神に作用する魔法! おかしいと思わない? これだけ騒いでるのに起きてるのがアンタ達だけよ?』
「貴様、この宿にいる者全員を眠らせているのか?! 魔族の魔力とはこれほどなのか……」
『この宿に限らないわよ? この街のみんなに眠ってもらってるのよ、私』
ヴァンティスの言葉にメフィさんは愕然としてしまいました。
「魔族の使う魔法がここまでとは……勝てるの? 我々に?」
『フフン♪ ようやく気づいたようね? ニンゲンと魔族のどうしようもない実力の差ってヤツをね』
得意げにメフィさんを見下ろしているヴァンティスの背後を取るように私は少しずつ移動を始めます。
『で、アンタは不意打ちを狙ってるってワケ?』
私の気配を察したのか、思ったより視界が広いのか、ヴァンティスが笑いながら振り返ります。
『フフン♪ どんな手を使うのか知らないけど、血の一滴があればすぐに復活できる私には無意味よ? 巨乳のおチビちゃん?』
ヴァンティスは私の胸と身長を揶揄してケラケラ笑います。
『『弥三郎』様』
私は自分の影がヴァンティスの足下まで伸びている事を確認してから一声かけます。
「な……月が南天にあると云うのに何故貴女の影は南に伸びているのですか?!」
どうやらメフィさんの評価を改める必要があるようです。この状況でこの事に気づくなんてね。
そう、メフィさんやヴァンティスは勿論、調度品や生け花も南に輝く月の光を受けて北に影を伸ばしているのに、私の影は真逆。
私の影は南に伸びてすっかりヴァンティスの影を飲み込んでいます。
『お食事ですよ……『弥三郎』様』
「『ヒィ?!』」
異口同音に発せられた短い悲鳴に私は思わず吹き出しそうになってしまいました。
あれだけ互いを嫌っていた二人がまあ息の合った事。
『何よ、コレ?!』
見て解らないのでしょうか? 私の目には『顔』に見えますが?
はい、私の影から巨大な『顔』が現れてヴァンティスを飲み込もうとしています。
『ヒギィ?!』
『顔』から遠ざかろうとしたヴァンティスは人の形をした“闇”に拘束されています。
嗚呼、『弥三郎』様。こんな異世界まで私に付き合って下さったのですね。
私は少々の陶酔感を覚えながら全身『闇』の男性を見つめました。
『は、放して!!』
ヴァンティスは『弥三郎』様を振りほどこうと藻掻いていますが、『彼』に力で抗するのは愚かの極みです。
やがて『弥三郎』様の『闇』から子鬼が数匹這い出てきてヴァンティスの乳房やお尻に噛みついていきます。
これは好色というのではなく単に柔らかくて食べやすいと云うつまらない理由です。
やがて『弥三郎』様はヴァンティスの頭を掴むと無理矢理頭を下げさせます。
同時に『弥三郎』様から黒い帯のようなモノと紐のようなモノが多数現れてヴァンティスを更に拘束していきます。
『何を?!』
『血の一滴でも復活するのなら……』
恐怖に身を震わせているヴァンティスを無感動に眺めながら続けます。
『一滴残らずあの世に持って行くのが道理』
私の言葉にヴァンティスは目尻を裂けんばかりに目を開かせます。
『お、お願い! そ、それだけは……』
恐怖の為か失禁したヴァンティスに構わず『弥三郎』様は彼女を子鬼ごと巨大な『口』へと放り込みました。
『た、助け……』
『そうしたいのは山々なのですが……』
私はなんとか『口』から脱出しようとしているヴァンティスの目の前で腰を下ろして彼女を見つめます。
『生憎、貴女はしてはいけない事してしまったのでお助けするわけにはいきません』
ヴァンティスの絶望そのものといった表情に思わず自慰をしたくなるのを堪えながら、私はあくまで穏やかに宣告します。
『私の『声』を揶揄する人は……皆、『弥三郎』様の逆鱗に触れてしまうのですよ』
『口』が閉じて『頬』が恐ろしい勢いで動き始めました。
『痛い! やめて! 痛い! やめて! 痛い痛い痛い痛い痛い痛いイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイ……』
ナニかが聞こえてきましたが、やがてソレも聞こえなくなり、ゴクンと大きな音を立てて『喉』がナニか嚥下しました。
ふと足下を見ると、私の影は既に北に向かって伸び、ナニか……いえ、ナニかがいたと思ったのですが記憶違いのようですね。
いえ、確かに誰か、とても嫌な人がいたはずですが、どうも『弥三郎』様と一緒にいるとその辺の記憶が曖昧になって困ります。
ナニかがいた証拠に床に残った青い血のようなモノを小鬼がさも美味しそうに舐めています。
「ヒイイイイイィィィィ……」
見ればメフィさんさんが目を皿のように見開いて私を見ています。
しかも余程怖いモノを見たのか失禁していて、床に水たまりを作っている始末です。
まあ、彼女も十代とはいえ立派な社会人、後始末くらいは自分でできるでしょう。
『おやすみなさい』
『声』を聞かせるのは嫌ですが、彼女はまだ私の『言葉』を知らないでしょうし、あえて『声』をかけて階段を下りて外に出ました。
私は宿屋の裏手、どの客室からも死角になっている大浴場のある離れに向かい、脱衣所で仰向けになって帯を解きます。
『ご苦労様でした。『弥三郎』様、ご褒美です』
私が袖の下から赤い玉を取り出し、おへその上に乗せると玉は妖しく光り出してそばに控えていた“闇”を照らします。
“闇”はザンギリ頭の人の良さそうな青年の姿になりました。『彼』こそが私が先ほどから呼んでいる『弥三郎』様の真の姿です。
『弥三郎』様は『彼』特有のおよそ敵を作らない柔和な顔を今は酷く哀しげに歪めて私を見つめています。
『『弥三郎』様?』
私が訝しげに『声』をかけると『彼』は哀しげな表情のまま私に覆い被さり唇を重ねて下さいました。
『弥三郎』様の舌が私の唇をこじ開けて口腔に進入してきます。私も心地よい陶酔感を味わいながら舌を『彼』の舌に絡ませます。
同時に『彼』の舌から『ナニか』が滲み出て私はソレをゆっくりと嚥下していきます。
『ソレ』は勿論唾液なんかではありませんが、愛しく思えど厭う事はありません。
思うに『ソレ』は『想い』、『無念』や『未練』ではないでしょうか?
飲み下した『ソレ』は私の体内を駆け巡り、全身を爪先から髪の一本一本まで苛んでいるからです。
けど、先も述べましたが、『ソレ』は不快ではありません。むしろ私の体の隅々までが『弥三郎』様のモノである証。
『心』は姉様に捧げましたが、『体』は『弥三郎』様だけのモノ。
でも、それは仕方がないですよね? 『弥三郎』様は既にこの世の方ではありませんもの。『心』では『彼』を繋ぎ止める事は叶わないのです。。
『ああ、『弥三郎』様……』
『弥三郎』様は唇を離すと先程以上に哀しげに私を見つめながら私の体に手を這わせます。
『彼』の唇が動いています。ええ、判っております。『貴方』は哀しいのですね?
私の『体』を介さないと『この世』との繋がりを保てない事が……
それとも私の『心』が手に入らない事が哀しいのですか?
それとも私の『体』に縛られていることが苦痛ですか?
けど、私は『貴方』の事をやはり愛しているのですよ?
『体』以外に接点は無くなってしまいましたが、それでも私は『貴方』を失いたくはない。
『フフ、酷い顔……』
脱衣所の姿見に映る私の顔は酷く歪んだ笑みを浮かべていて、死人のように青ざめていました。
けど、逆に私の『体』は火のように熱く火照っていて、『弥三郎』様を浅ましく求めて(・・・)います。
『さあ、『弥三郎』様……来てくださいまし……お情けを頂戴致したく……』
『女』になった私は『弥三郎』様を迎え入れます。
全身を雷に突き抜かれるが如く『彼』に貫かれた私の脳裏には二年前の事が思い出されていました。
それは『弥三郎』様が弥三郎様であった頃の記憶…
身悶えするほどの幸福感と狂おしいまでの陶酔境の中で私の記憶がまさぐられていきます。
私の愚かな擦れ違いが招いた悲劇が弥三郎様と姉様を地獄に叩き堕としてしまう。
いいえ、それどころか、この悪人のいない愛憎劇は周囲にを悲しみと絶望に撒き散らしただけで、どこにも救いはなかったのです。
永遠に愛する人を失い、愛しい人を手に入れた悲恋と呼ぶにはおこがましい地獄のお話は……
それはまた次回の講釈にて。
月夜の戦闘能力は火術だけではありません。
夜になれば『弥三郎』様を使役して不死身だろうと魔族だろうと殲滅してしまいます。
夜間において敵を破滅させるという意味では雪子以上になります。