第弍拾肆章 鍼は痛くない。出費は痛い。
アンケートの結果、雪子に魔法を使わせる案は無しになりました。
『弥三郎』の制限は頂いたご意見を参考にもう少し煮詰めようと思います。
アンケートへのご協力、ありがとうございました。
桜花君の旺盛な食欲はいつもの事として、意外なまでの健啖ぶりを発揮した雪子さんによって料理とお酒はテーブルから消えつつありました。
「美味しかったわ。クラブ・クラブ、覚えておきましょう。機会があればまた寄らせて頂くわ」
フェイナンさんが馴染みという事もあって態々挨拶に来てくれた店主に雪子さんは微笑みながら紙に包んだ物を手渡しました。
店主は手の平に乗せられたソレの重さに中身を察したのか、驚いた表情を浮かべた後、慇懃に頭を下げたのです。
「これはこれは過分に賜りお礼を申し上げます。今後とも御贔屓に……」
「ユキコ殿? いったいいくらチップを包んだのですか?」
「云わぬが華。このお店は私の口に合った美味しい食事を提供してくれた。私はその喜びをご祝儀という形で返しただけですわ」
アランドラ様の問いに雪子さんは優雅に微笑んで返すのでした。
流石に吉原で評判をとっていた花魁の血を引くだけあって、お金の遣い方に粋なものが感じられます。
「これはお店の方々へのお小遣いです。店主殿の判断でお分け下され」
「誠にありがとうございます! 店の者達も喜びます!」
お金が入っていると思しき革袋を惜しげもなく差し出す雪子さんに店主は感動半分、良い上客が出来たという喜び半分といった表情を浮かべたものです。
「さて、そろそろ宿へ引き上げましょうか。店主殿、お会計をお願いします」
「畏まりました。どうぞこちらへ……」
余談ですがお代はチップを弾んだのが良かったのか、フェイナンさん曰く、半額に近かったそうです。
「金比羅船々、追風に帆かけてシュラシュシュシュ♪ まわれば四国は讃州那珂の郡、象頭山、金毘羅大権現、一度まわれば♪」
店を出てからも雪子さんは上機嫌のまま、懐手の格好で金比羅船々を唄っています。
杖もつかずに歩く姿は見ていて不安を覚えますが、傍目には周囲の人間や障害物の方から避けているように錯覚させるほどです。
「歌詞の意味は分かりませんが、ネムスに負けぬ綺麗な歌声ですな。周囲の者達もユキコ殿の声に聴き惚れていますぞ」
「唄は母様から厳しく仕込まれていましたからね。芸は身を助けるとか」
母親譲りの美声が自慢であるのか、雪子さんは謙遜を見せずに笑います。
宿への道すがら雪子さんはホロ酔い気分のままにお座敷唄を披露し続けていましたが、不意に立ち止まると表情を引き締めたのです。
「誰か! 誰かある!! 医者を呼んでくれ!!」
雪子さんは袖から手を出すと『月夜』へと差し出します。
すると『月夜』も心得たものでして、雪子さんの手を取ると声のした方へと導きました。
「た、助けてくれ! 子供が! いや、このままでは代理様も死んでしまう!!」
人垣を掻き分けて騒動の中心を見やれば、いかにも上流階級向けの高級そうな酒場の中で初老の紳士が顔を蒼白にさせて叫んでいたのです。
雪子さんが周囲の人に聞き込んでみると、どうやらどこぞの巫女が身重であり、それが急に産気づいたそうなのですが更に容態が悪くなったらしいとか。
「どれ、私が診て進ぜましょう」
雪子さんは酒場の中に入ると床に寝かされて苦しんでいる女性へと近づきます。
「お、おい! 私は医者を呼んだのだ! 女の出る幕ではない!!」
初老の紳士が雪子さんを止めようとしましたが、いつの間にか彼女は紳士の背後へと移動していたのです。
霞流剣術の高速移動術『青嵐』ですか。相手の背後を取る『松風』と併用すればこの位の芸当は雪子さんには朝飯前でしょう。
「安心なさいませ。危害は加えませぬ」
「ほう、ユキコ殿はお医師の真似事もされるのですか?」
「駆け出しではありますがね。ですが、下手な医者坊よりも遥かにマシと自負していますわ」
アランドラ様の声に雪子さんは振り返る事なく女性の前で膝を折ったのです。
尚も雪子さんに掴みかかろうとしていた老紳士をアランドラ様がやんわり抑えると、耳元で何かを囁かれました。
すると彼は溢れんばかりに目を見開いてアランドラ様を見つめ、次いで雪子さんに目をやると深々と頭を下げて下がったのです。
「では、御免!!」
雪子さんは酒場の入口を締めさせると、女性の体を覆っていたシーツを剥ぎ取ります。
なるほど、その女性は確かにお腹が大きく膨らんでいましたが、問題はその格好です。
巫女と呼ばれているから予想はしていましたが、何も身重で星神教の巫女そのままの衣装を纏う事もないでしょうに。
アリーシア様もお尻がほとんど露出した切れ込みが入った肌着を着ていましたが、彼女は更にお腹周りや脇腹、背中も大きく露出していました。
「まずはお脈から……」
雪子さんは脈取りから始め、どこが苦しいのか、ここを触ると痛いかなどと問診をしながら触診していましたが、下腹部を触れた途端表情が険しくなったのです。
彼女は肌着の他に丈の短いスカートを履いていましたが、雪子さんが取り払おうとしたその時、何故か老紳士が止めようとしましたが、思い止まったかのように項垂れました。
「ま……待って……スカートだけは……」
意識が朦朧としているだろうに彼女は懇願するように雪子さんの手を掴みました。
しかし、雪子さんは優しく微笑むと、彼女の頭を撫でたのです。
「大丈夫。殿方の目はご亭主以外にありませぬ。恥じる事はありませんよ」
その言葉通り、酒場にいたお客はアランドラ様とフェイナンさんによって二階や外へと誘導されていたのです。
指示もなくこれほどの気遣いを見せるあたりは流石ですね。
「そ、それだけでは……」
「ご安心を。私は医者です。患者の秘密は墓場まで持っていく義務がありますので」
それに安心したのか、彼女は苦痛以外の恐らく羞恥の赤に染まった顔のまま小さく頷いたのでした。
果たしてスカートと肌着を脱がせると、彼女の股間に有り得ない大きな膨らみがあったのです。
これが両性具有。この世界では生まれやすいと話には聞いていましたが、実際に目にするのは初めてです。
なるほど、これが頑なにスカートを脱ぐまいとした理由なのでしょう。
「では、失礼……」
雪子さんは顔に彼女の命の杖が当たるのを気にするでもなく、下腹部に耳を当てます。
すると得心がいった顔になり、懐から桐の小箱を取り出しました。
「これから行うのは私の世界……国において薬代が払えぬ貧しき者の為の医術です。決して貴女を害するものではありません」
「だ、代理様が苦しんでいる原因が判ったのかね?」
老紳士の戸惑い混じりの問いかけに雪子さんは後ろを振り返る事なく頷きました。
「ええ、下腹部に耳を当てた時、確信しました。赤ちゃんの鼓動の位置が高く、お腹を蹴る足の位置が低い……逆子でしょう」
「な、なんと……では代理様と子供は!?」
「無論、お助けします。どうぞ、お平らに」
雪子さんは小箱から数十本の鍼を取り出すと、『月夜』が用意した熱湯に浸したのです。
「では始めまする」
雪子さんはまず丁寧な全身の按摩から治療を始めます。
これは鍼を指す際にかかる体への負担を減らすと同時に鍼を刺すべき経穴を探る為なのです。
按摩は雪子さんにとって患者の疲労回復の手段であり指先を『眼』とする触診でもあります。
その傍らで、消毒が終わった鍼を『月夜』が熱湯から取り出して清潔な布へ並べています。
「心をお平らに……出血はありません。鍼が経穴を刺激する“響き”はあるやも知れませぬが刺すような痛みはありませんのでご安心を」
雪子さんは試しに鍼を自らの腕に刺して出血がない事を老紳士や彼女に見せてから鍼治療を始めました。
「まずこれは心ノ臓を強くする経穴です。鍼を刺すと急激に血流が速くなる事がありますので、心ノ臓への負担を減らす為の処置です」
彼女にどの経穴を刺せばどのような効果があるのか説明しながら鍼治療は進んでいきます。
心臓の次は腎臓。これは流れが良くなった血液にある老廃物を効率良く排泄させる為です。
こうして碁の布石のような緻密さで雪子さんは患者に鍼を刺していくのです。
「宜しいか? 逆子の原因は色々ありますが、主な原因は下腹部の冷えによるものです。お腹の赤ちゃんは少しでも温かい方へと動く余り頭を母体の中心へ向けてしまう。それが逆子です」
雪子さんは彼女の体を目覚めさせる――つまり温め、代謝を促すように経穴を刺激して古い筋繊維を削ぐように鍼を刺しては抜くを繰り返します。
「ほら、もう全身が温かくなってきたでしょう? 巫女としての役割も大事でしょうが、向後は体を冷やさぬようきちんと衣服を纏うべきです」
彼女を安心させる為に声をかけながらの鍼治療ですが、その手の動きは淀む事を知らず別個の生き物のように迅速かつ正確に鍼を抜き差ししています。
「妊娠中とはいえこれ程の浮腫みがあったのです。最近、おしっこの出が悪くありませんでしたか? 今から刺す経穴は曲骨といってお小水を出しやすくするものです」
雪子さんが下腹部付近に鍼を刺していくらかもしない内に勢い良く尿が出て床諸共自身と雪子さんを濡らしましたが、雪子さんは構わず続けます。
彼女の足を取ると、足首からふくらはぎにかけて念入りに揉みほぐしていくのです。
「さあ、お母さんが頑張ったのだから今度は貴方が頑張る番よ」
雪子さんが優しく彼女の下腹部を撫でたその時、彼女の体がビクリと跳ねたのです。
その様子に雪子さんが再び下腹部に耳を当てるとホッと安堵の表情を浮かべたのでした。
「赤ちゃんの鼓動が正常の位置に戻りました。ひとまずの危機は去りましたわ」
汗と尿にまみれた雪子さんが微笑むと周囲からは歓声が上がり、老紳士は両手を組んで神様に祈り始めました。
しかし、雪子さんはすぐさま酒場のご主人にお湯を沸かすように命じると、鍼の消毒に使った熱湯に躊躇いなく手を突っ込んで洗うのでした。
「このまま子供を取り上げます!! 産婆さん、或いはお産のお手伝いの経験のある方はこちらに!! 清潔な布の用意も忘れずに!!」
逆子を治した奇跡に湧いた歓声はピタリと止まり、今度は出産の準備に周囲は更に騒がしくなったのでした。
「流石に疲れたわね……」
あれから彼女は無事に元気な男の子を産む事ができ、老紳士は老紳士で、この場に居合わせた人達の飲み食いの代金を全て受け持つと云ったものだから酒場は有象無象入り乱れる大酒宴の場となりました。
赤ちゃんが産まれた後、雪子さんは酒場のご主人のご厚意を受け湯浴みを済ませると、ヴェアヴォルフ道場はケグルネク先生の奥方様から頂いた明るい緑色のワンピースに着替えて一息つけています。
雪子さんが座るテーブルの上には金貨や銀貨、銅貨に始まり、宝石や貴金属がうずたかく積まれていたりします。
何故かと問われれば、この世界では逆子の治療は不可能に近いそうで、それを短時間で治してしまった雪子さんはまるで生き神様であるかのように称えられてしまったからなのです。
その場に居合わせた貴族の御婦人が涙ながらに握手を求め身に付けていた指輪やらネックレスやら手持ちのお金を差し出したのを皮切りに、御布施のようにお金が積み上げられていった次第でして。
流石に明日の朝食も分からないといった風体の人までもなけなしの銅貨を差し出すに至って漸く雪子さんが慌てて止めたのでした。
「お疲れ様でした。ユキコ殿。強者であり知恵者であり人格者でもある上に人の命を救う事もできるとは、いやはやこのアランドラ、益々貴女に心服してしまいましたよ」
「はい、私もユキコ先生の一番弟子になれた事を生涯の誉れとします」
余程疲れているのでしょう。アランドラ様とフェイナンさんの賛辞に雪子さんは苦笑して手を振るだけでした。
「おっほん! 私も話に加えて頂いても宜しいかな?」
見れば葡萄酒を片手にあの老紳士が立っていました。
先程までの狼狽えようは微塵もなく、幾千幾万の修羅場をくぐり抜けてきたかのような威厳を感じられる精悍な眼差しを向けています。
お年を召しているようですが体つきはがっしりとしており、褐色の肌と対照的に髪は全て白くなっているもののビシッと整えられ、立派な鼻髭と顎髭が印象的です。
「フレーンディアはサワーヴォ地方の三十年物だ。私の一番のお気に入りで秘蔵中の秘蔵、まずは一杯お付き合い願おう」
「では遠慮のう頂きまする」
雪子さん達は葡萄酒を受け取ると老紳士と乾杯をしてグラスを傾けます。
「これはまた香りが凄いですわね。まるでお花畑にいるみたいです」
「口に合ったようで何よりだ。好きなだけ飲むと良い」
老紳士は持参した葡萄酒を褒められて好々爺のように微笑んだ後、居住いを正して頭を下げたのでした。
「我が子と代理様を救ってくれた事、感謝している。この歳で初めての子ゆえ失う事が恐ろしかった。あの時、醜態を晒した私だったが、もしあのまま二人を失ったら更に暴走して自害をしていたかも知れぬ」
老紳士は雪子さんの手を取ると真っ直ぐ見据えてます。
「貴女は代理様と我が子、そして私の三人の命を救ってくれた恩人だ。この恩は我が一生をかけて返そう。我が名はアセロ、アセロ=スルブ=ガンティエ……カイゼントーヤ軍の軍師である。是非、貴女の芳名を賜りたい」
アランドラ様や桜花君が驚く中、雪子さんだけは優雅に微笑みながらワンピースの裾を持ちあげておじぎをしたものです。
「これは知らぬ事とはいえご無礼を。私は、姓は霞、名は雪子……しがない剣術道場の主にして駆け出しの藪医者ですわ」
「謙遜が過ぎる。貴女が藪医者ならこの世界の医者は皆看板を下ろさなければならぬわい。貴女こそは希代の名医、我が恩人ぞ。のう、ユキコ先生」
「先生とは、それこそ戯れが過ぎましょう。我が師の耳に入れば、十年早いと叱られますわ」
アセロ軍師と雪子さんは愉快そうに笑うのでした。
すると、思い出したように雪子さんが疑問をアセロ軍師にぶつけたのです。
「そう云えば、先程から耳にする代理様とはどういう事でしょう? 奥方様の名前がダイリという訳ではありますまい」
「その事か。無論、彼女は我が妻ではない。子がいない私の為に腹を貸して下さった巫女様よ」
「巫女が……ですか?」
それに答えたのはアランドラ様でした。
「巫女は星神教の教えを広め、神々の無聊を慰めるだけではないのです。時には子のいない、つまり跡継ぎがいない貴人の為に腹を貸して代理母を務める事があるのですよ」
「ははぁ、我が国で云う白拍子のようなものですか。巫女も優雅に舞を披露するだけではないのですね」
「ええ、時には信徒と交わり、その過程でその身に信徒の守護神を降ろしてトランス状態となり神託を授ける事もしています」
ふむ、星神教は意外と男女の交わりに大らかなようですね。
さながら巫女と遊女が同質だった古来の日ノ本を彷彿させます。
「私は若い頃からの男色家でな。御陰でこの歳になるまで妻を持った事がない。近頃、引退を視野に入れる歳となってついに陛下から跡取りを作れと叱責を受けてな」
しかし、年齢から嫁を貰うのは難しく、ましてや男色趣味では女性とまぐわう事に忌避感もあって中々子供を得られなかったようですね。
そこで星神教から両性具有であり男並みに高身長で更には乳房が小さいというある意味奇跡のような巫女を代理母として推薦してきたのだそうです。
彼女は軍師である彼と話が合うほど明晰な頭脳とカイゼントーヤの将軍達と互角以上に戦える剣技もあって、すっかり気に入られたようでした。
「後にも先にも私が最後まで萎えずにセックスできた女はかの巫女様……ルアムワート殿だけだな。彼女が巫女を引退した後は妻に迎えても良いくらいだ。もっとも彼女がこんな爺を好いてくれればの話だがな」
「さ、左様ですか……」
雪子さんは顔を真っ赤にさせて俯きながらそう返すのがやっとでした。
ああ、そう云えば雪子さんは十八歳で未だに未通女でしたね。そのせいか、この手の話題は鬼門のようです。
『私』としては『月夜』と肌を重ねた大切な想い出を忘れている事実を思うと複雑ですがね。
「アハ……アハハハハハ……殿方と経験の無い私には荷が重い話で……って、あら?」
「どうしましたか、ユキコ殿?」
乾いた笑い声を上げていた雪子さんは急に顔を青ざめさせたのでした。
「もしかして……私がアリーシア様のお誘いを受けて巫女になっていたら……」
「ええ、ユキコ殿も巫女として信徒とまぐわい、時には貴人に腹を貸して代理母を務めていたかも知れませんね」
「危なかった……あの時、アリーシア様の鬼気迫る勧誘を突っぱねて本当に良かった……」
「巫女に選ばれる事は星神教徒にとって名誉ある事なのですがね……」
雪子さん至上主義かと思っていましたが、流石に自分が信仰する宗教からの誘いを断って安心する姿にはアランドラ様も流石に憮然とせざるを得ないようですね。
「と、兎に角母子ともに無事で何よりですわ。でも大変なのはむしろこれからかと存じます。御子息が真っ直ぐ育つようお祈り申し上げますわ」
「うむ、私も歳だ。いつまで我が子のそばにいてやれるか分からぬが、私に伝えられるものは全て伝授してから死にたいものよ」
雪子さんにしては露骨に過ぎる話題のすり替えですが、アセロ軍師が乗ってくれた事でなんとかなりそうですね。
するとアセロ軍師がふと思い出したように手を打ったのです。
「おお、話がどこかに飛んでしもうたわい。ユキコ先生、私に出来る事なら何でも云うてくれ。息子もそうだが、先生からの恩を返さずには死んでも死にきれぬわ」
「ありがとう存じまする。なれば一隻の船を都合して頂きたいのです」
「船とな? しかし、今はあの忌まわしき海賊共のせいで海上を封鎖しておってな、船を貸す事自体は可能でも出航はまず認められん」
やはり海へ出る事は難しいようですね。
「よしんば足が速く軍艦並みの攻撃力を持つ船があったとしてもクラウン=セカンド一家は神出鬼没、奴らからは逃れられんぞ」
渋面を作って腕を組むアセロ軍師でしたが、ふと何かを思いついたように顔を上げました。
「先生は何故、船を欲する? なんぞ目的があるのか?」
「ええ、私共は早急にアジトアルゾ大陸へ行かなければならないのです」
「アジトアルゾ大陸だと!? あの危険地帯へ先生は何用で?」
「実は……」
雪子さんはアセロ軍師に桜花君が勇者である事、『楔』を破壊する為には魔将軍ヴェルフェゴールを倒さなければならない事を説明したのでした。
ちなみに桜花君は産後疲れで寝ているルアムワートさんと赤ちゃんを見る為に席を外しています。
「そうか、先生達は勇者の仲間であったか。なれど、そうと聞いては尚のこと船は出せん。そのような大役を任されている勇者達を危険に晒すわけにいかぬであろう」
「されどこのまま手をこまねいている訳には参りますまい? まずクラウン=セカンドを倒さねばならぬのなら我らも手を貸しましょう」
「うぅむ……そうであるな。では、この城下町から東へ一日の場所にカナルという街がある。そこは我が国でも有数の漁港であるのだが、海賊共に責め入られ占領されてしまったのだ」
その言葉に雪子さんは我が意を得たりと頷きました。
「つまり我々にその街を救えと云う事ですね?」
「そうではないわ。そこまで云えん。いや、いずれは街から海賊共を追い出すが、まずは情報だ。我らは余りにも情報が少ない上に手も足りぬ。しかも我が国が保有する軍艦を殆ど破壊されてどうしようもないのだ」
「なるほど、まずは陸に上がった海賊から情報を得ようと?」
「左様。旅人を装い街へと近づけば奴らは略奪しようと必ず釣られるはず」
雪子さんは顎に手を当てて唸ります。
「それを捕らえて情報を? しかし、そのように見え透いた罠にかかるような賊からそれほど重要な情報は得られますまい」
「いや、情報はある。我らとて海賊共の所業を指をくわえてただ見ていた訳ではない。カナルには数名の間者を潜ませておるのだ」
アセロ軍師が云うには、カナルは現在警戒が厳しく、いかに優れた間者といえども脱出が困難であるそうです。
そこで旅人を装って海賊を釣れば、そのどさくさに間者達も脱出が容易になるという寸法だとか。
「漸く合点がいきましたわ。つまり、私達に海賊の釣り餌になると同時に間者達の保護をしろと云うのですね?」
「うむ、恩を返すと云いながら危険な役目を負わすのは心苦しいが、我らカイゼントーヤ軍人は顔を知られている可能性がある。頼めるだろうか?」
「委細承知。その仕事、お引き受けしましょう」
「おお、やってくれるか!」
パッと明るくなったアセロ軍師の顔の前に雪子さんは手の平を突き出します。
「な、なんだ?」
「では、その仕事、金貨五十枚にて、まずは前金金貨二十五枚を所望」
「か、金を取るのか? 勇者が?」
「勇者も人の子に御座います。お銭が無ければおまんまは食べられません。それに手塩にかけて育てた有能な間者の命とクラウンの情報、それを思えば高い買い物ではありますまい」
そうでしたね。雪子さんは絶対に只働きをする人ではありません。
善意で施しはしても、労働に対する対価は必ず取り立てる。それが『地獄代行人』霞雪子でした。
その時、アセロ軍師は子供のようにお腹を抱えて笑い出したのです。
「いやいや、先生の云い分、一々もっとも! 無償で命懸けの冒険をするカグラザカなる勇者の不気味さを思えばよほど先生の方が信用できるわい!」
アセロ軍師は財布から金貨をきっちり二十五枚出すと朗々とした声で云ったものです。
「ではユキコ先生、金貨五十枚にて間者達の命とクラウン=セカンドの情報の双方を必ずやカイゼントーヤへ持ち帰るようよしなに頼むぞ!」
「御意。閣下はお心安く我らの帰還をお待ち下さいますよう」
「うむ、カナンへの馬車はこちらで用意しよう。翌早朝には出発してもらいたい。」
雪子さんは見る者を安心させるように大きく頷いて見せたのでした。
これで私達は海賊・クラウン=セカンド一味との戦いに参加する事となったのです。
最初の任務は海賊達に占拠されたカナンの街から海賊の情報を得る事。
たかが海賊、されど海賊。一国の海軍を壊滅の危機に追いやり、怪しげな術を操る頭目がいる以上油断はできません。
しかし、私達はこの時、知らなかったのです。クラウンと争う事で更なる困難と立ち向かわなければならない運命になろうとは……
果たしてカイゼントーヤの患者が得た情報は如何なるものなのか? そして一国に戦争を仕掛ける海賊達の目的とは?
それはまた次回の講釈にて。
またも更新が遅くなりました。
漸く新人が一通り仕事を覚えたので執筆する時間が確保できました。
まあ、シゴキに耐え切れず辞めていったのもいましたがね……
さて、今回は漸く雪子の鍼治療の描写を書けました。
本当はこのツボはこうって感じに詳しく書いていたのですが、旦那に「細かすぎると読み手が辛いよ」と指摘されたのでカットしました。
今回もちょっと生々しい表現がありましたが、性描写そのものは書いてないから大丈夫と信じたいです。
それと雪子達も新たな敵、海賊との戦闘に入ります。
以前から仕事をさせるなら金をくれというスタンスの雪子でしたが、今回は報酬の交渉(?)も書いてみました。
私としてはアセロ軍師のように、進んで危険な仕事を只でやるお人好しよりも、きっちり報酬を要求する雪子の方が信用できると思いますが皆様はいかがでしょう?
それではまた次回でお会いしましょう。