第弍拾参章 狂い咲く恋に狂い咲(わら)う
二ヶ月も開けてしまい、すみませんでした。
今回は月夜に憑いているあの存在の視点です。
『私』の名前は『弥三郎』なのだと思うのです。
自分の事なのではありますが、ハッキリと断言できないのです。
片時も離れることができない『月夜』という少女から『弥三郎』様と呼ばれている以上、『私』は『弥三郎』なのでしょう。
しかし『私』の存在は常にあやふやで、『弥三郎』であるような時もあれば、目の前にいる『月夜』そのものであるように思える時もあるのです。
『私』が『弥三郎』でいられるのも『月夜』にその名を呼ばれ、恐らく愛されているからでしょう。『私』は全てが希薄なのです。
『私』は『弥三郎』……そう、『弥三郎』です。
断片的に思い出される『弥三郎』の記憶はどれも愉しいものばかりです。
『月夜』と一緒に神社に詣で、歌舞伎や落語を共に観ては微笑み合う日々……
自分が如何なる画家になりたいかを熱心に語る『弥三郎』、それを幸せそうに耳を傾ける『月夜』。
思い出すたびに蕩けるような甘美な何かが全身を駆け巡り、『私』の存在は益々曖昧になっていくのです。
そう、曖昧になっていくのです。
『私』には故郷である青森の記憶がありません。絵の勉強をしている記憶がありません。『月夜』と同衾せずに床に就いた夜の記憶が無いのです。
その事実は『私』の存在そのものを揺らがせるのです。『私』には“主観”の記憶が無いのです。全ては“他人の目”の記憶なのです。
『私』の記憶はほとんど、否、すべからく『月夜』が存在しているのです。そしてその多くは『私』を視ている誰かの記憶なのです。
それだけではありません。『月夜』に請われ『体』を重ねるごとに『私』は『闇』の奔流と化して『月夜』の体内を駆け巡って蹂躙しているような錯覚に陥るのです。
故に只でさえ危うい『弥三郎』という存在は薄らぎ、『弥三郎』と『月夜』が綯い交ぜとなるのです。
丁度、今のように……
今、『私』達がいるのはカイゼントーヤと呼ばれる国の城下町にある宿の中。
そして皆が寝静まった後、『私』と『月夜』はこの宿自慢の大浴場の中で二人だけの一時を過ごしているのです。
『私』が『月夜』を抱きしめているこの時こそ『私』は『私』でいられなくなってしまうのです。
十数人が入っても余裕でくつろげる巨大な浴槽の中で『月夜』が『私』の名を連呼しつつその華奢な体を自ら揺らせています。
それに応える為、『私』も『月夜』と唇を重ね、『彼女』を慈しむようにその背に両腕を回して『私』自身も『彼女』の動きに合わせていきます。
しかしながら、ここで『私』は可笑しくなっていくのです。『月夜』を抱きしめていたはずの私はいつの間にかとても厭なモノに抱きすくめられているのです。
『ソレ』は曖昧な影のようであり、耐え難いほどの『妄執』や『自虐』の心そのものが形になったようでもあり、『ソレ』が『私』という存在を揺さぶるのです。
こうなると『私』は止まる事ができません。『恐怖』が、『嫌悪』が、『執念』が『私』の中を駆け巡り、『ソレ』が抗い難い『快楽』となって『私』を、『月夜』を苛むのです。
『嗚呼、『弥三郎』様……『私』の『弥三郎』様……』
『私』の口から『弥三郎』様を求める『声』が漏れ、
『嗚呼、『月夜』……愛しい『月夜』……』
『ソレ』に応えるのは『月夜』の真っ赤な唇……
もはや目の前には『私』を抱きしめるモノは無く、『私』は、『私達』は体内を駆け巡る地獄の責め苦にも似た『快楽』に翻弄されるだけのモノに成り下がっているのです。
大浴場の巨大な姿見に映る『私達』は全身の穴という穴から涙を、涎を、汗を、あらゆる体液を撒き散らしながら全身を大きく振るわせています。
『ソレ』は見るに耐えないほど醜く見苦しく、そして堪らない程に美しく愛おしかったのです。
『愛しています(愛している)……『月夜(弥三郎様)』!!』
一つの口から潰れた汚らしい『声』が二つ零れ、『私達』は果てたのでした。
「……『月夜』……いつまでも一緒だよ」
姿見に映る『私』がそう呟くと、同じく姿見に映る『月夜』は微笑んでくれました。
『月夜』は浴槽から出て姿見に近づくと華奢な体に不思議と違和感なく存在する豊かな乳房に左手を添えながら姿見の中の『私』に右手を触れます。
「嗚呼、嬉しや。『弥三郎』様」
『私』は姿見の中の『月夜』と唇を重ねました。
『私達』の唇が重なる瞬間、何故か『私』の目尻から涙が零れ、『月夜』の口が酷く歪んだ笑みを浮かべたのでした。
止めどなく流れる『月夜』の涙を拭いながら、『私』は口元の笑みを消す事にしばし時間を要したのです。
「遠路はるばるよう来られたアランドラ皇子、そして希望の勇者達よ」
唐突ではありますが、『私』達は今、カイゼントーヤの王様に謁見している所です。
目の前にいる赤銅色に日焼けをした肌を持つ恰幅の良い壮年の男性がカイゼントーヤ国王・バックオーバー=ケイ=カイゼントーヤ陛下であらせられます。
十数年前に王位を継承するまでは、王子でありながら強大な水軍を縦横自在に操る将軍であられた事もあって眼光鋭く、腕も丸太のように鍛え上げられています。
もっとも王様になってからは軍事訓練からも遠ざかり、そのせいで最近、とみにお腹周りが苦しくなってきた事と四十肩が悩みの種だとか。
本人は今でも体を鍛えたいそうですが、政治に忙しく思うようにいかないようです。
偉い人は偉い人なりに不自由と云うことなのでしょう。
さて、アランドラ皇子を介して『月夜』達の紹介が終わり、いざ船の借り受けを依頼しようとした途端、陛下は表情を曇らせたのでした。
理由はしばらく前から近海を荒らし回っている海賊団・クラウン=セカンド一家のせいで航海中の安全を保証しかねるからとの事です。
しかも彼らは並の海賊ではないそうで、カイゼントーヤが世界に誇る水軍でさえも手を焼くほどの戦闘手腕と隠密性を兼ね備えているそうです。
命知らずの激しい気性は云うに及ばず、軍人顔負けの戦闘訓練を積んでおり、更には貿易船や漁船、客船などの偽装工作が巧みだとか。
特に首領であるクラウン=セカンドなる人物は屈強な肉体と凄まじい格闘技術に加えて、更には怪しげな術まで操る油断のならない人物らしいのです。
「だが案ずるな。もう間もなく海賊共の討伐作戦の準備が整う……あやつらを殲滅した後、我が国でも最上級の船を貸すと約束しよう」
自信ありげに胸を叩く陛下でしたが、突然乱入してきた兵隊と思しき人に顔色を変えたのでした。
「馬鹿者! 今はアランドラ殿との会談中であるぞ!!」
「も、申し訳ありません! し、しかし緊急事態にてご無礼の段は平に!!」
「何事じゃ?!」
兵隊さんはちらちらと『月夜』達を見て逡巡していましたが、陛下が許可を出した事で口早に驚くべき報告を始めたのです。
「か、海賊共に悟らせぬよう秘密軍港に集結させていた軍艦の八割方を何者かに爆破されました! 軍師様のお話では最早討伐作戦の決行は不可能との事!!」
「なんじゃと?! ええい! 衛兵は何をしておった?!」
「警備に当たっていた兵士は全滅! 多数の死体が秘密軍港内で発見されました。現段階での生存者の報告はありません!!」
兵隊さんの報告に陛下の顔面は蒼白になり、力無く玉座に腰を落とされたのでした。
「なんという事じゃ……やはり海賊どもの仕業か?」
「そ、それが何とも……発見された兵士の死体はいずれも自分の喉を掻きむしったような痕跡があり、ま、まるで……いや、これは陛下のお耳に入れるには少々……」
「構わぬ。申せ」
「ハッ! そ、その兵士達は濡れた様子もないのに、まるで溺れたかのように苦悶の表情で……しかも水死体の如く膨らんでいたのです」
まるで出来の悪い怪談のような報告に彼らは頬を引き攣らせています。
「クラウンが怪しい術を使うと云う噂は本当であったのか? しかも巧妙にカモフラージュを施した秘密軍港の在処まで漏れていようとは……」
「へ、陛下、今回の事件について軍師様も陛下と直接お話したいと仰せでございます!!」
兵隊さんの言葉に陛下は重々しく頷くのでした。
「そうだな……余も詳しい報告を聞きたい。正午に軍議を開くと召集をかけい! 軍師、将軍のみならず佐官、尉官クラスもだ!!」
陛下の命に兵隊さんは緊張した面持ちで敬礼すると、足早に立ち去っていきました。
「聞いての通りだ。どうやら事はカイゼントーヤ軍の総力を挙げて当たらねばならぬようだ。すまぬが船の件はしばらく猶予を貰いたい」
困惑する彼らの返事を待たずに陛下は近くにいた騎士達に指示を飛ばしながら謁見の間を出て行かれてしまいました。
「一筋縄ではいかぬと思ってはいましたが、海賊騒動とはなんとも折りの悪い」
夕闇迫る城下町で肩を落として歩く桜花君を慰めるように頭を撫でつつ雪子さんが苦笑して云います。
「ですな。ただの海賊ならいざ知らず、クラウン=セカンドは怪しき術を操る魔人だとか。しかもカイゼントーヤ軍が全軍を挙げるとなると、騒動に決着がつくまで海に出ることは叶わないでしょうな」
アランドラ皇子もやや消沈した面持ちで頷きました。
確かに今の状態では、下手に海に出ることは自殺行為と云えるでしょう。
「あーあ……早くヴェルフェゴールを倒さないといけないのに……」
「その通りね。でも焦りは禁物よ? 焦れば冷静な思考ができなくなる。そうなったら打開策を練ることもできないわ」
愚痴を零す桜花君を諭すべく雪子さんの口調は優しかったのです。
雪子さんは本当に桜花君のことを溺愛しているのでしょう。稽古の時は鬼の如き厳しさですが、教え諭す今は聖母の如く慈愛の笑みを浮かべています。
その様子は桜花君に一角の人物になって欲しいという願いが善く見えるのです。
「そうだね、焦ったりしても仕方がないよね。では、ここは冷静に……」
「冷静に?」
「落ち込んだ気分を払拭するべく晩御飯は美味しい物を食べようよ♪」
花が咲いたかのような笑顔でそう云う桜花君に、今度は雪子さんが深く溜息を吐いたのでした。
「まったくこの子は……そうね、宿に待たせているフェイナン殿も呼んで今日は少し奮発しましょうか」
雪子さんの言葉に桜花君は全身で嬉しさを表現しているのか、歓声を上げながら雪子さんの周りをピョンピョンと飛び跳ねます。
おや、フェイナンさんですか? 彼もここにいるのですよ。アンカー亭を継ぐに当たってやはりいざと云う時に役に立たぬでは困るので、修行のためにとの事です。
戦闘力としては期待できませんが、実は傷を癒す妖術(魔法と云うそうですが)と交渉術に関してはなかなかの物らしく、彼がいれば旅の効率はぐんと上がるとか。
事実、フェイナンさんのお陰で本来なら素泊まりだけで庶民から見て二月分の稼ぎが飛ぶような豪奢な宿屋も格安で泊まれるようになったのです。
もっとも本人は、祖父の代から懇意にしているから安くして貰えたのですと謙遜していましたがね。
「そうと決まったら、早くフェイナンさんを呼びに行こうよ♪」
雪子さんが盲目であることを忘れたかのようにグイグイと彼女の腕を引っ張る桜花君に『月夜』は呆れつつ軽く頭を小突きます。
(桜花、嬉しいのは分りますが、もう少し自重なさい。姉様を転ばせたいのですか?)
「ご、ごめんなさい。月夜姉様……」
(謝る相手は私ではありません)
『月夜』の『言葉』に桜花君が雪子さんに謝罪すると、先程まで睨んでいた『月夜』は一変微笑んで桜花君の頭を撫でたのでした。
『月夜』もまた桜花君を溺愛しています。そしてその華奢な『体』の中にいると云う巴君にも深い愛情を注いでいるのです。
雪子さんにも劣らぬ厳しさと優しさを持って桜花君、巴君を指導する『月夜』の姿はまさに母親そのものと云えましょう。
二親を亡くしている三姉妹ですが、雪子さんが武の師となり『月夜』が文の師となり、桜花君と巴君が教え子になることで彼女達の心の均衡が保たれているのでしょう。
云うなれば雪子さんを父役、『月夜』が母役になった……
おや? この胸の奥から湧き上がるこの高揚感は一体? まるで、そう『女』の悦びに似た……
(フフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフ……姉様が旦那様、私が妻……フフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフ……ああ、旦那様、まだ桜花が起きてます)
『月夜』……手に取るように『月夜』の気持ちが解るのに、互いに離れられないのに『月夜』が遠い……
(フフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフ……いけません。桜花に気付かれます……フフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフ……もうこんなにして、ダメな人ですね)
ダメな人なのは君です……しかしながら、その気持ちを理解できる『私』もいるのです。
『月夜』が人として終わっている……あ、いや、過激な妄想……いやいや、空想の中にいる時の私もまた『月夜』ではなく雪子さんを意識しているのです。
女性としては高い背丈、士族と云うより華族様と云われた方が信じてしまうような高貴な美貌、そして透き通るような白い肌を持つ滑らかな肢体……
空想の中の『私』が一糸纏わぬ雪子さんに覆い被さり、血のような艶やかな唇を夢中になって吸い、彼女の甘い吐息と声を愉しんでいると、ふと視線を感じました。
徐々に目線を上げると、雪子さんと同じ雪のような美しい肌の脚が映り、やや小太り気味の柔らかな胴が見え、そして軽蔑の眼差しで『私』を見下ろす『月夜』と目が合いました。
『……『霞月夜』、度し難し』
恨みがましい目つきで見下ろす『私』と目が合った『月夜』は一度、身震いするほどの妖艶な笑みを浮かべた後、自分の真下にいる雪子さんの唇を再び吸ったのでした。
どれくらいそうしていたのでしょう。唇を離した『私』の虚を衝くように雪子さんの右手が突き出されました。
『あ……――様?』
真っ赤な鮮血を巻き散らしながら迫り来る手首から先の無い右手を『私』はただ愚鈍に見つめているだけでした。
詰るように温かい肉と紅い血と固く白い骨を『私』の顔に押しつける雪子さんの顔はまるで『闇』に呑まれたかのように不鮮明になって輪郭すら分りません。
鉄錆に似た匂いと少し粘性を帯びた紅い液体と柔らかくも温かいモノと白く固いモノが『私』の顔を包み、温め、責め立てる。
『月夜の心は月夜の物……誰の物にもあらず、見苦しきかな……月夜の心に潜みし汝は何者ぞ?』
『私』を責める目の前の人物は既に雪子さんではなく……
『……――さま?』
恨みがましい目つきで『私』を見つめる人物は、いつも人から三つ、四つほど実年齢から下に見られる少年のような青年。
『月夜』が恋い焦がれ、『私』にとって……『私』にとって?
『あ……ああ……』
『私』にとってこの人は……
『ああ、お会いしとうございました』
嗚呼、愛しき人。
『私』にとってかけがえのない愛する人……
『好きです。今でもお慕い申し上げます……――様』
『私』は――様の首に抱きつくように腕を絡め顔を近づけ、互いの唇が触れ合う寸前で誰かに肩を掴まれたのでした。
「大丈夫? さっきから呼んでも返事しないし、なんか急に顔を赤らめたと思えば泣き出すし……」
ぼんやりと声のした方へ視線を向けると桜花……君が心配そうに『私』――『月夜』を見つめていました。
(ええ……ええ、大丈夫です。少し疲れたのかも知れません。このような長旅は初めてのことですし)
『月夜』は何度か深い呼吸を繰り返し、気持ちを落ち着かせると謝罪と共に桜花君の頭を優しく微笑みながら撫でたのでした。
「そう? まだ顔色悪いし、気分が悪いんじゃ無理しなくて良いんだよ?」
(いえ、本当にもう大丈夫です。心配かけてすみません)
その『言葉』通りに月夜の顔も血色が良くなってきたので桜花君もこれ以上はアレコレ云いませんでした。
「うん、月夜姉様がそう云うのなら……でも無理だけはしないでね?」
桜花君の注意に『月夜』は頷くことで返しました。
雪子さんも特に必要以上に心配する様子もなく再び一行はフェイナンさんの待つ宿へと向かうのでした。
(あ……)
どうやら妄想が過ぎたらしく『月夜』は内股を下へと滑るナニかを周りに気付かれないように苦労しながら歩く羽目になったのです。
「ここが私がこの街で一押しするお店、クラブ・クラブです」
そう云ってフェイナンさんが自慢するように紹介するのはかなり開放的な造りの大きな木造の建物でした。
お店の外からでも中の様子が窺え、よく見ると店内の中央に大きな生け簀があってなにやら無数の蒼いモノが蠢いているのが分ります。
「ここは私がカイゼントーヤに来ると必ず立ち寄るようにしているお店で蟹や海老の料理が美味しい事で有名なんですよ。中でもソフトシェルクラブが絶品です。それは諸外国の有力者がわざわざ食べに来る程でしてユキコ先生達もきっと気に入ると思いますよ」
フェイナンさんは綺麗に剃り上げた頭をツルリと撫でながら『月夜』達をお店の中へと案内します。
それにしてもソフトシェルクラブですか。直訳すれば、甲羅の柔らかい蟹? いったいどんなものなのか、見るのが楽しみです。
「うわぁ♪ 美味しそう♪」
お店に入り、運良く待たされることなくテーブルへと案内された『月夜』達は注文をフェイナンさんに任せることにしました。
やがて運ばれてきた料理に目を輝かせて桜花君が先の言葉を漏らしたのでした。
「ソフトシェルクラブとは脱皮したてで甲羅が柔らかいワタリガニの事でして、そのまま丸ごと食べられるのですよ」
フェイナンさんの説明に桜花君だけではなく雪子さんも『月夜』も興味深そうにしています。
なるほど、お店の真ん中に生け簀があるのはお客さんに新鮮な食材を見せるだけでなく、脱皮したばかりの蟹を素早く取り出す為なのですね。
「サンドイッチにして食べるのがオリジナルですが、こうして揚げたり焼いたりした方が香ばしくて美味しいんですよ」
そう云ってフェイナンさんはパン粉をまぶして焼いた蟹をナイフで容易く切り分けて、甲羅がいかに柔らかいかを見せたのです。
どうやらパン粉には細かく刻んだ香草が混ぜてあるようで、蟹の肉汁と相俟ってなんとも美味しそうな匂いが漂ってきます。
「さあ、冷めないうちにどうぞ」
フェイナンさんの言葉が終わらぬ内に、桜花君は元気良く「いっただっきまーす♪」と蟹を頬張ったのでした。
その様子に雪子さんも『月夜』も呆れていましたが、美味しそうにソフトシェルクラブを食べる桜花君に触発されたのか自分達も蟹を口に運びました。
「あら、本当に殻まで美味しく食べられる……まるで川海老や沢蟹のようね。もっとも蟹味噌が濃厚な分、こっちの方が段違いに美味しいわ」
「同感ですな。これほどの美味を楽しめるとは……山にも様々な美味がありますが海の恵みもまた素晴らしい」
雪子さんとアランドラ皇子も初めての珍味に舌鼓を打っています。
『月夜』に至ってはソフトシェルクラブに良く合うと、白ワインの入ったグラスを上機嫌に傾けていました。
「フェイナン殿、なかなかの美味ですわ。このような良いお店を紹介してくれた事、ありがたく思います」
「そう云ってくださると紹介した甲斐がありますよ。ここはソフトシェルクラブだけではなく他にも美味しいモノがありますからお好きなモノを注文してください」
確かにメニューを見ると魚のソテーやムニエル、サラダやシチューまで美味しそうな料理が並んでいます。
雪子さんは皆で摘まめるようにと馬鈴薯や鶏肉などを一口大にした揚げ物を盛り合わせたものを、自分には麦酒を注文したのでした。
御維新前から麦酒は長崎の出島で醸造が始まっており、明治入ってからは横浜で外国人が麦酒工場を造りましたが、まだまだ値段が高く庶民に手が出せる代物ではありません。
しかし雪子さんにはどうやら大商家や軍部、政治家などの知己もあるようで一度お付き合いで飲んでからはすっかり麦酒の苦みと喉ごしの虜になったそうです。
聞くところによると、この世界では麦酒の醸造技術が進んでいるようで、庶民でもちょっと無理すれば手が届くささやかな贅沢品程度の値段となっており、雪子さんは遠慮することなく嬉々として麦酒を煽っています。
「異世界に召喚されて初めは途方に暮れましたが、牙狼月光剣はヴェアヴォルフ道場との得難い出会いがありましたし、このような珍味を味わえ、元の世界より麦酒が安い。悪いことばかりじゃないですわ♪」
珍しく気持ち良さそうにお酒を飲み、鼻唄混じりに料理を口に運ぶ雪子さんに皆が呆気に取られています。
(ね、姉様? 少し酔われていませんか?)
『月夜』が雪子さんの腰を突いて窘めると、雪子さんは『月夜』の首に腕を回して小声で話しかけました。
「一見、桜花ははしゃいでるように見えるけど、内心は焦燥に駆られているわ。二言目には「アジトアルゾ大陸に急がないと」、「ヴェルフェゴールを倒さないと」って出るのが証拠よ」
雪子さんは上機嫌で『月夜』に絡む素振りを周りに見せつつ続けます。
「確かに勇者として使命感に燃えるのは構わないし大切な事よ? でも、その使命感が必要以上に桜花自身を追い詰めているわ。だから立ち止まることができない……」
雪子さんの言葉に『月夜』はハッと真剣な表情になって頷きます。
「桜花は確かに強い。強くなってきている。でも立ち止まれない。休むことをしたがらない……あの子ね、最近じゃお風呂の中でも固く絞った手拭いで素振りしているのよ?」
確かに良くない傾向ですね。
疲れを癒すはずのお風呂でも稽古を続けるとは、気持ちが空回りしている証拠です。
「いくら才のある剣士でも休養を取らなければいずれ力尽きる。力を入れすぎれば必ず行き詰まる……今の桜花はね、力の使いどころを完全に見誤っているわ。私の稽古は確かにやらされる方からすれば厳しいかも知れない。でも無茶はさせてないつもりよ。私は出来ないことは絶対にやらせないもの」
(つまり、このままでは桜花はいずれ自滅してしまう、と?)
「ええ、しかもその“いずれ”は近いうちに訪れてしまうと見たわ。だからね、今日は良い機会と思ったのよ」
(なるほど……普段厳しい姉様が率先してこの夕餉を楽しめば桜花の方も自然、肩の力を抜くと思われたのですね?)
雪子さんは『月夜』の『言葉』に何故か哀しそうに首を横に振ったのでした。
「いくらあの子でもそれで肩の力を抜けるほど単純じゃないわ。私はね……」
そこで雪子さんは普段から想像もつかないニンマリとした笑みを浮かべた。
「勇者としての権威を落とそうと思っているのよ」
その言葉には『私』も『月夜』も大口を開けて固まったのでした。
「勿論、わざわざ桜花の名を貶める積もりは無いわよ? ただ桜花に所詮、勇者も只の人間、世俗に生くる者と大差ない存在であると思わせればそれで良い。要は勇者という称号に振り回されなくなれば良いのだからね。英雄として死ぬのは父様だけで沢山よ」
そこで『月夜』は漸く悟ったようです。
(和光同塵……才能の光を和らげ市井の中に生きよ。姉様は桜花を生かす為に敢えて勇者としての光を大衆の中に隠されようと?)
雪子さんは微笑んだまま『月夜』の頭を撫でた後、食事を再開したのです。
愉しそうに、桜花君の持つ勇者としての『光』を彼女自身の無邪気さの中に隠すように……
聞く人によっては狂気の沙汰とも思える雪子さんの思惑に『私達』は唸る。
しかし、その真意はまさに『姫信長』、明治に生きる第六天魔王に相応しいものだった。
彼の織田吉法師が“うつけ”を演じて自らの才を隠し己を守ったように、勇者を只の人間としてしまおうと目論むその姿には姉として、師としての愛が確かにありました。
けれども、その愛は桜花君の気持ちに反するもの……果たして彼女にそれが届くのでしょうか?
そして英雄である事を隠しての道行きに活路を見いだせるのか?
それはまた次回の講釈にて。
遅くなりました。子供のベイブレードにベーゴマで勝った大人げない母親・若年寄です(挨拶)
師走から今まで仕事が立て込んでた上に、来年度入社希望の学生五人ばかりの面接を受け持っていたせいで、なかなか筆を取れませんでした。
加えて雪子の剣客とは別の顔・鍼医としての面を出すべく、ちょいと知人の伝で鍼の勉強もしてました(勿論、知識のみで実践はできません)
さて、冒頭から不気味かつ意味不明な描写があった『月夜』と『弥三郎』ですが、これはお気づきの方もいらっしゃると思いますが、『弥三郎』はかつて月夜と恋仲にあった弥三郎本人ではなく、『月夜』の妄念が生んだ存在です。
通常、魔族を倒すために召喚された勇者とは、近年見かける外道な性格の者も含めて正当な勇者に相応しい能力と主人公らしい読者に好まれる部分を持ち合わせています。
しかし、私は敢えて初めから完成に近い殺すことに秀でた技を持ち、魔族よりもおぞましい狂気を内包した霞三姉妹を主人公に据えました。
外道と云われる勇者でも、『女には優しい』『自分の中に確固としたルールがある』といった一貫した魅力があるものですが、雪子らにはそれすらありません。
強いて云えば報酬の有る無しで助けるか否かを決めます。
勿論、彼女らの中に善意がまるっきり無い訳ではないので、自らの良心に従って行動はしますけどね。義憤でヴェルフェゴール退治を引き受けておきながら、しっかりと報酬を受け取る約束を取り付けているのもその為です。
くどくなりましたが、つまり霞三姉妹ほど勇者に相応しくない主人公はいないということです。
そんな奇妙で不気味な雪子達ですが、これからお付き合い下さいますよう、よろしくお願いします。