第二十壱章 姫信長三番勝負・後編
二人はジリジリと間合いを詰めて相手の出方を窺っている。
やがて互いの間合いの一歩外で二人の動きは止まり、場は心地良い緊張感で包まれた。
そして時が止まってしまったかのように、二人の勝負は膠着した……かに見えた。
「スゲぇな……一見、動いてないように見えてほんの僅かずつ動きながら自分に有利な体勢に持ち込もうとしてやがる。これが達人同士の手合わせか」
トモエ殿の呟きに私は改めて二人との実力の差を思い知らされた。
私も牙狼月光剣の免許皆伝を許されてはいるが、それでも師の剣と比べれば雲泥の差だ。
「参ります」
不意にユキコ殿が走り、木剣が横薙ぎに振り抜かれた。
師は小刀でユキコ殿の一撃を払い、大剣を振り下ろそうとして中断し、後ろを振り返った。
なんとユキコ殿は横薙ぎの一閃を振るいながら足を止めずに師の背後に回り込もうとしていたのだ。
「霞流『松風』、惜しかったなぁ。簡単には背後を取らせてくれねぇ……やっぱりケグルネクのオッサンは一筋縄ではいかないか」
師をオッサン呼ばわりするトモエ殿に近くにいた門下生が凄んで見せたが、逆にジロリと睨み返されただけで大人しく引き下がった。
流石にトモエ殿も若くして霞流の重鎮を務めているだけあって剣士としての貫禄が違う。それでこそ勇者といった所か。
「並の者では一撃で屠られる程の横薙ぎを囮に敵の背後へと回る技か。なんと恐るべき技よ……必殺の意志が無かった事に気付かなければ勝負は決まっていたな」
「初見で『松風』を見破られたのは初めてです。しかも後ろを向く時の体捌きの速さと隙の無さ……背後に回ったことに安堵していたら私の方が打ち倒されていましたわ」
二人は互いの力量を褒め合っているが、雰囲気は仕合前とは完全に違っていた。
お互いに手加減できる相手ではないと悟ったのだろう。
彼らから必殺の気迫がヒシヒシと伝わってくる。
「今度はこちらから参る!」
師の全身からラカスロープ副師範戦におけるユキコ殿以上の剣気が迸った。
「くっ?!」
師の気迫に押されたのか、師の体の中心に向けられていたユキコ殿の剣先が右に逸れた。
それを機と見た師は怒濤の如くユキコ殿に迫った。
牙狼月光剣の真骨頂はこの獲物に襲いかかる狼を思わせる寄り身の速さにある。
しかしユキコ殿は慌てることなく、むしろ落ち着いた表情で師を迎え撃つ。
「かかった! 雪子姉の勝ちだ!」
トモエ殿の言葉に私は狼狽してしまった。
まさか剣先を逸らしたのは誘いだったのか?!
ユキコ殿の逸れた剣先は既に返されて師の手首を狙って動いていた。
「小手ェ!!」
ユキコ殿の剣が師の手首を打とうとした瞬間、師の体から剣気が一気に消えた。
「えっ?!」
ユキコ殿の口から戸惑うような声が漏れ、彼女の剣は空を切った。
「け、気配が……?」
あれだけ凄まじい剣気が一瞬で消えた為か、ユキコ殿は師を見失ってしまったようだ。
その師はユキコ殿の左側で大剣を振り上げていた。
「はっ?!」
師の剣が斬り裂いた空気の流れを察したのか、攻撃に移った師の気配を感じたのか、ユキコ殿は体を捻ってかろうじて大剣を避けた。
次の瞬間、再び我が師の全身から剣気が迸ったが、最初の勢いはなかった。
否、あえて勢いを抑えているらしい。
「せいっ!」
ユキコ殿の剣が師の剣気目がけて横薙ぎに振られたが、突如師の剣気が一気に膨れあがってユキコ殿の一撃は僅かに勢いが殺された。
それでもユキコ殿は歯を食いしばって振り抜こうとしたが、あっさりと師の小刀に弾かれて体勢を崩した。
「なんのォ!! 霞流『竜巻』!!」
霞流には体勢を崩しながらも攻撃ができる技もあるのか、剣を弾かれた勢いをそのまま利用して体を回転させると再び師に向かって剣を繰り出した。
しかし、またもや剣気を消した師を見失って虚しく空を切るばかりであった。
「け、剣気を自在に操れるのですか?」
我が兄とラカスロープ副師範を息も乱さず倒したユキコ殿が全身から汗を滴らせて息を切らせていた。
「いかにも……夜毎に姿を変える月の如く、己の剣気を自在に変え相手の第六感を狂わせる牙狼月光剣が壱の奥義『月齢』でござる」
「奥義……他流仕合で奥義を遣われるか」
ユキコ殿は驚いたように右目を見開いて我が師と対峙する。
「当道場の双璧を苦もなく倒す剣士に出し惜しみする程儂は傲慢ではないつもりだ。更にもう一言云わせて貰えば『月齢』はまだまだ真骨頂を発揮してはおらぬでござるよ」
「これでまだ手加減をされていたとは……我が剣の未熟を痛感させられましたわ」
聞きようによっては降参宣言とも取れるが、ユキコ殿の剣気は萎えるどころか表情さえも死んではいなかった。
ユキコ殿は構えを解くと、間合いを大きく取り剣を左手に持ち替えてハカマの帯に挟んで腰を沈めた。
「なれば奥義の返礼に我が秘剣『野分』を披露致します。とくと御笑覧あれ」
あの構えは相手より素早く鞘から剣を抜いて斬るイアイという技の構えかだ。
ユキコ殿は木剣でその動きをするというのか?
しかも『野分』は奥義ではないもののユキコ殿が命がけで編み出した必殺剣と聞く。
ユキコ殿はそれだけ師の剣が高みにあると理解したのだろう。
「ふむ、霞流にはイアイという玄妙なる技があるとフェイナンから聞いていたが、それか」
「左様、木剣ゆえ本来の動きは出来ませぬが、ご油断召されれば敗北は必至とお心得ください」
ユキコ殿はジリジリと間合いを測りながら右手を木剣の柄に添えた。
師の方もユキコ殿の秘剣を迎撃すべく大剣と小刀を構えて待ち受ける。
「参る!! 秘剣『野分』!!」
我が師の間合いの外からユキコ殿が矢のように飛び出した。
「莫迦な?! あんな遠くから跳ぶだと?!」
意識を取り戻した兄が驚きの声を上げた。
確かに跳ぶにしても師とユキコ殿の間にはかなりの距離がある。
しかし、ここからが『野分』の真骨頂だ。
左手で押さえ帯に挟む事を鞘に見立てたイアイが放たれる。
剣先ごと腕が伸び、上体を倒して更にリーチを伸ばしたユキコ殿に兄から今度は感嘆の声が上がった。
「せいっ!」
間合いの外からの攻撃に我が師は一瞬だけ驚いたようだが、すぐにユキコ殿の動きに合わせて大剣を振り下ろした。
しかしユキコ殿は本来敵の首筋にある血管を狙うこの技で大剣を持つ師の右手首を打ったのだった。
「ぐっ?!」
顔を顰めて大剣を止めた師の前に着地したユキコ殿は振り抜いた剣をすぐさま振り上げて師の脳天目がけて必殺の気勢を放つ。
これで決まった。私はこの勝負の決着がついたことを確信した。
「ユキコ殿の……負けだ。勝者は我が師ケグルネク先生だ」
ユキコ殿は剣を振り上げたまま動きを止めていた。否、動けなかったのだ。
何故ならユキコ殿の喉元に順手に持ち替えられていた師の小刀が突きつけられていたからだ。
「ま、参りました……私の負けに御座いまする」
ユキコ殿が敗北を認めると師はゆっくりと小刀を引いた。
ユキコ殿の敗因は小刀を防御或いは牽制にのみに使われていると思い込んだことだ。
とんでもない。この小刀こそが牙狼月光剣の要、大剣こそが『影』なのだ。
我が流派の大剣を防ぐ事ができた敵はまず安堵することだろう。
その隙に小刀で敵の急所を突くのだ。
「牙狼月光剣が弐の奥義『月食』でござる」
月は太陽の光を受けて夜空でその優しい光を放つと云う。
だが太陽の光が我らの世界そのものに遮られる事で月が隠されて月食が起こる。
即ち大剣が『太陽』で小刀が『月』、そして小刀が牽制のみという思い込みが『月』を隠す。
それこそが我が流派の奥義『月食』なのだ。
「恥ずかしながら我が流派の剣を過信し慢心が生じていたようです。ケグルネク先生のお陰で目が覚めましてございます。ご指導、かたじけのうございました」
ユキコ殿はセイザをすると木剣を前に置き、師に向かって頭を下げた。
「なんのなんの! 霞流の技も実に奥深い……互いに真剣であったなら、真剣勝負であったなら儂の方が敗北していたであろう」
そう云って師は右手首を私達門下生に見せた。
なんと師の右手首は青黒く変色し、大きく腫れ上がっていた。
「跳びながらという不安定な打ち込みでこの威力、真剣ならば今頃我が右手は失われていただろう。此度の勝利は木剣勝負だったがゆえでござる」
「何を云われますか! そもそも私が『月齢』に翻弄されていた時点で勝敗は決まっていたのです。先生に必殺のお心があれば私はもっと無様な敗北を喫していたことでしょう」
ユキコ殿が再び頭を下げると師は穏やかに微笑みながら頭を上げさせた。
「剣士たるもの易々と頭を下げるものではないでござる。此度は痛み分け、それで良い」
「ははっ!」
ユキコ殿は立ち上がって一礼するとようやく笑顔を見せた。
「うむ、なんとも良い具合に昼の刻限が近い。ユキコ殿、妻に風呂の用意をさせてある。汗を流した後で共に昼餉を食そうぞ」
「お心遣い、かたじけのうござる」
ユキコ殿は師の奥方に案内されてツキヨ殿と共に湯殿へと姿を消した。
残ったトモエ殿はいつの間に仲良くなったのか同年代の門下生と先程の三番勝負について熱心に語り合っていた。
入浴を済ませたユキコ殿が食堂に姿を現すと若い門下生から歓声が上がった。
ヴェアヴォルフ道場三強と名勝負を行った女傑を迎えたというより、年頃の娘によく似合う愛らしいライトグリーンのワンピースを着たユキコ殿に感激したのだろう。
髪もポニーテールからストレートにして銀の髪留めをあしらっており可愛らしさの中にも色気を醸し出していた。
姉上が見たらきっと暴走すること請け合いだろう。
ツキヨ殿も白いスカートに青いブラウスという爽やかな印象を受ける服を着せられ、後頭部に白いレースのリボンで髪を纏められていた。
奥方もかつては仕立て屋で働いていたと聞いているので、二人に似合う服を見立てるのは難しくなかっただろう。
「素材が良いから服を選ぶのが愉しかったわぁ♪ 黒いのに光沢のある髪を持ちながらお肌は雪のように真っ白なんですもの♪ こんな綺麗な子達、娘に欲しいわぁ♪」
頬を赤く染めて照れている二人を抱きしめながら奥方は御歳四十とは思えぬ若々しい笑顔を見せていた。
師と奥方の間には子供がいないので尚更ユキコ殿とツキヨ殿が可愛いに違いない。
ああ、勿論、二人が入浴している間はトモエ殿にあれこれ話しかけてはしゃいでいた事も明記しておく。
奥方のヴェアヴォルフ姓と若々しさに、「ケグルネクのオッサンの妹か娘かい?」とトモエ殿に云われたことも彼女を上機嫌にさせている一因だろう。
「さあ、今日は近所の奥さん達やアンカー亭のシェフにも手伝ってもらって、いつも以上に気合を入れたから沢山食べてね♪」
その言葉を合図に立食パーティーさながらの賑やかな昼食が始まった。
若い門下生達はしきりにユキコ殿とツキヨ殿に話しかけ、頼まれもしないのに料理をサーブしている。
彼らの質問にユキコ殿は丁寧に答え、ツキヨ殿も『言葉』を封印している事をユキコ殿に前置きしてもらってから筆談で応じている。
文化の異なる世界へ召喚されて僅か十日足らずで、この世界の文字を覚えてしまったツキヨ殿の頭脳には恐れ入るしかない。
トモエ殿はというと古参の門下生相手に堂々と剣術談義に花を咲かせているのは流石だ。
特にイアイについての質問が目立っていた。
やがて料理もあらかた食べ尽くし、門下生が食休みや午後からの仕事に道場を出ていき数が少なくなると、頃合いを見計らったように師が兄と副師範を伴って姿を見せた。
師の右手は既にフェイナンが治療魔法で治しているので痣すら残っていなかった。
「長々と付き合わせてしまって申し訳なかったな、ユキコ殿」
「とんでもありませんわ。手土産も持参せず突然押しかけておきながらお昼まで御馳走になってしまって……少々図に乗ったかとこちらが心苦しいくらいです」
「なんのなんの! 妻も人をもてなす事が趣味のような女でござってな。愉しい一時を過ごせたと喜んでおったわ」
師は莞爾として笑った後、剣術師範としての顔になり兄に問いかけた。
「アラミス、そなたにユキコ殿の相手をさせた理由は判るか?」
「私の慢心を正そうとなされたのでございますね」
「それよ。そなたは二十六歳の若さで師範代へと上り詰め、以来三年間、よう熱心に指導を続けた。それは褒めよう。だが、そなたはそれに満足してしまったであろう?」
師の言葉に兄の顔が羞恥で見るまに赤くなっていった。
「世の中は広い。そして大きい。そのことを知って貰う為にユキコ殿に骨を折って頂いたのだ。修業に終わりはない。これからも精進するが良い」
「ありがたき教えにございます。私は今日のことを、二人の師の教えを生涯忘れずに修業をやり直したく思います。ケグルネク先生、ユキコ先生、ありがとうございました!」
「せ、先生って……」
豪快に笑う師と対照的に赤面して戸惑うユキコ殿の様子は今の服装と相俟って可憐でさえあった。
とてもつい先程恐ろしいまでの剣腕を振るっていた女剣士と同一人物とは思えない。
「さて、ラカスロープよ。そなたも良い薬になったであろう?」
「はい、一歩も動くことが叶わず無様な負け方をして兄者の顔に泥を塗った罪は大きゅうござる」
ラカスロープ副師範が大きな体を小さくして師に詫びると、逆に怒鳴られてしまった。
「その考え方がそもそもの間違いよ。何故、そなたの身が動かなくなったのか、まずその事を考えよ」
「ユキコ殿の気を操る技が巧みだったとしか考えが至りませぬ……」
「未熟者が! 確かにそれも一理ある。しかしな、本当の理由はユキコ殿を打ち負かそうと気の流れに逆らった事よ。ユキコ殿はそなたの気を優しく受け止めたからこそ自分の物にできたのだ。抵抗して跳ね返そうとするなど激流に逆らおうとする木っ葉に等しい愚かなことよ」
「拙者、一人相撲をとっておりましたか……」
ラカスロープ副師範は恥じ入るように唇を噛みしめた。
「力に力で対抗しようとするな。受け止めよ。月が太陽の光を受け止めて輝くように、牙狼月光剣も相手の力を受け止めて逆に利用する剣……その極意を忘れてはならぬ」
「拙者はいつの間にか、技にのみ意識がいって牙狼月光剣の極意、心意気を忘れていたようでござる。今日の事を肝に銘じ、アラミスと同じく修業のやり直しにござる」
ラカスロープ副師範はただ泣いた。男泣きに泣いた。
これで兄と副師範は明日から、否、今日より生まれ変わったように新たな稽古を始めるだろう。
この二人が遙か高みに上ることはそう遠くない未来であるように思える。
ヴェアヴォルフ道場は益々安泰であろう。
感涙にむせぶ兄と副師範を師は優しく見つめながら満足げに何度も頷いている。
「さて、ユキコ殿、聞いての通りでござる。そなたの尽力で我がヴェアヴォルフ道場の問題が一気に解決した。だからな、今日の事は気になされるな」
「恐縮にございます。過分のお言葉、赤面の至りにございますわ」
ユキコ殿は優雅に頭を下げると瞼を開いてどのような宝石にも勝る美しい瞳を見せて微笑んだ。
「私の方こそ己の未熟さを気付かせて頂き、感謝の言葉もございません。井の中の蛙が大海を見たならば、きっと今の私と同じ気持ちになることでしょう」
「何を云われるか。そなたほど剣の才に恵まれた人物は他に知らぬ。ましてやそなたは盲目、それをこれだけの剣技を身に付けられた事実は感嘆を通り越して驚愕に値する」
「およしになってくださいませ! そのようなお言葉を賜わっては折角消えた自惚れの念がまた頭をもたげてしまいますわ」
ユキコ殿は耳まで真っ赤にして首をブンブンと横に振った。
しかし我が師は真剣な表情でユキコ殿を見つめていた。
「失礼だがユキコ殿は何歳に相成る?」
「は、はい……今年で十八になりました」
「そうであろう。儂がそなたと同じ頃などそなたの半分も出来なんだ。むしろ出来損ないと罵られておったわ」
師は目を閉じると昔を思い出すように苦悶の表情を浮かべた。
「アレは儂が十二歳の頃、今よりもう三十年も前になるか? かつて預言者と名乗る邪悪な魔法使いがモンスターを率いて世界を我が物にしようと目論んだ事があった」
この戦いは歴史書に記載されたほどの大きな戦いであったらしい。
預言者・ドゥールフェザーなる強大な魔力を操る破戒僧は、『裏』世界でしか生きられない盗賊や武器商人、殺し屋などのアウトローに加え、権力争いに敗れて行き場を失った官僚や将校といった者達を纏め上げて一大勢力を築いた稀代の大罪人であったそうだ。
彼は人が持つには大きすぎる魔力でモンスターを操り、数多の悪党を各地に派遣してヴェルフェゴール顔負けの侵略戦争を展開していった。
それほど凄まじいまでの力を持つドゥールフェザーを倒したのが、アンカー亭のオーナーがいた歴代最強の呼び声も高い『運河の七戦鬼』という冒険者パーティだった。
「儂は当時、駆け出しとも呼べぬヒヨッコだった。だが、フェイナンの父君・ファンガズ様もおられた伝説のパーティ『運河の七戦鬼』に憧れるあまり勝手に後をつけ回していた。彼らはそんな鬱陶しい餓鬼に苦笑はしても決して邪険には扱わなんだ。儂はそれで調子に乗っておっての。悪ノリをしては邪魔をしたり、時には足を引っ張ってさえいた」
師の顔には懐かしさ以上に悔恨の色が浮かんでいた。
「判るかな? 今でこそ帝室指南役としての名声を得ているが、子供の時分は英雄に迷惑をかけ、青年になってからも才能の無さから何度父に怒鳴られ殴られたか判らん。それでも今日、儂がそなたを相手に勝利を収めたのもひとえに年の功に外ならぬでござるよ。もし十八歳の頃の儂がそなたと仕合してみよ。一秒も持たずに敗北でござる」
ユキコ殿はどう返事を返すべきか考えているようだ。
師も彼女の沈黙の意味を察しているのか、話を続ける。
「儂が少年の時分、なんと渾名が付けられていたか。『泣き虫ケグルネク』に『英雄のお荷物』、歯に衣着せぬ者など面と向かって『お漏らしケグルネク』と罵っておったわ。莫迦をやってはモンスターに人質にされて失禁なんてことはしょっちゅうでな。ファンガズ様もよく儂を見限らなかったものよ、と感謝すると同時に今でも頭が上がらぬわい」
普段より饒舌な師は苦笑とともに頭をポリポリと掻く。
「話が少々くどくなったが、要はそなたの技量はむしろ十八歳にしては高すぎると云いたかったのでござるよ。儂の過去の恥を引き合いに出したのは、儂がそなたから尊敬を得るような男ではないと知って貰うためよ」
そこでユキコ殿が口を開いた。
「何を仰いますか。先生は誠に尊敬に値する剣客にございます。それに恥と云われるが、それが今の先生を作られたのではありませぬか」
ユキコ殿は優しげに微笑みながら続ける。
「生前、父が申しておりました。「自らの弱さを知る者こそ真に強くなる者」だと……弱者が強くならんとひたむきに修業を重ねることの尊さは先生ご自身がよく理解されているはずです」
ユキコ殿の言葉に師は一瞬、驚いた顔をしていたが、すぐに豪快に笑った。
「確かにユキコ殿の言葉通りでござるな。どうやら久々に才能溢れる若者を見たせいで少々卑屈になっておったようだ」
師は当時に思いを馳せるかのように目を閉じた。
「そうだったな。儂は弱い自分が嫌でたまらなかった。剣の腕ではない、心の在り方が弱かったのが許せなんだ。だから儂は軟弱な心を鍛え直したくて牙狼月光剣の修業を始めたのでござる。その思いが今の儂を作った事を忘れておったわ」
「まさか、先生が初心を忘れられるような方でないことは剣を交えた私にはよく判りますわ。でなければあのような鋭く重い一撃は放てません。むしろ初心を忘れていたのは私の方……その事を気付かせるために弱かった頃のご自分を語られたのではございませぬか?」
「買い被りすぎでござるよ」
一流を究めた二人の剣士が静かに微笑み合っている光景は雄大な物語のワンシーンのようである。
ユキコ殿と互角以上に渡り合い、互いに理解し合える師ケグルネクが私は酷く羨ましかった。
「あの……ユキコ先生におかれましては、いつまでスエズンにご滞在の予定でしょうか?」
兄がおずおずと訊ねるとユキコ殿はキョトンとされていたが、思案げに首を傾げながら答えた。
「はて、私どもとしましては早々に運河を渡りカイゼントーヤ入りを果たしたいのですが、この所波が高く渡し舟が出なくて難儀をしておりますので……」
「そうでしたか……」
兄はしばらく何かを云おうとしては躊躇う事を繰り返していたが、気持ちに整理がついたのか真剣な表情でユキコ殿を見る。
「恥を忍んでお願い致します。運河を渡れる日が来るまで我らに稽古をつけてくださいませぬか?」
「拙者からもお願い申し上げます! 己の剣に自惚れた我らを鍛え直してくだされ!!」
先程のユキコ殿に倣うようにセイザをして頭を下げた兄とラカスロープ副師範にユキコ殿は慌てた。
「お、お待ちください。私は既に免許皆伝を得られた剣士に教えられるものを持ってはおりませぬ。加えて私は他流の剣客です」
「兄上、副師範、ユキコ殿は物見遊山でカイゼントーヤに向かうのではないのです。彼女達には重要な使命があるのですよ」
私は三人にトモエ殿とオウカ殿がアポスドルファに導かれた勇者であることを告げ、ユキコ殿達がヴェルフェゴールを退治する為に旅をしていることを語った。
「なんとユキコ先生が異世界の住人であったとは……更にあの魔将軍・ヴェルフェゴールと戦わねばならぬとは、太陽神はなんと過酷な運命を彼女らに与えるのか」
天を睨み付ける兄にユキコ殿は慈愛の微笑みを向けた。
「私どもの為に怒ってくださり感謝の言葉もございません。しかし我らとてヴェルフェゴールの所業には義憤を禁じ得ませぬ。ですからこれは私達の意志でもあるのです」
「ユキコ先生……いきなり異世界へと召喚されてなお、この世界の為に戦うと云われるのか? 先生の慈悲深さには敬服の念を覚えずにはおれません」
感涙に頬を濡らす兄にハンカチを差し出して私は言葉を紡いだ。
「兄上、この旅には私も加わります。力では彼女達に及びませぬが、この身を盾にしてでも彼女達を守り抜く所存です。ですからご安心ください」
「アランドラ……そうか、ではユキコ先生達の事は貴様に任せよう。頼んだぞ」
頷く私に兄は優しげに微笑んだのだった。
牙狼月光剣の教えを受けるようになってから一度も見たことのない笑顔に私はしばし呆然とした。
「しばらくまともに貴様の顔を見ていなかったが、いつの間にか随分と男の顔になったものだ。今の貴様の言葉なら全て信じることができるだろう」
兄は私の肩に手を置いて、力強く頷いた。
「行ってこい。そして無事にヴェルフェゴールを倒して戻ってくるのだ。次に会う頃には私も過去の拘りを捨てて貴様と愉しい酒が飲めそうな気がする」
「兄上……その時は私の秘蔵のワインを持参致します」
私の言葉に兄は気持ちの良い笑顔で頷いてくれた。
ユキコ殿との勝負は兄の慢心を正しただけではなかった。
兄の心の氷を溶かし仲直りをする切っ掛けにもなってくれたのだ。
私は知らず泣いていた。夢にまで見た兄との和解の瞬間がこうもあっさりと訪れるとは思ってもみなかった。
「やはりユキコ殿は人の上に立つ方ですな。このアランドラ、終生をかけてユキコ殿に師事したく思います」
「アランドラ殿まで……冗談が過ぎると私も堪忍袋の緒を弛めますわよ?」
そう云いながらも苦笑しているユキコ殿の顔は慈愛に満ちていてこの世の者とは思えぬほど美しかった。
そうだ。ユキコ殿は私にはもったいない人だ。
高望みはせず、今は彼女のそばにいられればそれで良い。
「アランドラ殿? 何か仰いましたか?」
「ええ、全員が無事でアジトアルゾ大陸から生還できるように神々に祈っていたのですよ」
危なかった。どうや途中で思考が呟きになっていたようだ。
不思議そうに首を傾げる可愛らしいユキコ殿をなんとか誤魔化すと、我々は師や兄達に別れを告げてアンカー亭へと戻るのだった。
道すがらユキコ殿はトモエ殿に語りかけた。
「巴、そして桜花も起きているわね?」
「ああ、桜花も今は起きてるよ。どうやら“月のモノ”で気分が悪かったらしい。俺と体が交換できる事を知って代わって欲しかったようだな」
「そ、そう、ならいいわ。私との仕合を見て分かったと思うけどケグルネク先生の剣は厳よ。私の剣はお釈迦様の手の上で弄ばれた孫悟空のようなもの。それとね、首尾良くヴェルフェゴールを倒した後は世界各国の『楔』を砕く為に更なる旅路と進む事になるわ。その時、このスエズンを拠点にして動く事になるでしょうね」
「まあ、スエズンっつーか、この運河は世界の中心だからな。拠点にするのは分るけど、前のケグルネクのオッサン云々とどう繋がるよ?」
トモエ殿の云うように、確かに前後の繋がりが見えない。
するとユキコ殿は呆れたような弛緩した顔を見せた。
いや、ユキコ殿だけではなくツキヨ殿も呆れていた。
「全く今ので察せられないなんて……私が云いたいのはスエズンに立ち寄る際はヴェアヴォルフ道場に顔を出して稽古に加えて頂こうって話よ。巴、貴方もケグルネク先生に稽古をつけて頂いて肝を冷やしなさい。先生の剣は神域に入られようとしているわ。剣士としてこれ程の幸運はないでしょうね」
「ああ、俺もできる事なら剣を交えたかったが、今の俺じゃ相手にならねぇからな。確かにケグルネクのオッサンに直々に稽古をつけて貰えりゃ幸運だろうさ。それに雪子姉もアラミス兄ィと稽古の約束をしちまったしな。霞流剣術と牙狼月光剣、互いに切磋琢磨させて貰おうかい」
トモエ殿の言葉にユキコ殿はニコリと微笑んで彼の頭を撫でる。
初めこそは、「子供扱いするない」と頬を真っ赤に染めて抗議していたが、やがて目を閉じてユキコ殿にされるがままになっていた。
彼らは本当に仲が良い。見ているだけで優しい気持ちになれるこの三人、否、四人がいる限りこの世界は大丈夫だと根拠もなくそう思ってしまう。
彼らには魔族を倒すだけの力がある。魔族とさえ『家族』になる事ができる優しさがある。
きっと彼らならヴェルフェゴールも倒してくれるだろう。
私は希望が胸の中で燃え上がる事を抑える事ができなかった。
これより三日後、空は再び太陽を取り戻し、運河の波も穏やかになった。
ついに我々は船をチャーターして運河を渡る事ができるようになった。
ようやくカイゼントーヤへの旅を再開する事ができる。
ただコメルシアンテから来たと云う商人が馴れ馴れしくオウカ殿に話しかけているのが気にかかるが、今は良しとしておこう。
それよりも無事カイゼントーヤに着いたとして船を借りる事ができるのかが心配でならない。
彼の国は今、並々ならぬ問題を抱えているらしい。
近海を荒らす凶悪な海賊の対応。突然現われたと云う先代王の御落胤騒動。
後者は噂でしかないが、我らの旅に影響を与えないとも限らない。
カイゼントーヤに渡った我々にどのような運命が待ち受けているのだろうか?
我々は何事も無くアジトアルゾ大陸へ向けて出航できるのか?
それはまた次回の講釈にて。
二十一話も使って漸くスチューデリア脱出です(汗)
けど雪子を成長させる契機にするためにも、実力をもって彼女を負かす展開が一回は欲しかったんです。
既にアポリュオンとの戦闘力の違いを見抜いての不戦敗、ネムスから受けた大敗もありますが、やはり剣の勝負での敗北も必要なんですよね。
次回から、いよいよ新たな展開となります。
ここでストックしていた物の書き直しを始めてしまったので、次からは少々更新のペースが落ちるかも知れません。