第壱拾玖章 誇り高き狼との邂逅
俺は汗みどろの道着を着たまま着替えと手拭いを手に風呂場へと向かう。
アンカー亭の風呂場は午後から翌朝にかけていつでも利用できるように湯が沸いている。
清掃時間の午前は別として、深夜まで入浴できる理由は野暮を承知で口にすれば、女或いは男娼を買った客がお楽しみの後に入る為だ。
ここの風呂場は男湯、女湯、そして母屋から隠れるように混浴がある。
俺は当然、男湯を利用するからそういった客とかち合う事はないだろう。
そんな考えが甘いと悟ったのは、扉を開けてすぐさま閉めた直後だった。
「最悪だ……」
俺は回れ右をすると風呂場が空くまで修行を再開する事に決めた。
だが、風呂場の扉が開いて小麦色に焼けた腕が俺の肩を掴んだせいで今の素敵な考えを実行に移す事は断念せざるを得なかった。
振り返る暇もありゃしねぇ。
出来の悪い怪談よろしく無数の腕が俺を風呂場に引っ張り込んでくれやがった。
「これはこれは勇者様! 入る早々出て行かれるとは寂しいではありませんか!」
今の芝居がかった声の主は俺と同じくアンカー亭の客で、一昨日知り合ったばかりの商人を名乗る男だ。
ここ数日、悪天候に見舞われ運河を渡る事が出来ずに立ち往生している中、ふらりとアンカー亭に現われたコイツはコメルシアンテという国から来たと云った。
コメルシアンテは聖都スチューデリアの北東にあるシルクロードを思わせる長い長い街道の先に位置する国で、工業と商業が盛んで『最も富める国』と謳われている。
本人が云うには、『海の玄関口』として各国との貿易で利を得ているカイゼントーヤに集まる珍品奇品を買い集めて故郷で錦を飾んだそうだ。
その際、カイゼントーヤとコメルシアンテを海路で繋ぎ、楽に行き来が出来るようにして、互いに巨大な利を得られる貿易をしたいらしい。
“楽に”と云うのは、詳しくは知らないがコメルシアンテ周辺の海は暗礁が多く、坐礁事故が少なくない為に海上貿易が難しく、日数がかかっても陸路を行くしかないそうだ。
目の前にいる男もここまで過酷な陸路を旅してきた為か、貴公子然とした細面に似合わない大小様々な傷が全身に走っていた。
何故、全身に傷があるのを解るのかって?
そりゃ解るよ。この野郎は藤蔓を編んで作られた椅子に素っ裸のまま堂々と座ってやがるんだからな。
その周りに五、六人の餓鬼(全員男だ)がいて、男に茶を淹れたり体を拭いたり大きな団扇で仰いだりと忙しく動き回っている。
そういや、さっき俺を引き込んだのもコイツらだったな。
「先客がいたから遠慮したまでだよ」
油断していたとはいえ、簡単に捕まった自分に少し腹を立てながらわざと不機嫌さを隠さずに答えた。
だが目の前の男はそんな俺の様子にニヤニヤ笑うだけで、組んでいた足を組み替えながら俺を見つめている。
「フッ、男同士何を遠慮する事がありますか! 見れば先程まで鍛錬をされていたご様子、早々に汗を流したいはずでは?」
ああ、確かによ、普通の宿泊客とかち合ったなら俺も遠慮はしねぇよ。
けどよ、こんな夜遅くに数人の御稚児を連れた野郎と一緒なんざ御免だ。
餓鬼共はみんなアンカー亭の奉公人じゃねぇか。
しかも全員肌が透ける薄い襦袢みてぇな格好だ。
いくら俺が勇者でも、そん中に入っていく勇気は持ち合わせちゃいねぇ。
気が付けば、餓鬼共は妙に期待を込めた表情で俺の事を見ていやがる。
冗談じゃねぇやい。そりゃ俺も人並みに助平なつもりだが、釜を掘る趣味も掘られる趣味も無いぜ。
「そりゃあな? だけど、人の愉しみを邪魔する程、俺は野暮じゃないつもりなんでな。終わったら声をかけてくれや」
内心、メチャクチャ動揺している事をおくびにも出さずにそれだけ云うと、右手をヒラヒラ振りながらさりげない動きで風呂場から脱出を敢行する。
ここにいたら確実に俺の身にのっぴきならない事態が起こるのは明白だ。
「おや、オウカ……否、トモエ殿も湯浴みですかな? 私も一汗かいたのでご一緒しても宜しいか?」
アポスドルファって野郎はよっぽど俺が嫌いらしい。
無駄に爽やかな笑顔をしたアランドラ兄ィが俺の前に立ち塞がっていた。
「別に構やしねぇよ」
俺は観念して風呂場へと戻る羽目になった。
救いはアランドラ兄ィから情事の残り香がしないことか。
この人もどっかで鍛錬していたんだろう。
さて、俺達は自称商人がはべらせていた餓鬼に服の洗濯を頼むと浴場へと足を踏み入れた。
四半刻(約三十分)もすれば綺麗になるから風呂に居てくれろとの事だ。
この世界には魔法なんて御伽噺みてぇなモンが実際にあるから便利だ。
水を操る魔法で服に染み付いた汗や臭いまで根刮ぎ落とし、火を操る魔法であっちゅう間に乾かす事ができるんだと。
剣術と同じで個人の才能がモノを云うらしいが、機会があれば教わってみたいものだぜ。
「私で宜しければご教授しましょう。私は『闇』に属する魔法に素質がありましてな。恐らく『闇』の聖剣に選ばれたトモエ殿と相性が良いはずです」
この世界の魔法は二系統あるそうで、星神教でいう自分に宿命を授けてくれる神と同じ属性の魔法が使えるようになる『宿星魔法』と、神羅万象あらゆるものに宿る精霊の力を借りて様々な効果を生み出す『精霊魔法』があるそうな。
炎が出したきゃ火の精霊、物を凍らせたかったら氷の精霊の力を借りればいいらしい。
一見、『精霊魔法』の方が汎用性が高くて便利そうだが、いちいち火の精霊だ、木の精霊だの個別に契約をしなけりゃならんそうで面倒な上に、上位の魔法を使いたければそれなりに位の高い精霊に認められるようにならなければ契約すらままならないんだと。
反面、『宿星魔法』は一点特化ではあるものの、知識と素質があれば餓鬼でも上位の魔法を使いこなせるようになるらしいし、仮に才能が無くでも鍛え続けることでそれなりの腕前にはなるそうだ。
その辺は剣術修行と同じだわな。
「アランドラ兄ィの厚意は嬉しいけど、闇っていまいち言葉づらが悪いよな」
「そんなことはありませんぞ!」
外国の彫刻のように均整のとれた無駄のない体を石鹸の泡まみれにしながらアランドラ兄ィは立ち上がった。
「我が守護神・『狼』の神々は『闇』と『安息』を司っています。確かに闇は容易に恐怖を齎しますが、それだけではないでしょう。気が昂っている時、目を閉じて闇の中にいれば鎮まっていくように安寧もまた与えてくれるのです」
御高説ごもっともだけどよ……目の前でぶらぶらさせないでくれ。
「そうですな……『闇』の魔法の中には人を眠らせるものもありますし、その発展型として悪夢を闇に塗り潰して安眠を与える優しい魔法もあるのです。ですから闇にあまり悪いイメージを抱かないで欲しいのですよ」
「確かにそう聞くと悪いものじゃないように思えるな」
「逆に悪夢を見せる魔法もありますがね」
やっぱ怖ぇよ。
「冗談はさておき、トモエ殿にその気があれば、いつでも伝授致しますので」
「ああ、その時は頼むぜ。少しは興味が出てきたからな」
悪夢が消せるんなら、桜花がまたあの『盗賊』に襲われてもすぐに助けられるだろう。
「そうそう、『宿星魔法』を使うには星神教に入会して神々に宿命を授けて頂く儀式が必要ですので、後で教会宛てに紹介状を認めておきましょう」
こっちもこっちで面倒なんだな……
俺は、誰に紹介状を宛てるか悩むアランドラ兄ィと湯船の中でさっきの商人とじゃれ合う餓鬼共の嬌声を聞き流しながら辟易するのだった。
朝飯を食い終えて、今日こそ運河を渡れるか、とアランドラ兄ィと空を眺めて天候談義に花を咲かせていると、何やらいかつい野郎達がアンカー亭にやって来た。
どうもフェイナン兄ィが目的らしく、入り口でフェイナン兄ィに対する罵声を口々にがなりたてやがった。
間を置かずに奧から当の本人が慌てて飛び出してくると男達は問答無用でフェイナン兄ィを外に連れ出そうと取り囲んだ。
「おいおい、穏やかじゃねぇな? 営業妨害にしても他にやりようがあんだろ?」
俺は何故か羞恥と怒りの表情で顔を赤くしているアランドラ兄ィを手で制して男達に声をかけた。
本当なら俺は既に『表』から引っ込んで桜花が『体』を使っているはずだが、どういった腹積もりなのか今日はずっと俺が『表』に出させてもらっている。
「何だ小僧? これは我らが内々の話、無関係な者は引っ込んでろ!」
判りやすい破落戸のような恫喝に怯む俺じゃないが、“内々の話”ってのが気になった。
「そうはいくかい。アンタらが連れてこうとしてんのは俺の兄弟弟子でね、身内に危害を加えようってんならこちらとしても黙ってる訳にもいかねぇんだよ」
俺の言葉に男達に動揺が走り、次の瞬間には全員が憤怒の形相で俺を睨んできたが、雪子姉の怒りを隠した微笑みと比べたらそよ風みたいなもんだ。
あの微笑みながら柔術で全身の関節を極めてくる雪子姉の怖さ……思い出すだに身の毛がよだちやがる。
「貴様、霞流とかいう奇っ怪な剣法を遣う輩の一味か?!」
「奇っ怪かどうかは知らねぇが、確かに俺も霞流を遣うぜ」
そう答えるや男達の一人が怒りを押し殺すような声で俺に迫った。
「ほう、つまりフェイナンが我らを裏切った要因がここにいるって事か」
裏切るだァ? 知り合ってまだ数日しか経ってねぇがフェイナン兄ィが人を裏切るなんて事が出来る人じゃねぇのはよく判る。
「どういうこったよ?」
「フェイナンは元々は牙狼月光剣の門下生、そして今はソレを捨て、霞流を名乗っている。彼らはその事を云ってるのですよ」
俺に疑問に答えたのはアランドラ兄ィだった。
なるほどね、つまりコイツらもその牙狼月光剣の遣い手で、霞流に鞍替えしたフェイナン兄ィを恨んでるってわけかい。
「おお! そこにおわすはまさにアランドラ皇子ではありませぬか! 貴方様もこのフェイナンに思うところがおありでしょう!」
男達はアランドラ兄ィの姿を認めると途端に相好を崩した。
逆にアランドラ兄ィの機嫌はますます急降下していき、連中を刺すように睨んでいる。
「堕ちたな……」
「は?」
アランドラ兄ィの吐き捨てる物云いに男達はキョトンとしている。
「フェイナンが牙狼月光剣を捨て、霞流の門を叩いたのは指導者の教えに感銘を受けたからであって、決して裏切りではない。よしんばそうであったとしてもだ。ソレはフェイナン個人が決めた事であって、師匠も認めた事だ。お前達が口を出す事ではないだろう!」
「し、しかしフェイナンはかつて世界征服を目論んだ邪悪な預言者・ドゥールフェザーを倒した『運河の七戦鬼』の一人・ファンガズ様の子! そして我ら牙狼月光剣に多大な恩恵を与えておきながら今更他流に行くなど以ての外ではありませぬか!」
分かりやすいな。
要は英雄の血を引き、恐らく他の門弟よりも指南料を多く納めているフェイナン兄ィがいなくなる事が嫌な訳か……
確かにフェイナン兄ィが牙狼月光剣の道場から去れば箔と金を同時に失う事になるだろうが、なんか考え方が俗物的で気に入らねぇ。
「つまりフェイナン兄ィそのものより余禄を失う事が嫌ってか? テメェら何の為に稽古をしてるんだい?」
「ぐっ……黙れ小僧! 兎に角、先輩である我らに断りもなく道場を去ったこやつの根性を叩き直さなければ示しがつかん!!」
「あん? さっきアランドラ兄ィが師匠の許可を得たっつってたじゃねぇか? それなのにアンタらが口出しをするのか? それとも何かい? 牙狼月光剣ってのは師匠よりも門下生の方が偉いんかい? どうなんだよ?」
俺の言葉に男達は顔を真っ赤に染めて全身が振るえていやがる。
今にも斬りかかってきそうだ。
だが、あまり挑発的な事を云うのも程々にしないとな?
牙狼月光剣の侮辱はアランドラ兄ィへの侮辱も同義だしな。
「若輩者から云われるのも業腹だろうが、アンタらが門下生が減る事なんざ気にする道理などねぇだろ? 牙狼月光剣は攻防に長けた素晴らしい剣法だ。それゆえ体得が難しいんだろう? だったらこんな事してねぇで道場に帰って修行しろ」
「うむ、今のは本来、私が云うべき事であるがトモエ殿の云う通りだ。フェイナンの意志は固い。ならば、ここで無為な時間を過ごすより道場へ戻るが良い」
男達はしばらく俺とフェイナン兄ィを睨んでいたが、アランドラ兄ィにまで諭されたのが効いたのか悔しげに踵を返した。
しかし、そこで間の悪い人がやって来ちまった……
「いったい何の騒ぎ? 厨房にまで声が届いているわよ?」
道着にエプロンというなんとも珍妙な姿の雪子姉が現われた。
ここ数日、悪天候により運河を渡る為の船が出せず、足止めを食ってアンカー亭に流連する事になっちまったのは前述した通りだ。
オーナーは過日の件を恩と感じたのか、宿代はいらないと云ってくれ、雪子姉もそれを受け入れていた。
剣術で金を稼ぐとは、こういう事なのだそうだ。
雪子姉は、妹がブレイズフォード家に嫁ぐとこで大貴族の後ろ盾に得たフェイナン兄ィはこの先金貨を何百枚も稼げるようになったのだから、それくらい安いものだと笑っていた。
商人は物を売り、芸者は芸を売り、剣客は剣の腕を売る。
「だって、ひもじい思いはしたくないもの。『武士は食わねど高楊枝』ってのはね。別に貧しくても痩せ我慢しろって意味じゃないのよ? 人前では弱気な事を云うな、弱気な姿勢を見せるなって教えなのだから」
この人は一生食いっぱぐれないなと思った瞬間だった。
しかし何が起こるか分からない旅だ。
だから路銀を稼ぐ為に俺達は日々フェイナン兄ィを鍛え、宿の雑用をする事になった。
俺はあまり『表』に出る事はないので桜花が得意の裁縫で旅人の破けた服を繕ったり、子供の面倒を見たりして小銭を稼いでいた。
そして雪子姉と月夜姉は厨房に入り、料理の仕込みを手伝う事にした。月夜姉は毎日俺らの食事を用意してくれていた事からすぐに仕事に慣れた。
雪子姉は流石に盲目とあって調味料の配置が解らない為、料理を仕上げることは困難と判断されて、魚や貝類の下処理を任された。
しかし流石は剣の達人と云うべきか、目の見える普通の料理人と比べても遜色ない卸し方だそうだ。むしろ並の料理人よりも綺麗に捌くらしい。
「ユ、ユキコ師範……」
フェイナン兄ィの不用意な一言のせいで去りかけた男達が物凄い形相で戻って来やがった。
「師範?! まさかこの女が霞流の主か? フェイナン、貴様、この女の色香に迷った訳ではあるまいな?」
「そんな訳ないでしょう! 私は思うところがあって霞流の門を叩いたのです!」
男達とフェイナン兄ィとの遣り取りに雪子姉は初めはキョトンとしていたが、不毛な云い争いを聞いているうちに眉間に皺が寄って眉が吊り上がっていった。
「貴方達は宿屋の入り口で何を争っているのですか? それではお客様が入りたくても入れないではありませぬか! フェイナン殿、貴方もここの跡取りなら自重をすべきです! それから誰かは存じませぬが、その物腰から剣を嗜まれている様子、そんな方々が稚拙な言葉を使うものではありませぬ!」
雪子姉の言葉にフェイナン兄ィはもとよりあの荒くれた男達も呆気に取られて大人しくなった。
「いかにも我らは牙狼月光剣のヴェアヴォルフ道場の門弟であるが……なにゆえ我らを剣士と見たな? コレこの通り皆剣を携えておらぬのに」
今まで黙っていた頭目と思しき男が困惑げに問うと、雪子姉は無邪気に微笑んで見せた。
「いえ、先程から貴方達の足の動きを聞くと如何にも剣士らしい足捌きでしたので……それに実を申せば牙狼だの月光だのと聞こえましたゆえにね」
「いや、恐れ入った。しかし足の動きを聞くとはいささか奇妙な……もしや、そなた?」
「はい、お察しの通り、私は生来、光が見えませぬ」
雪子姉の言葉を受けて男達に動揺が走った。
「そなたの事は、女の身で道場主を務めていると聞いてはいたが、まさか盲目であったとは……」
「ええ、それゆえ門人達にも家族にも迷惑をかけ通しでいささか心苦しゅうござるが、皆の協力を得てなんとか道場を切り回していますわ」
雪子姉は優雅に微笑むとエプロンを外して、いつの間にかそばに来ていた月夜姉に渡した。
「貴方達の云い分は大体察しがつきます。フェイナン殿自身の選択とはいえそちらの兄弟弟子を奪った事には違いありません。このままでは貴方達も抜いた刃を納めるわけには参りますまい。宜しゅうござる。同道いたしますので、貴方達の道場へ案内を願います」
これには男達も目を丸くした。
だってそうだろう? 場合によっては自分達のせいで霞流と牙狼月光剣との抗争にまで発展しかねないんだからな。
「ユキコ殿? 本当に行くのですか? 確かに我が師は人格者ではありますが、門人達の中には気性の荒い者も少なからず存在します。それと云うのも各地で問題を起こす悪童達を集め、剣術を通して彼らを更正させる目的で師は道場を開いているからです。つまりヴェアヴォルフ道場が剣術道場であると同時に帝室からも助成金を出している更正施設でもある事を意味しています」
なるほど、つまり目の前にいる男達もそういった悪童達同様に教育されたクチってところか。
「あら? 私の霞流道場にも気の荒い人足や大工、侠客や先の話にも出てきた更正目的の悪童も多数おりますわ。ですから心配には及びません。私とて伊達に荒くれ者やそれ以上にタチの悪い老獪な妖僧を相手にしていませんからね」
雪子姉はいたずらっぽく笑う。
「それに目的は先方への挨拶ですから、余程の事がない限りは霞流と牙狼月光剣が相争う事態にはならないと思いますわ」
確かに雪子姉はこういった礼儀を重んじる人だが、道場をやめるやめないはさっきのからの話にあるように本人の意志なんだからそんな挨拶なんて無用だろう。
恐らく自分達が異世界から来た異邦人である事も本来不要な挨拶へと駆り立てているのかもしれない。
「ユキコ師範、またも面倒事に巻き込んでしまい、申し訳ありません」
「お気になさらずに。それにたまには他の道場を見学するのも良い修行になりますわ」
謝るフェイナン兄ィに身内でもドキリとするほどの艶っぽい笑顔を向けると、先程の男に再び案内を請う。
「承知した……ついて来られよ」
男はゆっくりと歩き始めた。
いやはや、針の筵ってのはこの事だろう。
ヴェアヴォルフ道場に着くや否や、俺達は道場へ通されて稽古をしている彼らの視線に晒されていた。
しかし異世界だろうと他流だろうと素振りが基本なのは変わらないみてぇだな。
皆、熱心に木製の大剣と小刀を振り回している。
思うに逆手に持った小刀で防御、牽制をして大剣で仕留めるって剣法らしい。
結構、面白いかも知れねぇな。
「如何かな? 当道場は?」
かけられた穏やかな声に、そちらを見ると立派な顎髭をたくわえたガタイの良いオッサンが木剣を片手に愛想良く笑っていた。
何気なく立っているように見えるが、腰はどっしりとしており、丸太のような足は根でも張っているかのように安定していやがる。
もし戦えば良くて相討ち、いや確実に俺が負けるだろうな。
恐らくはこのオッサンがこの道場の主だろう。
「ええ、皆の「強くなろう」という熱心さが伝わってきますし、何より活気に満ちているのが好ましい」
「そう云って頂けるとこちらとしても嬉しい限りだ。申し遅れたが、儂が当道場の主・ケグルネク=ヴェアヴォルフでござる」
「霞流剣術師範・霞雪子で御座います。此度、そちらのご高弟に無理を申したことをお詫びいたします」
雪子姉が名乗るや否や、俺らに向いていた視線に殺気が込められた。
だが、雪子姉もケグルネクのオッサンも平然としてやがる。
月夜姉までも涼しい顔で茶を啜っている。
「なんのなんの! むしろ詫びねばならぬのは儂の方でござる。あの莫迦共の勝手な振る舞い、師として恥ずかしい」
「いいえ、形だけ見れば私は兄弟弟子を奪ったようなものですからね。恨まれても仕方がないと思いますわ」
雪子姉の涼しげな微笑みに周りの連中の顔が赤く染まっちまってる。殺気なんて完全に霧散してやがるぜ。
まったく修業が足りねぇ奴らだ……すまん。俺も正直、頬が火照ってる。
「話はフェイナンから聞いておる。奴がここを去ったのは奴自身が決めた事。こちらが恨むのは筋違いでござる」
ケグルネクのオッサンはドカッと床に座ると髭に覆われた顎をポリポリ掻きながら続ける。
「それからな、ユキコ殿」
「はい」
「そなたがその事で当道場に詫びに来られるのもまた筋違いでござる。フェイナンはここを去った。そしてそなたの流派の門を叩いた。ただ、それだけよ」
「……ははっ」
ケグルネクのオッサンに云われて雪子姉は頭を下げた。
デカいなぁ……今まで俺の最終目標は雪子姉だったが、ケグルネクのオッサンの器量もまた見習うべきだ。
俺が勝手に感心していると、不意にケグルネクのオッサンが立ち上がり、門人達に声をかけて道場の両脇へと下がらせた。
「さて、折角来て貰って何の持て成しもせずに帰すのはちと当道場の沽券に関わる。そこでだ……」
ケグルネクのオッサンは弟子達から二人の名を呼んだ。
呼ばれてオッサンの横に現われたのは、さっきアンカー亭に来た男達の頭目と長い銀色の髪を雪子姉のように頭の後ろで縛った長身の男だった。
「如何かな? ユキコ殿もここで少し汗を流して行かれぬか?」
そう来たか。
だが、ケグルネクのオッサンの顔にあるのは他流の女を打ちのめそうという狡猾な表情じゃなかった。
むしろこの左右に控えている二人の為に心を鬼にしてるって感じだ。
「この者達は当道場でも抜きんでた存在でござる。しかし他流とは仕合った事がないゆえ、ユキコ殿に一手御指南願えれば幸いにござる」
そこまで云ってオッサンは雪子姉の顔を見る。
雪子姉は穏やかに微笑んだまま座して動いていなかったが、全身に気が巡らせていつでも戦える状態になっていた。
霞流は如何なる状況にも対応できる剣術だ。つまり今のように座したまま瞬時に敵を斬る技も存在する。
雪子姉は既に万全の体勢を取っているんだ。
「ユキコ殿?」
今まで黙していたアランドラ兄ィが雪子姉の返事を促す。
「幸いなのは私の方です。他流に触れるという事はそれだけで充分な修行になり申す。ましてやご指南頂けるとはこの霞雪子、一剣客としてこれに勝る喜びはありませぬ」
そう答えると雪子姉は立ち上がって愛用の杖を帯に挟んだ。
「決まりでござるな。お前達もユキコ殿の胸を借りて剣術の厳しさを改めて知れ!」
「「ハッ!!」」
師の激励に左右の男達が前に出る。
雪子姉の方も前に出て体内の気を充実させる。
「霞流剣術師範・霞雪子! 牙狼月光剣の高弟二人より一手ご指南賜わりまする!!」
こうして霞流と牙狼月光剣との他流試合が始まった。
まったく、どうしてこうなるんだろうなぁ?
基本的に雪子姉も剣術の仕合が好きな人だから仕方ないけどよ。
むしろ心配なのが雪子姉がやりすぎて二人に大怪我をさせないかって事なんだが、いざとなったら俺とアランドラ兄ィで止めれば良いか。
それより気になるのがあの銀髪の兄ちゃんだ。さっきからアランドラ兄ィに蔑みの視線を送ってるし、アランドラ兄ィも意図的に無視してるのがありありと解る。
いったい二人は如何なる実力を持っているのか?
銀髪とアランドラ兄ィとの間にはどのような関わりが隠されているのか?
それはまた次回の講釈にて。
霞流、他流道場に赴くの巻。
異世界の剣術の一つ、牙狼月光剣と他流試合をすることになりました。
果たして試合の結果は如何に? といった所でしょうか。
それと、ずっと剣客小説もどきを書いてましたが、今回異世界の魔法について説明を書いてみました。しかし、私の拙い脳みそで考えたものですし、ざっと書いてしまった感もありますので皆様に伝わったか気になります。