第壱拾漆章 雪月花の三姉妹、大敗を喫する
左肩の傷を庇うベルーサ様の右手はあっという間に鮮血で赤く染まる。
ベルーサ様の顔にあるのは激痛と困惑ではなく、哀しみだった。
「な、何をする、ベルム?!」
「決まってるだろ? 復讐さ……ブレイズフォード家の嫡男、ベルーサを殺せば親父も地獄を味わうだろう? 自分が殺されるより苦痛だろうぜ?」
「やめよ! これ以上の無体はよせ!!」
ベルーサ様は必死に訴えるけど、ベルムは聞こえていないかのように何度も突きを繰り返している。
「ほら、ベルーサさんよ? 反撃しねーと蜂の巣になるぜ?」
「やめよ、ベルム!! 私は兄ぞ! 弟を殺せるはずがなかろう!!」
「だから何度も云ってンだろ?! 俺とアンタは血が繋がってねぇ!! そもそも住む世界が違うんだよ!!」
ベルムの攻撃は苛烈を極めてベルーサ様の傷の数がどんどん増えていく。
今は浅手で済んでるけど、出血が激しいからいつかは力尽きて突きの餌食になってしまう。
「血筋なんてどうでも良い!! そなたは私の弟だ! 思い出せ、昔のお前は皆に平等で優しい笑顔を見せていたではないか!!」
「昔は昔!! もう過去へは戻れねぇ!! 俺は外道よ、悪党よ!! 生まれついての賤民なのよ!!」
鈍重な外見とは裏腹に風のような身のこなしのベルムは華麗な舞を舞っているように見えた。
まるで雪子姉様の剣舞を見ているようだよ。
「それでも! お前は私の弟ガハッ!!」
ベルムの回し蹴りがベルーサ様の鳩尾を捉えて吹き飛ばした。
「これで最後だ……これでアンタは終わりだ……」
ベルムは能面のような顔になって半身に構えサーベルを持った手をダラリと下げた。
「……秘剣『疾風迅雷』」
ベルムは殺意も殺気もなく無表情に呟いた。
もしかして、さっきの無拍子の突き?!
「さらば、兄上!!」
ベルムの両目が見開いて恐るべき突きが繰り出された!
速すぎる!! もし受けるのが桜花だったら、とてもかわせそうにない!
「ベルム!!」
なんとベルーサ様がベルムの突きを左手で受け止めた瞬間、『疾風迅雷』以上に凄まじい神速の突きがベルムの心ノ臓を貫いた。
あまりの光景にフェイナンさんとネムスさんは驚愕に目を見開き、姉様達やアランドラ様は痛ましそうに目を閉じた。
「ベルム……兄上と呼んでくれたな?」
「さ、流石はベルーサ=ハル=ブレイズフォード……自慢の兄上です。よくぞ弟の非道を正して下さいましたな……」
ベルーサ様に抱き起こされたベルムは憑き物が落ちたように穏やかに微笑んでいる。
「そなた、初めから死ぬ気であったな?! アンカー亭の事件において、いたずらに解決の引き延ばしをしていたのも私の帰国を待っての事か?」
「ち、血は繋がってなくても……長年、兄弟として過ごしたお陰ですかな……近々、兄上がお帰りになるような気がしていたのです」
ベルムは大きく咳き込んで、口から血の塊を吐き出した。
「ベルム! もう喋るな!!」
ベルーサ様の言葉にベルムは力無く首を左右に振った。
「心臓を貫かれては助かりますまい……ならば死す前にやるべき事を……」
ベルムは懐から自分の血に濡れた金の鍵を取り出すとフェイナンさんを呼んだ。
「フェイナン殿……妹御にはむごい事をした……私が許されないのは当然の事なれど……償いだけはさせて頂きたい……」
フェイナンさんはベルムを憎んで良いのか、その死を悼めば良いのか判らないといった表情で鍵を受け取った。
「す、スエズン……中央区に、私の所有する蔵がある……それはその鍵だ……中に私の今までの非道を記した物と財産がある……」
ベルムは更に血の塊を吐き出した。顔色も土気色になり、余命幾ばくもない事が察せられた。
「それを……私に殺された者の家族や……私に犯された女性達に……分配して頂きたい……勝手な事を申すなとお思いであろうが……死にゆく者の願いです」
「ベルム様、私も本音では貴方をまだ許せません……しかしながら、それとこれとは話が別!ご安心ください。私が責任を持って貴方の償いを代行致します」
「かたじけない……」
ベルムの表情が僅かに和らいで目尻から涙が一粒零れた。
「兄上……愚かな弟にさぞ失望された事でしょう……」
「ベルム……ああ、失望しなかったと云えば嘘になる」
「兄上らしい答えです……私も『観察日誌』を読んで、それでも数ヶ月は貴族たらんと生きてきました……しかし、何かが私に囁いたのです……『いくら貴族の振りをしようとも、お前は所詮、下男と老いた娼婦の子』と……『だから、お上品に振る舞ってないで自分のしたいように生きろ』と……思えば……それは私の『心』の弱い部分が私自身を誘惑していたのでしょう……私はその誘惑に勝てなかった……なんとも愚かな男です……」
ベルムの目から光が消え始める。
間もなくベルムは永遠の眠りに就く……
「そうだな……お前は愚かだ。人に貴賤はない! あるとすれば、それは己の『心』の在りようだ! たとえ、誰の血が流れてようとお前はブレイズフォード家の男なのだ!」
「ははは……う、嬉しゅう御座います……私は多分……兄上にそう云って欲しかったのやも知れませぬ……」
ベルムの全身から力が抜けたように、くてっとベルーサ様に体ごと預けてきた。
そして最後の力を振り絞るように雪子姉様を呼んだ。
「おお、ユキコ殿……一つお願いがあります……」
「はい、拝聴致しましょう」
ベルムの言葉を聞き漏らすまいと、耳をそばに近づける。
「父上を……止めてくだされ……おぞましき実験の犠牲者たる兄弟が他にも……悲劇をこれ以上繰り返させぬよう……父上を……ユキコ殿にしか頼めぬこと……」
「お引き受け致します。必ずや貴方様のお父上を止めてご覧にいれましょう」
「ありがたい……報酬は……私の財産からお受け取りを……金貨百枚はくだらぬはず……」
まさかベルムは雪子姉様の裏稼業を知っている?
ううん、違う。死に瀕することで雪子姉様から『地獄代行人』としての匂いを嗅ぎとったのかも知れない。
ベルムは心残りが無くなったようで、まるで幼い子供のように微笑んだ。
「ベルム!!」
「最期に……私の人生に幕を降ろして下さったのが兄上とは……私は果報者に御座います」
ベルムは静かに瞼を閉じた。
「ベルム? ベルム? ベルム?!」
ベルーサ様は何度もベルムの体を揺すったけど、彼の命の灯火が消えている事が理解できたのか、号泣しながらベルムの名を叫んだ。
いつの間にか桜花の目から涙が溢れていた。
桜花だけじゃない、フェイナンさんもネムスさんも月夜姉様もアランドラ様もベルムの死を悼んでいる。
雪子姉様の姿を捜すと、宵闇の中をゆっくりと歩いていた。
雪子姉様の向かう先には大きな湖があって、その畔に豪奢なお城が建っていた。
「雪子姉様……」
雪子姉様の背中を見て桜花には判った。
物凄く怒っている……ここまで怒っている雪子姉様を桜花は今まで見た事がなかった。
(姉様は許せないのですね)
月夜姉様が後ろから桜花の両肩に手を置いた。
その手は優しく乗せられてたけど、月夜姉様の怒りが充分過ぎるほど伝わってきた。
桜花はベルーサ様のお父上の……確実な『死』を予感した。
フェイナンさんとベルムの決闘が終わったその夜、ネムスさんが歌を聴かせてくれた。
ベルムの事を思うと、とてもお祝いするって気持ちにもなれず、まるでお通夜のような雰囲気だったので、それを振り払おうとするネムスさんの心遣いだった。
あの後、ベルーサ様のお父上の訃報が届けられた。
彼は自分のサーベルを自らの胸に深く突き刺して果てたそうだよ。
彼もまた罪悪感に苛まれていたのかも知れない。己のくだらない実験のせいで一人の人間を絶望の淵に追いやり、数多くの犠牲者を出した事で自分を責めていたのかも……
その証拠にベルムの暴走が始まって間もなく彼はどんな病に冒されようと医者を呼ばず、薬も飲もうともしなかったって記録にあった。彼なりの贖罪だったんだろうね。
彼の日記には、ベルムが殺めた人達の影が見えるとか、ベルムに犯された女性の悲鳴が聞こえるとか、幻覚や幻聴に悩まされている様子が生々しく書かれていた。
そこへ屋敷の警護を潜り抜けて、誰にも気付かれず彼の部屋に現われた雪子姉様に恫喝されてついに張り詰めていた糸が切れてしまったんだろうね。
「ブレイズフォード家当主もまた弱い人だったのよ。人の貴賤をあのような手段で試したのも、自分自身の存在価値を認識したかったから……」
「自分に自信を持てなかった?」
桜花の問いかけに雪子姉様は侮蔑の“笑み”を浮かべた。
「この世界はね、男と女の他に第三の性が高確率で生まれるそうなのよ」
「第三の性?」
話の流れを断ち切るような雪子姉様の言葉に桜花は困惑する。
「男女の機能を併せ持つ完全なる雌雄同体。この世界の人間の二割が両性具有なんだそうよ」
「そうなんだ……」
「そしてブレイズフォード家当主も両性具有だったのよ」
思わぬ新事実に桜花達は何も云えなくなった。
「彼は昔、聖帝陛下に恋をしていたそうでね、何度も何度も自分を売り込んでいたらしいわ」
桜花はどうにも陰間(男色の意)しか連想できなかった。
「彼のしつこいくらいの自己主張にとうとう聖帝陛下は辟易されて、つい云ってしまったのよ」
「下がれ、下郎!!」
聖都スチューデリアの中でも位が相当高かった彼はその言葉に動揺した。
自尊心は打ち砕かれ、惨めな思いをさせられたらしい。
「やがて聖帝陛下のお心を止めることを諦めた彼は『女』であることを捨てた。捨てざるを得なかった」
貴族は勿論、軍人や平民も側室に迎え入れているのに自分だけは歯牙にもかけられない。
かけられたのは下郎の二文字か。
その頃からブレイズフォード家当主は人の貴賤にこだわるようになっていったという。
陛下御自らの口から『下郎』と賜った彼は劣等感を抱くようになり、いつしか『下郎』は『下賤』へとすり替わっていったからだ。
「人の貴賤をどうこう云う前に彼は……『人』を捨ててしまっている事に気付いていなかったのよ」
「そしてベルムの暴走を知り、彼は己の所業が如何に人の道から外れていたのかをようやく思い知らされた」
アランドラ様が雪子姉様の言葉を引き継いだ。
「あのベルムも五年前までは実直な男で、人に貴賤無しと誰にも平等に接する貴族の鑑、帝室も見習うべしと我々に評価されていたのですよ。それがあのように豹変するとは……思えば彼なりの合図だったのかも知れませぬ。暴飲暴食にとどまっている段階で誰かが彼の苦しみを察していれば……」
アランドラ様は哀しげに溜息を吐いた。
「結局……この世でもっとも恐ろしい魔物は人の『心』そのもの……父様の遺された言葉通りね」
「人の『心』こそが魔物……なるほど、そう云えるかも知れませぬな」
アランドラ様の相槌を受けて雪子姉様は歌い続けるネムスさんに顔を向けて続ける。
「人の『心』は弱い……弱すぎる。だから時として誘惑に負ける。邪心に身を委ねてしまう……私も『闇』に堕ちている者として彼らの事は他人事ではない。一流派の免許皆伝を許されているとは云え、それで我が『心』まで強くなったとは思えない……否、私は全てにおいて覚悟が足りぬ未熟者……私もまた弱い。私もベルムと同じ道を辿らないという保証はない。が、幸運な事に私には月夜と桜花、そして巴という素晴らしい家族がいて私を支えてくれている」
「雪子姉様……」
桜花はその言葉に思わず雪子姉様に抱きついた。
嬉しかったのは月夜姉様も同じだったみたいで、桜花の反対側から雪子姉様に抱きついていた。
「弱い者は弱いなりに支え合って生きていける……ブレイズフォード家の不幸はその支えが無かった事。弱き者は支えが無ければ僅かな切っ掛けですぐに堕ちてしまう。もっともこの世で真の意味で強い者などいないでしょうけどね。身体的であれ、精神的であれ、どこかしら弱い部分があるものなのよ。逆に云えば弱いだけの人もいないのだけどね」
雪子姉様は再びネムスさんに顔を向ける。
「例えばネムス殿は戦闘能力には乏しいけど、彼の歌は絶品でしょう? それに哀しい過去を自分なりに決着を付けて歌にできる精神的な強さは羨ましいものがあるわ」
『え? 今、何て?』
ネムスさんは歌とギターを止めて、心底驚いたように雪子姉様を見た。
「貴方の歌が絶品って云ったのよ」
『そ、そうじゃなくて!』
「ああ、貴方が強いって事? だって、そうじゃない。今の歌にしても歌詞に登場する、会った事もない男に嫁いで行った『あの娘』、実在するのでしょう?」
『う、そうだよ……』
ネムスさんが動揺しているのは、赤くしたり青くしたり忙しい顔を見れば解る。
「歌詞もそうだけど歌っている貴方の声を聞けば、ネムス殿が『あの娘』の事が好きだった……いえ、今でも好きなのは解るもの。そんな悲恋を歌にできる貴方の『心』は誰よりも優しく強い。私は全てを破壊したいという『闇』に『心』が呑まれようとしている弱者……だから私はネムス殿の優しさが、『心』の強さが羨ましい。私のような邪悪な性根を持つ者には貴方の『心』が眩しいのよ」
『や、やめてくれ!!』
突然、ネムスさんは強い口調で雪子姉様の言葉を遮った。
『わ、解った風にボクの事を強いなんて云わないでくれ! ボクにだって邪心はあるし、それに優しくなんてない!! 歌詞にある『あの娘』はボクの妹だ! そうだよ、ボクは確かに『あの娘』が好きさ! でも、ボクの恋は、兄でありながら妹に懸想する邪恋なんだ!!』
ネムスさんはギターを床に落とすと、自分の部屋に向かって駆け出した。
『ボクは強くなんてない!!』
ネムスさんは泣いていた……
「ふぅ……怒らせちゃったわね。兄様曰く、『言葉は簡単に人を殺し、また癒し、生かす』、か……私もまだまだ修行が足りないわね」
乱暴に閉まるドアの音を聞いて雪子姉様はバツが悪そうに呟いた。
(まったくです。いつも云っていますが、言葉というものは頭の中でよく吟味してから口に乗せるべきです)
「月夜、苛めないで」
雪子姉様は苦笑して月夜姉様の頭を撫でた。
「なるほど、確かに人の『心』とは難しいものですな。此度のベルムの件、ハンムルの件、もう一人の『勇者』の件、『心』とは何たるかを少しは学べたような気がします」
「左様、『心』とはこの世でもっとも優しく、この世でもっとも恐ろしい魔物にもなり得る……このように」
雪子姉様は懐から一冊の本を取り出した。
「それが例の『観察日誌』ですか?」
「ええ……いいえ、コレは最早『観察日誌』ではありません……様々な人の怨念が宿り、邪悪な『付喪神』と化しています」
雪子姉様がペラペラと頁を捲っていくのが気になって、桜花はそぉっと覗き込んだ。
「ヒィ?!」
桜花は思わず情けない悲鳴を上げてしまった。
だって、ベルムの行動が書かれていたはずの『観察日誌』は……
全ての頁に苦悶に歪められた『顔』があったから……
「こ、コレは……?」
「桜花、コレは恐ろしいモノよ。この世にあってはならぬモノ……災いをもたらす“悪魔の書物”よ」
雪子姉様は今にも怨嗟の声を上げそうな『顔』を慰めるように優しく撫でている。
「桜花、覚えておきなさい。これこそ我が霞家当主に代々引き継がれてきた『お役目』……」
哀しげに柳眉を寄せて雪子姉様は『観察日誌』を閉じると、上に放り投げた。
「せいっ!」
気合が発せられて大真典甲勢二尺六寸が『観察日誌』を斬り裂くと、世にもおぞましい断末魔が聞こえたような気がした。
「妖魔九百八十一斬……南無八幡大菩薩」
雪子姉様が二尺六寸を納めると、空中で『観察日誌』が燃え上がって床に落ちるまでには灰となって消えていた。
「貴女か巴、いずれは私を超えて霞家当主になる。その時まで、この世の悪を妖魔の形にして斬り捨てる……この『お役目』を覚えておいて」
「雪子姉様……」
桜花は哀しげな雪子姉様にこれ以上は何も云えなかった。
「もっとも、こんな『お役目』……私の代で終わりにしたいものだけどね」
辛そうに微笑む雪子姉様に桜花は抱きしめたくなる衝動をかろうじて堪える事ができた。
もう月夜姉様が雪子姉様を抱きしめているせいもあるんだけどね。
物凄く強いのに、こんなにも庇護欲をそそられる雪子姉様って……
翌朝、アンカー亭は大騒ぎになっていた。
理由は簡単、ネムスさんがいなくなっていたんだ。
しかも自分が魔界の王子である事と、刺客である事実を記した書き置きまで残していた。
桜花達の焦る横では青白い顔をした雪子姉様がベッドの上で、瞼をきつく閉じている……
雪子姉様はまったく動こうとはしなかった。
そんな雪子姉様の顔を月夜姉様があえて表情を消して濡れた手拭いで綺麗にしていた。
まったくの油断だった。剣客に、勇者にあるまじき失態だった。
ネムスさん……いや、ネムスの穏やかな笑顔とまったく殺気というものに無縁そうな物腰に桜花達は騙されていたんだ。
大敗だった。完全に桜花達の敗北だった。
桜花はネムスの書き置きを読むアランドラ様の声を聞きながら、胸の中に湧き起こる感情を持て余していた。
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親愛なる人達へ。
ボクは大魔王エミルフォーン第二十子・ネームレスと申します。
否、“名無し”が申しますも何もないのですがそこはそれ。
昨今、魔界ではカスミ・ユキコの名を知らぬ者はなく、彼女に尊敬と畏怖の念を抱く魔族は少なくありません。
ユキコ殿の武勇にあやかろうと彼女の肖像画を持ち歩く武将もいれば、己の名を上げんと彼女の命を狙う兵士もおります。
ボクもその一人で、密かにユキコ殿暗殺の機を窺っておりました。その機とは昨晩、フェイナン殿の決闘が終わった直後です。
いかに稀代の剣客といえども、決闘が終われば油断が生じるだろうとの浅知恵を巡らせたからに他なりません。
ボクの唯一の武器は『無能』……これにより、ターゲットを油断させて毒殺する。
それがボクの暗殺の手口です。
しかし、しかしながら思うところがあって刺客は廃業し、一人の吟遊詩人として生きていくことにしました。
ユキコ殿は私のことを『強い』と云って下さいました。
実を云うとボクを『強い』と云ってくれたのはアランドラ君と彼女だけです。
親兄弟から『無能』と罵られながら生きてきたボクにとって、その言葉がどれだけ嬉しかったか。
だからボクは変わろうと決心したのです。
ボクは強くなろうと思ってます。それもユキコ殿やアランドラ君の横に立って共に戦える程に己を鍛え直したいと考えています。
いつか必ず戻って来ますので、その時は温かく迎えてくれると嬉しく思います。
つきましては、無敵の三姉妹と高貴なる皇子様にご忠告を……
この世界でも最強レベルの剣術と全てを見抜く『心の眼』を過信して、今回のような油断を二度と召されません事を。
その額の印はボクからの忠告と受け取って頂きたく思います。
追伸。
餞別代わりに愛用のギターを置いていきます。ボクと思って大事にしてください。
吟遊詩人ネムスより
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そこまで聞いて、桜花の胸の中に秘めた感情が爆発した。
「あははははははははははははははははははははははは♪ お、お腹が痛い! ゆ、雪子姉様、まんまとやられちゃったね♪」
爆笑する桜花に釣られて、寝起きで青白かった雪子姉様も今は顔を赤くして大声で笑った。
「あははは♪ 本当ね! この霞雪子、一世一代の不覚! 大魔王が第二十子、吟遊詩人ネムス、恐るべき刺客だったわ!」
見れば月夜姉様の肩が震えている。必死に笑いを堪えてるのが丸分かりだった。
月夜姉様が震える手で雪子姉様の額を拭いている。
そこには『名無しの刺客、ここに参上』と、この世界の文字で書かれているらしかった。
「我ら、雪月花の三姉妹、敗れたり! やはり、『強さ』と『勝利』は千差万別! 此度の大敗は良い教訓であった!!」
雪子姉様は一頻り愉快そうに笑うと、ネムスの置き土産のギターを手にして爪弾いた。
早朝に相応しい穏やかな旋律が雪子姉様の手によって紡ぎ出されて、心地良い時間が流れた。
こんなに気持ちの良い敗北は生まれて初めてだった。
もしネムスに必殺の意志があれば雪子姉様の命はなかった事にゾッとする。
確かに悔しくないと云えば嘘になるけど、雪子姉様の云う通り桜花達にとって教訓を与えてくれた。
少なくとも同じ油断は二度としない。
書き置きにもあったけど、ネムスはまた戻ってくるのかな?
戻ってきたら桜花達はどんな顔で出迎えるだろう? 楽しみなような、そうでないような?
でも、みんなネムスの歌が好きだから、きっと笑って迎えるんだろうと思う。
だって雪子姉様もアランドラ様も「今日のお礼は倍にして返したい」って云ってたしね。
これからも桜花達の冒険はどんな出会いが待っているんだろう?
そして、桜花達はどこまで強くなれるのか?
それはまた次回の講釈にて。
時間は昨晩、日付が変わった直後まで遡る。
ブレイズフォード家当主ことエスパンタリオは苛立った様子でブランデーを飲み干した。
ベルムの死は既に耳に入っている。だが、それで哀しむような人間ではなかった。
問題は彼の実験が自分の思惑から大きく外れた結果に終わったことだ。
「ありえぬ……ありえんぞ! 何故、ベルムが外道に堕ちベルーサめが真っ直ぐに育つのだ!!」
御年五十とは思えぬ女性的な高い声で不満をぶちまけていた。
流石にかつては風抜ける草原の如しと称えられた緑色の髪は色素が抜けてきており、その顔に刻まれた皺は彼が生きてきた年月を物語っている。
それでもなお眉目秀麗と云える顔を焦躁に歪ませて、エスパンタリオは実験の失敗を悔やんでいた。
「これでは私の血筋が下賤であるという証明になってしまうではないか! 認められん! そんなこと認められるものか!!」
「なるほど……娼婦に生ませた子がベルーサ殿で、ベルム殿こそが貴方様の血統でしたか」
「何者だ?!」
エスパンタリオの誰何に姿を現したのは、長身の女であった。
見たことのない厚手の布で作られた服を纏い、艷やかな黒髪をポニーテールにしている。
顔立ちは卑しくなく、むしろ高貴でさえある。まごうことなき美形だ。
目をきつく閉じている為か、苦悩する哲学者のごとく眉間に皺が寄っているが気にはならない。
だが知己の娘ではない。少なくとも彼に黒髪を持つ知り合いはいなかった。
「何者かと聞いておる」
「御子息からの使いに御座います」
「なんと?」
女はいつの間にかエスパンタリオの目前まで迫っていた。
「いやはや呆れたものですわね。貴方様のなさりようは鬼畜の所業に御座います。そんな貴方様の下で真人間が育つわけがありませんわ」
「何だと貴様!!」
エスパンタリオはサーベルを抜き放ち、女の眼前に切っ先を突きつける。
しかし女は動揺するでもなく、懐から手紙の束を取り出して床に放った。
「当主様も『女』ですのね? 聖帝陛下へ恋文を認めながら出すことが叶わずこうして後生大事にとっておく……その執着が貴方様を妖魔へと変貌させたのですね」
「だ、黙れ!!」
エスパンタリオは床にばら蒔かれたラブレターを必死に拾い集める。
女はその姿を冷ややかに『視』つめていた。
「聖帝陛下は、人を貴賤で測る貴方様の性根をご存知だったからこそ……貴方様を拒んだのです」
「黙れと云っておろう!!」
自分を蔑み、過去の恋まで持ち出されてエスパンタリオは頭に血が上ってしまったせいで気づけなかった。
これだけ大声を出しているのに拘わらず、護衛が誰一人来ないことに気づかない。
「貴方様の実験に何の意味があったのです? 貴方様はただ多くの人を不幸にしただけ……聖帝陛下への妄執が貴方様を暴走させた……違いますね。貴方様はただ下々の者達が幸せなのが許せなかっただけ」
違いますか、と問う女にエスパンタリオはついに堪忍袋の緒が切れた。
「黙れ! 黙れ! 黙れぃ!! 貴様に何が分かる?! 我が愛は陛下に受け入れて貰えず、たかが平民如きが聖帝様の寵を得る! この屈辱が分かるか?!」
短く風を斬る音が女の耳に届いた時には、サーベルの先端が女の右手で掴まれていた。
「分かりませんな。分かりたいとも思いません」
エスパンタリオの手からサーベルが消えた。
そう思った時には、彼の控えめな乳房の間に己のサーベルが刺さっていた。
胸に宿った激痛が灼熱となって襲ってくる。
「貴方のくだらない実験のせいでどれだけの人間が不幸になったと思っているの?」
女はエスパンタリオの両手でサーベルの刀身を握らせると、更に深く貫いた。
「人に貴賤なし……貴方の御子息の言葉だけど、一つだけ例外があったわね」
苦痛に前のめりになったエスパンタリオの背中を女が踏みつけたせいで、ついにサーベルの先端が背中から飛び出した。
「下賤なのは貴方の性根よ。これから地獄で人としての在り方をよく考えることね」
エスパンタリオは答えない。答えられない。
「終わった恋をいつまでも引きずり、恋文を隠し持つ執念……さながら『文車妖妃』ね」
女は杖に仕込むべきではない豪刀を抜き放つ。
「……『文車妖妃』の介錯を奉る……妖魔九百八十斬、南無八幡大菩薩」
それがエスパンタリオがこの世で最期に聞いた言葉だった。
フェイナンの一件はこれにて落着となりました。
しかし、もうファンタジーというより剣客小説ですね。
しかも勇者が寝泊りしているアンカー亭は、時代劇で云えば飯盛女と呼ばれる女郎がいる宿屋ですからね。勇者が拠点とする宿じゃないです。
さて、今回は『心』と『強さ』をテーマにしてみました。
どんな鍛え上げられた強者でも一瞬の油断が命取り、勝負の行方は解らない。
序盤から鬼神の如き強さを誇っていた雪子も今回、ついに完敗しました。
しかも敵は何の力を持たない吟遊詩人……雪子、一生の不覚です。
更には前章では剣の達人ベルムに剣の素人フェイナンが「参った」を云わせる。
つまりは弱者でもやりようによっては強者から勝ちを拾える、強者も油断すれば敗れる。
そして、ブレイズフォード家の惨劇。
本当に人の『心』は怖いです。
変わりやすいですしね、私は老人ホームに勤務しているので余計に実感できるんです。
お年寄りのお話を聞くにつけ、様々な人生があるんだと思い知らされる訳なんですよね。
最後に『地獄代公人』としての雪子を登場させました。
バトルじゃなく暗殺ですから意外と難しいんですよね。
あと今回は三人称視点で暗殺シーンを書いていました。
勇者の冒険とは毛色が違うので、区別をつけるため試してみたんです。
霞三姉妹は勇者であると同時に暗殺者でもあるので、たびたび今回のような暗殺シーンが出ると思います。